| 貴海 由輝様 |
『もういいわよ。帰らなくても』 すぐには信じられなかった。メイの微笑みは苦笑にも似ていて、自らの浅ましい思いを見抜いているかのように思えた。堰を切って溢れ出しそうになる想いに乱れながらも、キールは手を差し伸べる事はできなかった。 もしこれが幻だったとしたら……そう考えて戦慄した。 『……帰すよ。一生かかっても、帰す』 そんな事をすれば確実に自分は正気ではいられなくとわかっているのに。自分がどれだけひどい顔でいるのか気づいているけど、彼女には知られたくなったから俯いた。 彼女はそんな自分が繰り返えす問いにもずっと『帰らない』と言いつづけて、最後には誰よりも優しい目で自分を見上げてくれた。 『いいの、ホントに。あたしはあたしがわかるのよ。自分が見えてるから、ちゃんとわかるの。……帰らないよ』 あの言葉にどれだけ自分が救われたのか、きっと彼女は知らない。 幸福というものに理論があるとしたら、それはきっと彼女の存在から始まるのだろう。 守りたいと……自分の生きる道はただそれだけに。 悲しませないように、泣いてしまわないように。 彼女が笑って幸せでいてくれるように……。 流れる水の音が切なく響いていた夜、繋がったのは異界の扉ではなくて、お互いの心だった。 幾度目かの月が昇り、そしてまた夜が訪れる。 窓から忍び込む風の中に花の香りが混じり、春の訪れを告げている。 静寂に響いていたページをめくる音が不意に止んだ。 かわりにぱたぱたと軽快な足音が近づいてくる。 目を通していた魔導書から顔を上げ、若き緋色の魔導士キール=セリアンは小さくため息をついた。 「キール、いる?」 ノックもせずに開かれた扉から顔を覗かせたのは、彼の予想どおり新米魔導士であるメイ=フジワラであった。 「お前な、ノックもせずに人の部屋をあけるのはよせ」 「いいじゃない。別にシオンみたいに悪い事をしていたわけじゃないんでしょ」 「そう言う問題じゃないだろう。それにだな――」 「こんな夜更けに人の部屋を訪れる奴があるか!……って、言いたいんでしょ」 端から聞けばきついと思われる物言いにも動じることなく、メイは何事もないように笑って、部屋の中へ入ってきた。 「……お前な……」 「……ごめん、邪魔だった?」 言うはずの台詞を先回りされたこともあるが、茶水晶の双眸に一瞬の翳りを見てしまえば、それ以上、何が言えただろう。 「……別に……かまわないが……」 何かあったのか?という問いは口には出せなかった。それを挟む隙を与えずメイが扉の方へ踵を返してしまう。 えへへと小首を傾げて笑いながら扉の影に隠してあったらしいバスケットを手に取ると、キールに差し出す。ハイと手渡され、思わずそれを受け取ってしまった。 メイの行動が良くわからない。夜分に夜食だお茶会だの理由を作って部屋にやってくることはあるが、いきなり籠を渡されるとは……。 どういうことだ? 「と、いうわけでお花見にいこ。あのね、いい場所、見つけたんだ。クラインにはないかもしれないけど、私のいたところではね、夜にライトアップされた桜を見に行く夜桜見物っていうものがあったんだ。勿論、夜食の準備だもばっちり。だからね、早くいこ」 「は?」 「だーかーらー、お花見。折角の綺麗なお月様がライトの代わりになってくれるんだもの。もったいないでしょ。」 メイが指し示した窓の外にはきれいかどうかはともかくとして、たしかに正円を描いた月が昇っている。 動こうとしないキールに痺れを切らしたのか、メイはキールの腕を取ると引っ張り始める。その様子は子供が母親に物をねだっているのと同じようだ。 「キールぅ……ねぇ、行こうよ」 メイはキールの腕を抱え込むような形で、ちょうど肘の部分が胸の柔らかな部分にあたっていることに気づいて、途端に頬が赤らむのを感じる。 閉ざされた部屋に誰よりも大事な少女と二人きり。なにより時間帯が悪い。 「ちょ、ちょっと待て。いくってお前、もう門限は過ぎているんだぞ。門は閉まっているし、第一出歩く時間じゃ……」 「キールぅ……ね、おねがい」 「お前な、そんな子供みたいな事を……さっさと寝ろ。花がみたいなら明日の昼間にでもつきあってやるから」 ため息をつきつつ、その腕を解こうとしたキールは何気なくメイのほうを見て、眉をひそめた。 またあの目だ。今にも泣き出してしまいそうな、捨てられた子猫のような影を浮かべて、じっとキールを見上げている。 「メイ?」 問いの混じる声に気づいたのか、メイは弾かれたように顔を上げて、キールから離れた。 「キールのけち」 すぐに頬を膨らませて、怒りを露にしているような表情を作るが、何処かぎこちなさが見える。 メイはその素直な性格からして嘘をつくのが苦手だ。言葉とは裏腹に行動に出やすい。キールの疑惑が更に色濃くなっていく。 キールは魔導書を閉じると、目を細めてメイを見据えた。 「おまえ、何か俺に隠してないか?」 「なんでもないよ。いいよ、お花見は諦める。じゃ、何か手伝える事はない?こんな時間まで、起きているってことはまだ仕事が終わっていないんだよね。折角来たんだもん、手伝うよ」 メイは笑いながら部屋の周囲を見まわし、傍にあった魔導書をめくり始める。キールの目から逃れそうとしているのは明らかで、その行動こそが彼女の虚勢を暴露していた。 「メイ」 メイの笑顔は嫌いじゃない。だが、自らの心を偽るような笑い方はして欲しくなかった。