<今月の言葉:2003年7月>
汝の敵を誇りとすべし、しからば敵の成功はまた汝の成功なり
ニイチェ/新渡戸稲造
<意味も無く(^^;)今月の花:菖蒲> |
このページは当HPの管理者が月々徒然なるままに 他愛も無いことを書き連ねるページです。とはいっても、 どーしようもないことは普段掲示板に書き散らしているので、 古(いにしえ)の識者・賢人のお言葉を借用しながら、 少しはもっともらしいことを書くことになっとります。 さて、今月7月はマスターズスイマーの大会の 総本山・ジャパンマスターズが開催されます。 そこで今回はこの言葉を取りあげてみました。 新渡戸稲造博士が著書『武士道』の中で 引用した言葉です。 それにしても今月のこの言葉は 有力選手の隣でコバンザメのように泳ぐことを 得意とするうちのチームにはとても なじめる言葉ですね。 「隣の選手を誇りとすべし、しからば 隣の選手の好タイムはまた 汝の自己ベストなり」。 うーみゅ、なるほど。そのとおりだ・・・。 しかし、この解釈で終わりにしてしまうと ニイチェ先生や新渡戸先生が管理者・のんぶれすの 枕元にあらわれて「あのなあ・・・」と みっちりお説教をたれるに違いありません。 これは寝不足の身にはかなり応えるので ちゃんと言葉の本来の意味を考えてみましょう。 |
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1.武士道のおはなし そのむかし、日本人がカッコ良く生きることにすべてをかけている時代がありました。 その「カッコ良く」の基準は、”武士道”と呼ばれる、不文・慣習的でありながら 極めて絶対的なルールでした。 ”武士道”とはなにか? 平安時代後期に力のある農民が自らを守るために武装し”武士”となりました。 ・・・・と日本史の教科書のように書くとピンときませんが、 要は西部開拓史に出てくるカウボーイ達が自分の牧場を守るために自ら銃を持ち 「シェーン」とか「真昼の決闘」とかジョン・ウェイン主演の映画になった あれと同じです。 最初の武士も似たようなもので、そういった武士(武装農民)達の間で少しずつ育まれてきた 道徳律が”武士道”と考えてほぼ間違いないようです。 戦うにあたってそもそも最初はノールール、つまり無法地帯。ところがそのうち、強いものたちの間に 共通的な美意識が生まれてきました。それが、「戦場におけるフェアプレー!」であり、 また皆の記憶に残るほどの武勇・剛勇でした。 そして、そういったことで名を残す剛の者は敵・味方を問わず賞賛され伝承されました。 ちょっと具体的な事例をあげましょう。 たとえば、故司馬遼太郎さんが『街道をゆく42・三浦半島記』の中でとりあげた 鎌倉権五郎景政(ごんごろうかげまさ)とその子孫の例が、平安・鎌倉期の武士文化の雰囲気を わかりやすく紹介しています。 鎌倉景政は平安後期の人物で、その名のとおり鎌倉のあたりを所領としていました。 この人は、以下の勇猛なエピソードにより五霊社という神社の神様として 今日に至るまで祀られています。 平安後期に起こった後三年の役に、鎌倉景政はいとこの三浦為継といっしょに参加し、 金沢の柵と呼ばれる砦の攻撃に参加して勇猛果敢に戦うのですが、 景政は敵の矢に右目を射抜かれてしまいます。 それでも景政はそのまま戦い続け味方の本陣へ引き上げてきます。 以下、司馬さんの文章を引用させてもらいましょう。 ・・・三浦為継が気遣い、あとを追った。景政は馬からずり落ちて倒れた。 「手負うたわい」 と、為継にいった。為継は矢を引きぬいてやるべく、景政の顔の片方に土足をのせ、矢柄(やがら)を つかみ、踏んばろうとすると、下の景政がにわかに刀をぬき、下から為継を突こうとした。 為継は跳びのいた。 怒ったのは、景政のほうだった。 「面(つら)を踏むな」 そう怒鳴り、さらにいった。 「矢にあたって死ぬるは、武者の本懐だが、面に土足をかけられるのは、あってよいことか。 いまからは、汝こそが敵だ」 為継はあやまり、景政のそばに膝をつき、片膝をもって権五郎の片頬をおさえ、 やっと矢をひきぬいた。その間、景政は声もあげなかった。 それだけの話である。 その後、権五郎景政がどのような生涯を送り、いつ死んだかなどは、少しも伝わっていない。 関東における武士の形体(ぎょうたい)とは、それでよかったのである。 ただ、一事に賭けた。 