| 御崎 濯 |
その日のお茶会は、どことなくいつもと雰囲気が違った。 いつもの、王宮の奥まった一室、クライン王国の第二王女ディアーナの居間である。 集まっているのも、いつもと同じ、この部屋の主ディアーナと、アンヘル族の騎士見習い シルフィス、そして異世界人の魔導士見習い、メイの三人。 いつもなら、にぎやかなおしゃべりと華やかな笑い声の絶えないお茶会が、今日は何とな く盛り上がりに欠けていた。 原因は──少なくとも、王女と騎士見習いには──分かっていた。 いつもなら、一番元気に、パワフルにしゃべり、楽しい話題を提供してくれるメイが、今 日はどうも元気がないのだ。 今も、ティーテーブルに肘をついて、ふうっと小さくため息をついたところである。 ディアーナとシルフィスは、こっそり瞳を見交わすと、小さく首を傾げあった。 「…どうしたんですの、メイ、なんだか元気がありませんわね」 口を切ったのは、ディアーナの方だった。 「んーー?」 さらりとまっすぐな栗色の髪を揺らせて、メイが顔を上げる。 「そんなことないよ?」 「ありますわ」 笑みを浮かべて親友の心配をいなそうとしたメイに、ディアーナはきっぱりと言い返す。 「さっきから、14回もため息をつきましたもの」 「…あのねー…」 何数えてんのよ、と苦笑するメイに、シルフィスが話しかける。 「回数はともかくとして、ほんとに、元気がないですよ、メイ」 ほんとうに14回ですわ、と言い張るディアーナをひとまず横に置いておいて、シルフィ スはメイの顔を覗き込んだ。 「なにか、悩み事でもあるんですか?」 「んーー…悩みっていうか…」 メイは、小さく唇を尖らせて、またテーブルの上に両肘をついた。 銀色のトレイの上に並ぶ色とりどりのタルトを見ながら、ぼんやりとした口調で口を開く。 「なんか、さ…キールの研究が、大詰めらしいのよね」 「…え」 シルフィスは、少し目を見開いて首をかしげた。 「それって…」 「まさか、あの研究ですの──メイを、元の世界に帰すっていう」 ディアーナも、ため息の回数の話はとりあえず忘れることにして、スミレ色の瞳を大きく 見開く。 「うん、それ」 二人の言葉を肯定するメイの答えに、親友たちは一瞬沈黙する。 「……だめですわっ、そんなの!」 拳を震わせて叫んだのはディアーナだった。 「メイが帰っちゃうなんて、ぜぇったい、だめですわ!」 宙を睨んで叫んだかと思うと、ひし、とメイの腕にしがみつく。 「メイ、帰らないでくださいまし!わたくし、メイと会えなくなるなんていやですわっ!」 「あはは、ありがと、ディアーナ」 メイは、ディアーナの顔を見やってくすぐったそうに笑う。 シルフィスも、ディアーナの言動に微かに苦笑を零してから、ふとまじめな顔になってメ イを見た。 「私も、それは寂しいです――…でも…帰れるようになるのは、嬉しいことじゃないんで すか?」 「ん?…んー…帰りたく、ない訳じゃないから、嬉しいのは嬉しいんだけどさ」 この少女にしては妙に歯切れの悪い答えに、シルフィスはじっとその続きを待つ。 けれど、メイは言葉を途切れさせたまま、また小さくため息をつくだけだった。 短く息を吸って、シルフィスはそっと口を開く。 「……メイは、いいんですか?…このままで?」 メイが、ちらりと視線を上げた。メイの傍らにくっつくように座っていたディアーナも、 きゅっと唇を引き結んで、隣のメイに視線を走らせる。 シルフィスが、何を言おうとしているのかは、メイにもディアーナにも分かっていた。 はっきり言葉にして問われたことも、答えにして返されたこともないけれど、この異世界 の少女が誰に思いを寄せているのかは、親友の二人もよく知っているから。 メイは、また視線をティーカップに落としてふっと息をついた。 「うん…」 ぼんやりと呟いて、彼女はことんとテーブルの上に額をくっつける。 「…キールね、このごろ、すっごくがんばってるの。もう、なんか死に物狂いって感じ。 