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外は、すっかり夜になっていた。研究院の本棟に続く回廊へ出て空を見上げると、メイは大きく息を吸い込む。 「はー、空気がおいしい…」 「空気?…ああ、前に言ってたな」 キールは、こちらにメイが来たばかりの頃に聞いた話を思い出して空を見上げる。 「うん、ここにいる時は慣れちゃってるからわかんないけど、向こうと比べるとよく分かるよ。すっごい、空気が澄み切ってるもん」 「そうか」 キールは、少し微笑んで彼女を見た。以前は、彼女が向こうの世界のことを口にするたび、どこか胸の奥がちりりと痛んだものだった。けれど、今はまるでそれが嘘だったかのように穏やかな気持ちでいられる。 部屋へ戻る道すがら、メイはこの10日の間の、こちらでの様子を聞きたがった。アイシュがディアーナに頼まれて大量のお菓子を作っている、という話には、飛び上がって大喜びをし、おかげでいくつか巻物を落っことした。オーブを落として割らなかったのは、単に運が良かったからだろう。 キールの部屋につくと、メイは勝手知ったる、といった様子で巻物をどんどん本棚に放り込み始めた。 「こら、適当に入れるなよ」 「いいじゃん、あとで整理すれば。それに、ここでなきゃどこに置くのよ。机の上、いっぱいじゃない」 相変わらず本や資料が山積みになっている机の上を見やって、キールはまあな、と曖昧に頷いた。実は10日前からほとんど仕事が捗っていないせいで、机の上の山は大きくなる一方で、少しも片づいてはいないのだった。 巻物を片づけ終えると、メイはいつものスツールにぽんと腰を下ろして、部屋の中をぐるりと見渡した。どこか嬉しそうな彼女を眺めて、キールが問いかける。 「…向こうでは、どうだった?」 少しはその問いを予想していたのか、メイはキールの顔を振り仰いでえへへ、と笑った。 「んー、まあ、初めはやっぱ大変だったけど。でも、説明、しなくて正解だったみたい」 やはり、覚えていない、で通したらしい。 「終わりの方にね、買い物に出たんだけど、弟がお目付役でついてくるの。女性ランジェリー売場なんて居心地悪そうだし、こっちもいー加減恥ずかしいから帰れっていうのに、かーさんに言われてるからって帰んないのよねー」 「…ランジェリーってなんだ」 「…う、…えと、…肌着」 メイは、困ったように笑うと、ぴょんと立ち上がった。 「あ、そ、それだけじゃないからね、ちゃんとみんなにおみやげも買ってきたよ。…ほら」 足下に置いてあったショルダーをかき回すと、いろんなものを出しては見せる。 「これ、ディアーナに帽子。シルフィスは、髪留めね。隊長さんに、プラスチックの時計でしょ、殿下にはハーモニカ。リコーダーとどっちがいいか悩んだんだけどさ」 次々と出てくる品物に、キールはあきれたようにため息をついた。 「…お前、せっかく帰れたのに、そんなことに時間使ってたのか?もっと自分のためにすることもあったろうが」 「いーのいーの、ショッピングって、それ自体が楽しいんだからさ。で、キールにはね、これ。…万年筆。使って?」 きれいにラッピングされた包みを差し出されて、キールは一瞬戸惑ったように瞬きをしたが、頷いて受け取る。 「…ああ、…その、ありがとう」 「ん。へへ、色々悩んじゃったよ、アクセサリってわけにはいかないし、ハンカチやネクタイもヘンだし。こっちでなら本って手もあるけど、あっちの本じゃ意味ないし」 メイは、照れたように笑ってみせる。 「あとね、もひとつ、ちょっとスペシャルもあるんだ」 「…?」 「ほーら、これ」 そう言いながら、バッグから中位のペットボトルを引っぱり出す。 「なんだ?それ」 「これが、お醤油だよ。ほら、前にお弁当作ったとき、言ったでしょ?」 「…ああ…お前の国の調味料、ってやつか?」 「うん。これで、今度こそほんもののメイちゃん風唐揚げ、作ったげるね」 そう言うメイの笑顔を一瞬見つめて、キールは優しい苦笑を浮かべる。 「…ったく…お前は…」 立ち上がった彼の手が、そっとメイの髪に触れた。 「…帰る前に、言ったろ。自分のこと、考えろって」 「…だって」 優しく髪を梳かれながら、メイはキールを見上げる。 「…帰ってても、キールのこと、考えちゃうんだもん」 キールの手が、メイの髪をさらりとこぼして、肩に触れる。 