<今月の言葉:2005年6月>
戦いはこれからだ
ジョン・ポール・ジョーンズ
<意味も無く(^^;)今月の画像:西伊豆の海岸風景> |
このページは当HPの管理者が 月々徒然なるままに他愛も無いことを 書き連ねるページです。とはいっても、 どーしようもないことは普段掲示板に 書き散らしているので、 古(いにしえ)の識者・賢人の お言葉を借用しながら、 少しはもっともらしいことを書くことに なっとります。 さて、今月は 海泳ぎ大会やジャパンマスターズの開幕を 目前にした時期。 そんな6月(とはいってももう終わろうと しているが・・・)にぴったりの言葉 ということで、今回はこれを選びました。 アメリカ合衆国海軍の父といわれ ネルソン、東郷平八郎と並んで 世界三大提督のひとりに数えられる人物、 ジョン・ポール・ジョーンズの言葉です。 |
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1.ジョン・ポール・ジョーンズ 1)その生い立ち ジョン・ポール・ジョーンズ(John Paul Jones, 1946年1月3日 - )、 イギリスのケント州に生まれ、父親からピアノを習い 1940年代から1950年代にかけてアンブローズ・オーケストラなどの ビッグバンドでピアニストおよびアレンジャーとして活躍した。 ・・・・ん?、ピアニストとして活躍??、なんか変だな。。。 ・・・と思ってよーくみたら、これは人気ロックバンド、レッド・ツェッペリンの ベーシストですね。こちらはご存知の方も結構いるかもしれない。 でもまったくの別人なので仕切りなおし(^^;;;)。 ジョン・ポール・ジョーンズ(John Paul Jones, 1747-1792) イギリスのスコットランドで庭師の息子として生まれた彼は、 子供の頃から船乗り志望でボート遊びなどで”海戦指揮”、そして 13歳のときに商船の船員としてデビューします。 でも最初に乗り組んだ船は船主の財政難ですぐに解雇されてしまい 次に奴隷貿易船の三等航海士となります。 奴隷貿易船というのはアフリカで黒人を大量に「積んで」 北米大陸へ運んでいたあの悪名高い船ですね。 しかし、こういう陰鬱な船でのお仕事は彼の性には合わなかったらしく アメリカに到着したところですぐに辞めて、船をおりてしまいます。 そしてジョン号というの船で帰国の途につくのですが、 たまたまこの船の船長と航海士が黄熱病で全滅してしまい 航海スキルのあるジョーンズが代理の船長として船を母港まで連れ帰りました。 これで船主から大いに感謝されたジョーンズはそのまま ジョン号の正式な船長となり、欧州と北米の間を行き来する貿易航海の 指揮をとりました。 そして、1775年に北米大陸の住人たちがイギリスに対して 戦争を開始、すなわち「独立戦争」を開始すると、 もともとアメリカ好きだったジョーンズは アメリカ側「大陸海軍」(まだ「合衆国海軍」ではなかった)を 取り仕切っているジョセフ・ヒューズ海軍委員やジョン・モリス、 トマス・ジェファーソンといった有力者に自己アピールをして 大陸海軍旗艦アルフレッド号の副長として海軍デビューを果たします。 しかも、その旗艦で彼は大陸海軍軍艦旗を最初に掲揚するという 名誉も得ることができました。 それでしばらくアルフレッド号でバハマ襲撃戦などで活躍するのですが、 独立戦争初期の大陸海軍の司令官や艦長(8名)たちはそろってボンクラ揃いだったらしく、 早い段階で2名を除いて全員クビ、そして割と活躍していたジョーンズは スループ艦プロヴィデンス号の艦長に抜擢されます。 艦長になったジョーンズは大西洋上でイギリスの海上補給を妨害する、 いわゆる「通商破壊戦」を行います。 つまり、イギリス本国と北米大陸の間を行き来しているイギリス商船や輸送船を 拿捕してまわっていたわけですな。 ちなみに、当時の大陸海軍はまだ政府自体がちゃんと成立していないこともあって 完全な金欠状態。海軍士官・兵たちにお給料を払うこともできませんでした。 それで、「自分の食べる分は自分で稼ぎなさい」と。 (大陸会議(当時のアメリカ側政府)の布告では、商船や軍用輸送船を拿捕した場合、 船体と積荷の査定額の2/3が、軍艦の場合、査定額の1/2が船主、船長、 乗組員に分配されることになっていました) だから、ジョーンズの艦が何隻敵国船舶を捕らえることができるかは、 そのまま彼や部下たちの給料にも直結したわけですね。 最近流行の「成果主義」という表現を使うなら、 これほど徹底して直接的な「成果主義」もないでしょう。 ジョーンズは7週間の哨戒で8隻のイギリス船を拿捕しました。 だいぶ稼いだわけですね。 帰国後、活躍が評価されたジョーンズは今度は旗艦アルフレッド号の艦長に任命され、 ふたたび通商破壊戦に出撃、8隻のイギリス船を拿捕しています。 