<今月の言葉:2004年9月>
勝事(かつこと)ばかり知りてまくること知らざれば
害其身(がいそのみ)にいたる。
『東照公遺訓』
<意味も無く(^^;)今月の画像:テッポウユリ> |
このページは当HPの管理者が月々徒然なるままに 他愛も無いことを書き連ねるページです。とはいっても、 どーしようもないことは普段掲示板に書き散らしているので、 古(いにしえ)の識者・賢人のお言葉を借用しながら、 少しはもっともらしいことを書くことになっとります。 アテネ五輪も終わってそろそろ1ヶ月。 勝つべくして勝った人、 予想もしていない勝利をおさめた人、 以外にあっけなく負けてしまった人、 「なぜだ?」という負け方に沈んでしまった人、 などなどいろいろありました。 まっ、スポーツなんで 負けたからってどーということもない。 五輪だってまた4年後にあるもんね〜。 #かなり他人事モード(^^;;)。 そこで、今月は「負けたっていいじゃん」風の言葉、 というよりむしろ「負けも大事だよ〜」という 言葉です。 #ここんとこ負けっぱなしの小生には #とっても有難い言葉だったりする(笑) |
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ちなみに今回の言葉の出典は『東照公遺訓』。 有名な「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くがごとし・・・」 のフレーズではじまる東照大権現・徳川家康公のご遺言です。 #もっとも「人の一生は重荷を負いて云々」は、実は徳川光圀(つまり水戸黄門)の言葉だという説も #あるんだよね。そういえばあのドラマのオープニングもそんな歌詞だったような(笑)。 #まあ、ここでは家康公のお言葉ということにしておきましょう(^^;;)。 1.負け戦(まけいくさ)の研究 今月の言葉は「負け戦もたまには必要です」という意味です。 ふーみゅ、たしかにそうかなぁ、と思いつつ、 じゃあ平家は壇ノ浦で負けて滅亡したけどあれはどーなんだ?、 あるいは、関ヶ原で負けた石田三成はどーしてくれるんだ? という疑問もわいてきます。 やっぱり負けるのはイヤだよなぁ〜、と考えるのはごく自然。 が、東照神君大権現様は負け戦も経験しとかないと 「害其身(がいそのみ)にいたる」と断言している。 うーん、そうかなあ、と思いながら戦史をめくってみると たしかにそういうことも言えなくも無い。 というわけで、まずはいくつか戦史に残る”負け戦”を分析してみましょう。 1)砥石崩れ(1550年・武田信玄) 武田信玄といえば日本歴史上おそらくナンバー1の名将。 出家してスキンヘッドになる前の若き信玄(武田晴信)は山梨県から北上して 長野県の佐久郡あたりで村上氏の有力な防御線・砥石城へ攻撃をかけました。 当時すでにそこそこの智将ぶりを発揮していたヤング信玄クンですが、 ここは若さにまかせて強引な力攻め。 ところが相手は断崖絶壁の上に立つ難攻不落の要害・砥石城。 有力家臣・横田備中守をはじめとして多数の将兵を失う大失敗。 さらに敵方には周囲から援軍も駆けつけ、武田軍は総崩れとなって 山梨方面へ逃げ帰る羽目になりました。 本拠地に帰った信玄クンは大いに反省(あっ、どっかの反省会みたいに飲んだくれたわけじゃないよ)。 以後、敵の城を攻略する場合、可能な限り調略(金で相手を寝返らせる、など)で行う方針に切り替え、 さらに棒道(軍用道路)を敷くなどして信州方面への兵站線の整備なども行い、 二度と砥石城で見せたようなヘマはしないようになりました。 えっ、そのための調略や道路工事の費用はどこでまかなったんだって? そりゃ天下一の甲州騎馬軍団の武田ですから決まっているじゃないですか、競馬ですよ〜(笑)。 #これはウソ(^^;;)。金山経営で軍費をつくったようです。 2)桶狭間の合戦(1560年・今川義元) 天下号令のために京都へ向かう途中の静岡の雄・今川義元が桶狭間という隘路で 余裕たっぷりにお昼ご飯かなんか食べているときに、 ヤング織田信長に奇襲され戦死したということで有名な合戦。 