目黒輜重連隊兵站自動車第17中隊で非公式の写真班を務めていた村瀬守保氏は、補給部隊として進行する南京攻略戦の後を辿りながら、貴重な戦場の記録写真を多数撮影し、自ら現像した写真を持ちかえっている。 その中には、揚子江岸下関における大虐殺を証明する、殺され、焼かれた死体が累々と堆積する現場を撮影した決定的な証拠写真4枚も含まれている。 以下、『村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線』(日本機関紙出版センター 1987年)からその一部を引用する。
(14)南京へむかって
上海付近の敵を制圧した日本軍は、さらに西進して、円陽、句陽、金壇、鎮江、と次第に南京に迫っていきました。
私達兵たん部隊も、それにしたがって、根拠地を前進いたします。(写真キャプション)不敵な面魂の若者が、便衣隊のスパイだ、と捕らえられ憲兵隊に送られました。 おそらくこの若者が生きてかえることは、なかったでありましょう。
(写真キャプション)ある部落で昼食の大休止の時、逃げ遅れた老人と子供が、恐怖におののきながら部屋の奥に身をかくしているのが、見つかりました。 子供にキャラメルをやろうとしましたが、手を出そうともしません。 涙ながらに語る老婆の訴えをきくと、八十にもなる老婆がつかまって、二人の日本兵に犯され、けがをしたというのです。 言うべき言葉もありませんでした。(16) 南京制圧
第一線に近づくにつれて、部落を通過するたびに、虐殺死体が目立ち始めました。
部隊は夜おそくまで行進をつづけ、適当な部落で大休止です。 車両は街道においたまま車両衛兵をたてて、警戒しています。
私達はくずれかけている民家を探して、班ごとに分宿です。 土間にひくアンペラ(竹で編んだゴザ)を探して、穴蔵のようになっている奥の部屋に踏み込むと、下半身裸の婦人が、下腹部を切り裂かれて、死んでいます。 少し奥には、五〜六歳の子供が、うつぶせに死んでいました。 プーンと、血生臭いにおいが、立ちこめています。
翌朝、出発前に点検すると、奥の部屋にもう二人、老人が殺されていました。
このような虐殺死体は、随所に見られました。 婦人に暴行を加えて虐殺し、女性の性器に棒を差し込んでおくような、残虐な事例も何回か目にしました。南京の攻略が大幅に遅れたので、第一線部隊の兵隊は、厳しい命令を受けて、目が血走っていました。
小休止で一緒に休んだ時の話をきくと、「南京一番乗りは師団の至上命令だ。南京へいけば、女はいくらでもいるし、酒もある。速くいったものは、やりたいほうだい、なんでもやれるぞ」と上官からハッパをかけられているのです。
戦国時代の将軍が、敵の都市を攻略するときに、部下の将兵に、獲物を与えたと同じやり方が、南京攻撃にも使われていたのです。
十二月十日午後五時、脇坂部隊がようやく光華門の城壁に、日章旗を翻し、続いて十三日夕刻には、十六師団が中山門を占領し、完全に南京を制圧しました。
私達輸送部隊はなぜか、二週間ばかり、城内に入ることを許されず、城外に足止めされていました。
どこからともなく城内で大虐殺が行われている、という噂が流れてきました。 捕虜を南京の背後ある、紫金山のふもとへかりたて、機関銃を打ちまくって数千いや、数万人も殺りくしたというのです。(17)大虐殺のうわさが…
ようやく足止めが解除されて、ある日、荷物受領に揚子江岸の、下関埠頭へ行きました。 すると、広い河岸が一杯に死体でうまっているのです。 岸辺の泥に埋まって、幅十メートル位はあろうか、と思われる死体の山でした。
揚子江岸で大虐殺が行われた、というその現場でしょうか、軍服を着た者はほとんどなく、大部分が平服の、民間人で、婦人や子供も交じっているようでした。
死体に油をかけて、焼こうとしたため、黒焦げになった死体も、数多くありました。 死臭で息もつけない中を、工兵部隊が、死体を沖に運んで流す作業をやっていましたが、こんなやり方では、一〜二ヵ月はかかりそうでした。(写真キャプション)虐殺されたのち薪を積んで、油をかけられて焼かれた死体。 ほとんどが平服の民間人でした。
(写真キャプション)揚子江岸には、おびただしい死体が埋められていました。 虐殺した後、河岸へ運んだのでしょうか、それとも河岸へ連行してから虐殺したのでしょうか。
(写真キャプション)工兵隊が死体に鈎を引っ掛けて、沖へ流す作業をしていました。 一回に数体ぐらいですから、こんなやり方では二ヵ月以上もかかりそうでした。