<今月の言葉:2004年5月>
崇高から笑止への距離は一歩だ
ナポレオン・ボナパルト
<意味も無く(^^;)今月の画像:ヒマワリ> |
このページは当HPの管理者が月々徒然なるままに 他愛も無いことを書き連ねるページです。とはいっても、 どーしようもないことは普段掲示板に書き散らしているので、 古(いにしえ)の識者・賢人のお言葉を借用しながら、 少しはもっともらしいことを書くことになっとります。 さて、うちのチームの日本マスターズ短水路が終わました。 今回はメダルを取れたメンバーが多く、中には気が抜けたように ジャグジーに浸ってばかりのメンバーも出てきているですなあ。 でも次の大会はそーはいきませんよ!、ということで、 ここはネジを巻きなおす意味もこめてこの言葉です。 英雄・ナポレオンが栄光の座から転がり落ちはじめたときに つぶやいた言葉です。 |
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1.ナポレオン この人は有名すぎるくらい有名ですなあ〜。 「世界史において”英雄”と呼ぶにふさわしい人物を3人挙げよ」というアンケートがあれば 間違いなく入るでしょう。なにしろかの楽聖ベートーヴェンがこの人に捧げようとして作った交響曲が 第3番「英雄」というくらいです(個人的に好きな曲のひとつ(^^;;))。 ちなみに他に2人あげるとしたら、アレクサンダー大王ともう一人・・・この最後の1議席はちょっと 激戦になるでしょう(ジンギスカンあたりが有力候補だけど欧米人は忌み嫌っているんだよね・・・)。 それから、ナポレオンは名言をたくさん残したことでも有名。 「世界の名言」みたいな書籍でこの人の言葉が出てこなかったら不良品と言っても 良いかもしれません。 よく出てくるのが、 「余の辞書に不可能という文字は無い」。 うーん、しかしなんでこれが名言なのかな???。酔っぱらいの放言じゃあるまいし。 あともうひとつ有名なのがエジプト遠征の際の言葉 「兵士たちよ、四千年の星霜はピラミッドの上からまさに諸君の働きを見おろしているぞ!」。 うーん、これもピラミッドの見える戦場で士気を盛り上げる時の言葉としては有効でしょうが、 平和なときにこの一文だけ見ると「ふーん、だからどーした」とツッコミを入れたくなります。 と、こう書くとナポレオンってタダの見掛け倒し野郎じゃん、と思ってしまいますが、 それは違います。彼の伝記を読むと間違いなく天才・不世出の英雄という感想をもちます。 (名言だってもっと含蓄のあるものを残しています)。 まあ、あまり急がずまずは彼の生涯をざっとなぞりましょうか。 よく知らない人も結構いるでしょうから。 (1)フランス革命と青年司令官ナポレオンの誕生 ナポレオン・ボナパルト、1769年8月15日コルシカ生まれ。 1769年というと、日本では八代将軍吉宗の享保の改革と老中松平定信の寛政の改革に はさまれた時期です。 ん、8月15日?、この日はよく聞くなあ・・・と思ったら日本がポツダム宣言を受諾した終戦記念日。 ナポレオンが生まれた日に日本は降参したんだー、と思ったけどこれは単なる偶然ですね(^^;;)。 コルシカはフランスの中では田舎です。田舎モン(だけど天才)が出世するとしたらその答えは ・・・”軍人”になることでした、当時は。 ナポレオンはブリエンヌ幼年学校を経てパリ士官学校へ。 天才ですから全科目楽勝。特に得意だったのが数学。 数学が得意なので砲兵士官の道を歩みます。 ほんで1785年(16歳)で少尉となりヴァランスに勤務するのですが、 所詮は田舎モン、平和な時代なら歴史に名前を残さず生涯を終えたでしょう。 ところが、1789年(20歳)のとき、大事件勃発、フランス革命です。 革命というものは流血の混乱がつきものなのですが、フランス革命は特にそれが顕著。 ・革命をまっとうな形で進めようとする穏健派、 ・革命をチャラにしてもとの王政に戻そうとする王党派、 ・革命の理想に燃えた急進派、 これらが入り乱れて三つ巴の争いを展開します。 このうち、歴史的に見てどこの革命でも一番ヤバイのが・・・実は理想主義急進派だったりします。 フランス革命の場合、ゴタゴタの中で政権を握った急進派がロベスピエール率いる ジャコバン派。