揚子江上の大虐殺
第16師団歩兵33連隊「南京付近戦闘詳報」
午後二時三十分、前衛の戦闘下関に達し、前面の敵情を捜索せし結果、揚子江上には無数の敗残兵、舟筏その他あらゆる浮物を利用し、江を覆いて流下しつつあるを発見す。すなわち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し、江上の敵を猛射すること二時間、殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す。
『南京戦史資料集』
(笠原『南京事件』p.158)
二千メートル、いやもっと広かったであろうか、その広い川幅いっぱいに、数えきれないほどの死体が浮遊していたのだ。見渡す限り、死体しか目に入るものはなかった。川の岸にも、そして川の中にも。それは兵士ではなく、民間人の死体であった。大人も子供も、男も女も、まるで川全体に浮かべた“イカダ”のように、ゆっくりと流れている。上流に目を移しても、死体の“山”はつづいていた。そして、そのほとんどが民間人の死体であり、まさに、揚子江は“屍の河”と化していたのだ。
創価学会青年部反戦出版委員会編『揚子江が哭いている』
(本多『南京への道』p.229-230)
海軍第一掃海隊「南京遡江作戦経過概要」
烏龍山水道より南京下関まで(十二月十三日)
一三二三(13時23分)前衛部隊出港、北岸揚子江陣地を砲撃制圧しつつ閉塞線を突破、沿岸一帯の敵大部隊および江上を舟艇および筏などによる敗走中の敵を猛攻撃、殲滅せるもの約一万に達し……一五三○頃下関付近に折から城外進出の陸軍部隊に協力、江岸の敗兵を銃砲撃しつつ梅子州付近まで進出し、掃海索を揚収す……終夜江上の敗残兵の掃蕩をおこないたり。
海軍省教育局「事変関係掃海研究会記録」
(笠原『南京事件』p.159)
陳頤鼎氏(元中国軍将校)証言
日本軍の捕虜になるよりは長江の中で一緒に死のうと八人が板に乗り、長江にのりだした。夕方の五時ごろだった。(中略)
そのころ、日本軍の軍艦が長江にやってきて、巡視しながら、長江上の敗残兵を掃射しはじめた。さまざまな器材に乗り、あるいはつかまって長江の流れにただよう中国軍将兵が日本軍の機関銃の餌食となった。また、日本軍艦にぶつけられて漂流道具もろともにひっくり返され、溺死させられた人たちも多かった。戦友たちの無数の死体がたえず近くを流れていく。長江の水は血でそまり、凄惨な光景は見るにたえなかった。軍艦上の日本兵たちが、長江を漂流する無力の戦友たちを殺戮しては拍手し、喜ぶ姿も見えた。このときの怒りは、生涯忘れることができない。
(笠原『南京事件』p.159-160)
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