たとえば、過ぎし合戦においてたれが宇治川の先陣をなしたとか、 屋島のくだりで、扇の的を射ぬいたのは、那須高原から出てきた余一という者だったといったふうに、 一瞬の形体のあざやかさのために、かれらは命を賭けた。 その後、鎌倉時代初期に鎌倉権五郎景政の直系子孫として登場するのが 梶原景時・景季(かげすえ)父子です。梶原景時はボスである源頼朝にいろいろ告げ口をして 嫌われたため大河ドラマ等では悪役的に扱われますが、それでも鎌倉武士としては勇猛でした。 また、嫡男景季はなかなかの爽やかな好男子だったらしく、戦いの際に背中につけて 予備の矢を入れておく箙(えびら)に梅花一枝を挿して戦ったのがとってもオシャレで 敵味方どちらの間でも評判となりました。 #『先行逃切』帽子のビジュアル系サブT氏の大先輩みたいなもんですかね(笑) この景時・景季父子は一ノ谷の戦いのときに二度の駆け、つまり戦闘のあと一旦自陣へ帰還してから 再び戦場へ駆け入ることをしました。これはなかなか勇気のいることで評判になりました。 #水泳にたとえれば、横浜港のヘドロの海で続けて2レースするようなもんでしょうかね。 #Opus21の方々はさすがに強者揃いなので皆さんやりましたが、サブTさん、やってみます?。 #君の名はチーム内で語り継がれると思うヨ。もちろんボクは見ているだけにしますが・・・(笑)。 その後、景時・景季は滅ぼされてしまうのですが、梶原を名乗るものはわずかに残り、 室町初期の『太平記』の中にも登場します。梶原孫六と梶原弾正忠(だんじょうのちゅう)という者です。 足利尊氏の元でちょっとした合戦に参加するのですが、負け戦となり みんなと一緒に逃げることになりました。しかし、この二人は逃げながら 「鎌倉権五郎の子孫であり、梶原景時・景季の子孫である自分たちがこのていたらくとは・・・」 と情けなく思ったらしい。以下、ふたたび引用です。 『太平記』の作者は、二人の気持ちを、『ドン・キホーテ』のセルバンテスほどの皮肉ではなく、 多少の愛をこめて、 「後代ノ名ヲヤ恥タリケン」 と、書いている。 二人は思いかえし、ただニ騎だけでだけで、勝ちに乗る敵軍の中に駆け入ったのである。 敵軍に揉まれるうち、ニ騎は離ればなれになった。 そのうちの梶原孫六は、敵の三騎を斬りおとし、裏道をたどって西宮ノ浜に出、 小舟に乗って味方のもとに帰った。 梶原弾正忠のほうは馬けぶりをあげて戦ううち、藤田小次郎と猪股弾正左衛門というニ騎に 取りこめられ、ついに討たれた。 「アハレ剛ノ者ヤ」 と、『太平記』のなかで、藤田・猪股に讃えさせている。 せめて名を知りたいと思って死体を見ると、 「梅花ヲ一枝、折リテ箙(えびら)ノ上ニ著(つけ)タリ」とある。 「サテハ元暦(げんりゃく)ノ古(いにしえ)、一ノ谷ノ合戦ニ、二度ノ懸ケシテ名ヲ揚ゲシ 梶原平三(へいざ)景時ガ、其末(そのすえ)ニテゾ有ラント」 二人はそう思い、名乗らずともこの死体が梶原姓であることがわかった、という。 いかにも儚(はかな)げな挿話ながら、鎌倉の風は、このようにして各地に広まって行ったのである。 まあこんな感じだったんだそうですな。自分自身や自分の一族の名誉のために 命がけで「カッコよく」ふるまおうとする、そしてそれをやったものに対しては たとえ敗者であろうと敵味方をとわずほめたたえ名を記憶にとどめようとする。 これが武士道の基本姿勢のひとつとなりました。 そして室町・戦国時代にもこういった精神は引き継がれ 敵とは激しく戦うが、立派な相手に対してはそれにふさわしい敬意をもつ、という姿勢になります。 そして江戸期に道徳律としての武士道は完成され、日清・日露戦争の頃までその余韻を残しました。 #こういう話に比べると昨今の中東での戦争はロマンも情けもあったものではありませんね。 2.新渡戸稲造博士の『武士道』 武士道は江戸時代に完成され武士階級のみならず一般庶民の道徳・礼儀にも深く影響し、 幕末・明治初期の頃には日本人の道徳となっていました。 この日本人独自の道徳律・武士道を欧米人に紹介したのが明治の新渡戸稲造博士でした。 新渡戸稲造・・・・「にとべいなぞう」と読みます。念のため(笑)。 この人、ナニモノですか?、という声が聞こえてきそうですね。 まずは肖像画を見てみましょう。この人のもっとも有名な肖像画はやはりこれでしょう。 →肖像画 わかりましたね。