ちょっとでも反政府的な言動をする人を片っ端から捕らえてギロチンにかけました。 有名な「恐怖政治」の時代です。 一方、フランスの周囲の国々は民衆が起こした革命が自国でも起こることを警戒して フランス革命潰しに走ります。プロシア、オーストリア、ロシアなどがそうですね。 あと、英国も古来からフランスのライバルなので当然反フランスです。 さて、こうした革命の混乱の中で、ツーロン軍港が革命政府に反抗し艦隊を引き渡すことを条件に イギリスの救援を求める、という事件が発生しました。放っておけば英国の支援の下で 反革命勢力がツーロンに集結して大騒ぎになってしまいます。 ここで、ナポレオン(当時24歳)に白羽の矢がささります。 ツーロン港攻囲戦の砲兵隊長として攻撃の指揮をとり作戦成功、 ツーロンを奪回し一躍ヒーローとなります。 そんで功績を認められ翌年には25歳の陸軍少将となりイタリア方面軍の砲兵司令官となります。 ところが人生山あり谷あり、パリでテルミドールのクーデターという事件が発生し、 恐怖政府の中心人物・ロベスピエールは失脚し自らギロチンにかけられます。 このとき、ナポレオンも仲間だったということで2週間投獄されます。 ナポレオン自身は恐怖政治とは無関係なのですが、 この政権の中で出世したため仲間扱いされました。 ところが翌1795年、今度はパリで王党派を中心にしたヴァンデミエール叛乱というのが発生。 これを抑えられるのはナポレオンしかいない!、という感じで引っ張り出されて 電光石火の切れ味で叛乱鎮圧、この結果、穏健派の総裁政府が成立し ナポレオンは国内軍総司令官という大出世。 そんで1796年、敵対するイタリアを相手にイタリア遠征軍司令官として出陣します。まだ27歳。 各地で見事な作戦指揮を見せ大戦果をあげます。
(2)ナポレオンの結婚 ところで話が前後しますが、この年、サロンの花として人気絶大だったジョセフィーンと結婚。 ナポレオンは結婚式の2日後にイタリア戦役に出発したわけです。 ちなみにナポレオンは相当恋多き人物でした。ジョセフィーンに出会うまでもかなり深い恋を 何度かしています。まだ20代なのでとにかく激しい。ナポレオンがジョセフィーンに送った手紙の一節。 『貴女のことばかり考えて眠れません。貴女の絵姿と、昨夜のただれるばかりの陶酔の記憶が 私の全身をしびれさせ、官能をかき乱して、もの狂おしくするのです。 ・・・(こんなゴタクが延々と続くので中略(笑))・・・・・ あと三時間もすれば、また、お会いできますね。それまで、では、愛する貴女に千回の接吻を。 でも、貴女は私に接吻しないで下さい。接吻されたら、それこそ、私の血管は爆発してしまうから!』 こんな手紙をナポレオンは軍務の合間に何百通も書いて送っていたんだそうな。。。(ちょっと笑える) ところが、ジョセフィーンも結構浮気癖があったらしく、ナポレオンが出征中に他の男と恋仲に。 いくらナポレオンが狂わんばかりの熱烈な手紙を送っても返事を書きません。 ナポレオンは気が気でなくなります。彼は進軍中にジョセフィーンの肖像画のガラスを 軍服のポケットに入れて一日に何度となく接吻していたそうですが、 とうとう突然、粉々に壊れてしまいました(接吻しすぎじゃないかなー)。 この瞬間、顔面蒼白となったナポレオンは馬の手綱をしぼり、副官を顧みると 「見ろ、粉々になった。妻は病気か不貞か、どちらかだ。よし、全軍突撃だ!」 これで敵軍を木っ端微塵に粉砕(笑)。 いやはや、さかりのついた天才を相手に戦争するとロクなことはありません。。。。 (3)エジプト遠征 ということで、イタリア戦役で赫々たる手柄をたてて凱旋帰国したナポレオンは既にスーパーヒーロー。 次はエジプト遠征に出かけます。大艦隊を率いてアフリカ大陸に上陸、 そしてカイロに向かう途中、エジプト軍のマムルーク騎兵が殺到してくるのですが、 29歳の将軍ははるかなピラミッドを指して叫んだのが前記の言葉、 四千年の歴史が云々、というやつです。とにかく陸戦では負けない。 ところが、エジプトという屋根に上ったナポレオンの梯子を外して(壊して?)しまう人物が 現れます。『今月の言葉2003年6月』で紹介済みの英国海軍の名将・ネルソン提督です。 