<今月の言葉:2005年7月>
力のある人は、いつも「にもかかわらず」という境遇にあって、
自分をしっかりと生かしてゆくものです。
山本有三
<意味も無く(^^;)今月の画像:今回は涼しげな花の写真 |
このページは当HPの管理者が 月々徒然なるままに他愛も無いことを 書き連ねるページです。とはいっても、 どーしようもないことは普段掲示板に 書き散らしているので、 古(いにしえ)の識者・賢人の お言葉を借用しながら、 少しはもっともらしいことを書くことに なっとります。 さて、うちのチームも発足して3年目ですが、 最近は、肩が痛くて泳げない人、 お仕事がいっぱいで試合に出れない人、 新婚生活で早くも奥様の許可なく 練習ができなくなってしまっている人(?)、 などなどで、どうも練習・大会を存分に がんばることができない人が 多い感じですね。 (ジャパン、市民大会、ドブ(?)みたいな 横浜港の大会にエントリした人が 多かったのは幸いですが・・・) そこで、今回選んだのがこの言葉。 戦前から戦後にかけて活躍した 作家・山本有三の言葉です。 |
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1.山本有三 山本有三、本名は、山本勇造、明治20年(1887 年) に栃木市に生まれました。 少年時代は栃木高等小学校で8年間首席、学力は抜群、体力はイマイチ、 でも負けず嫌いの性格が認められある意味でガキ大将でした。 15歳のときに中学を目指しますが、父が勉強を許さず、 東京浅草の呉服商に奉公に出されてしまいます。 でも学問への希望断ち難く、母親のとりなしで19歳で東京中学5年に編入、 翌年、岡山第六高等学校に合格、父親も喜んだそうですが2ヵ月後に亡くなってしまい、 やむなく入学を断念して栃木に戻り呉服商を継ぎます。 その後、呉服商をしながら勉学を続け、22歳で東京第一高等学校、いわゆる一高に入学。 同期には近衛文麿、土屋文明、芥川龍之介、菊地寛などがいました。 2年後、東京帝国大学に進学、26歳で呉服商は辞め、劇作家として出発し 「生命の冠」「坂崎出羽守」「女人哀詞」といった作品を発表します。 そして大正15年ごろから小説も書くようになり、 「生きとし生けるもの」「波」「真実一路」、 さらに昭和11年に三鷹に移って「路傍の石」「新編路傍の石」「戦争とふたりの婦人」、 戯曲「米百俵」などの作品を書きました。 逆境に耐えながら、自分を捨てずがんばり抜くような成長する人間をよく描き、 また、子供たちに本をできるだけ読んでもらいたいという思いから 昭和17年(1942 年) に「ミタカ少国民文庫」を設けました。 戦後は、日本国憲法の口語化や当用漢字の制定にたずさわったそうです。 漢字が使いやすくなったのも山本有三のおかげということだそうで。 #小生がこういうヘナヘナした文章を書けるのは #山本有三先生のおかげかもしれません。(^^;;) そのほか、参議院議員として「国民の祝日」の制定、国立国語研究所の設立、 満年齢の採用、文化財保護法など文化政策の推進に大きな功績を残し、 さらに、少年少女雑誌の編集や国語教科書の刊行など青少年の教育にも情熱を注いで 昭和49年(1974 年) 、1月11日に86歳で逝去。 栃木県の近龍寺に葬られました。 つらい境遇にあっても自分を大事にして一生懸命ガンバロー!、という感じが この人のモットーだったようです。 今回取り上げた言葉とは多少違いますが、小説『路傍の石』には 以下のようなセリフもあります。 「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、 人間生まれてきたかいがないじゃないか。」 2.『路傍の石』 さて、『路傍の石』ですが、これは山本有三の代表的な作品で、 昭和12年1月から戦前の朝日新聞、そのあと昭和13年11月から 雑誌『主婦之友』に連載されていました。 内容は、極貧の没落士族の家に生まれた少年・愛川吾一が苦労しながら 立派な社会人に成長していく物語です。 吾一少年の成長の過程が山本有三本人の経歴と似た部分もあることから 自伝的小説とも言われています。 ストーリー的には、貧乏な境遇の主人公が苦労に苦労を重ねて成長していくあたり まさに大人気を博した朝の連続テレビドラマ『おしん』と同じ世界です。 吾一少年は、明治前半、西南戦争と日清戦争の間ぐらいの時代に生まれます。 親父さんの愛川省吾は明治になって商売に失敗して破産した元士族、 古い武家の跡取りとして育ったため世の中が変わってしまっても 自分で商売をするような才覚はなく、そもそも世間知らず。 そのうえ妙にプライドが高くてご近所の救いの手をはねのけるだけでなく 「余計なことをするな!」と怒鳴り込んで喧嘩してしまう始末。 