それって…やっぱ、帰したいんだなって思うし」 二人は、表情を隠したまま呟くように話すメイの言葉をじっと聞く。 「…わかってるんだけどさ…あたし、キールに迷惑ばっかかけてるし、元々厄介者だし─ ─帰したいって思われてても仕方ないんだけど」 「…そんなことありませんよ」 「そうですわ、そんな──メイらしくありませんわ、そんなに気の弱いことを言うなんて」 口々にいさめる親友たちに、メイはぽそりと呟いた。 「だって──何にも言ってくれなかったもん」 「え?」 二人は、顔を見合わせて目を瞬かせた。 「なんにもって──いつのことですの?」 覗き込むようにして聞くディアーナに、メイはまた小さく息をついた。 「…誕生日。…あたしも、なにか──聞けたらって思ってさ。誕生日のこと、その前から ちらちら話してたの。でも…誕生日の日、キール何にも言ってくれなかった」 メイは、額をテーブルに押しつけたまま目を閉じる。 「ディアーナたちが、パーティしてくれたでしょ。遅くなって帰って──でも、キール、 夜遊びしてないで早く寝ろって。…それだけ」 灯りの半ば落ちた廊下に立ち尽くした、その時の胸の痛みを思い返して、メイは閉じた瞼 にきゅっと力を込めた。 「…別にさ、プレゼントもらえるとか、そんなこと期待してたわけじゃないけど──でも、 …おめでとうくらい、言ってくれるかなって思ったのにね」 「…ひどいですわ、キール!あんまりですわ、そんなのって!」 ディアーナが、きっと宙を見据えて唇を震わせる。 薄紅色の姫君は、憤り半分、悲しいの半分、といった表情で親友の腕に手をかけた。 「もう、キールなんてやめちゃいなさいませ、メイ」 メイは、少しの間返事をしなかった。やがて呟かれた言葉は、さっきよりもっと独り言め いていた。 「……あたしがどう思ったって、きっともう仕方ないんだ…──この頃、なんか、避けら れてるし」 少女は、ゆっくり顔を上げて身を起こす。親友たちは、彼女が泣いているのではないかと 少し心配したのだが──メイの頬には、涙はなかった。 「課題、持っていっても、そこに置いとけっていうだけで顔も上げてくれないし。前はさ、 採点してもらって、おしゃべりしたりしてたのに──そりゃ、怒られることもよくあった けど」 メイは、頬づえをついて大きな茶色の瞳を細める。 「…好きだとか、そんなんじゃなくても、普通に近くにいるだけでも、いいかなって思っ てたのに、も、それもだめみたいだから」 泣き笑いのような声で、メイはそう言って笑ってみせた。 「せめて、キールが帰したいって思ってんだったら、笑って帰ってやろうかなーなんてさ。 最後くらい、いいイメージ残したいもんね」 「…メイ」 ディアーナは、メイを覗き込んで懸命にかき口説き始めた。 「そんなことありませんわ、キールだって本当はメイのこと、きっと」 さっき、もうやめてしまえと言ったのも忘れて、親友の心を何とか明るくしようと、薄紅 色の少女は熱心に語りかける。けれど、メイはありがとう、とはいうものの、それで気持 ちが引き立つ様子はなかった。 シルフィスは、少し俯いてディアーナの言葉を聞くメイをじっと見つめていた。 メイの頬に、今まで見たこともないような、痛々しい微笑が浮かぶ。 それを見守るシルフィスの瞳に、ふと切ない色が灯る。アンヘルの若者は、微かに唇をか んで、視線を宙に揺らせた。 扉を叩く音に、キールはふと顔を上げた。 手元の魔法陣から、部屋の中へ意識を戻す。窓からは、斜めに差し込む夕日が、部屋の澱 んだ空気に金色の縞を見せていた。間もなく、西の空が紅に染まり始める頃合いだろう。 このところ、夜も昼もなく研究に没頭しているせいで、時刻の移り変わりを教えるそんな 光景も、一向に彼の注意を引かなくなってしまっているのだが。 もう一度、扉が鳴った。柔らかく、けれど訪れを示すきっぱりとした意志を響かせて。 この部屋を一番よく訪れてくるのは、彼の被保護者の少女だが、それは彼女のノックでは なかった。 どうぞ、と短く答えて、彼はまた手元に視線を落とす。