こうして手柄をたてたジョーンズを大陸海軍司令官に抜擢しようという動きが起こり、 このため旗艦アルフレッド号の艦長を解任されます。 ところが、あまりに早い出世に反対意見が続出して、司令官就任はお流れになり 逆に指揮する艦がなくなってしまいました。 でもジョーンズのような有能な船乗りを遊ばせておくわけにはいかない、というわけで 大陸会議議長ジョン・ハンコックの口利きによりスループ艦レンジャー号の艦長になります。 ちょうどこの頃、大陸陸軍がサラトガの戦いでイギリス軍に大勝利したので この知らせを支援国・フランスに伝える役割をジョーンズのレンジャー号が果たすことになります。 また、このレンジャー号が初めて星条旗を掲げて外国の軍艦からの礼砲を受ける名誉を得ました。 ちなみに、フランスに到着したジョーンズがサラトガの戦いの報告をした相手が 有名なベンジャミン・フランクリン博士。 雷雨の中での凧揚げという危険極まりない遊び(?)をして 避雷針を発明したというオジサンです。 この人はフランス宮廷相手に対米支援の外交活動をしていたわけで、 合衆国建国の功労者のひとりとされています(ジョーンズと妙にウマが合い仲良しでした)。 独立戦争でアメリカ側が勝利するためにフランスの果たした影響は絶大だっただけに、 この人が雷に打たれていたら合衆国建国はどーなっていたかわかりません(?)。 さて、ジョーンズとレンジャー号はしばらくフランスで過ごしたあと、 今度はイギリス本土攻撃に向かいます。まずはスコットランドとイングランドの境界付近にある ホワイトヘイブンという港町を襲撃、次に近くのカークブリ湾のセント・メアリー島に向かい、 ここの領主であるセルカーク伯爵を人質にしてイギリスに捕えられているアメリカ人捕虜の 待遇改善を迫ろうとしました。 ところが、ちょうどこの時期、 伯爵はロンドンに出張中で城には夫人と子供達しかいませんでした。 ジョーンズはわりと紳士だったようなので、そのまま引き返そうとしたそうですが、 収穫無しで帰るのを部下達が嫌がったとかで、伯爵家の銀食器を全部かっぱらって 引き上げます。 (その前に、イギリスの強制徴募隊だと勘違いした伯爵夫人が朝食をご馳走してくれた という説もあるそうです。どうもこの時期の戦争は妙にノンビリした雰囲気があります) こうして意気揚々とフランスへ戻ったジョーンズですが、 伯爵夫人の銀食器を奪ったことからジョーンズは海賊の烙印を押されてしまいます。 あからさまに特定個人を狙って財産を奪う行為は戦時国際法違反ということで、 イギリスはフランスに抗議しました。 結局、ジョーンズはレンジャー号艦長を解任され、さらにセルカーク夫人に銀食器を 弁償する羽目になります。 (なんだか非常にマヌケな話ですが、当時の戦争はこういう雰囲気だったのかもしれません。) これでしばらくジョーンズはフランスでぶらぶらして過ごすのですが、 やはり彼のような実績のある人材を遊ばせておくほど大陸海軍は余裕がなかったので、 彼はフランス東インド会社の貿易船で廃棄処分が決まっていたボロ船「デュラス公爵」号を あてがわれます。ジョーンズは贅沢を言わずこの船を受け取り、 ボンノム・リチャード号(Bonhomme Richard 善人リチャード、もしくは快活なリチャード の意味)に改名して大型フリゲート艦として仕立て直します。 ちなみにこの「ボンノム・リチャード号」という名前は、その後のジョーンズの活躍もあり 伝統のある艦名として米国海軍の中で引き継がれていきます。 第二次大戦の頃の「ボンノム・リチャード号」はエセックス級航空母艦、 現在の「ボンノム・リチャード号」はワスプ級強襲揚陸艦(空母みたいな形をしています) として活躍しています。 似たようなことは他の国の海軍でもよくある話で、イギリス海軍なども「アークロイヤル」とか 「インヴィンシブル」とかは何代にも引き継がれている由緒ある艦名です。 日本の護衛艦の場合は、たとえば「こんごう」なんてのは本当は「金剛」としたい筋も あるのかもしれませんが、「金剛」では旧帝国海軍の戦艦を思い出してしまうということで 平和日本の海上自衛隊は皆ひらがな表記としているようです。 (そのせいで「はるな」なんて女の子の名前のような艦もあるわけですが、 これはこれでなんだかお洒落で良いような気もするが・・・) さて、「ボンノム・リチャード号」を得たジョン・ポール・ジョーンズは 他の数隻の艦も加えた戦隊を率いて出撃、そして1779年9月23日、英国東岸の フラムボロー・ヘッド沖で大船団に遭遇、ここに伝説の「フラムボロー・ヘッドの海戦」 となります。 2)フラムボロー・ヘッドの海戦とその後 フラムボロー・ヘッドの海戦において、ボンノム・リチャード号は イギリスの大型フリゲート艦セラピス号と一騎打ちとなりますが、 いかんせんもとはボロ船、ボコボコにされてしまい、セラピス号のピアソン艦長から 「降伏するか?」