五月日誌

月城叶多様     




 風薫る五月。王都の朝は、爽やかな風と働き者で彩られる。
 パン屋がいい匂いをさせて店を開けると、ミルク売りの呼び声がそれを追いかける。かたことと気の早い馬車が通りを駆け、家族を起こすおかみさんや早速騒ぎ出す子供たちで、徐々に街に喧騒が戻って来る。
 寝坊した早起き鳥の鳴き声が、ひときわ高く響き渡って笑いを誘った。

 大通りから少し入った所にある、二階建ての住宅の一室へも、朝はもうしばらくやって来ない様だった。
 微かに聞こえる喧騒を子守り歌に、とろとろと半覚醒状態の頭で、キールは手元のぬくもりを引き寄せた。まだ朝は冷え込む春先に、暖かいそれはキールを気持ちの良い朝寝へと誘う。しかし数分後、他でもないそれ自身によってキールの眠りは妨げられる事になった。
「キールー」
「…ん」
「朝だぞー」
「…ん」
「起きようよー」
「…ん」
 胸元から上がる声は、キールにとって心地よく響く。眠った頭で、もっと聞いていたいと思いながらも、反射で何となく返事をする。
 その希望通り、もうしばらくこのやり取りは続いたのだが、やがて焦れたのか、ごそごそとそれはキールの腕の中から抜け出した。
 離れたぬくもりを探して、キールの腕が無意識にシーツの上を動く。
「…………」
「まだ寝てていいよ」
 気付いたのか、笑い含みの声がキールの腕を布団へ押し込めた。吐息が額に触れたかと思うと、その気配はぱっと離れてしまう。後には、床板を蹴る軽い音が残された。
 カーテン越しの明かりが徐々に強まる中、離れたぬくもりの代わりにか、ふと手に触れた枕をキールは引き寄せた。胸に抱え込み、丸まって暖を取る。
 その姿は、勢い良く引かれたカーテンから朝日が燦燦と差し込むまで見る事が出来た。

「キール、食卓で新聞読んじゃだめだってばー!」
「いいだろ、別に」
「良くない! こないだ、コーヒーこぼしたでしょ?」
 もったいないし危ないからだめ、とメイはキールから新聞を取り上げてしまった。憮然とメイを見上げたキールは、そこに座った瞳を見出して両手に退却を命じた。
 次々にテーブルを占拠する朝食を前に、キールはピッチャーから果物のジュースを注いだ。こうして予防しないと、何時の間にかミルクを出されてしまうのだ。
 焼きたてでまだ暖かいパンを横に二つに割ると、バターとマスタードをぬって、目玉焼きとハムとレタスを挟んで行く。ピクルスも忘れずに入れる。メイが慌ててトマトとオニオンを持って来ると、キールはそれも黙々と追加した。
 キールの向かいに座ったメイも、自分の分を作り出す。手早く終えると、二人は揃って食べ出した。パンの他にもコーンスープにサラダ、果物などが二人を待ち受けている。
 健啖家のメイと平均的成人男性のキールはほぼ同じ量を食べるのだが、メイの方が良く喋る分時間が掛かる。
 先に食べ終わったキールの手は、何時の間にか新聞を引き寄せていた。仕事上必要になる事もあり、キールは独立以来新聞を愛読している。
 そういうキールの態度は、勿論メイには不満だったが、世情知らずを自ら返上しているのだから、とちょっと大目に見る事にして、今日の朝食は平和に終る事になった。


「キール、今日も一日篭るの?」
 台所から掛けられた声に、キールは現実に引き戻された。
「ん? …ああ。締切、もうすぐだしな」
「オッケー。んじゃ、ラボの方はあたしがやっとくね。月末締めのお仕事なら入れていいんだっけ?」
「開発系はもういい。アイテムの方なら、少しは」
 食器を片付けると、ラボの日誌を片手にメイが戻って来た。
「はいはいっと。んー。今月はちょっと仕事し過ぎだねー。もう少し落したくらいが、丁度良いみたい」
「そうか? 余り変わらなかったが」
「研究院のペースは却下だからね! あーれーは、働き過ぎっ!」
 びしっ、と断言するメイに、キールはやや気圧された。
「自分の研究もしなきゃでしょ? 折角、騎士団から呼ばれる事も減ったんだし。それに、さ。今は、二人で稼いでるんだから…」
「…そう、だな」
 ふいに突きつけられた事実に、キールとメイはそっと瞳を見交わした。

