江戸っ子と言えば蕎麦(2)

時そばに出て来る「しっぽくとは」
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Rev.1.0 (April 17, 2000)   
Rev.2.0 (December 10, 2004)
佐田 守弘

「そば屋。なにができるんだい?」
「へい、できますものは花巻に紙っぽく出ございます。」
「おうしっぽく一つ熱くしてくれい。」
これは落語「時そば」の一節である。ここに出て来るそばの名前だが、花巻の方は今でも見かける事がある。だが「しっぽく」の方はメニューに出しているそば屋さんをまだ見た事がない。一体、時そばに出て来る「しっぽく」とはどの様なそばなのだろうか。

落語「時そば」のあらすじ

まず始めにこの「時そば」という噺のあらすじをかいつまんで紹介しておこう。時は江戸時代。町を売り歩く夜鷹そば屋と客とのやり取りである。しっぽくを注文した客は、でき上がる速さを褒め、器を褒め、割り箸を褒める。ツユ、そば、ちくわと次々に褒めて行き、最後に16文のそば代を払う時に、1文銭の枚数を数える途中で「いま何時だ?」と時を聞き、1文をごまかす。ここまでが噺の前段で、この後このマネをしようとして次々と、とんちんかんな事を言う後段が続く。

「時そば」の背景となっている時代

時そばでは、使われている通貨の単位などから、江戸時代がその背景になっている事は周智の通りだ。だが、だからと言ってこの噺が江戸時代に作られたと言うわけではない。噺の多くは明治以降になって、江戸時代の時代背景で作られているのが普通だ。おそらく「時そば」も、明治の中期かそれ以降に作られたものであろう。

時そばの背景となっている時代の食生活について考えておこう。江戸幕府が開設された当時は、ここに住んでいた人口はそれ程多くはなかった。ほとんどが西の方から移り住んで来た人ばかりである。もっと正確に言えば、元来、現在の関東地方やその以北はアイヌ民族が住んでいた場所であった。西日本に渡って来た大和民族は、次第にその勢力を東に広げ、先住民であったアイヌ民族を追い出して自分たちの居住地にしてしまったのである。徳川家康の役職である「征夷大将軍」とはアイヌ民族を討伐する将軍という意味である。

新しく開かれた江戸の地は移住して来た人によって人口が急増した。そして移住者の多くは男性である。このため、この頃の江戸の市中では、男性に比べて女性の数が極端に少ない社会であった。従って、江戸の町に住む一般庶民のほとんどは独身者であった。長屋での独り暮らしがこの頃の一般的な姿であった様だ。

このため、自宅で食事を作るといった事はほとんどなく、外食生活をするのが普通であった。現在でも中国や東南アジア地域では屋台で様々な料理を商っており、これを利用する外食が一般的な地域も少なくない。また現代の日本でもコンビニエンスストアやファーストフードショップで外食をするケースが増えている。江戸の市中はまさにその様な社会であったらしい。

「時そば」の中に出て来るそば屋も、そういった外食提供者の一つであったわけである。店を持った飲食店もなかった訳ではないが、屋台の天秤を担いで売り歩く商売が大いに流行っていた様だ。そば以外にも寿司や丼もの、鰻の蒲焼き(当時は丸切りにして串に差して焼いた。ガマの穂の形なのでこの名ができたと言う。)なども売られていた。

そば屋について言えば、「夜鷹そば」、「二八そば」などと呼ばれていた。夜に売り歩くので「夜鷹そば」、あるいは夜鷹(娼婦)が利用したので夜鷹そばと言われたとも言う。そば粉2割にうどん粉8割、あるいは代金が16文なので「二八そば」と言われたとも言う。また、屋台の四隅に風輪が下がっていたので「風輪そば」と呼ばれたとも言う。時そばの枕にもこれらの話とともに、「親バカチャンリン、そば屋の風輪」などといった言葉が登場する。

時そばの中ではそばの代金は16文とされているが、当時の資料によると必ずしも16文ではなく24文から32文までの価格帯があった様だ。これはメニューによる価格差あるいは時期による相場の違いがあるかも知れない。
そばを始めとするこれらの売り歩かれている食べ物は、間食として利用されていたのではなく、通常の食事であった。ただし、江戸の市中でこれらを利用する一般町民の多くは、食事時間が決まっておらず、適当な時間を見つけて食事を取るといった不規則な食生活であり、また1日の食事の回数も、5〜6回であったり、人によって様々な様である。

