<今月の言葉:2004年10月>
私の業績のうち最も輝かしいことは、
妻を説得して私との結婚に合意させたことである。
ウィンストン・チャーチル
<意味も無く(^^;)今月の画像:バラ> |
このページは当HPの管理者が月々徒然なるままに 他愛も無いことを書き連ねるページです。とはいっても、 どーしようもないことは普段掲示板に書き散らしているので、 古(いにしえ)の識者・賢人のお言葉を借用しながら、 少しはもっともらしいことを書くことになっとります。 さて、今月は代表の電撃的(?)な入籍発表により 当初の予定(一応あるんだな(^^;;))を変更して 急遽選んだのがこの言葉です。 ナチス・ドイツを相手にした第二次世界大戦で 英国国民を粘り強くリードし続けた英国首相 ウィンストン・チャーチルの言葉です。 |
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1.ウィンストン・チャーチル まずはいつもどおり言葉の主のご紹介。 最も古い議会制民主主義国家である英国、この英国の歴代首相の中で おそらく最も有名なのがウィンストン・チャーチルでしょう。 なにしろ英国近代史における最大の危機・第二次世界大戦で 見事に「戦時のリーダー」として勝利をもたらした宰相ですからね。 しかも、演説が得意で文章も巧み、いわゆる「名言」をたくさん残し、 有名な「鉄のカーテン」という言葉も彼の作品(?)、 さらには『第二次世界大戦回顧録』でノーベル文学賞受賞。 これだけの結果を残しているから当然ヒーロー、なんですが、 かなり個性の強い人物だったらしく毛嫌いしている人も結構いるようです。 また、非常時のリーダーとしては抜群の働きをしたけど、平和時のリーダとしては 全然ダメだったんじゃないか、という指摘もあります。 チャーチルは1874年に由緒正しい貴族の家に生まれました。 お父さんは保守党の政治家ランドルフ・チャーチル。 ご先祖様には18世紀にスペイン継承戦争で大活躍した軍人・マールボロ公爵がいます。 陸軍士官学校を卒業したのちインドの反乱鎮圧やスーダン遠征に参加、 さらに従軍記者としてボーア戦争に参加。その際に捕虜になったけど見事脱出して 国民的英雄になったりします。 んで1900年に保守党の下院議員として政界デビュー。 でも1904年に自由党に移籍、 アスキス内閣で商務相(1908〜10)、内相(1910〜11)をつとめます。 でも1922年に自由党が大敗しチャーチル自身も落選すると1924年には保守党で再選、 ボールドウィン内閣(1924〜29)の蔵相となり、金本位制に復帰。 ちなみに彼が金本位制を復帰させた当時は大恐慌の真っ最中。 こんなときの金本位制はロクなことがない。 デフレーションと失業問題をひきおこし、その反動で起こったゼネストに対して 労働組合にきびしい態度をとったりしています。 経済学者のケインズなどは終生チャーチルを憎んでいました。 また話が前後しますが、1911年には海軍大臣として海軍の近代化に着手し、 軍事に明るい大臣として当時勃発した第一次大戦の海軍をひっぱります ・・・・のはずだったんですが、 彼が作戦につっこむクチバシはちょくちょくピントはずれのことがあり、 代表的なのが、敵国トルコを壊滅させようとしたガリポリ攻略作戦。 この作戦では、 トルコの首都イスタンブールを攻めるために地中海と黒海を結ぶダーダネルズ海峡に 多数の戦艦を突入させます。でも当時の軍艦は陸上砲台に比べて弱いんですなぁ。 陸上砲台は岩陰に身を隠してボンボン撃ってくるわけですが、 軍艦の方は海の上で丸見え。しかも狭い海峡に戦艦を突っ込むわけですから 身動きがとりにくいうえに機雷なんかも浮かんでいてチョー危険。 むかし宇宙戦艦ヤマトとかいうアニメがあって、ほとんど行きあたりばったりの主人公たちが ヤマトを敵の本拠地ガミラス星に突入させて散々な目に遭うんですが、 とにかく軍艦というのは敵地で狭いところに入り込んではイカンのです。 このかな〜り無茶な作戦に当然ながら本職・海軍軍令部は大反対。 でも海相チャーチルが強硬に実行、んで結果は? ヤマトは硫酸の海に潜って海底火山に波動砲を打ち込んで形勢逆転しますが、 英国艦隊はそういうアニメ的ご都合主義には恵まれず、戦艦3隻が沈没。 チャーチルは責任をとらされ海相を辞任。 その後、チャーチルはしばらく保守党政権の閣外にとどまっていました。 当時のチェンバレン内閣の英国は対独宥和政策でヒトラーに甘かったんですが、 チャーチルはこれを批判して軍備増強を主張します。 そんで1939年9月、ドイツとの戦争が始まると国民の強い支持を背景に海軍大臣に復帰、 さらに1940年5月にはチェンバレンの後をついで首相の座に着きます。 