誰であろうと、さっさと追い返す だけだ。 扉が開いて、訪問者が姿を見せた。ちらりと視線を流して、キールは短く瞳を瞬かせる。 「…シルフィス」 アンヘル族の騎士見習いは、律儀にひとつ礼をすると部屋の中に歩み入ってきた。 「こんにちは、キール」 「ああ。…ケガ人か?」 騎士団のケガ人の治療はキールの担当だ。仕事柄、騎士団で出るケガ人は重傷であること が多い。そのせいもあって、治癒魔法に優れた彼が割り振られているのだ。 しかし、キールの当然の問いに、シルフィスはきっぱりと首を振った。 「いいえ、キールにお話があって来ました」 「俺に?」 キールは、訝しげに眉を寄せる。顔見知りではあるが、こんな風に正面切って話があると 尋ねてこられるほどに親しいわけではない。そんな話題など思いつかない。 ──いや、思いつかないわけでは、ないが。 「…なんだ?手短にしてくれ。忙しいんだ」 わざと斜めに身体を向けて、視線を逸らせる。 けれど、会話を拒否しているかのようなキールの態度にも、シルフィスはひるむ様子はな かった。まっすぐに翡翠色の瞳をこちらに向けてそこに立っている。 「わかりました。じゃあ、お聞きします」 そう切り出して、シルフィスは小さく息を吸った。軽く唇をかみしめてから、座ったまま のキールに視線をぶつける。 「…キールは、メイをどう思ってるんですか」 キールは、思わず息を止める。 シルフィスが話があるというのなら、メイのことだろうとは思っていた。 この頃、ろくに口もきいていないから、彼女がどんな状況なのかは知らない。何か困った ことでもあったのかもしれない。ちらりとそんな風には思っていた。 けれど、いきなりここまで切り込まれるとは思ってもみなかったのだ。 シルフィスの視線を受け止め損ねて、目を逸らす。 「……なにを、くだらない」 「答えてください、どう思ってるんですか」 やり過ごそうと、迷いながら零した台詞を、またシルフィスの強い響きのこもった言葉が 遮る。 「…俺は、あいつの保護者だ」 「それだけですか」 畳みかけられて、目を上げる。シルフィスの意図が分からない。 けれど、誰に何を聞かれようと、キールには他に語れることなどないのだ。 「それ以外に何がある。召還しちまったから、行きがかりで世話をしてる。それだけだ」 今まで何度も、無理矢理自分に言い聞かせてきた言葉を口にする。 もう、今では、そんな建前では、自分の心はごまかしきれないことくらい分かっている。 誰よりも、自分に対して。 「それが全てだとでも言うんですか?キール、あなたは───」 「そうじゃないとでも言いたいのか?他人の心の中を覗く力でもあるつもりなのか、お前 は。勝手に人の感情を捏造したいなら、騎士なんかやめて物語作家にでもなったらどうだ」 けれど、それを他人に向かって漏らすことはできなかった。ほんの欠片でも。 殊更にとげとげしく言い捨てて、瞳を机の上の巻物に戻す。 シルフィスは、それでも引き下がらなかった。 「少しでも、メイが大切じゃないんですか───あんなに、親しくしているのに」 「勝手なことを言うな。──あいつは、ただの、被保護者だ。いつも、厄介ばかりかけら れて迷惑してる───早く帰しちまうのが、お互いのためさ」 それは自分に斬りつける刃だ。 そう、思えればいいのに。本当にそう思っていれば、この言葉を口にすることでこんなに 惨めな気持ちにならなくてもすむだろうに。 シルフィスは、険しい口調で言い切るキールの声に、いったん口をつぐんだ。 一瞬、二人の間に沈黙が落ちる。 帰ってくれ、とキールは願った。もうこれで、あきれて、怒って、ここから立ち去ってく れればいい。自分を罵ってもいい、メイに何を言ってもかまわない、ただ、もうとにかく 今は、これ以上自分にこんな馬鹿な言葉を言わせないで、この場からいなくなってくれ─ ── けれど、シルフィスはそうしなかった。 僅かに落としていた視線を、小さく唇を引き結んでからゆっくりと上げる。 