『正論』6月号に、鄭大均氏(東京都立大学教授)による、梁石日、姜尚中、辛淑玉の3氏に対する批判記事[1]が載っている。 しかし、これは果たして批判などと呼べるレベルのものなのだろうか? 3氏に対する「批判」全部を取り上げる余裕はないので、ここでは辛淑玉さんへの「批判」を例にとって、鄭氏の主張の当否を検討してみることにする。
「思いつき」の「でまかせ」を言っているのはどちらか?
鄭氏は、辛さんと佐高信氏の対談[2]から、金嬉老(権嬉老)氏に言及した部分を取り上げて、彼女の主張を「思いつきやでまかせが多すぎてあ然とするほど」だと批判する。 それでは、彼女の発言のどこが「思いつき」や「でまかせ」だと言うのだろうか。
鄭氏は言う:
思いつきやでまかせとは、たとえば言葉についてのくだりである。 ここで辛氏は、「金嬉老さんを韓国に送ったのは第二の監獄に入れたようなもの」といい、金嬉老の韓国語に注目する。 だが、言葉と韓国での住み心地との間にはそもそも相関関係のようなものがあるのだろうか。
辛さんが指摘しているとおり、金嬉老氏が獄中で独学した「韓国語」がおよそ韓国で通用するレベルのものでないことは、彼が話す場面を映し出す韓国のテレビが、常にテロップを流していることからも明らかである。 老齢の金氏が、これから不自由なく韓国語を使えるようになるのも恐らく無理だろう。 これらの点については、鄭氏自身も認めている。 ところが氏は、にもかかわらず金氏は言葉も通じない、自ら望んで行ったわけでもない韓国で「住み心地」よく過ごしていると主張する。 では、その根拠はいったい何なのか?
「察するところ、勘のいい金嬉老は日常生活では韓国語を使い、まとまった話をするときには日本語を使うという使い分けをすでに実践しているのではないだろうか。」 「講演依頼のようなものがあっても、依頼者が彼に期待するのは日本語であり、依頼者は通訳も準備しているに違いない。」 「おそらく金には日常生活においても、日本語で助け船を出してくれる人間がいるに違いない。」 ―― 言うまでもないことだが、これらはすべて鄭氏の憶測に過ぎない。
事実を確かめることもなく、都合のいい想像によって話の筋を作り上げる。 普通はこういう行為を「思いつき」とか「でまかせ」と言うのだが、鄭氏の常識は普通のそれとは違っているらしい。
こうした御都合主義自体も大きな問題だが、さらに深刻なのは、英雄扱いされたり、あれこれ助けてくれる人がいたりと、要するにちやほやされていれば金嬉老は幸せだろうと考える、鄭氏のあまりに皮相な人間理解の方である。 もし、自分がそうだから金嬉老もそうだろうと考えているのであれば、浅薄と言う他はない。 金嬉老程度ならそんなものだろうと思っているのなら、これは傲岸不遜というものである。
目の前にある答えすら見えないのか?
また鄭氏は言う:
思いつきというかはったり的と思えるもう一つの例は二つ目の段落にある。 ここで氏は金嬉老の妹の発言に触れ、「そう言わなければ生きていけない日本の怖さを感じ」るという。 しかし日本に「怖さを感じ」ているという人間にこれだけの言いたい放題が可能なのだろうか。
相手の言動の矛盾点を突くのは確かに批判の常道ではある。 しかし、鄭氏のそれは表面的すぎて、有効な批判になっていない。 なにしろ辛さんは同じ対談の、鄭氏が引用しなかった部分でこの問いへの答えを述べているのだから。
「萎縮したら、恐怖をもったら勝てません。怖いからこそ闘う。そして闘うには、言論しかないのです」 と。
鄭氏は、自分の問いへの答えが最初から与えられていることを読者に知られたくなくて、彼女のこの言葉の存在を隠したのだろうか? それとも、答えが目の前にあったにもかかわらず、鄭氏には見えなかったのか? 見えなかったのだとしたら、それは氏が自分より力のない相手しか叩けない人間だから、怖いからこそ闘うという彼女の気持ちなどおよそ想像もできない心性の持ち主だからなのだろう。
被害者側に「自己責任」を問う残酷さ
鄭氏は辛さんの言い分を「典型的な被害者の語り口」と呼び、「他者責任には関心を払うが、自己責任には無頓着な態度である」と非難する。
問題の当事者双方に反省を求めるのは、一見公平な態度に見える。 だが、その「問題」が差別や抑圧に関わる問題であり、当事者の一方がその被害者、他方が加害者である場合には、これは公平どころか加害者側に一方的に加担するものでしかない。
勘違いしてはいけない。
朝鮮を武力で植民地化し、何百万もの朝鮮人が故郷を捨てて他国に生活の場を求めざるを得なくなるような搾取を行ったのは日本人である。 そうやって朝鮮人をむりやり「日本人」にしたにもかかわらず、同じ日本人になったはずの彼らを「二級国民」として一貫して差別し、蔑み続けてきたのも日本人である。 戦争に負けると、今度は一転して彼らから日本国籍を奪って「外国人」として扱い、自分で取り上げた国籍がないことを理由に、あらゆる社会的権利や保障から排除し続けてきたのも日本人である。 そして、かたくなに血統主義にこだわり、彼らが何世代この国で生まれ、生活し、死んでいこうとも国籍を与えようとせず、国籍が欲しければ過去の恨みも民族も捨てて「よき日本人」に生まれ変わって「帰化」せよ、と屈辱を強いてきたのも日本人である。
被害者が「被害者の語り口」で語って何が悪いのか。ここには、「他者責任」と「自己責任」のバランスなどないのだ。
在日に在日を叩かせる理由
鄭氏の「批判」なるものは一事が万事この調子であり、一つとして辛さんの主張に正面から向き合ったものはない。 まっとうな批判などできはしないのだ。 だから「批評家の声ではない」(いつ彼女が批評家を名乗ったのか?)とか、「『世界』のような雑誌に登場すべき声ではない」(いつから『世界』は批評家だけの雑誌になったのか?)といった的外れな論難や、「巫女」、「霊媒」、「パフォーマンス」といったレッテル貼りでお茶を濁すことしかできないのである。
それでは、どうしてこれほど非力な鄭氏が冒頭の3氏への批判者として起用されたのだろうか。
ひとことで言ってしまえば、鄭氏自身が在日だからである。
『正論』の読者は、在日の歴史も、生活も、心情も、何も知りはしない。 もちろん鄭氏が書くような「批判」の内容を深く考えたり、検証してみるつもりもない。
重要なのは、辛さんや梁石日、姜尚中といった人々を、同じ「在日」の鄭氏が批判しているという、その事実だけなのである。 そうすれば、ああ、同じ在日でさえ彼らを批判しているではないか、やはり彼らの言うことなど「特殊」で「極端」なものなのだ、だから悩む必要などないのだ、と何も考えずに安心できるからだ。
在日自身に在日を叩かせることによって、マイノリティからの深刻な異議申立てに一切向き合うことなく、無視してしまおうとする。 真に罪深いのは鄭氏などではなく、氏のような手駒を使うことによって辛さんたちの主張にお手軽に蓋をしようとする、右派マスコミのあざといやり口の方である。
鄭氏は、あえて在日として『正論』のような雑誌に現れ、辛さんたちを叩いてみせることによって、「他者責任には関心を払う」が、「自己責任」に直面させられるのは何がなんでも回避しようとする一部の日本人を喜ばせる役割を忠実に果たしている。 そういう意味では、彼こそ実によく「スポンサーの要請」に応えているのである。
(2000.05.18)参考文献