ここからチャーチルは戦時における「火事場のクソ力」を発揮します。 彼の功績はいろいろありますが、代表的なのは 1)ナチス・ドイツに対して一切の妥協をしなかったこと 2)積極的な現場視察や得意の演説で国民の士気を鼓吹し続けたこと 3)米国を味方につけたこと 1)と2)に関して言えば、たとえば首相就任直後の演説、 私に提供できるものは、血と労苦と涙と汗だけである。 そしてわれわれの政策がなにかと問われるならば、私はこう答えたい。 それは海陸空で全力をあげ、神が与えてくださる力の限りを尽くして、 この戦争を戦い抜くことである。 ドイツのヒトラーは実は対英戦に関してはいまいち乗り気でなく、 できればうまく妥協を引き出して休戦することも考えていたようですが、 休戦して一息ついてからすぐに条約を破って攻めてくるのがドイツの常套手段。 チャーチルは上記の演説で妥協なしの全面戦争の姿勢を明確にして ヒトラーをがっかりさせました。 さらに、大戦初期の大陸での戦いで英仏連合軍は敗れ、 英国軍はダンケルクから命からがら英国本土に逃げ帰ります。 ドイツの英国本土侵攻も時間の問題となりが非常にヤバくなった時の演説。 われわれは海岸で、渚で、そして田畑で、街路で、丘で、 あらゆる所で戦い続けよう。われわれは決して降伏しない。 さらに、パリが陥落して英国がひとりで枢軸国相手に戦うことになった時の演説。 われわれは心を引き締めて自らの義務を果たし、もしイギリスとその連邦が 1000年続いたならば、人々が次のようにいうようふるまおうではないか。 「これこそ彼らのもっとも輝かしいときであった」。 最後のフレーズなんてなかなかカッコいいですな。 こういうスピーチをされると国民もちょっと頑張る気になるかもしれません。 そんでドイツの英国本土侵攻をぎりぎりの線で防ぎながら 同時に米国大統領ルーズベルトとの個人的な親交関係までフルに利用して 英・米トップ間の太いパイプを作って米国を味方につけます。 日本が真珠湾を攻撃して米国が第二次大戦に連合国の一員として参戦したとき 一番喜んだのは実はチャーチルでした。 「これでわが方の負けはなくなった」と。 結局、米国の巨大な工業力がモノをいって第二次大戦は連合国側の勝利で決着。 でも戦争終結の直前の1945年7月の総選挙で保守党は労働党に敗れ チャーチルは政権を降ります。 英国国民は、戦時のリーダーとしてのチャーチルには期待していましたが 平時のリーダーとしては「どうもなぁ〜」と思っていたのかもしれません。 下野したチャーチルは労働党アトリー政権の福祉国家政策を批判し、 1946年の演説では、「鉄のカーテン」という言葉でソ連に対する警戒の必要性を主張。 1951年には保守党をひきいてふたたび首相をつとめたが、 高齢と健康の衰えのため1955年に辞任し、1965年1月24日、90歳で死去。 葬儀は国葬でとりおこなわれました。 強烈な個性のため敵も多かったですが、ぷっくり太った身体と手にした葉巻がトレードマークの チャーチルにはなんだかんだいって国民の人気がありました。 また、文才のあったチャーチルにはユーモアのセンスもあり、英国のジョーク集には 必ずチャーチルの名前も出てくるそうです。 しめくくりに彼の有名なユーモアのひとつを載せておきましょう。 アスター子爵夫人がチャーチルに向かって 「あなたが私の夫だったら、コーヒーに毒を入れますわよ」 といったところ、チャーチル答えていわく 「あなたが私の妻だったら、それを飲むでしょうな」
2.私の業績のうち最も輝かしいことは、・・・ というわけで、今月選んだの言葉の方に話題を移しますが、 まあ、これはあらためて意味を解説する必要も無いでしょうなぁ(^^;;)。 私の業績のうち最も輝かしいことは、 妻を説得して私との結婚に合意させたことである。 「業績」とか「説得」とか「合意させた」とかいうような政治・外交の世界の表現を使って 奥さんを口説き落としたことを誇るあたりにチャーチルの文才とユーモアが感じられます。 うまいもんですな。 それにしても、チャーチルにここまで言わしめた夫人ってどんな奥様だったんでしょうかね。 とっても素敵な奥様だったかとっても恐い奥様だったか、その両方か(笑)。 「男は天下を動かし、女は其の男を動かす」(作者不詳) ほんじゃ、こんなところで今回はおしまい。 代表&奥様〜、末永くお幸せに〜〜〜〜 (^O^)/ 今月の言葉は以上です。 (補遺) 今回の写真や引用は以下の書籍からです。 ・小林章夫『イギリス名宰相物語』(講談社現代新書) ・歴史群像欧州戦史シリーズVol3 英独航空決戦 (学研) |
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