「……分かりました」 透き通るような翡翠の瞳が、まっすぐにキールを見据える。 「あなたがそう思っているのなら、私は、メイに私の気持ちを伝えます」 一瞬、何を言われたか分からなかった。 意味もなく、手元をしばらく見つめた後、のろのろと顔を上げる。 「…気持ち?」 「メイを好きだと」 しんと音を立てて、何かが通り過ぎる。 空気も時間も音も、すべてが存在しないもののように凍りつく一瞬。 キールは息をすることすら忘れたかのように、シルフィスを見つめた。 シルフィスは視線を逸らさない。瞳に力を込めて、キールを睨み返していた。 「………何を…馬鹿な」 掠れそうな声で、切れ切れに言葉を紡ぎ出す。 「お前は、まだ」 「ええ、分化していません」 シルフィスは唇を引き結ぶ。 「でも、この気持ちがあれば、それも叶うと思っています──あなたも前に言いましたよ ね、アンヘル族の分化には、恋愛感情が大きく関わっているのかもしれないと」 「────」 声もなく、キールはシルフィスを見つめ続ける。 未分化ではあったけれど、メイは隔てなく──むしろ、同性の友達にするようにシルフィ スに接していた。そのせいもあって、キールもいつしかなんとなくそんな目で見るように なっていたのだ。 そのシルフィスが。 「メイは、私にたくさんのものをくれました」 静かに、シルフィスは語り始めた。 「故郷を出て、一人で見も知らない人やものに囲まれて戸惑っていた私に、元気をいっぱ いくれました。彼女こそ、私なんかよりうんと遠いところから来て、不安も辛さも何倍も 大きかったと思うのに」 そう、あの少女はいつも元気いっぱいだった。 不安でないわけはないのに、辛くないはずはないのに、普段はそれをみじんも見せなかっ た───少なくとも、他人の前では。 「メイと一緒に、歩いていけたらいいと思います、ずっと」 柔らかな口調で言い切られた言葉に、キールは微かに開きかけた唇を閉ざす。 「…キールは、メイを帰したいって言いましたけど」 シルフィスは、ゆっくりと続ける。 「もしも、メイが――ここにいることを選んでくれたら、無理矢理に帰したりはしません よね?」 部屋の中を、一瞬さあっと影がよぎる。 窓に差す陽の光が、僅かに雲に遮られたらしかった。 シルフィスの視線が揺れて、話し出してから初めて、キールの瞳から離れた。 「―――メイが…メイの気持ちが、キールに向いてるのは知ってます」 シルフィスは、短く言葉を切ると、また瞳を上げた。 「…けれど、あなたがそうじゃないというのなら、…いつかは、私の方を向いてもらえる よう、努力するつもりです」 まっすぐにキールの方を向いて、シルフィスはしばらく彼の反応を待っているようだった。 が、彼の返事がないのを見ると、短く頭を下げる。 「…失礼します」 金色の若者は、しなやかな身のこなしで向きを変えると、黄昏の迫る部屋を出ていった。 ドアが閉まり、足音が遠ざかってゆく。 キールは、シルフィスに対した姿勢のまま固まっていた身体から、僅かに力を抜いた。 今、あのアンヘルの若者は何を言っていっただろう? (メイの気持ちがあなたに向いている) ───まさか。 ゆっくりと額を押さえて、のろのろと息を吐き出す。 帰りたいと、帰れるんだよねと、何度彼女は口にしただろう。 それをかなえるのが、自分の責任だと思っていた。そうしてやりたいと、そうしなければ ならないと思ってもいた。 なのに、いつのまにか彼女のいる日々が日常になって、かけがえのないものになって── そうして、最初の頃の思いとまるで反対のことを願う自分に気づいた。 気づくまいとしてあがいた時期もあった。けれど、自分をいつまでも欺き通せるわけもな い。気づけば、その先に何が待っているのか、痛いほどに分かっているとしても。 ──口には出せない気持ちだった。 無理矢理に彼女をこの世界に招いた自分が、必ず帰してやるからと誓った自分が、どうし て告げられただろう。 帰すと誓い、彼女にくりかえし約束した、その自分がそれを自ら破り捨てるような告白を 口に出来るはずもなかった。 