ドラマなどでは、 今川義元は色白で歯を黒く塗るお化粧をしていて、まるでお公家さんみたいな格好。 逆に織田信長の方は褐色に日焼けしたジャニーズ系のカッコよい青年武将。 これだったら勝つのは当然信長だよね〜、という感じに描かれがちです。 が、最近の研究では、そもそも今川義元はそれまでに何度も重要な合戦できっちり結果を出している優等生。 けっして弱将・凡将のたぐいには入らない名将だったとのこと。 じゃあ、桶狭間でなぜ負けたんだ、ということになるけど、あれは不運の一語に尽きるらしい。 そもそも彼は桶狭間で油断していたわけじゃなくて、あの時の今川軍の布陣はそれはそれで 無難な手堅いものだったそうな。ところが当日昼頃にたまたま通りかかった驟雨(寒冷前線か?)で 今川軍の連絡ネットワークが一時途絶、そして織田軍の陣地のほうから順次雨がやんでいったので、 そこから戦闘開始。結果的に指揮系統不在の今川方は混乱して崩れた、ということらしい。 問題は、総崩れになったときの今川義元の対応。 優等生の彼は近習・旗本衆に護られながら後退を開始。一見、とても手堅いオーソドックスな逃げ方。 ところが、そこをたまたま近くの丘の上にいた織田方別働隊に見つかってしまい、 側面から奇襲され討ち取られてしまった、ということらしい。 優等生・今川義元クンはそれまで大きな負け戦を経験していませんでした。 したがって、初めての総崩れの中で致命的な判断ミスをしてしまった、というところです。 つまり、あの手堅い優等生的な逃げ方が実は誤りだったわけだ。 じゃあ、こういうケースにおいて義元クンはどう動くべきだったのか? そのお手本は彼を倒した織田信長が浅井・朝倉攻めの初期に見せました。 曰く、「馬に飛び乗り単身スタコラ逃げ去る」。 これなんだそうです。。。。。 3)ミッドウェー海戦(1942年・連合艦隊) 太平洋戦争の海戦後半年の間ほとんど負け無しの快進撃をしていた旧日本海軍の機動部隊が、 北部太平洋に浮かぶ米軍の小拠点・ミッドウェー島の近海で主力空母4隻を失う大敗を 喫したという戦史上チョー有名な海戦。 参加兵力では量も質も攻めていった日本艦隊が圧倒的だったにもかかわらず、 空母部隊の所在を先に米艦隊に発見されてしまい米軍側が先手で攻撃開始。 これを防ぎながら反撃準備をしていたんだけど、いろいろ不手際やら不運もあって とうとう致命的な空襲を受けてやられてしまったというストーリー。 この海戦については巷に敗戦原因を分析する文献が1ダース以上は優にあり、 また実際に現場で指揮をとっていた負け戦の張本人・源田実氏が手記を残しているので ここで細かく敗因を詳細に論及するのは少々気がひけるのですが(^^;;)、 まぁ、一番大きな敗因をあげればやはり 「半年の間、勝ち続けていたのですっかり気が緩んでいた」の 一語に尽きるでしょう。 たとえば有名なのが、 この海戦で日本側が犯した重大な失敗のひとつの「兵装転換の誤り」というもの。 これは、空母から発進する飛行機に爆弾をつむか魚雷をつむか、の問題。 相手が陸上基地なら爆弾だけど相手が艦船なら魚雷というのが基本線。 日本艦隊は、夜明けの段階では米国艦隊がいるかもしれないと思って魚雷を用意していたんだけど、 夜が明けても偵察機から連絡が無いので「じゃあ爆弾につみかえてミッドウェー島空襲へ」。 ところが積み替えが終わりに近づいた頃に偵察機から「敵艦隊発見!」。 あわてて魚雷への積み替えをしているうちに攻め込まれてやられてしまいました、というお話。 これは水泳の大会なら、 召集にいくときはロングジョンだったけど、召集所で気が変わってスパッツに変更、 でもスタート前にやっぱりロングジョンにしたくなってモタモタ着替えているうちに スタートになってしまいました〜!、という感じのかな〜りマヌケな話。 この兵装転換のミスを日本艦隊は2ヶ月前にインド洋での作戦でもやっており、 このときも実はかなり危うかったのですが英軍の爆弾が外れてくれたおかげで 負け戦にならなかった。このときちゃんと反省(飲み会ではない)をしていれば ミッドウェーでは大敗にはならなかったかもしれない。 #本当はもう少しいろいろ複雑な事情があるんだそうだが、ここでこれ以上長々と #書くのはシンドイので超ばっさりと。。。。(^^;;) 他にも偵察で手を抜いたとか、 機密保持が全然ダメで呉軍港近くの散髪屋ですら作戦の概要を知っていたとか、 そもそもの作戦に問題があったとか、 とにかくこの海戦については日本側は失敗だらけだったらしく、 半年の間ぜんぜん負けなかったことで溜まりに溜まっていた問題点が 一気に露呈した、という感じです。 権現様が見たら間違いなく「それ見たことか!」とお嘆きになったことでしょう。。。 というわけで、負け戦の事例を3つほどあげましたが、 1)砥石崩れは負けたけど致命傷に至らず教訓を生かして発展へ 2)桶狭間は初の敗戦で負け方(負け戦のときの対処の仕方)を誤り致命傷 3)ミッドウェーは連戦連勝の間に蓄積されていた諸々の問題が一気に噴出し致命傷 というところでしょう。 取り返しのつかない致命的な負け戦は絶対に避けないといけない、 でもそのためにはたまに負けて反省(繰り返すが飲み会ではない(笑))は必要、 というところが歴史に刻まれた教訓なんでしょうかね。 じゃあ、言葉の御当人・東照神君徳川家康公はどうだったかが次の話。 2.三方が原の合戦 三方が原の合戦は徳川家康が喫した生涯最大の負け戦。 1572年、京都への上洛を目指して西進を開始した武田信玄の軍勢が 家康の本拠地・浜松城の近くを通過。 相手は戦国最強と言われているから、家康としてはここはおとなしく城内にこもっているのが妥当。 ところが若い家康がじっとしていられず自衛権を発動。 それでやっぱりコテンパンにやられて命からがら逃げ帰ったというお話。 相当な負け戦だったらしく、近臣が身代わりになってくれなければ家康自身も死んでいただろうとか、 逃げる家康は恐怖のあまり馬上でウン●を漏らしてしまったとか(食事中の方、ゴメンナサイ)、 いろいろ逸話があります。 とにかくこの負け戦で家康は大いに反省したらしく、以後こういうギャンブル的な戦いは 二度としなくなったそうな。また、後に武田が滅んだときに武田の遺臣の再就職を積極的に受け入れて 戦国最強といわれた武田の兵法を吸収したらしい。 三方が原合戦はいちおー若き日の家康にとって真剣レースでした。 が、惨敗に終わったこの大会(合戦?)、 長い目で見れば関ヶ原という大一番に至る過程の”練習試合”だったととれなくもありません。 惨敗に終わった三方が原合戦の経験は 結果的には家康にとって一生モノの財産になったのは間違いありません。 というわけで、今回の言葉の教えるところをまとめれば、 ・勝負どころでは絶対に致命的な負けはしないこと ・そんで、致命傷に至らない範囲でなら多少は負け戦の経験も必要 ・あと、負けたらちゃんと反省しましょうね! ってことなんでしょう。 #マスターズの大会に絶対負けてはいけないレースなんてそもそも無いような気もするが・・・(笑) 今年の大会も残り数えるほどとなりましたが、 少々の惨敗レース・落涙タイムなどには懲りずに 今後も大会に積極果敢にエントリーしていきましょう (^O^)/。 最後に『東照公遺訓』の全文を掲載して 今月の言葉は以上です。 -------------< 『東照公遺訓』>------------------------- 人の一生は重荷を負いて遠き道を行くがごとし、いそぐべからず。 不自由を常とおもえば不足なし こころに望おこらば困窮したる時を思いだすべし。 堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもえ 勝事ばかり知りてまくる事を知らざれば害其身にいたる、 おのれを責て人をせむるな、及ばざるは過ぎたるよりまされり。 − 慶長八年正月十五日 − 人はただ 身のほどを知れ草の葉の 露も重きは落つるものかな ------------< おしまい >------------------------------- #なんだか神社のおみくじみたいだな・・・(笑) |
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