南京防衛軍に対する投降勧告文 (大日本陸軍総司令官松井石根名、12月8日、航空機から投下)
日軍は抵抗者にたいしてはきわめて峻烈にして寛恕せざるも、無辜の民衆および敵意なき中国軍隊にたいしては寛大をもってし、これを犯さず
丁集団(第10軍)命令 (丁集作命甲号外) 12月13日午前8時30分
一、集団は南京城内の敵を殲滅せんとす
一、各兵団は城内にたいし砲撃はもとより、あらゆる手段をつくして敵を殲滅すべし、
これがため要すれば城内を焼却し、特に敗敵の欺瞞行為に乗せられざるを要す『南京戦史資料集』(笠原『南京事件』p.143)
中島今朝吾中将(第16師団長) 日記 (12月13日)
一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境内の森林村落地帯に出て又一方鎮江両塞より逃て来るものありて到る所に捕虜を見到底其始末に堪えざる程なり
一、大体捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片付くることとなしたる(れ)ども、千五千一万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず唯彼等が全く戦意を失ひ、ぞろぞろついてくるから安全なるものの、之が一旦掻擾(騒擾)せば始末に困るので
部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ
十三日夕はトラックの大活躍を要したり乍併(しかしながら)戦勝直後のことなれば中々実行は敏速には出来ず 斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり
一、後に至りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、大平門(太平門)に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三○○其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千人あり尚続々投降し来る
一、此七八千人之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず一案としては百二百に分割したる後適当のヶ処(箇処)に誘きて処理する予定なり『南京戦史資料集』
(笠原『南京事件』p.154-155)
『増刊歴史と人物』「南京攻略戦中島台十六師団長日記」
(内田『「戦後補償」を考える』p.34)
児玉義雄氏(第十六師団歩兵第三十八連隊副官)の証言
連隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として『支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ』と電話で伝えられた。私は、これはとんでもないことだと、大きなショックを受けた。
師団長・中島今朝吾将軍は豪快な将軍で好ましい御人柄と思っておりますが、この命令だけは何としても納得できないと思っております。
参謀長以下参謀にも幾度か意見具申しましたが、採用するところとならず、その責任は私にもあると存じます。
部隊としては実に驚き、困却しましたが命令やむを得ず、各大隊に下達しましたが、各大隊からは、その後何ひとつ報告はありませんでした。 激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう。
『証言による<南京戦史>(5)』
(内田『「戦後補償」を考える』p.35-36)
佐々木到一少将(第16師団 歩兵第30旅団(佐々木支隊)長) 私記 (12月13日)
この日、我が支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したものならびに各部隊の俘虜を合算すれば、我が支隊のみにて二万以上の敵は解決されている筈である。(中略)
午後二時ごろ、概して掃蕩を終わって背後を安全にし、部隊を纏めつつ前進、和平門にいたる。
その後、俘虜続々投降し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば、兵隊ならずとも「皆やってしまえ」と言いたくなる。
白米はもはや一粒もなし、城内にはあるだろうが、俘虜に食わせるものの持ち合わせなんか我が軍には無い筈だった。
「佐々木到一少将私記」(笠原『南京事件』p.153-154)
第16師団歩兵第30旅団命令 (旅団長 佐々木到一少将、12月14日)
[各隊は担当区域を]掃蕩し支那兵を撃滅すべし。各隊は師団の指示あるまで俘虜を受けつくるを許さず
『南京戦史資料集』(笠原『南京事件』p.154)
第114師団歩兵第127旅団歩兵第66連隊第1大隊 戦闘詳報
[12月12日午後7時ころ] 最初の捕虜を得たるさい、隊長はその三名を伝令として抵抗断念して投降せば、助命する旨を含めて派遣するに、その効果大にしてその結果、我が軍の犠牲をすくなからしめたるものなり。捕虜は鉄道線路上に集結せしめ、服装検査をなし負傷者はいたわり、また日本軍の寛大なる処置を一般に目撃せしめ、さらに伝令を派して残敵の投降を勧告せしめたり。
[12日夜] 捕虜は第四中隊警備地区内洋館内に収容し、周囲に警戒兵を配備し、その食事は捕虜二○名を使役し、徴発米を炊さんせしめて支給せり。食事を支給せるは午後十時ごろにして、食に飢えたる彼らは争って貪食せり。
[13日午後2時] 連隊長より左の命令を受く。
旅団命令により捕虜は全部殺すべし。その方法は十数名を捕縛し逐次銃殺してはいかん。
[13日夕方] 各中隊長を集め捕虜の処分につき意見の交換をなさしめたる結果、各中隊に等分に分配し、監禁室より五十名宛連れだし、第一中隊は路営地南方谷地、第三中隊は路営地南方凹地、第四中隊は路営地東南谷地付近において刺殺せしむることとせり。(中略)各隊ともに午後五時準備終わり刺殺を開始し、おおむね午後七時三十分刺殺を終わり、連隊に報告す。第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり。