と呼びかけられてしまいます。 ところが、このときにジョン・ポール・ジョーンズの返答が 「俺はまだ戦いを始めてない!(I have not yet begun to fight!)」 このあと、ジョーンズはボンノム・リチャード号をセラピス号に横付けして 壮絶な白兵戦を展開、ついにセラピス号を降伏させてしまったというわけです。 (損傷の大きかったボンノム・リチャード号はこのあと沈没してしまいますが) この「俺はまだ戦いを始めてない!(I have not yet begun to fight!)」というセリフが 後のアメリカ海軍の敢闘精神の象徴となり、日本ではさらに簡潔に 「戦いはこれからだ!」と 訳されて今日に至るわけです。 (でも、実際はこの名セリフは海戦の中ではなく後に書かれた彼の伝記の中で はじめて登場するものだそうです。ただし、敵艦からの降伏勧告を ジョーンズが突っ返したのは事実のようです) 戦いを終えてジョーンズは乗っ取ったセラピス号を指揮してオランダ経由でフランスへ帰ります。 そしてその後も何隻かの艦の艦長を務めて活躍し1781年アメリカに帰国、 そして1783年、アメリカは正式に独立を承認され戦争は終わります。 戦争が終わったあと、ジョーンズは新国家の海軍における将官の地位を期待していました。 ところが、財政の窮乏により海軍組織は解散、現在の世界に冠たるスーパーパワーの アメリカ艦隊を見ている目には驚きですが、アメリカは独立後の十数年、 海軍を持たない国家となったのでした。 その後、海軍将官の地位をもとめてヨーロッパに渡ったジョーンズは ロシア海軍の海軍少将として露土戦争に参加しますが、 ロシアの専制体制の非効率や人間関係に嫌気がさしてフランスへ行ってしまい、 1792年7月18日パリで病により世を去りました。享年45歳。 ジョーンズは艦長としての活躍は輝かしくファンも多かったのですが、 人間的にはいろいろ問題もあり結構嫌われていたためひっそりと葬られました。 しかし、1900年に伝記作家Augustus C. Buellの 「Paul Jones: Founder of the American Navy」が出版され、 この中でジョン・ポール・ジョーンズを熱誠の愛国者として描いていたため人気復活、 海軍士官学校設立関するジョーンズの提言というようなことが書いてあったので 「アメリカ海軍の父」という称号を奉られるに至りました。 (実際はこの本、中身の多くが作者の捏造というトンデモナイ本のようですが・・・)。 そしてフランスで捜索・発見されたジョーンズの遺体が 1906年に戦艦七隻、巡洋艦四隻の米仏連合艦隊に守られ米国に帰国、 セオドア・ルーズベルト大統領臨席の葬儀となり、さらに 1913年に海軍士官学校内の礼拝堂に移されて今日に至る、ということです。 トラファルガー海戦のネルソン提督や日本海海戦の東郷提督と比べると どうも1ランクか2ランク落ちるような気もしますが(^^;;)、 とにもかくにもこれが世界三大提督のアメリカ代表、 そしてアメリカ合衆国海軍の父としてあがめられているジョン・ポール・ジョーンズの 物語というわけです。メデタシメデタシ。。。。。。 2.戦いはこれからだ さて、今月とりあげたこの言葉の方に話題を移しますが、 まあ、今回は特にコメントは無しですね(^^;;;)。 この言葉の大事なところは、追いつめられたヤバい状況下でも 「戦いはこれからだ!」と奮闘する粘り・敢闘精神なわけで、 スタート台に立ったときは当然として、 長距離レースなら1000mを越えたあたり、 短距離レースなら最後の5mあたりで悪魔(?)が「もうダメだよね〜」と出現したときなどに 「戦いはこれからだぁ〜!」 とつぶやくと霊験(?)があるのではないかと思います。 では、 これからジャパンマスターズ、市民大会、神奈川マスターズといった長水路レース、 あるいは広大な湘南の海やババっちい横浜港での海泳ぎ大会と いろいろありますが、皆さん最後まであきらめず「戦いはこれからだ!」という感じで がんばりましょう。 今月の言葉は以上です。 (補遺) ジョン・ポール・ジョーンズについての資料はあまり多くはありません。 (同じ米国海軍でもハルゼー提督とかだといくらでもあるでしょうが・・・) 今回は以下のURLを参考にしました。 このページ、文章が膨大で一見シンドそうですが、丁寧に読んでみると 結構ユーモアのある文章でなかなか面白いです(画像も豊富)。 ヒマな人はざっと目を通してみると良いでしょう。 http://matsumat.at.infoseek.co.jp/novel_007.htm |
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