「時そば」の内容から読み取る「しっぽく」のイメージ

それでは「時そば」に語られているやり取りの中から「しっぽく」のイメージをつかんでみよう。

台はそば

そば屋さんの用語であるが、そばあるいはうどんの麺だけの部分を「台」と呼ぶ。てんぷらそばは、そば台にてんぷらを載せたものといった概念である。時そばに出て来るしっぽくは、そのやり取りから、台はそばである事は間違いない。

載っている具材は

しっぽくについての一番の関心事は、そばの台になんの具材が載っているかである。実は時そばの中ではこの一番重要な部分がはっきりと語られていない。噺に出て来る具材はちくわだけである。

このやり取りは江戸市中を売り歩いている二八そば屋と客との話である。そして、この話の下げに出て来る様に時刻は「九つ」つまり今で言う夕方の5時頃である。また話の中に「今日は寒いな」という言葉があるので、どうやら冬の季節の様である。

この噺に出て来る「花巻」「しっぽく」であるが、これはそばの名前である。このうちの花巻そばは今でもそば屋のメニューに時々見掛ける。だが、しっぽくの方は一度も見掛けた事がない。噺の中で「熱くしてくれい」と言っているので、そば台はかけそばらしい。また二八そば屋が商うそばだから、それ程特別のこしらえのそばとも思えない。

また「出来ますものは花巻にしっぽく」と2つを挙げている所を見ると、このそば屋はこの2つのメニューを商っていた様だ。という事は、当時としては花巻としっぽくが代表メニューだったのかも知れない。今のそば屋でどこにでもあるメニューと言えば「もり」と「かけ」である。現代の駅そばではてんぷら(かき揚げ)そばが代表的なメニューだ。噺の時代のそばのメニューとしてはごくありふれたメニューだったらしい「しっぽく」とは一体どの様なそばだったのだろうか。

筆者が「時そば」を聞いたのは小学校時代である。もちろんラジオ放送の演芸番組で聞いたものである。以来、この時そばに出て来るしっぽくとはどの様なそばであるのかが長らくの疑問だった。

「しっぽく料理」と「しっぽくそば」

長崎には「しっぽく料理」がある。長崎は海外との通商の窓口であり、おそらく、海外から洋風料理や、中華料理などが伝わって来ていた事であろう。これらの海外の料理の特徴を取り入れて、日本風にアレンジしたものがしっぽく料理と言える。

筆者は実際に食べた事はなく、文献知識だけで恐縮であるが、洋風料理を取り入れたものだった様で、テーブルは現在の中華料理の様な丸テーブルに椅子であった様だ。人数分の料理を載せた皿が丸いテーブルに所狭しと並べられている写真だけは見たことがある。
現在、「無国籍料理」と称して、様々なスタイルの料理を寄せ集めた居酒屋風の店が若者に人気である。おそらくしっぽく料理もその様なものではなかったろうか。

さて、ここでのテーマは「しっぽくそば」なのだが、しっぽくそば以前にしっぽくうどんがあったらしい。これは大きな平ざらにうどんを盛り、その上に様々な具材を散らせたうどんだった様だ。そしてこれからヒントを得てというか、うどん大をそば台に変えたものがしっぽくそばとして江戸に登場したようだ。

その具材には、松茸(当時は安かった)、しいたけなどを始め、様々な具材が載せられていたらしいとの事。もちろん竹輪や麩なども入っていたのであろう。

このしっぽくそばがなぜなくなったかについては、良く分らないが、一説には「おかめそば」に変わって行ったとの説もある。おかめそばは、今の様に単に具材を載せてあるだけではなくて、「おかめひょっとこ」のおかめの顔の様な形に具材を並べたものだったそうである。いつしかこれが単に具材を並べるだけのおかめそばになり、やがては同じく様々な具材を載せていたしっぽくそばとの区別がなくなっていったのではなかろうか。

因みに、「しっぽく」を漢字では「卓袱」と書く。そしてこれに「台」を付けて、「卓袱台」と書くと、「ちゃぶだい」と読む。今は見掛けなくなったが、昭和30年代の日本の茶の間には、卓袱台が置かれていたものである。