全身の感覚が、いつも彼女に向かっているのを、彼女を追っているのを自覚していながら、 必死でそれを抑え込もうとしていた。 帰すための手段を組み立てながら、一方でそれを望まない自分がいる。 顔を合わせ、言葉を交わしたら、なんとか口に出さずに抑え込んでいる言葉が、どうしよ うもなく零れ出てしまいそうだった。だから、この頃は彼女が課題を出しに来た時も、顔 を上げないように、目を合わせないようにしていたのだ。そうすることしか、思いつかな かったから。 できることなら、今綴っている呪文の引き起こす結果がなんなのか、見ない振りをしたま ま、ただ研究だけに没頭して、何もかも終わらせてしまいたかった。 目も耳も、心も塞いだまま。 けれど。 (シルフィスが…メイを?) 「彼女がここにいることを選んでくれるのなら」 シルフィスの声が耳の底に響く。 まさか。 まさか───メイが、そんなことに頷くはずがない。 あまりにもいくつもの事がいちどきに流れ込んできて、頭の中がぐらぐらする。 キールは、額を押さえて、長い吐息を漏らした。 王宮の白い壁に照り返る陽光に、キールは瞳を細めた。 あれから数日の後、どうしても王宮の書庫にしかない本が必要になって、彼はここしばら く足を向けなかった王宮にやってきていた。 目的の本を借り出して、回廊を過ぎ、中庭にさしかかった彼の目に、見慣れた色彩が飛び 込んできた。思わず足を止めて、そちらへ瞳を向ける。 中庭のベンチに、二人の人物が並んで座っていた。一人は、彼の被保護者である、青い服 を身にまとった少女。栗色の髪をさらりと揺らせて、笑顔でなにやら話している。 その隣にいるのは─── (シルフィス) まっすぐな金色の髪が、陽の光を透かせて煌めいている。 ついこの間、メイへの想いを彼に告げた若者は、メイの隣で柔らかな微笑を浮かべていた。 不意に、キールの胸の奥に、何か苦い衝動が突き上げる。 どうして、シルフィスがあそこにいるのだろう? あそこに──メイの隣に。 メイに、彼女にいて欲しいのは、もっと別の場所なのに─── 自分にはどうしても口にできない願いを、あの若者はメイに告げようと言うのだろうか。 (───っ…) 自分でもどうしようというはっきりした意志もないまま、思わず彼は足を踏み出しかけた。 「──キール!」 その背後から、短く、囁くように、けれどきっぱりした響きで呼ぶ声がした。 はっと動きを止めて振り向く彼の視界に、薄紅色の髪がふわりと揺れた。 「こちらへいらしてくださいませ!」 有無を言わせずそう言いきると、ディアーナはいきなり彼のマントの端を捕まえてくるり と向きを変えた。 「…ひ、姫!?」 慌てるキールを振り向きもせず、ディアーナは彼を引きずるようにして中庭を離れていく。 「何をなさるんですか、姫──」 王女の行動をむげに制止するわけにも行かず、振り払うこともできないままキールはディ アーナに引っ張られてしばらく歩いた。 回廊を離れ、中庭の見えないところに出ると、ディアーナはようやくほっと息をついて足 を止めた。 「離していただけませんか、姫」 いつもにも増して不機嫌なキールの声に、けれどディアーナは一向に堪えた様子もなく、 あら、と小さく声を立てた。 「失礼いたしましたわ」 澄ました顔で手を離すディアーナからマントの端を取り返して、キールは苦虫をかみつぶ したような表情になった。 「何なんです、一体」 ふわりと髪を梳いて、ディアーナはキールの顔を見上げる。 「メイと、シルフィスの邪魔をしないでくださいませ、キール」 薄紅色の姫君の唇から出た言葉に、キールは一瞬言葉を返すことを忘れて立ち尽くした。 ディアーナは、両指を組むと、ついと身体の前に伸ばした。 「…わたくし、メイが大好きですの」 さらりと風が吹きすぎて、ディアーナのドレスの裾とキールの肩掛けを揺らせる。 「メイがずぅっとここにいてくれて、一緒にいられるといいなと思いますわ──それに、 シルフィスのことも、大好きですもの。