 この春、キールとメイは揃って魔法研究院を退院した。メイの肩掛け拝領を待って、キールがとうとう独立したのだ。
 王都の大通りの裏に構えたラボには、友人等のお祝いを兼ねての宣伝により、開業前からひっきりなしにお客が来て二人に嬉しい悲鳴を上げさせた。それでなくても腕の良いと評判の魔導士二人の開くラボなので、遠方からはるばるやって来る客の姿もちらほらあった。
 二階建ての建物は、一階がラボ、二階が居住部分となっている。外付けの階段もあるので、屋根裏に薬草などをしまっている事もあって、二階をラボにする事も検討されたが、一階の天井を抜きそうな勢いの書籍群を前に断念した。かわりに、地下にあやしげなものを思う存分収納できるとあって、一階のラボはキールには好評だった。主婦役も担っているメイには、いささか不満のようだったが。
 物件を探して、メイの試験の発表を待って正式に契約して、間取りを決めたのが二月。三月はまるまる引っ越しの予定だったのだが、開業前に仕事を受けてしまい、後は雪崩れるように仕事の日々に突入してしまった。それをどうにか終えた四月の半ば、キールは少々体調を崩してしまった。おかげてその月は、伸ばし伸ばしになっていた研究院での研究の引継ぎもあって、あまり目立った仕事をしなかった。漸く今月になって、普通のペースで仕事をする事が出来たのだった。

 三ヶ月分の日誌を捲ると、何時の間にかラボが軌道に乗っている事が分かる。
「大きいのを一つに、中位のを二つか三つ。キールの一ヶ月のお仕事は、これで十分だよ」
 治癒魔法の仕事は、以前よりは頻繁でなくなったとはいえ日常的に入って来るので、常に余力を残した状態でいなくてはならない。
 また、研究院では、個人の研究活動も給与対象だったが、個人営業となった今ではそれは望めない。あの頃のペースで「仕事」をしては、息切れしてしまうのは容易に予測出来た。
「余計に仕事受けたら、あたしが片っ端から治療に行っちゃうからね!」
「……分かった」
 文字通り倒れるまで治癒魔法を使ってしまう恋人の脅しに、キールは頷かざるを得なかった。そんな拘束も、実は心地よい甘さで。
 キールは新聞を畳むと、食後のコーヒーをぐいと飲み干した。
 立ち上がり、習慣からつけている緋色の肩掛けを神経質に直した。その間に目の前にやって来ていたメイと、出掛けの挨拶を交わす。メイから頬に、キールから唇に、言葉と共にひとつ。
 こうして、ひどく甘くセリアン・ラボラトリーの一日は始まるのだった。


 鼻をくすぐる匂いに、キールはふと顔を上げた。
 途端に眩しくなった視界に目を瞑り、数回の瞬きをした後には、今は既に日が落ちていて、つけた覚えのない明かりが目を射した事が分かった。
 身じろぎによって、それまで固まっていた体が悲鳴を上げた。伸びをして腕や腰を伸ばす。
 結局、朝から篭ってしまった。昼食をメイが差しいれてくれた気がするが、食べたという実感がない。空っぽの胃に急かされて申し訳程度に机上を片付けたところで、天井の上から声が掛かった。
「キールー、ご飯だよー」
 途端に歓喜の声を上げる胃に苦笑して、キールは腰を上げた。
 キールが食卓へ姿を見せると、台所からメイが皿を片手に出て来た所だった。
「あ、聞こえてた?」
 珍しい、と笑うメイの額をキールが軽く小突く。途端に上がる不満の声を、笑ってやり過ごせるようになったのはつい最近の事。
 空の皿をテーブルに並べながら、メイはふと思い出して言った。
「そうそう。手紙が来てたよ。誰からだと思う?」
「…仕事か?」
「もー。だったらそう言うってば」
「他にあるのか?」
 当然、とばかりに言うキールに、メイは苦笑した。
「今頃きっと嘆いてるよ? 手紙、そっちに置いてあるから」
 応接間を兼ねた居間のテーブルにそれはあった。自分の名前を書く見知った字に、差出人の名を見ずとも誰からか分かった。――アイシュ=セリアン。キールの、双子の兄。先月から、身重の妻を連れて実家へと帰っていた。
 丁寧に封蝋された手紙に、側に用意されていたペーパーナイフを入れた。読みたくてたまらなかっただろうに、仕事中の自分を呼びに来なかったメイに、密かに感謝して読み進める。