村の入会地となっている山林をめぐって村長相手に勝ち目の無い裁判を 延々と続けて子供(吾一少年)のなけなしの郵便貯金まで 勝手に裁判費用に使い込んでしまったりして、 まあ一言で言えばクズみたいな人間でした。 #ちなみに山本有三自身の父親はもっとマシだったようです。 それで、母親の内職だけを頼りに暮らしていた吾一少年は、 学力も胆力もあったのですが貧しいゆえに近所の商家へ丁稚奉公にあがる 羽目になります。この奉公というのがなかなかひどい。ほとんど奴隷のようなもんです。 なにしろ「吾一ってのは、どうもぎすぎすしてどうもいけませんな、 一つ、名まえを変えましょうか、・・・、おまえはこれから五助って言うんだよ」 とい主人の鶴の一声で名前まで変えられてしまいます。 人権もなにもあったものではありません。 それでも吾一少年は母親のために泣きながら奉公を続けるのですが、 やがて母が病死ししまうと単身東京へ脱出します。 でも、東京に行ってもつらいのは同じ。 つてを頼りに転がり込んだ下宿で奉公時代と同じような奴隷暮らし、 さらにそこも追われてしまうのですが、下宿で一緒にいた正義漢の書生に 助けられて、どうにか印刷工場の写植工の仕事につくこごができ、 さらに親切な教師の支援で夜学の商業学校へ通うようになり、 そのうち努力が認められて月給をもらえる身になっていきます。 そんでもって、そのうち借家の娘さんに淡い恋心を抱くようになり、 でも、その兄というのが同じ写植工なのですが 『万国の労働者よ、団結せよ』系の思想をもっていて、 吾一はこれとはちょっと距離を置いて・・・・・ というところまで物語が進んだところで突然、「ペンを折る」というタイトルで 作者・山本有三自身の言葉による連載中止のお詫びとなります。 こういう見だしの文章を、わたくしは、本誌に書こうとは思っておりませんでした。 しかし、わたくしは、今、自分のペンを折るよりほかに、適当な道がないことを 痛感したのです。長いあいだ「路傍の石」をご愛読くださった方がたに、 厚くお礼を申しあげるとともに、中絶の余儀なき事情に立ち至ったことを、 心からおわびいたします。(以下略) ここまで読んできた読者はいきなりの行き止まりでびっくりなのですが、 なんと『路傍の石』は突如連載中止となってしまいました。 日中戦争が勃発し軍部の鼻息が荒くなっていた時代でした。 こんな小説ですら官憲から出版社に圧力がかかり 連載中止となってしまったのでした。 その後、日本は太平洋戦争に突入して敗戦、軍部は消滅し 占領軍統治の時代となり、『路傍の石』も出版再開という話がでてきます。 ところがなんと、今度は占領軍から横槍が入ります。 小説の最初のほうで明治初期の不平等条約の実態や 北清事変での欧米列強の軍隊のふがいなさが描かれている部分があるのですが、 これがケシカラン、削除だ、ということになったのでした。 大統領が「自由のために」という言葉を演説の中で何度も繰り返してしまうような国であっても 一皮むけば所詮はこんなもんなのかもしれません。覚えておいて良いエピソードですかね。 結局、こういうゴタゴタに嫌気がさした山本有三は、作品を書き続ける気持ちを完全に失い、 『路傍の石』は未完のまま残されました。 でも、未完成であっても作品自体に魅力があり、『路傍の石』は未完のまま出版され 映画化もされ、今日でも文庫本(新潮文庫)で手軽に読むことができます。 文章はさすが口語化運動の先生の作品だけあってとても読みやすく、 ストーリーも「このあとどうなってしまうのだろう」と読者に思わせ続けるうまい展開のしかたなので、 結構なページ数があるにもかかわらずスラスラと読み進めることができます。 機会があった一読するに値する作品ですね。 そこに書かれている世界も、またその作品自体の顛末も それがそのまま「日本の近代史」といえるものですので。 3.「にもかかわらず」という境遇にあって・・・ というわけで、今月とりあげた言葉についてですが、 ここまで書いた話で説明はもう十分でしょうね。 人生いろいろ苦労は尽きませんが、 とにかく可能な範囲で地道にがんばっていきましょう。 地道にがんばっていれば、いずれチャンスがまわってきたときに きっちり結果を出すことができるに違いありません。 では、今月の言葉は以上です。 (補遺) 『路傍の石』が中絶に至る過程はもう少し複雑です。 興味のある方は新潮文庫版の解説をご参照ください。 いずれにせよ、軍国主義の時代の中で官憲の圧力によって 葬り去られてしまったのは事実です。 こんな子供向けの文学作品にまでちょっかいを出すような ケツの穴の小さい国家だからこそ、大事なことを見誤ってしまい、 まったく成算の無い戦争に突入して国を滅ぼしてしまったのでしょう。 日本人が忘れてはいけない教訓のひとつですね。 |
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