捕虜は観念し恐れず軍刀の前に首をさし伸ぶるもの、銃剣の前に乗り出し従容としおるものありたるも、中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり。特に隊長巡視のさいは各所にその声おこれり。
『南京戦史資料集』(笠原『南京事件』p.156-157)
山田支隊による捕虜大虐殺(12月16日〜17日)
上海派遣軍第13師団歩兵第103旅団(山田支隊)は、幕府山附近で膨大な捕虜(約1万5千名?)を捕獲した。鈴木明は、山田支隊長以下数名の将校の発言を基に、山田支隊がこれらの捕虜を釈放しようとした際に暴動が起こり、自己防衛のためにやむを得ずその一部を射殺したかのように述べている。だが、後日発見された隊員の陣中日記と照らし合わせてみると、この事件が最初から捕虜の殺害を意図して行われたものであったことがはっきりと分かる。そもそも、山田メモの記述を見ても、15日段階で既に師団から捕虜の「始末」を命令されている。軍命令として殺害を命じられた1万名以上もの捕虜を、果たして支隊長の独断で勝手に釈放などできるものかどうか、考えてみれば答えは自明である。この事例は、自らの責任を回避したい一部将校の「証言」を安易に利用することによっていかに事実を歪曲した「ルポルタージュ」が作られるかを典型的に示している。
| 山田栴二少将(上海派遣軍第13師団歩兵第103旅団(山田支隊)長)メモ
鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』p.190-195
|
宮本省吾(仮名、第13師団山田支隊歩兵第65連隊)陣中日記
『加害の記録 南京大虐殺「日記」』
(週刊金曜日 1993.12.10 p.18-19)
|
|
|
|
至るところ陣地ある地帯を過ぎ、宿泊地を探せど、すべて焼けて何とも仕様がなし。 前進中、先遣した田山大隊が烏竜山砲台を占領せりとの報が入る。 南京は既に各師団が城内そ掃討中とのことなり。 距離をのばし、(台+おおざと)家塘に宿泊。 |
…午前十時将校斥候となり烏龍山方面の敵情を捜索に出発、途中敗残兵等に会い、騎兵隊と共に射殺す。
…本隊に帰るも、本隊はすでに前進をなし、非常に困難して本隊に追付く。
夕方烏龍山に攻撃に向ふも敵の陣中にあると思えず、敗残兵を多数捕獲し、一部は銃殺す。 夜十時野宿につく。 |
|
|
他師団に幕府山砲台までとられては面目なし。午前四時半出発、幕府山に向う。砲台附近に至れば、投降兵莫大にて、始末に困る。附近の文化住宅、村落、皆敵の為に焼かれたり。 | 午前五時出発、南京近くの敵の敗兵を掃蕩すべく出発す。攻撃せざるに凡て敵は戦意なく投降して来る。次々と一兵に血ぬらずして武装を解除し何千に達す。夕方南京に捕虜を引率し来り。城外の兵舎に入る。無慮万以上に達す。直ちに警備につく。中隊にて八ヶ所の歩哨を立哨せしめ警戒に任ず。捕虜中には空腹にて途中菜を食ふ者もあり、中には二、三日中、食を採らぬ者もあり、喝を訴へる者あり。全く可愛想なるも戦争の上なれば、ある程度断乎たる処置をとらねばならぬ。夜半又々衛生隊が二百余の捕虜を引率し来る。巡警二○○余もあり、隊長もあり、相当訓練的にて人質をしらべる等、面白き事である。少佐とか参謀とか云ふ者もあり。通訳より「日本軍は皆に危害を与へず。唯逃ぐる等暴れる様なる事あれば直ちに射殺する」との事を通じ、支那捕虜全員に対し言達せし為、一般に平穏であつた。唯、水と食料の不足で全く平公(閉口)した様である。 |
|
|
捕虜の始末のことで本間少尉を師団に派遣せしところ「始末せよ」との命を受く。各隊食糧なく、困窮せり。捕虜将校のうち幕府山に食料ありときき運ぶ。捕虜に食わせることは大変なり。 | 一昨日来の疲れのため、下士官以下に警戒をたのみ睡眠す。本日も出発の様子なく警戒に任ず。
中隊は衛兵を多数出し、又自分は巡察将校を命ぜられ全く警戒のため非常に疲労す。 夕方より一部食事をやる。兵へも食料配給出来ざる様にて捕虜兵への給食は勿論容易なものでない。 |
|
|
相田中佐を軍司令部に派遣し、捕虜の扱いにつき打合せをなさしむ。捕虜の監視、田山大隊長誠に大役なり。 | 警戒の厳重は益々加はり、それでも前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す。しかし其れも疎の間で午食事中俄に火災起り、非常なる騒ぎとなり、三分の一程延焼す。午后三時、大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し、之を射殺す。戦場ならでは出来ず、又見れぬ光景である。 |
|
|
入城式なり、中山陵、軍官学校を見学。軍官学校は陸士より堂々たり。五時帰る。 | 本日は一部南京入城式に参加、大部は捕虜兵の処分に任ず。小官は八時半出発、南京に行軍、午后晴れの南京入城式に参加壮厳なる史的光景を見のあたり見る事が出来た。
夕方漸く帰り、直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す。二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった。中隊死者一、傷者二、に達す。 |
|
|
捕虜の件で精一杯。江岸に視察す。 | 昨夜来の出来事にて暁方漸く寝に付く。起床する間もなく昼食をとる様である。
午后敵死体の片付をなす。暗くなるも終らず、明日又なす事にして引上ぐ、風寒し。 |
|
|
捕虜の件で出発を延期、午前、総出で始末せしむ。軍から補給あり、日本米を食す。 | 昨日に引続き早朝より死体の処分に従事す。午后四時迄かかる。夕方、又捕虜の衣類の始末につき火災起る。少しで宿舎に延焼せんとしたが、引留む事が出来た。
明日は愈々渡河の予定にて兵は其の準備に晩く迄かかる。牛肉の油上まで作り、米、味噌の久しぶりの配給、明日の食料の準備をなす。風寒く揚子江畔も漸く冬らしくなる。 |
| 12/20 | 下関より浦口に向う。途中死体累々たり。十時浦口に至り国東支隊長と会見。 |