「衣」師団(第59師団)第45大隊の元伍長、鈴木丑之助氏が、「首切り浜野」と呼ばれていたある中尉について語った内容が、次のように紹介されている。
…「衣」の「秀嶺作戦」と、引き続く撤兵で、山東省という膨大な空白が残るが、ここに替わりの師団を配置する余裕はない。 それで、「衣」各大隊から少しずつ兵を抜き出して独立警備大隊というのを作ったわけだ。 規模も従来の大隊規模に及ばないものだった。
隊長には、第四五大隊の浜野仁中尉(栃木県出身)が任命された。 浜野中尉は、皇軍で「首切り浜野」という異名を自他共に許していた。 第四五大隊のなかに、彼が中国農民の首を日本刀で切り落とすのを、見なかった者はないとまで言われた。 作戦に出て、途中見つけて案内人として使った中国人であれ、駐屯地周辺の部落民であれ、次々と首切りをしているうちに、彼は毎日一人は切らないと気が休まらなくなったようだと、兵士たちは思っていた。
彼の部下たちは、彼によって中国人首切りのコツを伝授された。 彼によって、妊婦の腹の割き方、幼児の殺し方を教わった。 その中には「人間がウドンを食べている途中で首を切ると、どう見えるか」などという“実験”まで混じっていたという。 中国人民軍側は、彼に多大な懸賞金を掛けてその跡を追ったが、行った道と同じルートを、決して戻らないという彼の侵略行のやり方と皇軍の支援とで、九死に一生を得た。 八路軍は、遂に彼を取り逃していた。 「首切り浜野」を自他共に許す彼は、これによってますます優秀なる皇軍兵士としての立場を固めていた。
自らも連続9人の据え物斬りを体験している鵜野晋太郎氏は、軍刀で50人以上を斬ったと噂されていたある下士官について、次のように書いている。
そのころ大隊本部に、公式には「喇叭長兼本部書記」の肩書の藤井曹長がいたが、私は彼に妙に心をひかれた。 もともと幹候出身将校に対し、下士官は悪意を以て接するものだが、彼のさり気ないさっぱりした気風は好感が持てた。 それにもまして確度の高い噂では、藤井は軍刀で50人以上、一説では100人以上斬っていると言われていた。 (略)彼との交わりは半年に満たなかったが、彼の“殺人訓”を要約すると、次のようになる……
「私が50人なのか100人なのかと聞かれても答える口はもちませんよ。 差し料(自分の所持している刀剣)が普通程度のものであれば、白兵戦で敵と渡りあってガタガタにならない限り、据え物だったら相手が抵抗できんように痛めてあるから、100人位十分殺れるんじゃないですか。 …そして相手を人間と思わんことですよ。 まあ私は犬コロくらいにしか思ってませんから、まず失敗なんてありっこないですよ。 ホラ見てください、これを……」
藤井は差し料を引き抜いて切っ先の部分を指さした。 ――「スーと細い擦った線が沢山見えるでしょう。 ……首を斬った時につく頚骨が擦れた跡です。 だからこの一本一本の線を数えれば何人斬ったか判りますよ。 しかし将校さん方から時々、白兵戦で何人も何人も斬ったという話が流れるが信じませんね。 ……そうでしょう。刀ほど危ないものはないですよ。 一対一でも着剣小銃手と闘っても勝てないですよ。 ……まして一対二なら一辺ですよ。 ツンゴピン(中国兵)が本気になったら怖いですよ。 だから私は、据え物で何十人斬ったと言うのなら信じますがねえ。 ……日本の兵隊の着剣小銃での刺殺ならあり得ますよ。 あれなら殺れますね。 ……明治維新での新選組の池田屋の斬り込みは、最低三人が一団となってのことですから、あれでは斬れますよ。 だから軍刀の武勇伝と言うのは嘘ですな……」
私は藤井の教訓を、敗戦までの間、私自身が犯した数多い斬首殺害の手本としての影響を強くうけたし、とりわけ藤井の差し料の頚骨の多数の擦過痕は私の心を捉らえ、一日も早く沢山斬りたいと言う衝動に駆られた。
(略)
昭和十八年はいろいろと戦闘の多い年で、負け戦もあった嫌な年であった。 早春の頃、私は藤井と共謀――と言うよりむしろ彼に三拝九拝して、日本憲兵隊の密偵(中国人の漢奸)を暗殺して貰ったことがある。 あの頃の情報関係者は密偵に塩の独占搬入権を与えて使っていたが、憲兵が大隊の縄張りを荒すので、業を煮やしてその密偵をだまして連れ出し、藤井に背後から不意打ちさせて殺したのだった。 彼の慣れた刀捌きに私は恍惚としたし、益々殺意が体中に漲った感じで、毎朝真刀(つまり軍刀)で“百本振り”をやって自慰したものである。