「今どうしてるかなって。…これ見たらなんて言うかなって、そればっかり――」 メイの身体が、キールの胸に抱き寄せられる。 「…キールは…?ちょっとくらい、あたしに会いたいなって思った?」 キールは、メイを抱きしめる腕に力を込める。 「…ああ。……すごく、な――」 「ほんと…?」 聞き返そうと顔を上げたメイの唇が、キールの唇にふさがれる。 想いを込めた深いくちづけに、メイはおずおずと応えた。いちど、離れた唇が、軽く額に、瞼に触れてから、また唇に重なる。 キールは、腕の中にメイを閉じこめてしまおうとするかのように強く抱きしめながら、彼女の髪に口づけた。 「――おかえり…メイ…」 「…うん、キール……ただいま」 頬を少し上気させて、瞳を閉じているメイの髪を、キールはそっと撫でる。 「…キール」 「なんだ?」 「キール」 「ん?」 「…キール…」 「…どうした?」 キールは、首を傾げながらさらりとメイの髪をかき寄せた。メイが、くすぐったげに微笑みながら瞳をあげる。 「…名前、呼べて嬉しいなって。…あのね、あっちにね、キールってカクテルがあるの」 「…ああ?」 話の向かう方向が読めなくて、キールは彼女の瞳を覗き込む。透きとおった、茶色の水晶が彼を見上げている。 「街の名前にも、あるんだよ。北の方のね、ドイツって国の港町。…あとね、なんだっけ、船の部品にもあるの、キールって」 メイは、くすっと息をこぼすと、頬をキールのローブに押しつけた。 「…こっち来たこと、忘れたことにしてたでしょ、…キールのこと、誰にも話せないし、名前も呼べないし――だから、辞書、引いて探したりしてた。キールって」 「……」 キールの手のひらが、メイの頭を胸に引き寄せる。 「…おかしいよね、やっと帰れたのに。キールが、せっかく帰してくれたのに――かーさんもとーさんも、すっごくびっくりして怒って泣いて、そんで喜んで、めちゃくちゃ心配してくれてたんだって分かったし、友達だって泣いてくれた子もいたし――あたしだって、ああ帰ってきたんだって、初めはそればっかしだったのに」 メイは、瞳を閉じてキールの胸に頭をもたせかけた。 「…2、3日したら、もう、今度はキールのこと考えちゃってた。…会いたいなって。…ちゃんと、呼び戻してくれるかなって――」 「…っ、馬鹿――」 「…うん、馬鹿だね」 思わず力を込めたキールの腕に、メイは微かに笑いともため息ともつかない声を漏らした。 「そんで、こっちに戻りたくなっちゃった自分が、なんかすごく薄情な気がして。だって、かーさんたち、あんなに喜んでくれたのにさ、なんにも話さないで――」 「…話さなかったのか」 メイの髪に頬を寄せながら、キールは静かにメイの言葉を繰り返す。 「…だから、手紙、書いてきたの」 「手紙?」 「うん。…こっち、戻るときに。部屋に置き手紙」 「なんて?」 「…こっちの、クラインや、ワーランドのこと。それから――」 メイは、僅かに震えるような吐息をついた。 「…こっちに、戻りますって。…一緒に、いたいひとがいるからって。ごめんなさいって」 「……―――」 キールは、メイの身体を強く強く抱きしめた。 「…ありがとう」 「…キール?」 「帰ってきてくれて――ありがとう」 「キール…」 顔を上げたメイの唇に、キールの唇が重なる。 深く、そしてさっきよりも激しいくちづけに、メイは微かに震えながら応え返す。 キールは、唇を離すと、メイの髪に顔を埋めて耳元にそっと囁きかけた。 「…このまま…ここに、いろよ…」 「うん――」 メイは、目を閉じたままこくんと頷いた。 「いるよ、ずっと…こっちの世界に」 キールが答えるまでに、少し、間があった。 「…そうじゃ、なくて……あ、いや、それも、そうなんだけど――」 短く言葉をとぎらせて、メイの髪に口づける。 「……今日…、今夜――ここに、いてくれ――」 はっと顔を上げかけたメイの頭を、ぎゅっと引き寄せて抱きしめる。 「…お前のこと、離したくない――もう、今夜は、このまま別れるなんてできない」 息を詰めて、メイはキールの囁きを全身で聞く。 「………いいか……」 しばらくの間があった。 やがて、微かにメイが頭を頷かせる。 キールは、短く吐息をつくと、もう一度彼女の唇に唇を重ねた。 