彼の率いる英国艦隊がアブキール湾の戦いでフランス艦隊を撃滅、 地中海の制海権は英国のものとなります。 こうなるとナポレオン側は苦しい。なんせ補給は途絶えがちになるし、 フランス本国との通信はすべて英国の検閲(?)を通る羽目になります。 笑える事実として、なんとナポレオンがジョセフィーンに送った山のような恋文も すべて英国側に筒抜け、という状態です。 #きっとみんなで楽しく読んだんだろうな〜(笑) 結局、にっちもさっちもいかなくなったナポレオンは本国での政治的な立場がヤバくなる前に さっさと単身帰国。遠征軍はエジプトに置き去りで実質的な成果はゼロ。 つまりエジプト遠征は失敗なのですが、ここは天才ナポレオン、 文才があるので「大会エピソード(エジプト)」を見事な文章で書き上げ、 あたかも大成功だったように宣伝するわけだ。こうしてスーパーヒーローは嘘の凱旋帰国。 常勝将軍ナポレオン還る、の第一報に接してある有名な国会議員は感激のあまり卒倒急死、 という騒ぎになる始末。。。(事実です) #ちなみにフランスにとっては成果ゼロでしたが、考古学史上は重大な成果がありました。 #ナポレオン軍が持ち帰ったロゼッタストーンを語学の天才シャンポリオンが解析して #古代エジプト文字が解明されるわけですな。ちょっと余談。 (4)ナポレオン、政権を握る さて、帰国してみたものの、当時の総裁政府は無能なうえに汚職がはびこり だらしがないし人気も無い。相変わらずフランスの政情は不安定。 すでに人気のあったナポレオンは軍を率いてクーデターを決行、 臨時統領、さらにそのあと第一統領に就任します。フランス市民は大歓迎。 政権を握ったナポレオンは、このあと驚異的なパワーで新時代の建設に没頭します。 一日十八時間ぶっとおしに働いても全然平気、知らないことはすぐ質問し、 答えを聞いてすぐ本質を見抜き専門家もおどろく的確な指示を出す、 記憶力も抜群で陸軍大臣が沿岸の防備状況を報告すると、○○海岸の大砲が 二門故障していたがあれはどうなった、と追及する始末。 行政組織を再建し警察制度を整備し国立銀行を設立し、、、とどんどん近代化を進めます。 有名な『ナポレオン法典』もこのときに編纂されます。 本当にこの時期のナポレオンはフランス革命後のスーパーヒーローといえます。 この時期、ナポレオンとジョセフィーンの夫婦関係も安定期に入ります。 ナポレオンの妻に対する姿勢も以前の異常な感じは影をひそめ普通の夫の愛情となり、 妻のジョセフィーンもファースト・レディーとしてナポレオンを背後から支えます。 ナポレオン政権には、外相タレイラン、警視総監フーシェ(秘密警察を発明します) など異色の政治能力をもっているけど油断できない連中がいるのですが、 社交性抜群のジョセフィーンがうまくこういう連中を手なづけます。 そういう状況で、敵国オーストリアがイタリアを奪い大軍をスイスに進めたので ナポレオンは二回目のイタリア戦役に出陣。 このイタリア戦役では、ナポレオンは周囲の意表をついて ジュネーブからアルプス山脈のサン・ベルナアル峠を突破するルートを選択。 これは無茶ではと心配する配下の将校を相手に言ったのが、かの有名な 「フランス軍の辞書に不可能という文字は無い」ということなんだそうな。 結局、アルプスを突破してイタリア平原に突入。 瞬く間にミラノを奪取して全欧州を驚嘆させます。、 結局、オーストリア軍をコテンパンに叩いて1801年オーストリアと講和が成立。 そのあといろいろあってイギリスとも講和が成立。 欧州に久々の平和が戻ってきました。
(5)ナポレオン、皇帝となる 平和になったところでナポレオンは考えました。 今の政府の安定はナポレオン個人の力量でなんとかもっている。 もしもナポレオンが戦死したり暗殺されたりしたら、 反革命勢力が息を吹き返して統領政府はたちまち崩壊するだろう。 そうならないようにするためには、ナポレオン施政の永続をはかるほかない。 つまり、世襲のみが反革命運動を阻止できるのだ、と。 というわけで、ナポレオンはまず終身統領となり、 1803年ついに人民投票で皇帝になります。 このナポレオン即位の知らせを聞いて激怒したのがベートーヴェン。 ナポレオンを革命の象徴と考えていたのだから、皇帝即位なんてとんでもない!。 書きかけの交響曲第三番の表紙を破り捨てて残った楽譜に書いた言葉が 「ある英雄の思い出のために」とかなんとか。有名な英雄交響曲の由来ですね。