彼女は無理をしてでも相手に、特にキールには心配をかけたくはないのだと彼女の友人が語っていたのを思い出す。 それがキールには歯痒かった。 メイに対してではなく、メイにそんな笑みを浮かべさせる自分自身が腹立たしくなって、結果、口調が幾分きついものになってしまう。 途端にメイが息を呑んで、立ちすくむ。服の裾を切れるのではないかという力で握り締めて、震えそうになって引き結んだ唇を開く。 完全に顔を上げようとしないのは、きっと潤んでしまっている目を見られたくないからだろう。 「傍にいて……」 キールが瞠目する。何か言葉を発しようとして、だがそれは咽喉の奥で張りついてしまったように声にはならなかった。 唯一、彼女の名前だけを掠れかすれに呟いただけだった。 「怒らないで。出ていけなんて言わないで。おねがい、うるさいんだったら黙っているから、仕事の邪魔はしないから。動くなって言うならじっと座っているから。だから今日だけでいい、傍にいさせて。今日だけはキールと一緒にいたいの」 ゆっくりとメイが近づいてくる。 壁に掛かった暦を目の端に捕らえ、キールには理解した。 メイが自らの世界と決別する日。召還魔法の軌跡が消える日だった。 メイは微かに震えていた。時計の針を見ないように顔を伏せて、幼子が母親と離れたくなくてその手を離そうとしないのと同じように、確かな温もりを感じて安心を求める為に、より一層の力を込めて、メイはキールにしがみついた。 「ごめん、気づいてやれなくて」 自由になっている片腕を、キールはメイの背中に回すとそっと引き寄せる。 メイは何も言わずに首を振る。きっとそのうちに秘めた不安はキールの想像しがたいものなのだろう。 頼りない腕だけではなく、全身で抱え込むようにキールはメイを抱きしめた。腕の中にある確かな鼓動と温もりは今この場に彼女がいるという奇跡に他ならない。 メイを抱きしめたあの夜に誓ったはずなのに、彼女を不安にさせてしまった自分自身が許せないから。 「お前といる時間が当たり前になっていたんだ。俺は溺れていたんだよ。お前が傍にいる幸せな時間に」 今でも思う事がある。彼女といる現実は幻で、自分はただそれを拒否して眠っているのではないかと。彼女のいない世界なんて意味がないから、あまりに辛過ぎて生きていく事すらも逃れてしまいそうだから、自身の防衛本能が起こしている錯覚じゃないかと。 「だから……ごめん」 「キールは悪くないよ。あたしも忘れていたよ。だってキールはあたしの傍にいてくれたでしょ。いっぱい怒るけど、その分、笑ってくれるし……あたしが泣きそうになるとこんな風に抱きしめてくれる。だから、怖かったの。もし朝起きて、元の世界に戻っていたらって。キールがいなかったらどうしようって」 キールの背にメイの両手が絡められる。高鳴る鼓動はすでにどちらのものなのか分からない程に近く感じられた。 細い肩口に額を寄せると、メイの髪から花のように澄んだ香りがした。 「大丈夫だ。何があってもお前の手を離したりしないから。たとえお互いの世界が許さなくても、俺はメイ、お前だけは守るから」 「私だけ? それはいや。キールも一緒でなければ……許さないからね」 強い光を宿した茶水晶の双眸がキールを見上げる。その表情に先ほどまでの不安や恐れは見られなかった。 「キールだけは、あたしが守るもの」 戦う事を恐れない、ただ守られるのを良しとしないメイの潔さ。 キールは込み上げてくる愛おしさに翻弄されていく。もう彼女を手放す事は出来ない。 この花を守るためなら命は惜しくはないと思う。 淋しさや不安という冷たい風から守って、彼女を奪おうとする嵐に立ち向かう生き方を選べる事が嬉しかった。 「キール、ずっとそばにいてくれるんだよね?」 「ああ、お前の手を離したりしない」 その答えを聞いて、メイが悪戯っぽい猫のように目を細めて笑う。 「じゃ、一緒にお花見にいこっ」 「……メイ……おまえな……」 「だって、一緒にいてくれるんでしょ? だから、ね、キール」 あまりの行動の素早さに目眩を覚えるキール。それでも彼女が本当に心から楽しそうに笑ってくれているならと、胸の内で苦笑する。 「…………今夜、だけだぞ………」 「うん!」 花開くメイの笑顔につられて、微笑んでしまった自分を見られたくなくて、キールは横を向いた。 「で、夜道を迷ったりなんかはしないだろうな」 「当然! 準備も下準備だってバッチりよ!?」 かごを片手にメイは走り出しそうな勢いで部屋を出ていこうとした。そのメイをキールが呼びとめる。 「キール?」 「こんな時間にばたばた廊下を走るな。それにな……」 次の瞬間、メイの顔が真っ赤になって、動きを止めた。いや止められたと言ったほうが正しいのだろう。 キールの手に伝わる優しいメイの温もりと柔らかな感触。 「言ったろ、手を離さないってな」 「そうだね」 横を向いたままのキールにメイが照れくさそうに笑う声が聞こえた。 そして二人は一緒に部屋を出ていった。 月の見える二人だけの場所へ……。 【御崎より】 桜の咲く頃にと、貴海さんからこんなに素敵なお話を頂きました(*^^*)。 お互いの深い想いが、切ないほどに素敵なお話です。 あああもう、なんてなんて可愛いのメイーっっ!(爆) そのメイにぞっこんのキールにもまたうっとりです(*^^*)。 貴海さん、本当に本当にありがとうございました!…またよろしく、って 言っちゃダメでしょうか?(*^^*) |