朝の白い光が、カーテン越しに瞼に当たったような気がして、メイは微かに息をついた。 「…うう、うにゅ……?」 意味不明な声を立てながら、瞳を開けて二、三度瞬きをする。 目の前に、深い緑色の水晶のような瞳があった。 それが、微かに照れた笑みを含んで頷きかけてくる。 「…お、おはよ」 メイは、はにかみながらキールの瞳を見上げると、慌てて毛布を胸元まで引き上げた。 「先、起きてたんだ」 「ああ」 くすり、と微笑む緑色の水晶を見上げて、メイは小さく唇をとがらせる。 「も、やだな…寝顔、見てた?」 「少しだけな。…黙ってると、可愛いのにな」 「どーせ」 メイは、小さく舌を出すと、そっとキールの額に手を伸ばした。 「…眼鏡、してないとこって、なんか、珍しい」 亜麻色の髪に指をくぐらせながら、メイはふと彼の耳元に気づく。 「あれ…イヤーカーフも、してない?」 「ああ、寝るときは外してる」 「そっか…知らなかった」 「…そうだろうな」 キールの返事に、メイはさっと頬を染める。キールも、自分の答えに照れたようにちょっと額を押さえると、サイドテーブルに転がしてあったイヤーカーフをひとつ、手に取った。 「これはな…ほら」 メイに、内側が見えるように手渡す。 「…あ、内側になんか彫ってある…魔法陣?」 「魔力の増強と制御を促すサインだ」 「すごーい、これつけてたら、魔力が何倍にもなるとか!?」 キールは苦笑しながら、瞳を輝かせるメイからイヤーカーフを取り返す。 「そんなわけあるか。心持ち、上向きになる程度だよ」 右の耳にカーフをつけながら、キールはいつの間にか半身を起こしてこちらを見ているメイの白い肩を、まぶしげに見やった。 「…起きるか。…向こう、向いてろ」 「あ、うん」 メイは慌ててキールに背を向けて頭から毛布をひっかぶる。するりとキールがベッドから抜け出る気配がして、しばらくさらさらいう衣擦れの音が続いた。 やがて、衝立の向こうにキールが出てゆくと、メイはそっと毛布から顔を出して、はふ、と息をついた。起きあがって伸びをすると、カーテンの隙間から陽の光が射しているのを見やる。 「ん、いいお天気」 メイは、幸せそうににっこりすると、自分の服を手に取った。 朝食の時に食堂でまた会う約束をして、メイはキールの部屋を出た。まだ夜が明けたばかりで、研究院の中はしんと静まり返っている。ほの白く差し込む朝の光の中を、彼女は足音を忍ばせて自分の部屋へ戻った。 (うひゃあ、朝帰り、だあ――) そう胸の中で呟きながら、浮かんでくる微笑みをかみ殺す。 部屋の中に滑り込み、後ろ手に扉を閉めると、メイはショルダーをベッドの上に置いてごろりとその横に転がった。 (戻って、来たんだ――) 高い天井を見上げながら、胸の中で呟く。 (あっち戻ったときも、帰ってきたって思ったし、こっちに戻ったときも) メイは、くすりと笑みを漏らした。 (なんか、あたし、バイリンガルって感じ?) 「…ちょっと違うか」 自分で自分のつぶやきにツッコミを入れると、むっくりと起きあがる。ぽんと勢いをつけて立ち上がると、彼女は10日間閉め切ったままだったカーテンを思い切り引きあけた。 食堂は、朝食をとる魔導士たちでそれなりにごったがえしていた。通いの魔導士たちがいないので昼食の時よりは空いているが、泊まり込んでいた者もいるから、それほどゆったりという感じもしない。その一角でメイはキールと朝ご飯を食べていた。 「…そーなの、なんかたった10日で、こう、うっすらとホコリかぶってるみたいな感じなのよねー」 「普段はよっぽどまめに掃除してるみたいなことを言うんだな」 「…う、いやまあ、そんなことはおいとくとして」 キールのやつ、相変わらずだわねーとメイはジト目で口の悪い恋人を睨む。 けれど、ふと出会った緑色の瞳は、なんだかいつもより柔らかい光をたたえているようだった。少し眩しいものを感じながら微笑むと、微かにだけれど、確かに微笑が返る。 メイは、心がふわりと弾むのを感じて、首を傾げてキールの瞳を見上げた。 「…ねー、キール、今日は暇?」 「いいや。どうしてだ?」 「えー、だって久しぶりだもん、どっか行こうよ」 「昨日のホールの片づけもまだだし、実験のレポートも書かなくちゃいけないし、仕事もどっさりたまってる。お前のこれからのカリキュラムもまだちゃんと組んでないんだ」 ずらずらと並べ立てられて、メイはぷっと膨れる。