二人が一緒にいてくれるなら、とっても嬉しいで すわ」 姫君は、かちりとキールと視線を合わせて次の言葉を口にする。 「…キールは、メイのこと、迷惑だっておっしゃったのでしょ」 「……っ、───」 思わずキールは息を詰まらせる。 「でしたら、わたくし、メイに王宮に来てくださるようお願いしますわ──わたくしのお 話相手として。そして、シルフィスが騎士になったら、わたくし付きの護衛にしていただ けるよう、お兄様にお願いします。一生懸命お願いすれば、きっと聞いていただけますわ」 ディアーナは、指を解くと優雅にドレスの裾をさばいて僅かに向きを変えた。 視線を揺らせて、中庭の方に瞳を向ける。 「…メイが、キールの側にいたいっていうから、わたくしも我慢してましたのに──キー ルが、メイのことなんか好きじゃなくってどうしても帰してしまうとおっしゃるなら、わ たくし、もう応援してさしあげません」 可愛らしく唇を引き結ぶと、ディアーナは作法どおりの会釈をしてくるりと身を返した。 さらさらと衣擦れの音を立てて遠ざかってゆく淡い桜色の髪を、キールは言葉もなく立ち 尽くして見送る。 (メイを王宮に) そう、妹姫にはとことん甘いあの皇太子殿下なら、それくらいのおねだりは聞き届けるか もしれない。護衛の人選だって、王女直々の希望なら通ってもおかしくないだろう。 (───) 魔法研究院にいるか、元の世界に帰るか、どちらかだと思っていた。 彼女が彼女の全てを、自分の人生を取り戻し、自分の力で笑っていられるその場所へ、帰 す。 そうでなければ、この世界にいる限り、一番身近にいて、毎日を見守って共に過ごすのは 自分なのだと、いつのまにか思いこんでいた。 (誰か、別の、相手と───?) 彼女の世界に帰るのなら、それで構わないと、それが当然だと思っていたけれど。 彼女が笑って暮らせるようになるのなら、そうしなければならないと思っていたけれど。 この世界にいても、違うところで暮らす。 自分ではない別の誰かが、彼女の一番近くで暮らし、話し、笑うようになる─── 不意に差し込んできた痛みに、キールは息を止めた。 (…どうかしてる) そう、どうかしている、そんな可能性を考えるなんて。 メイは、帰るのだ。 自分が、元の世界に帰してやるのだから。 そうして、思いを振り切るように、しかし迷いを抱えたまま行われた実験は、思わぬ妨害 によって失敗し。 ───そして、その最中に呟かれた言葉を確かめようとした青年に、夜の王宮の泉水の前 で少女は頷いたのだった。 冬の気配が漂い始めた空の下に、きんと澄んだ空気が満ちる。 あれから数週間の後、人々で賑わう王都の街中に、キールは所在なげに突っ立っていた。 今は恋人である被保護者の少女に、買い物に付き合ってと引っぱり出されたのだ。 「なんで俺が買い物なんかに付き合わなくちゃいけないんだ」 「えー、だって、もうずっとここで暮らすんだもん、冬物の服とか、色々必要じゃん?一 人じゃ持ちきれないもん、一緒に来てよ」 そんな風に言われて微笑まれれば、キールに抵抗できようはずもない。 もっとも、普段着を買いに行ったブティックへは結局引きずり込まれて辟易したが、寝間 着や下着を買うために出向いた店へ入ろうと言われた時は、さすがに断固として拒否して、 表で待っていることにしたのだが。 目のやり場に困るショウウインドウの前で待つことにも抵抗して、結局少し離れた広場で 待ち合わせることにした。街中を行き交う人の流れをぼんやり眺めながら佇むキールの背 に、不意に軽やかな声がかけられた。 「こんにちは、キール」 聞き慣れた声だった。この前最後に聞いたのは、彼の研究室に尋ねてきた時だ。 どこかその時とは微妙に色合いの違う雰囲気を感じながらも、咄嗟に身構えながらキール は振り向いた。 そして、意表をつかれて思わず棒立ちになる。 光を集めてさらりと流れる金色の髪。 柔らかな微笑をたたえる翡翠色の瞳。 今日は非番なのだろう、私服をまとっている。 