南京攻略途上の状況
堀越文雄(第13師団山田支隊歩兵第65連隊)陣中日記
[10月6日]
帰家宅東方にいたる。
支那人女子供のとりこあり、銃殺す。
むごたらしきかな、これ戦いなり。
[11月9日]
捕虜をひき来る、油座氏これを切る。夜に近く女二人、子供ひとり、これも突かれたり。
[11月16日]
午後六時ごろ一部落を見つけて泊す。高橋少尉殿と藤井上等兵と自分と三人して徴発せし鴨と鶏、全部で八羽をもって夕食うまし。外に豚一匹は油とサトー、塩とでいため、中食の副食物にす。
[11月20日]
昨夜までの頑強なりし敵も今は退脚し、ところどころに敗残兵の残れるあり。
とある部落に正規兵を発見し、吾はじめてこれを斬る。
まったく作法どおりの斬れ工合なり。刀少しく刃こぼれせり。惜しきかな心平らかにして人を斬りたる時の気持ちと思われず、吾ながらおどろかれる心の落ちつきなり、西徐野に一泊す。
敵はほとんど退脚す、
残れるものは使役に服せしめ、又は銃殺、斬首等をなす。
いかりの心わかず、心きおうことなし。血潮を見ても心平生を失うことなし。これすなわち戦場心理ならんか。
[11月22日]
鶏の徴発に出かける。クリークをとおる支那人の舟を全部とめて片っぱしよりしらべそれにのり対岸にいたり、チャンクウ(中国酒)一壷を得てかえる。にわとり凡そ十羽もあるべし。中食うまし。
(『南京事件を記録した皇軍兵士たち』、笠原『南京事件』p.98-99)
牧原信夫(第16師団歩兵第19旅団歩兵第20連隊上等兵)陣中日記
[11月22日]
道路上には支那兵の死体、民衆および婦人の死体が見ずらい様子でのびていたのも可愛想である。
橋の付近には五、六個の支那軍の死体がやかれたり、あるいは首をはねられて倒れている。話では
砲兵隊の将校がためし切りをやった
そうである。
[11月26日]
午前(午後の誤り)四時、第二大隊は喚声をあげ勇ましく敵陣地に突撃し、敵第一線を奪取。住民は家をやかれ、逃げるに道なく、失心状態で右往左往しているのもまったく可愛想だがしかたがない。午後六時、完全に占領する。七時、道路上に各隊集結を終わり、付近部落の掃討がおこなわれた。自分たちが休憩している場所に四名の敗残兵がぼやっと現れたので早速捕らえようとしたが、一名は残念ながら逃がし、あと三名は捕らえた。
兵隊たちは早速二名をエンピ(小型シャベル)や十字鍬で叩き殺し、一名は本部に連行、通訳が調べたのち銃殺した。
八時半、宿舎に就く。三小隊はさっそく豚を殺していた。全くすばやくやるのにはおそれ入った
。
[11月27日]
支那人のメリケン粉を焼いて食う。
休憩中に家に隠れていた敗残兵をなぐり殺す。
支那人二名を連れて十一時、出発す…鉄道線路上を前進す。
休憩中に五、六軒の藁ぶきの家を焼いた。
炎は天高くもえあがり、気持ちがせいせいした。
[11月28日]
午前十一時、大隊長の命令により、下野班長以下六名は小銃を持ち、残敵の掃討に行く。…自分たちが前進するにつれ支那人の若い者が先を競って逃げて行く。
何のために逃げるのかわからないが、逃げる者は怪しいと見て射殺する。
部落の十二、三家に付火すると、たちまち火は全村を包み、全くの火の海である。
老人が二、三人いて可愛想だったが、命令だから仕方ない。
次、次と三部落を全焼さす。そのうえ五、六名を射殺する。
意気揚々とあがる。
[11月29日]
武進は抗日、排日の根拠地であるため
全町掃討し、老若男女をとわず全員銃殺す。
敵は無錫の線で破れてより、全く浮足立って戦意がないのか、あるいは後方の強固な陣地にたてこもるのかわからないが、全く見えない。
[12月1日]
途中の部落を全部掃討し、また舟にて逃げる二名の敗残兵を射殺し、あるいは
火をつけて部落を焼き払って前進する。
呂城の部落に入ったおりすぐに徴発に一家屋に入ったところ三名の義勇兵らしきものを発見。二名はクリークに蹴落とし、射殺する。一名は大隊本部に連行し手渡す。
…
[12月5日]
午前八時、準備万端終わり、同部落を出発する。
出発する時はもはや全村火の海である。
南京に近いのだろう。一軒家に乾しいもが目についた。吾先にとまたたくまに取り尽くした。
(『南京事件 京都師団関係資料集』、笠原『南京事件』p.87-89)
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