それを見ながら、キールはテーブルに片ひじで頬杖をついた。 「…でも、まあ…今日一日くらいは、お前の課題も、休みにしてもいいかもな」 「ほんとっ!?」 瞳を輝かせてキールを見てから、メイははたと今のキールの発言の中の重要事項に気づく。 「…課題、一日くらいって…?」 「明日からまた再開だ。決まってるだろ」 「えええ〜?」 メイが情けない声を上げたとき、食堂の入り口でざわめきがおこった。 「メイ!メイはこちらですの!?」 よく通るかわいらしい声がメイの名を呼ぶ。 「…ディアーナ!?」 メイは目をぱちくりさせて、椅子から立ち上がった。どよめく魔導士たちをかき分けて、薄紅色の髪の王女は親友の元へ歩み寄ってきた。 「ごきげんよう、メイ、おはようございますですわ。ゆうべはよくお休みになれまして?」 「…え、あ、まあ、ね」 花のように微笑むディアーナに、メイはちょっとうろたえたが、別に彼女は他意があったわけではないらしい。メイの返事に頷くと、指を組むいつもの仕草でにっこり笑った。 「メイ、お茶会のお誘いに参りましたの。王宮にいらっしゃいませんこと?」 「…へ?」 メイはまた目を丸くする。 「ちょっと待ってください、姫。こんな朝早くから、姫ご自身がわざわざいらっしゃるようなご用事ですか、それが」 キールが、あきれたように声をかける。ディアーナは、悪戯っぽい笑みをキールに向けると、つんとかわいらしいあごをそびやかして見せた。 「あら、だってゆうべはあのまま、メイをキールに譲って差し上げたんですもの、今日はわたくしたちがメイをお借りする番ですわ」 「ちょ、ちょっと、ディアーナ」 ディアーナ自身はまったく他意はないらしいが、聞きようによってはあまりに危ない発言である。メイは慌ててディアーナの手を引っ張ると食堂を飛び出した。 「ちょっとー、あんな人がいっぱいいるとこで変な言い方しないでよねー、誤解されるじゃん」 「誤解って?」 ディアーナは不思議そうにメイを見る。 「いやまあ、そのぉ――」 メイは口ごもって真っ赤になった。よく考えれば、あの台詞はそのまま取られてもいわゆる「誤解」ではないわけで―― 「…ああっ、もう、いいや、それは!え、ええと、で、なに、お茶会?」 きょとんとメイの百面相を見ていたディアーナは、メイの言葉に最初の目的を思い出したらしい。ぱっと瞳を輝かせてメイを見る。 「そうですの、お茶会ですのよ!アイシュにいっぱいお菓子を作ってもらいましたの、メイと一緒にいただこうと思って」 「え、うーん」 アイシュのお菓子はそれはもう絶大な誘惑だが、さっきキールが珍しく一緒に出かけてくれそうだったのを思うと、ちょっとそれももったいない気がする。 「ね、ね、来てくださいな。今日はお兄様もお見えになるのよ」 「え、殿下も?」 「ええ、シオンもお花を持って来るって言ってましたわ」 「えー、シオンまで?」 「もちろん、シルフィスも誘いましたのよ」 ここまで畳みかけられては、行かないわけにはいかない。メイはちょっと首を傾げて笑った。 「おっけー、じゃ、行くわ」 「わあ、嬉しいですわ!」 ディアーナはぽんと手のひらを合わせて微笑む。 「じゃあ、参りましょ」 「え、今から?!」 メイは目を丸くした。今、やっと朝食がすんだところなのだが。 「もちろんですわ。久しぶりなんですもの、今日はたくさんたくさん、おしゃべりしましょうね」 そう言って、ディアーナはまるで花が開いたように、心底嬉しそうな微笑みを見せた。 キールは、ディアーナにさらわれていった――まあ、食堂からはメイがディアーナを引っ張って出ていったのだが――メイの後ろ姿を見送って、短く吐息を漏らした。 (…ま、仕方ないか) メイの召還実験の時に集まった人々の、それぞれに真剣な表情を思い出して、キールは微かに苦笑を浮かべる。みんながあれほどに、メイのことを案じ、帰還を心待ちにしていたのだ。 (あいつもあちこち忙しいだろうし、今日1日くらいは――いいか) まずホールを片づけなきゃな、と思いながら、キールは二人分の盆を持って立ち上がった。 しかし、キールが思う以上にメイは引っ張りだこだった。あちこちに引っぱり出されて、やっと研究院の日課に戻れたのは優に1週間はあとだったりする。今はまだ、それを知らないキールであった。 |