もうすぐ樋口一葉と交代するらしいです。 登場時に「この人だれ?」ということでずいぶん話題になりましたが、 この人の伝記を読むと、けっして一万円や一千円の人たちに劣らない、 というよりそれ以上かも、という役割を日本近代史に果たした人物だということが判ります。 #そのへんのところは長くなるので省略しますが、星新一著『明治の人物誌』(新潮文庫)を #読むとわかります。ご参考まで。 『武士道』という小冊子は、博士が38歳(ゲゲ、俺とおない歳じゃん)のときに、 病気療養中の米国で書いたもので、博士自身が受けた武士道教育をベースに 欧米の歴史や名言・格言と対比しながら理解しやすい論理的な文章で、 武士道を紹介しています。原文は英語です。名著です。刊行当時からたいへん評判になり 他の言語にも翻訳され各国で広く読まれました。米国のセオドア・ルーズベルト大統領が これを読んで深く感動し、そのせいもあって日露戦争の講和会議を主催してくれたのは 有名な話です。 ちなみに、日本では、矢内原忠雄氏が昭和13年に翻訳したものが 今でも岩波文庫で出版されています。 『武士道』の中で、博士は武士道の起源、武士道の主な徳目などを格調高く&わかりやすく 述べていますが、その中で好敵手に対して敬意をもった態度をとる事例を 武田信玄・上杉謙信の例であげています。 ブルトゥスの死に際しアントニウスおよびオクタヴィウスの感じたる悲哀は、 勇者の一般的経験である。上杉謙信は十四年の間、武田信玄と戦ったが、 信玄の死を聞くや「敵の中の最も善き者」の失(う)せしことを慟哭した。 信玄・謙信はそれぞれ最大最強のライバルでありましたが、同時に相互に敬意をもっていました。 『武士道』には書かれていませんが、信玄の方も死に際して跡継ぎの武田勝頼に対して 謙信を褒め「よろしく援助を乞うて、もって国を託せ。彼はひとたび委託を受けなば、 決してわれを侵すことあるまじ」と遺言したそうです。 さらに、『武士道』では続けて有名な「敵に塩を送る」のおはなしを紹介しています。 敵に塩を送るとは、御存知の通り戦国時代に敵対関係にある甲斐(山梨)の武田信玄に 対して越後(新潟)の上杉謙信が塩を送ったという話です。 甲斐の国には海が無いので生活必需品の塩を相模(神奈川)から入手していました。 ところが、相模を支配する北条氏は塩を甲斐へ運び入れることを禁止してしまいます。 それで名将・武田信玄も頭をかかえてしまうわけですが、ここから先は 『武士道』から引用しましょう。 謙信は信玄の窮状を聞き、書を寄せて曰く、聞く北条氏、公を困(くるし)むるに 塩をもってすと、これ極めて卑劣なる行為なり、我の公と争うところは、 弓箭(ゆみや)にありて米塩にあらず、今より以後塩を我が国に取れ、 多寡ただ命のままなり、と。 これはかの「ローマ人は金をもって戦わず、鉄をもって戦う」と言いしカミラスの言に比して なお余りがある。ニイチェが 「汝の敵を誇りとすべし、しからば敵の成功はまた汝の成功なり」 と言えるは、よく武士の心情を語れるものである。実に勇と名誉とは等しく、 平時において友たるに値する者のみを、戦時における敵としてもつ べきことを要求する。 今月のジャパンマスターズ、いろんな人がいろんなレースに参加しますが、 お互いスタート台に立ったら良き競争相手として全力で競い合い、 同時に、プールサイドや観客席で会うときは良き友人として接しましょう。 また、がんばった人に対してはお互い敬意を払い惜しみない賞賛をおくりましょう。 わたしたちも広い意味では鎌倉権五郎景政や梶原景時・景季、 あるいは武田信玄・上杉謙信といったヒーロー達の末裔なのですから。 見た目も立ち居振る舞いも「カッコよく」です!。 今月の言葉は以上です。 P.S...今回は長文癖がモロ出てしまいとっても長くなってしまいました。 次回はもうちょっと短くしますね。ゴメンナサ〜い(_o_;;)。 (補遺) 今回は下記の書籍を参考にしました(引用も)。興味のある人は読んでみて下さい。 ●『武士道』 新渡戸稲造著/矢内原忠雄訳 岩波文庫 ●『街道をゆく 42 三浦半島記』 司馬遼太郎著 朝日文芸文庫 ●『明治の人物誌』 星新一著 新潮文庫 ●『徹底分析 川中島合戦』 半藤一利著 PHP研究所 |
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