暖かそうな淡いモスグリーンのジャケットと、───裾のふわりとなびくカナリア色のス カート。 「………」 目を丸くしたまま言葉のでないキールに、シルフィスはにっこりと微笑みかけた。 「珍しいんですね、街中に出てくるなんて。…あ、もしかして、メイに付き合って、です か?」 「………あ、ああ」 ごく自然に語りかけられた言葉に、ようやく頷くと、キールはぱちぱちと瞬きをして前髪 をかきあげた。 「……その、お前は」 「…ああ、ええ、私も、待ち合わせなんです」 微かに頬を染める気配で、シルフィスははにかんだように告げる。 いかにも少女めいたその仕草に、キールはようやく事態を飲み下しながらまた瞬きをした。 「……お前、その、───女に…?」 「はい」 日頃の訓練の成果だろう、すらりとしなやかな姿勢で背筋を伸ばして、シルフィスは頷い た。 「………だが、その───この間は」 「あ、ええ」 くすりと、悪戯めいた、けれどどこか申し訳なさそうな表情で微笑むと、シルフィスは口 を開いた。 「あれは、嘘です」 「…………………は?」 思わず間抜けな声を立てて、まじまじと相手を見返すキールに、シルフィスは少し顎を引 いて短く苦笑する。 「嘘だったんです、ごめんなさい。…あ、いえ、もちろんメイのことは大好きですけれど、 それは親友としてです──女同士の」 シルフィスは、こぼれ落ちた金色の糸を、さらりと後ろに払って続ける。 「でも、一緒にいられたらいいなって言ったのは、本当ですよ。…なのに、キールはメイ を帰すってムキになってたでしょう」 「…ムキにって、お前…」 あの頃の自分の悩みを表現するには、あまりに軽やかな単語を使われて力が抜けそうにな りながら、キールはシルフィスを睨む。けれど、その瞳にはどうにも力がこもらない。 「メイが、キールに気持ちが通じなくて、あんまり落ち込んでいて辛そうだったから。姫 と相談して、お芝居してみたんです。『ライバルが現れれば、キールも少しは気持ちが変わ るのじゃなくて?』って姫が言ったものですから」 「……姫も、共謀なのか…」 なにやら目眩がしてきて、キールは額を押さえる。 「ごめんなさい──でも、その、姫は思いが叶いましたし、私も、その…気持ちが通じる 相手がいて、訓練も順調で騎士への道も開けそうだし、分化も決まって―――私たちが幸 せなのに、メイがあんなに悲しそうだったのが見ていられなくて」 「だからといって──」 言い募りかけて、キールはふとシルフィスの言葉を聞きとがめる。 「…分化が、決まって…?」 「ええ」 シルフィスは、くすりと申し訳なさそうに笑った。 「実は、あの時は、もう分化が始まってたんです、女性に」 「────」 今度こそ絶句して金色の少女を見つめるキールの背後から、せわしない足音が近づいてき た。 「わりい、シルフィス!遅刻したっ」 銀色のつむじ風のようにその場に駆け込んできた金目の少年は、突っ立っている緋色の魔 導士の横を駆け抜けて急停止した。 「ガゼル」 「待ったか?ごめん、俺、ゆうべ嬉しくて眠れなくてさぁ」 「ううん、今来たところだよ」 ふわりとほころんだように微笑むシルフィスに、ガゼルは頭をかいてもう一度、悪い、と 謝る。そうしてからやっと、傍らに立ち尽くしている相手に気づいたらしかった。 「あれ、キールじゃねーか。めっずらしーの」 目をぱちくりさせてキールを見上げてから、ガゼルは、あっ、と短く声を上げてシルフィ スの肩に腕を回す。 「まさかあんた、シルフィスをナンパしてたんじゃないだろーな!ダメだぞ、こいつは俺 んなんだから」 キールはまたも絶句した。 つまり、そういうことになっていた――らしい。 彼が、一人で思い悩み、同じ所をぐるぐる回っている間に、世間では季節も人の輪も巡り 動いていたということなのだろう。 「ガゼルったら」 シルフィスは少し頬を染めてくすくすと笑い声を立てた。 「キールにはメイがいるんだから、そんなことありえないよ」 「あ、そっか」 てへへ、と頭をかいてから、ガゼルは急にまじめな顔になって少女の顔を覗き込んだ。 