『こんにちは、お元気ですか。こちらは皆、とても元気です。
 先日、無事に子供が産まれました。僕たちと同じ、男の双子です……』

 居間のソファに腰掛けたキールの背に、メイの声が飛んできた。
「ね、キール。アイシュ、何だってー?」
「子供、生まれたってさ」
「ほんとっ? ねえ、男の子、女の子?」
「男で、双子」
「うわー。双子! いいなあ。あたしも欲しーい!」
 そんな事を言って夢見る乙女状態に突入したメイに、キールの内心も大騒ぎだった。
 ――「いいなあ」って、「欲しい」って。お前。意味、分かって言ってるのか?
 キールはひとしきり照れ終わると、まだ帰って来る様子のないメイに声を掛けた。
「メイ。夕飯」
「はいはい。ねえキール、ワイン開けようよ」
「ああ。あれでいいか?」
「うん。グラスはそっちのね」
 慣れた会話を少しくすぐったく感じながら、キールはワインを用意した。その間に、メイが暖かい料理をテーブルに並べ、二人は揃って席に就くと乾杯した。
 白身魚のグラタンに舌鼓を打ちながら、キールは篭っていた間のラボの様子を尋ねた。幾つかの来客や依頼の話、注文品の受け渡し、在庫が心許なくなった備品の発注。魔法研究院から研究の助言を求めて訪ねてきた魔導士もいたのだと誇らしく言うメイに、キールは少しばかり眉を上げた。しかし、すぐに続けて挙げられた名前に、既婚者と分かってほっとした。そうは見せなかったが。
 メイの終始賑やかなお喋りに相づちを打ちながら、キールはデザートの果物まで綺麗に平らげた。
 そのまましばし会話を続けた後、食器を片付けながらメイがキールに聞いて来た。
「お仕事、まだするの?」
「あと少しで終るからな」
 最近、連日徹夜で取り掛かっている仕事があった。締切が近いのは勿論だが、キールの興味もあって優先的にやっていた。それが、今日の夕方で漸く目処がついたのだ。早く仕上げて、週末はゆっくり過ごしたい。
「じゃ、後でコーヒー持ってくね」
 頑張ってね、の声を背に、キールはどこか明るい気分で階下へと戻って行った。


 再び仕事部屋に篭り数時間。思ったよりも早く片付いた注文の品を、注意深く包んで別室の棚へ並べる。他にもいくつかの品が並んでいるが、それらの多くはメイの担当だった。慣れた魔力の波動に、安定を感じて思わずほっとする。
 魔法を習い出した頃、メイの力の込められたアイテムは、導線に火の点いた爆弾のような気配ばかりだった。しかもそんな物を、ぞんざいな扱いであちこちへ提出するものだから、その度にキールは心底慌てて魔法研究院を駆け回ったものだった。
 懐かしい記憶に、そしてそれに未だに振り回されている自分に苦笑しながら、積み上げられた資料を書架に片付けていると、ふと机の隅のトレイに目が行った。先程の、アイシュからの手紙。
 ――返事を、書こうか。
 キールはペンを取った。