(6)トラファルガー海戦とアウステルリッツの会戦 さて、ナポレオンが皇帝になってもイギリス、ロシア、オーストリアとの 敵対関係は続きます。特に元凶になっているのが反仏同盟の中心・イギリス、 ならば、ということでナポレオンは二十万の大軍をもって英国侵攻を企てます。 ところが英仏海峡で待ち構えていたのがまたまた登場のネルソン提督。 1805年10月21日のトラファルガー海戦でフランス艦隊をコテンパンに叩きのめし、 ナポレオンの英国侵攻策は水泡に帰します。 では・・・、ということでナポレオンは今度はロシア・オーストリア連合軍と アウステルリッツで対峙します。陸戦なら負けない。露墺連合軍に対して ナポレオンが実行した作戦は「陸戦における芸術」と評されるほどの見事なもので 十万の連合軍を完全に粉砕しこれによって反仏同盟も吹っ飛びます。 フランスは露墺に対して有利な条件で講和締結。 でもこのへんがナポレオンの伝記における絶頂期なんですなあ。。。。 (7)離婚 さて、こうしてナポレオンは栄光の絶頂に上りつめたわけですが、 そんな彼を背後で支えていたのは安定した夫婦関係にある妻ジョセフィーンでした。 美しく慈悲心にも溢れた彼女は国民からも「国母」として人気があり、 また社交性の高さを生かして内部崩壊の危険を内蔵するナポレオンの政権を 裏から支えていました。 ところが、ナポレオンの家族(母、弟、妹など)はジョセフィーンと不仲でした。 ナポレオンの家族、実はこれがナポレオンの大きな悩みでさんざん苦しめられます。 ナポレオンの出世の「おこぼれ」をがめつく要求し、ちょっと政治的な地位につけると いたるところで問題を引き起こしています。 スタンダールが評して曰く、 「ナポレオンには家族がないほうがましだった」。 そしてナポレオン夫婦にとっての不幸は子供ができなかったこと。 皇帝に世継ぎができないのは国家問題、ということで 1809年11月30日、ナポレオンはジョセフィーンを愛しているにもかかわらず 離婚することになります。 このへんからナポレオンの生涯は狂いはじめます。 ナポレオンはタレイラン公爵やオーストリアの外交官メッテルニヒの工作で プロシアのフランツ帝の娘マリイ・ルイズ姫と結婚します。 二人の間にはめでたく男子が誕生しますが、新しい妻のルイズは フランスとプロシアが敵対していたころにナポレオンを「悪魔」「吸血鬼」 なとど呼んでいた女。ナポレオンの足をひっぱりはじめます。 たとえばナポレオンが外交・軍事情報を妻に話してしまうと それがすべてプロシア、そしてオーストリアなど敵対関係にある国々に 流れていくわけですわ。 また、社交界での不平分子を手なづけていたジョセフィーンがいなくなったため ナポレオン政府も内部で怪しい反抗分子がうごめきはじめ不安定になっていきます。 (8)ロシア遠征の失敗 そんななかで、ナポレオンは英国と協力関係を持ちはじめたロシアに対して1812年 攻撃を開始します。有名なロシア遠征。60万の大軍を動員しての一大イベントです。 ところが相手のロシアは捨て身の奇計に出ます。 正面衝突を避けて撤退に次ぐ撤退、とうとう首都モスクワまでフランス軍に 渡してしまいます。 ナポレオン側はロシア軍に決定的な打撃をあたえられないままモスクワに入城。 そして夜になってロシア軍はなんと首都に放火、モスクワは4日間にわたって 燃え続け、町の4分の3が焼けてしまいます。 これでナポレオン軍は安心して寝る場所を奪われます。 そしてさらにロシアの冬がやってきます。 ロシア軍を追ってこれ以上深追いするのはウンザリだし、 モスクワに長居しているとフランス本国で誰が何をしだすかわからない、 そんな隘路に追い込まれたナポレオンはついに撤退を決断。 雪の中での撤退です。人馬が凍傷で次々と倒れるわ、 ロシア軍や住民がゲリラ的にナポレオン軍に襲いかかるわで 散々な目にあわされます。 やっと本国に帰り着いたナポレオン軍はわずか二千、 出発したとき六十万もいた大軍が還ったときには二千ですから 決定的な敗北です。