「だけどさ、ちゃんと言うべき事は言っとかないとな。お前人気者だから、俺、気が気じ ゃないんだよ」 すっかり二人の世界を作り出しかけているシルフィスとガゼルに、キールはようやく我に 返ると小さく咳払いをした。 シルフィスが、顔を上げてちょっと肩をすくめた。ほのかに照れたような表情で、ちいさ く微笑む。 「じゃあ、いこうか、ガゼル。……あの、キール、それじゃ」 「…ああ」 ふわりとスカートの裾を揺らせて通り過ぎるシルフィスに短く頷く。 「じゃあな、キール!メイとうまくやれよっ」 無邪気な一言を朗らかに付け足して歩み去る銀髪の少年に、キールは憮然とした表情を浮 かべた。 「…余計なお世話だ」 口の中で呟いた台詞は、賑やかに遠ざかっていく恋人たちには聞こえないようだったが。 「お待たせっ!」 小さくなっていく金色と銀色の後ろ姿を見送っていたキールは、いきなり後ろから背中を 叩かれて思わず飛び上がった。 「なんだ、お前か」 「なにがなんだ、よ。ぼーっとしちゃって、なんの……あれ、シルフィスだ」 キールの背中に手をかけたまま、メイは彼の肩越しにひょいと首を伸ばして親友の後ろ姿 を認めた。 「あ、ガゼルと一緒じゃん、そっかー、デートなんだ」 ふふふ、と嬉しそうな笑い声を立てる彼女を、キールはまじまじと眺める。 「…お前、知ってたのか」 「ん?何を」 「……だから、その、あの、二人の…」 恋愛沙汰など話題にするのは、自分のことであれ他人のことであれ、とことん苦手な彼が 歯切れ悪く単語を並べるのへ、メイはけろりと頷いた。 「シルフィスとガゼルのこと?うん、もちろん」 「…だが、シルフィスが分化したのは…」 「けっこー前だよ?んーーと、秋頃かな?…やだ、まさかキール、今まで知らなかったと かー?」 ずばりと言い当てられて、不本意ながら彼は一瞬口をつぐむ。 それから、胸の中に生じた推測──というより、もうむしろ確信だったが──を確かめる ために口を開く。 「お前は、知ってたのか、あいつの分化」 「うん、シルフィス、ディアーナとあたしに一番に教えてくれたから」 親友だもんね、とあっけらかんと笑う少女の笑顔に、キールは額を押さえて深いため息を ついた。 (…やられたな) つまり、彼女たちの包囲網に、いつの間にか押し込められていたわけだ。 メイは知らなかったらしいが、それでも彼に伝わる情報を遮断したという意味では重要な 役どころだったかもしれない。まあもっとも、彼女を避けていたのは彼の方なのだから、 キールの自業自得と言えば言えたのだが。 「…まったく、女ってのは」 「え?なに?なによ」 唇からつい漏れた慨嘆の台詞を、メイが聞きとがめて眉を寄せる。 「何が、女ってのは、なのよ?」 「何でもない」 「なくはないでしょー!」 不満げに自分の腕をつかんで引っ張る少女に、キールはちらりと視線をやって苦笑を零す。 「…仲がいいな、と思っただけだよ」 そう言いながら、反対側の手を伸ばして、メイの髪をぽん、と撫でる。 「…うにゃ?」 キールにそうされるのが好きなメイは、訝しげな表情を浮かべたままではあるが、ひとま ず矛先を引っ込める。その表情を眺めながら、キールは今度はすこし柔らかな笑みを浮か べた。 「…さあ、次はどこなんだ?」 「え?う、うん、ええとね…」 メイの指図に従って歩き出しながら、キールは彼女の瞳をちらりと見下ろす。 メイは、さっき取りついた彼の腕を、これ幸いとばかり抱え込んだままだ。 いつもなら、恥ずかしいからと、すぐに振り払ってしまうのだが─── (……まあ、いいか) どこかくすぐったいような思いを胸の奥に押し込めると、その反動か、キールは殊更に仏 頂面を作ってみせる。 「今度は、一緒に選んでよね!」 「ごめんだ」 暖かな初冬の陽射しを浴びながら、賑やかな少女と無愛想な青年の二人連れは、本人たち の──特に青年の意志とは関わりなく、あたりに幸せそうな輝きを振りまきながら歩いて いくのだった。 |