| 御崎 濯 |
──少しずつ、いろいろなことがわかりはじめていく。 それは、ほんとうにほんのちょっとしたことなのだ。 彼女は、僅かに瞳を細めて空から降る光を見上げる。 たとえば、中庭にいるとき、廊下を歩いてゆく隊長を見ること。 支配人室に入ってゆくときもある。そのまま通り過ぎて、階段を上がって(もしくは降りて)ゆくこともある。誰かと挨拶を交わしたり、立ち止まって手にした書類にちらりと目を落とすこともある。 あるとき、ふと途中で止まって宙を見上げている様子だったので何かと思ったら、小さくくしゃみをしてから、また歩き出した。 彼女の口許に、ほんの微かな微笑みが浮かぶ。 それから、戦闘反省会でみんなを見回す隊長の視線を追うこと。 隊長は、めったに隊員個人の戦闘成績を叱ったりはしない。初めの頃は、それが彼女には理解できなかったが、だんだんに、わかるように──もしくは、わかる気がするようになってきていた。 反対に、大げさに言葉を尽くすわけではないが、隊員を誉めたり、ねぎらい、励ますことは忘れない。 隊長が、彼女の名を呼ぶ。短く彼女の戦いに触れて誉め、瞳が微笑む。 ほんのそれだけのことが、どれだけ彼女の心を弾ませるだろう。 また、舞台稽古をのぞきにやってきた隊長を、遠くからいちはやく見つけること。 彼女たちが一つの劇を作り上げようとしているとき、それが真剣になってゆくにつれて、隊長はあまり舞台に顔を出さなくなる。集中している彼女たちの邪魔をしたくないからということのようなのだが、それでも気にはなるらしく、客席の入り口のあたりからこっそり眺めていることがたまにあるのだ。 灯りのついていない客席の後ろ、入り口の暗幕の影に立っている隊長の姿を見つける。他の隊員たちはまだ気づいていない。やがては誰かが気づいて声をかけ、それがきっかけで休憩になったり、それとも遠慮した隊長が立ち去ったりするのだけれど。 そして、廊下を、そうでなくても劇場の中のどこかを歩いているとき。 隊長の声が、彼女の名を呼ぶ。足をゆるめて、振り向く。階段から下りてきて、でなければ向こうの角を曲がって隊長が現れる。その顔を見上げ、返事を返す。その場で立ち話をしたり、並んで歩き出しながら言葉を交わすこともある。中庭で飼っている犬の話題、移りゆく季節の話、たわいない日常の会話。 その中で呼びかけられる、自分の名前。名前など、個人の識別のための記号にすぎないといったことがあった。そのときは本当にそう思っていた。 けれど、そうではないことが、今ならわかる。理論ではなく、知識ではなく、自分の心で知ったほんとうのこととして。 名を呼ばれるたびに、そしてその音にこめられた優しい響きを聞くたびに、暖かなものが彼女の心に灯ってゆく。氷の溶けた湖面に広がってゆく波紋のように、緩やかに響きあいながら彼女の内側に満ちてゆく。 見上げると、見下ろして、どうしたんだい?と問いかける。言葉に困って口をつぐむと、すこし笑って、話題を変えてくれたり、軽く肩をたたいてくれて、それじゃあ、と別れてゆくこともある。ひとつひとつの会話、仕草、視線。特別なできごとではない、毎日のささやかなあれこれのこと。 誰かといることが、誰かを見ることが、こんなに暖かいことだと、彼女は今まで知ることさえなかったのだ。 冬の夜空のように青い青い瞳を、晴れ渡った空に向ける。春近い帝都の風が、月光の滴で紡いだ糸のような銀色の髪を、僅かに揺らす。彼女は、ゆっくりとベンチから立ち上がった。けたたましい鳴き声がして、白い毛糸玉のような子犬が転がるように駆けてくる。 彼女は、僅かに微笑むと、駆け寄ってくる子犬に向かってその名を呼ぶのだった。 |