このとき、ナポレオンがつぶやいた言葉が今月の言葉、 「崇高から笑止への距離は一歩だ」 常勝ナポレオン敗れる、の報に自信をもった敵対各国はいっせいに フランスに戦闘開始。さすがにナポレオンもお手上げ、 とうとうフランスは降伏し、ナポレオンは皇帝の座を追われ1814年に 地中海に浮かぶエルバ島に流されます。 (9)百日天下 エルバ島に流されたナポレオンですが、この段階ではまあそこそこの待遇で 「エルバ島皇帝」といった感じの暮らしができていました。 小市民志向の小生(のんぶれす)などは「まっ、こんなもんでいいか〜」という感じで あとは平和な余生を考えるのですが(笑)、英雄はそうはいかない。 対仏同盟各国が戦後整理のためにひらいたウィーン会議が 「会議は踊る、されど会議は進まず」(メッテルニヒ)でさっぱりまとまらないこと、 フランスの新政権・ルイ18世の政府が国民に不人気なこと、 これらを見てとったナポレオンは翌1815年にエルバ島を脱出、 兵を募りながら北上しついにパリに入城、ナポレオン政権復活、 後に「百日天下」と呼ばれる第二次ナポレオン政権がはじまります。 余談ですが、このときのパリの新聞はナポレオンが北上するにつれて どんどん表現が変わっていったことで有名。以下のとおりです。 「怪物、流刑地を脱出」、 「コルシカの狼、カンヌ上陸」、 「悪霊、グルノーブルを占拠」、 「専制皇帝、リヨンに入る」 「ボナパルト、北方へ進撃中」 「皇帝陛下、フォンテンブローへ入られる」 (10)ワーテルローの戦い、ナポレオンの最後 ナポレオン復活の報に内部分裂していた対仏同盟は直ちに再結束。 ブリュッヘル将軍率いるプロシア軍とウエリントン将軍率いるイギリス軍が ベルギーでフランス軍と激突します。 これが”西洋史の関ヶ原の合戦”として名高いワーテルローの戦い。 この合戦、FIAや新春マスターズと同様(?)に2日がかり。 1日目はナポレオンがプロシア軍を撃破。 ところが若い頃のナポレオンなら猛追してプロシア軍を再起不能に叩きのめすのですが、 この頃になるとナポレオンも健康がイマイチで追撃指令を遅らせてしまい プロシア軍は逃げ延びてしまいます。 そして2日目、ナポレオンはイギリス軍をギブアップ寸前まで追い詰めますが、 このとき息を吹き返したプロシア軍が戦場に再び現れナポレオン軍を側面攻撃。 ついにナポレオン軍は総崩れになり百日天下は終わりとなります。 いやぁ〜、惜しかった。これは勝てる試合でした。。。。 天才ナポレオンも最後にしくじったという感じです。 結局、ナポレオンは捕らえられ、二度と復活できないよう大西洋の孤島 セント・ヘレナ島に流されます。 そんでそこで囚人として幽閉されて生涯を終えることになります。 流刑地で体調を壊してついに臨終間際となった英雄ナポレオンの最後の言葉も結構有名。 曰く、「フランス!・・・軍隊!・・・軍の先頭!・・・ジョセフィーン!」。 英雄ナポレオンは1821年の5月5日(なんと「こどもの日」?!)、 51歳八ヶ月二十日の生涯を閉じたわけですわ。 前の奥さんをやっぱり愛していたんですなあ。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ というわけで、ようやくナポレオンの生涯のお話はおしまい。 いや〜〜〜〜〜〜、長かった・・・。 読む方も大変だったろうけど書くほうもシンドかったよ、今回は。 これでもずいぶんはしょって書いたんだけどね。 まったく英雄の生涯なんて書くもんじゃないね。 次回はもっと手短かに書けるネタにしよっと(笑)。 2.崇高から笑止への距離は一歩だ ということで、今月取り上げた言葉に話題を移す番ですが、 その前にちょっとばかしナポレオンの残した「名言」(のんぶれす選)をご紹介しましょう。 「余の辞書に不可能という言葉はない」なんてのに比べると ずっと含蓄があって言葉としても面白いと思うものです。 まず、ギリシャ古典悲劇やブルタアクの英雄伝を好んでいたナポレオンが ゲーテに言ったという言葉 指導者は古典的悲劇を鑑賞することによって、 反省の機会を与えられる ふーみゅ、なるほど。 