『久しぶり。元気か? こっちは相変わらずだ。』

 無愛想な挨拶に始まり、ラボの状況、王都の様子、友人・知人の近況に、お互いに読みたがっていた本を入手した事などを書いて行く。
 便箋が一枚ほとんど埋まった所で、少し手を止めて、最後に一つ付け加えた。
 インクを吸い取り便箋を折りたたんで封筒に入れると、赤い蝋を温めて手早く封をした。ラボを開く時、何でもいいとメイに任せた印は、二人の名前の頭文字。浮かび上がったそれを見て、一旦しまったと思ったが、まあいいかと思い直した。
 アイシュからの手紙を引き出しにしまい、かわりに封をしたばかりの手紙をトレイに載せると、階段を下りる足音が聞こえて来た。
「キール?」
 言外に、ドアを開けてよ、と呼ぶ声に、キールは立ち上がった。
 コーヒーと紅茶、お茶菓子などの載ったトレイは、数日ぶりに広くなった机の上に下ろされた。メイは予備の椅子をずりずり引きずって来ると、キールの斜め向かいに陣取った。
「じゃーん。今日のお茶請けはショートブレッド。砂糖は一切使ってませーん!」
「…砂糖より甘いハーブだとかが入ってるんじゃないだろうな…?」
「いつまでも同じ手を使う芽衣さんじゃないわよ? ほらほら、口開けて」
「いいっ、自分で食う!」
 ざーんねん、と笑うメイを横目に、キールは一番小さいそれを一つ口へ放り込んだ。黙々と租借するキールに、メイのわくわくした視線が問い掛ける。
 ――どう? 大丈夫? 美味しいでしょ? これなら食べれるよね? 
 口を開かなくても賑やかなメイに、キールは、まあ悪くない、と答えた。同居して以来の攻防は、ここへ来て、ひとまず決着がつきそうだった。
 案の定笑顔全開のメイに、キールは何時もよりもゆっくりコーヒーを飲むのだった。


 風呂上りの寝台で、相変らず魔道書を広げるキールに、メイも付き合って本を読んでいた。やがてメイの欠伸が増えた事に気付くと、キールは栞を挟んで本を閉じた。
「寝るか」
「うん」
 二冊の本を置き、眼鏡を取ると、部屋の明かりを消して眠りに就いた。
 暖かい布団の中で、自然と抱き合う格好で頬を寄せ合う。顎に当たるメイの吐息に、キールは何となく落ち着かなくなって口を開いた。
「…なあ」
「何?」
「今度の休みに、さ」
「うん」
「見に、行くか? 兄貴の子供」
「――行く行くっ!」
「…おい、起き上がるな。寒い」
「あ、ごめんっ」
 てへへと胸に擦り寄るメイを、キールは力を込めて抱き寄せた。暗闇で鋭敏になった感覚が、メイの常より早い鼓動をキールに伝えた。
 髪から香るいい匂いに、キールの胸によく分からないものが溢れて来る。それは決して嫌なものではなく、むしろ心地よく感じられる。なのにどこか落ち着かなくさせられる不思議な感情に、キールは自分の鼓動もいささか早くなった事を認めた。
 そしてもう一つ、キールの胸を騒がせる原因はあって。

『近いうちに、メイを連れて帰る。』

 キールが、アイシュへの手紙に付け加えた一文。
 メイにはまだ、言っていないけれど。待っている、と感じる事は、これまでの日常に多々あった。最近は、忙しさに紛れてしまっているようだったが、キールだって思っているのだ。こんな日々を続けて行きたい、と。
「ううっ、楽しみ〜」
「そうか?」
「そうだよ! 早くお休みにならないかなあ」
 嬉しそうなメイに、キールの頬も自然と緩む。
 あどけない仕草で目をこするメイの手を取ると、キールはその額へ就寝の挨拶を落した。それを受けて、メイも伸び上がって挨拶をする。一緒に暮らし出して、メイから求め出した習慣だというのに、未だに頬を染める様子にキールは目を細めた。
 ――女なんて、鬱陶しいだけと思っていたが。
「おやすみ、キール」
「……おやすみ」
 でも、ま。
 こういうのも、結構、悪くない。

 やがて寝室は、優しい吐息で満たされて行くのだった。


 五月の、ある一日の出来事。



END


【御利用上の注意(?)】
タイトルは「さつきにっし」です。
キールの立場から噛み締める様にして読むと、幸せを実感できなくもないと思われます(^^;

【御崎より】
できなくもないどころか、もうしみじみと頬の緩むような幸せなお話ですー(*^^*)。
「キールが幸せなキルメイ」という私のいつもの(笑)お願いに、随分ご苦労くださった
ようで、ほんとうにありがとうございました(^_^)。
このリクのために、『事件の起きないお話』という、物語の根本を覆す試み(笑)に
挑んでくださったそうです。……「幸せ」の2文字のために、ここまで作家のみなさまを
悩ませるキールって一体……(笑)。