鵜野晋太郎氏は、旧陸軍第39師団232連隊第2大隊情報将校として自ら40名以上もの中国人を、主に日本刀(「備州長船祐定」および昭和新刀「助川貞光」)を用いて虐殺した体験者であり、中華人民共和国における戦犯裁判において、大尉以下の800名の中ではただ一人重刑判決を受けた。 以下、氏の告白手記『日本刀怨恨譜』(本多勝一編『ペンの陰謀』収録)から引用する。 (小見出しは高橋による。)
竹薮を背に、私は半身に構えて農民の左後方に立った。 彼の瞼は腫れ、口からは血が流れていた。 祐定を抜くと、一五人許りの日本兵のざわめきが消えた。 ……苦し気な農民の息づかいだけが聞こえる。 刀を構える直前、農民の斬撃点である後首を見て、一瞬当惑した。 斜め下に見るそれは僅かに二センチ位にしか見えない。 沙陽鎮の立木とは雲泥の相違である。 外れると後頭部か肩を横一文字に斬ることになり、その瞬間、将校としての威信失墜必至である。 而も初体験であり、成功の保証はない。 ……二秒、三秒、グッと刀を振り上げた。――
「エイッ!」
ドスッ≠ニ鈍い手応えと同時に、九分通り斬れた首が胸に巻きこむように倒れた。 斬った瞬間真っ赤な血が噴水のように三、四本吹きあがり、胴体は血溜りの中にのめりこんだ。 自分自身が下手人であり、それこそ万死に値する罪を犯したのに、逆に私はホッとした心境で刀の血糊を拭いた。
(略)
御稜威≠フ下(天皇の威光の下)赫々たる「戦果」に酔っていた皇軍の一つの側面は、明らかにその底流で敗戦の要素が比重を高め、進行しつつあったことである。 だが、私はそんなことなど露知らず、勝手な総括をしていた。――一、祐定は切味と重さのバランスがよく、うまく斬れた。 刃こぼれや目釘損傷なし。
二、日本刀は無抵抗の人間(奮戦したが刀折れ矢尽きて不幸にして逮捕された捕虜)の「据え物斬り」には最適である。 つまり小銃拳銃の如きでは射撃音響が大きくて殺人現場が喧騒となり、まかり間違えば友軍(味方)を殺傷することもある。 その点日本刀は軽便にして殺傷力大で、殺人現場は概して静粛に保たれ、日本刀使用者の技量のかなり低い者でも十分成果が期待し得る。 従って刃がしっかりし、折れ・曲りの顧慮少ない刀の場合は、一挙に五名乃至十名の連続斬首は十分可能と思われる。 但し「警備地区内」での殺人は予め穴を掘り、斬首後直ちに埋没の準備をしないと、最大の欠点たる大量の流血のために「刑場汚染」となり、具合悪く、注意を要する。
三、但し白兵戦闘の場合はその刃渡り(刃部の長さ)はとても着剣小銃に対抗できず、而も軍刀として外装したものは重くて成果は期待し得ず、従って単に将校の単独軍装として兵を指揮する場合のサーベル的役割を果たせる程度のものに過ぎない。
私は常用の貞光を引き抜くと、一息入れてくるりと剣背(嶺、つまり刀の刃の背)を軽く村長の首に当て、間合いを見て足の位置を定め、今度は刃部を前に戻し乍ら一気に振り下ろした。
ドスッ≠ニ鈍い手応えと同時に、噴水の如く二、三本と吹き出す血。 村長の首は胴体より僅かに早く落ち、顔は苦悶に歪み、歯はガチガチと砂を噛んだ。 凄愴、無残。ただよう血の匂い。 ……つづいて私は次の四十がらみの村幹部の後方に廻った。
(先ずはうまくいったが、目釘はどうかな。刀の曲りは出たかな?)
目釘は異常ないが、刀身はわずかに曲りが出たようだ。
(大丈夫だ。連続してどこまでいけるか、やるんだ)
次の首に剣背を当てるや、返して振り下ろす。そして三人、四人目へと息もつかせず斬った。だが四人目は八分通りの斬れ方で首は胸に垂れて倒れた。
(失敗だ!落ち着け!)