ナポレオンが現代にやってきたら当然映画『トロイ』を観にいくだろうなあ。 それから彼がレジョン・ドヌール勲章を創設したときの言葉 勲章をオモチャだというなら、それでもよい。 だが、人間は案外オモチャに支配されるものなのだ。 海老名の大会でメダルをとって喜んでいるわれわれとしては 「まったくそのとおり」、と言わざるをえませんなあ〜。。。 それから軍隊司令官の心得について 作戦に欠陥があると思いながら実行してしまう指揮官は重大な誤りを犯している。 欠陥があると思う理由を述べ、作戦の変更を求め、 最後の手段として自分の兵隊を犠牲にするのではなく、 自分の職をなげうつ覚悟が必要だ。 これはお仕事でも適用可能な言葉です。 うーん、たしかに。 でもなかなか出来ないんですよね(^^;;)。 最後にナポレオンが息子に対して残した遺言の一節 君主の目的は統治することだけではなく、教育・道徳・幸福を普及させることにある。 眼を常に大衆に向けよ。 欧州は理性によって心服させるべきであって、剣によって征服すべきものではない。 なんだかんだいってナポレオンも真面目に政治を考えていたんだなあ、という言葉です。 ベートーヴェンもあんなに怒ることなかったんじゃないかなあ。。。。 そんで今月の言葉 崇高から笑止への距離は一歩だ 英雄ナポレオンが栄光の座から転落したときの言葉だけにちょっと重みがありますね。 日本的には『諸行無常、おごれる者も久しからず』ですが、 とにかく人生どこでつまずくか判りません。 少しばかりよい結果が出たからといってジャグジーで遊んでないで ちゃんと練習しないといけませんなぁ〜(^^;;)。 もっともナポレオンの場合、とりたてて油断や手抜かりがあったわけでもないので ある意味で上記の言葉は運命そのものを言っているのかもしれません。 まっ、小生も含めてほとんどの人は「崇高」と呼べるほどの立場にたつこともないので(笑)、 「笑止」の世界でほどほどに楽しく暮らしていきましょうか(^^;;)。 地道にやっていればたまには「崇高」にちょっと近い結果が出るかもしれませんからね、 特に田舎の大会では。。。 では、今月の言葉は以上です。 (補遺) 今回紹介したナポレオンの生涯は以下の文献を参考に書いています。 わりと面白いので興味のある人は読んでみてください。 加瀬俊一『ナポレオン その情熱的生涯』(文春文庫) ■余談1 相手を自国領に引き入れてから冬将軍を利用するのはロシア(およびソ連)の常套戦術。 第二次大戦でもナチス・ドイツがこの手にかかり崩壊します。 そういう歴史もあって以下のようなジョークが知られています。 イスラエルとの中東戦争に負けたエジプト軍の将校たちの会話です。 「われわれがイスラエルに敗れた理由がわかったぞ」 「なにがまずかったんだ?」 「原因は、われわれが学んだソ連の作戦教本にある。 こう書いてあるんだ、 ”まず負けたように見せかけ撤退せよ、敵を自国領に引き込め”」 「たしかにそう書いてあったな」 「・・・そして、”雪が降るのを待て”」 ■余談2 ナポレオンのロシア遠征を題材に作られた有名な曲がチャイコフスキーの序曲『1812』。 曲の前半はやや暗い雰囲気、戦闘をおもわせる激しいメロディーと随所に散りばめられた フランス国家「ラ・マルセイエーズ」の旋律でナポレオン軍の侵攻を表現し、 クライマックスのところで急に雰囲気が底抜けに明るく元気になって ロシアの皇帝の栄光を讃えるナントカという曲(名前を忘れました(^^;;))の ファンファーレ、そして本物の大砲までドンドンぶっ放す壮大なお祭り騒ぎでロシア軍勝利、 という曲です。たくさんCDが出ているので興味のある人は聴いて見てくださいね〜。 それからロシア遠征を題材に作られた有名な映画が『戦争と平和』。 旧ソ連がなんと国家の威信をかけてソ連正規軍まで大量に投入して製作した壮大な名画。 小生も以前に衛星放送でこの映画の一部分を観ましたが いやはやものすごい映画でした(特にすごかったのはボロジノの戦いを描いた部分)。 たいへんな大作なので興味のあって時間もある人はDVDを借りるなどして 観てみてくださいね。 |
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