| 御崎 濯 |
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魔法研究院の若き秀才、キール・セリアンは悩んでいた。 その内容が、魔法のこととか、あるいはこのごろもう日常と化しつつある修理の申請書のことであるなら、まあそれは何ということもない。たとえ、その申請書が積もり積もって例年の3倍以上の額にのぼり、文官たちの──主に双児の兄のアイシュだ──頭を悩ませていようとも、それは要するにそれだけのことだ。 いわんや、魔法のことであるなら、魔法研究院最年少で最上級魔導士の証、緋色の肩掛けを拝領した彼にとって、深刻な問題であるわけがない。解決すべき問題を発見して、それを研究するのは、彼にとってほとんど趣味とも言えることなのだから。 そうではなく、彼の頭を悩ませているのは、その申請書の原因をほとんど一人で作り出している恋人のことだった。 と言っても、彼が今悩んでいるのは、彼女が、修理必要箇所をなぜここまで迅速に作り出し続けることができるのか、とかいう些細な問題ではなかった。──まあ、それも問題は問題なのだが。 互いを恋人として認識してから数ヶ月、くちづけを幾度か交わしてはいたが、お互いの性格や生活環境が邪魔をしてそれ以上には進めていなかったメイと、まあ色々あって、先日やっと最終ラインを越えたわけである。 今までの人生の中で、恋愛というものをほとんど関心の範囲外に置いてきた彼にとって、彼女との交際──まあ、そう呼べるほどそれまでと格別何が変わったというわけではないが──は、困惑の連続だ。それを言うなら、彼女の存在自体が出会ったときから既に困惑そのものだったりもしたのだが、それはこの際置いておく。 女に関わるなんて人生の無駄、と悟ったつもりでいた彼も、恋をすれば変わる。 メイが他の男と親しげに話をしていると、内容はともかくそのこと自体が気になるし、顔を見なければどこで何をしているかと気にもなる。以前も気にしていなかったわけではないが、それはかなりの部分をどこかで事件を起こしているのじゃないかという危惧が占めていたような気がする。その後始末はまずたいがい彼におっかぶさってきていたのだから、その危惧も当然と言えば当然なのだが。 とまれ、恋する者の常として、彼はいつもメイを見つめているのだった。見つめていれば触れたくもなるし、抱きしめたくもなるし、さらにその先も、という次第だ。 で、悩んでいるのはこのあたりである。 先日の初──まあ、なんだ、その折りには、彼もずいぶん気持ちが盛り上がっていた。その前の事件のいきさつもあって、これからの人生でも二度とないんじゃないかと言うくらいテンションが上がっていたのだ。何せ、一日で天国と地獄──順番で言えば地獄と天国か──を味わった気がするくらいである。 その勢いもあって、自分の研究室でそういうことになってしまったのだったが、後になってみるとこれはずいぶんまずかった気がしている。 あの後しばらくは、研究室の自分の簡易寝台にはメイの髪の甘い香りが残っていて、とてもではないけれどそこで眠れるわけもなかった。かと言って窓を開けてさっさと空気を入れ換えてしまう気にも、とてもなれない。まさに自分で自分が分からない状態で、壁に頭を打ち付けたくなるような精神状態だったりした。 結果として毎日家に帰って眠ることになり、アイシュを不審がらせたものである。これは余談だが。 そういうことがなくても、研究室でどうこうというのは、もとより彼としては非常に抵抗のあることだったのだ。骨の髄までしみこんだ倫理観と道徳観と価値観が、研究のための場であり仕事場であるこの部屋を、そういうプライヴェート中のプライヴェートなことに使うのを強固に拒むのである。現に、その時までは、キールは研究室ではキスはおろか、メイを抱きしめたことさえなかったのだから。まあ、髪に触れるくらいは、補助魔法にかこつけてやっていたりはしたが。 更に言うなら、魔導士としての究極の上役であるシオンを、キールは魔導士としての評価とは別に、反面教師として鑑にしていた。つまり、執務時間中時間外に関わらず、しょっちゅう女性を──しかもとっかえひっかえだ──執務室に呼び込んでいるという点で。面と向かって皮肉ったりもしたこともある手前、同じようなことは絶対にできない。万が一それがシオンに知れたりしたら──そして、シオンは異様にそういうことに鼻が利くから、ばれない方がおかしいと思う──どんな華麗な皮肉をぶちまけられるか、考えただけでも目眩がする。 下手したら一生、からかい抜かれるかも知れない。それはちょっとごめん被りたいところだ。 かといって、それなら彼女の部屋に出向けばいいのかというと、そういうわけにもいかないのである。