私は強いて笑顔を試みたが、泣き面になってしまった。
「おい!警戒兵、そこの水桶を持ってこい!」
私はひったくるようにして水桶の水で刀の血糊を拭いた後、タオルを刀身に巻いて切先から四○センチの所に膝をあてがい、右に約五度曲がったのを両手でぐいと元にもどしたが、僅かな曲りは残った。
(エイッ、あとの五人を殺らなくちゃ)
そのとき、聞き覚えのある不気味な歌――「抗日歌」を、5人が涙を流して斉唱し始めた。低く怒りの気概が迫る。
「止めろ!止めないか!よーし、斬ってやる」
だが不安がふとよぎった。 ――(貞光の目釘はかなり緩んどる。これ以上緩めば刀は使えないぞ。でも父の祐定に取り替えて使うべきではない。勿論郭劉湾で一度血を吸わせたが、父の魂として祐定は一旦緩急の決戦の秋まで静かに保管した方がよいと決心して来たではないか。この母の魂たる貞光は昭和新刀だが、据え物でもこんなに曲るとは思わなかった。しかしここで父の祐定に取り替えては母の貞光を汚すことになる。……そうだ!母のためにも断じて貞光で斬ろう!)
そのとき五人の斉唱は止んでいたが、悲痛な泣き声は続いていた。 私は一段と凶暴に刀をふるって斬った。 目釘は更に彎曲して緩み、顎元がガタガタになって来た上、再び刀身の四○センチまでが右五度に曲った。 そのために二人斬首して曲りを直し、また二人斬っては直して、ようやく最後の九人目の首を斬り落とした。 首を完全に落としたのは一番目と九番目だけであった。
血の匂いはしばらく消えなかった。 鉄柵の中の捕虜の集団は、涙を拭おうともせず立ちすくんでいた。
この蛮行は勿論私の独断専行であったが、情報主任の権限として何等越権ではなく、寧ろ「天皇の軍隊」への反抗に対する統帥権の当然の発動とさえ思っていた。 事実、翌朝、連隊長山田正吉大佐(陸士二九期)に情報・捕虜関係事項の報告の後この問題を詳細報告したところ、「ウン、馬鹿に派手にやったな……」と苦笑いしただけで、何のお咎めもなかったのである。
昭和十二年十一月 ― 十二月の日本の新聞は、連日南京へ進撃する皇軍のニュースで埋まっていた。 とりわけ私の関心は、野田・向井両少尉の百人斬り競争であった。 今日は何人目と報ぜられる記事は何者にもまして素晴らしく、一八歳の私の胸は皇国の無敵ぶりへの確信を一段と高めたものである。 当時私は幼稚な「天下無敵大和魂武勇伝」を盲信していたので、百人斬りはすべて「壮烈鬼神も避く肉弾戦」(当時の従軍記者の好きなタイトルである)で斬ったものと思っていたが、前述の私の体験的確信から類推して、別の意味でこれは可能なことだ――と言うよりもむしろ容易なことであったに違いない。 しかもいわゆる警備地区での斬首殺害の場合、穴を掘り埋没しても野犬が食いあさると言う面倒があるが、進撃中の作戦地区ではまさに「斬り捨てご免」で、立ち小便勝手放題にも似た「気まま(イ盡)な殺人」を両少尉が「満喫」したであろうことは容易に首肯ける。 ただ注意すべきは目釘と刀身の曲りだが、それもそう大したことではなかったのだろう。 また百人斬りの「話題の主」とあっては、進撃途上で比隣部隊から「どうぞ、どうぞ」と捕虜の提供を存分に受けたことも類推できようと言うものだ。 要するに「据え物百人斬り競争」が正式名称になるべきである。 尚彼等のどちらかが凱旋後故郷で講演した中に「戦闘中に斬ったのは三人で他は捕えたのを斬った云々」とあることからもはっきりしている。 その戦闘中の三人も本当に白兵で斬ったのか真偽のほどはきわめて疑わしくなる。 何れにせよ、こんなにはっきりしていることを「ああでもない、こうでもない」と言うこと自体馬鹿げた話だ。 私を含めて何百何千もの野田・向井がいて、それは日中50年戦争――とりわけ「支那事変」の時点での無敵皇軍≠フ極めてありふれた現象に過ぎなかったのである。