そういうつもりのなかった頃ならともかく、いや、今でもそれだけが目的というわけではないのだが、しかしどこかにはそういう意図を秘めたまま、何食わぬ顔で彼女の部屋を訪ねられるほど、彼は面の皮が厚くはなかったりする。メイには鉄面皮だの仏頂面魔人だのとケンカのたびにさんざっぱら言われている彼だが、もちろんそれはごく繊細な内面をガードするためのポーズであるところが大きい――のかもしれない。本人は否定するかもしれないが。とにかく、そんな後ろめたい気持ちを抱えていては、ろくに口も利けないに決まっているし、でなければ必要以上に皮肉を言いまくって、どちらにしても彼女の機嫌をどん底まで損ねてしまうこと間違いなしだ。 いっそ自分が魔法研究院に住み込んでいればと思わないこともなかったが、これは現実性がないので初めからあきらめている。今自分が使っている部屋は、広さからも分かるように(メイの居室の半分以下の広さだ――まあ、メイの部屋は元倉庫だけあって普通の寮の部屋よりかなりだだっ広いのだが)、元々住むための部屋ではない。純粋に研究のための書斎のようなものなのだ、元々は。徹夜や泊まり込みが多かったりするので、彼をはじめとして仮眠用に自室へ簡易寝台を持ち込んでいる魔導士も多いが(キールに限らず魔導士には研究マニアが多い)、それは実をいうとあまり歓迎されていないことなのである。 で、それじゃあ寮に入ればいいかというと、それはほとんど不可能だったりする。 元々魔法研究院の寮は、地方からやってきて住むところのない、そして経済的にあまり余裕のない魔導士たちのためのものだからだ。田舎はクラインの西のはずれとはいえ、王都にれっきとした家を持ち、王宮の高級文官(けして王都の標準から言って安月給ではない)を家族に持つキールは、優先順位から言えば最下位なのである。 そして、飛び込みのメイが普通の居室ではなくて倉庫に放り込まれていることからも分かるとおり、寮の部屋はいつも満室だ。キールが部屋を獲得できる見込みは、万に一つもないと言ってよかろう。 つまり、ふだんの生活をしている限り八方ふさがりというわけで、これが彼をして鬱々と悩ませている問題のひとつであった。 で、とにかくそういう思考経過を経て彼がたどり着いた結論が、自分の家に彼女を招くことだったというのは、安直かもしれないが必然であった。 彼女の部屋に下心を抱いて出かけるのとどこが違うのかなどと言ってはいけない。キールが招いてメイが受ける、この手順が重要なのである。メイにも選択の機会を持ってもらうというわけだ。いや別にそれを免罪符にしてどうのこうのとまで考えているわけではないが、それでも良心へのささやかな言い訳にはなる。 もっとも、何かことが起こったとき、言い訳の相手が彼自身の良心では、言いくるめるのはなかなか難しいかもしれない。 ともあれ、そういう心理的葛藤と変遷を経て、彼はメイを家に誘うことにした。口実は考えるまでもなく格好のものがある。つい今朝もその口実が目の前で朝食を機嫌良くこさえてくれていたりした。 キールはもしかしたら生まれて初めて、アイシュの菓子作りの特技に感謝した。彼にはさっぱり理解できないし歩み寄る気も毛頭ないが、兄の作る菓子類は女性及び一部の甘い物好きの男性に絶大な人気があるのだ。 彼はまず、次の休日に兄が家にいることをさりげなく(本当にさりげなかったかどうかはアイシュに確認してみなければ分からないが)確かめた。家にいさえすれば、ケーキの一つや二つ、アイシュが作ってくれないはずはないと踏んだので、実際の発注は後に延ばすことにする。万が一メイに断られた時、そのケーキの行き先がどうなるか考えるのが怖かったせいでもある。そうして下準備をしてから、彼はいよいよメイの所へ出向くことにした。 「おい、メイ」 「あ、キール。…ごっめーん、課題、まだ出来てませーん」 「…いや、いい、それは。えーと、だな…」 「?なに?」 「その、だな」 「なによ?」 「…次の休み、あいてるか?」 「へ?」 「休みだよ」 「え、うーんと、特に予定ないけど」 「そうか…その、な」 「ん?」 「…兄貴がな、ケーキを作るんだ」 「んん?」 「…俺はそんなもん食わされるのはごめんだから、お前、来て片づけてくれないか」 「アイシュのケーキ?うわー、ほんと!?」 「…来るか?」 「うんうん!あ、え、キールんち!?」 「あ、うん、そうだけど」 「わー、初めてじゃん!行く行くっ!」 「そうか」 「んーとね、それじゃシルフィスも誘うね!」 「……は?」 「だってアイシュのケーキでしょ!あたしだけ食べにいったりしたら、友達がいのないヤツって恨まれちゃうよ。ディアーナも誘ってあげたいけど、無理だろうなー、それは」 「………」 「午後のお茶?じゃあ、1時過ぎくらいに行けばいい?」 「……まあ、そうかな」 「んじゃ、シルフィスと待ち合わせて行くわ!よーし、さっそく誘ってこよっと!」 「…………」 彼の悩みはまだまだ尽きないようなのであった。合掌。 |
