<今月の言葉:2006年8月>

人間を神様にしてはいけません。
神様は批判できませんからね。
             井上成美


<意味も無く(^^;)今月の画像:カーネーション>


このページは当HPの管理者が
月々徒然なるままに他愛も無いことを
書き連ねるページです。とはいっても、
どーしようもないことは普段掲示板に
書き散らしているので、
古(いにしえ)の識者・賢人の
お言葉を借用しながら、
少しはもっともらしいことを書くことに
なっとります。

さて、最近忙しいのとバテているので
いまいち文章を書く気にならず、
すっかりサボってしまっていたこのページですが
久々に更新です。

今回の言葉は、
旧帝国海軍の井上成美大将のものです。

この言葉、もともとはこのコーナーで
使う予定がまったく無かったのですが、
今年のワールドカップサッカーを見ていたら
なんとなく使う気になってしまいました。

というわけで、今回はあまり水泳ネタには
なりそうにありません(^^;;)(_o_)。






1.最後の海軍大将 井上成美



この人は、
海軍ネタに詳しい人、阿川弘之氏の作品をよく読む人には馴染み深い有名人です。

逆に、海軍にも阿川作品にも興味の無い人にはまったく縁の無い人でもあります。


まずは、ざっと略歴から。

  ●1889年12月9日 宮城県に生まれる。
   1909年海軍兵学校卒。 1927年、イタリア駐在武官

  ●1937年 平沼内閣の時の海軍省軍務局長に就任。

   米内光政(海軍大臣)、山本五十六(海軍次官)とのトリオで当時台頭しつつあった
   「日独伊三国軍事同盟」案に「対米戦争につながる」と頑強に抵抗。

   陸軍の過激将校や右翼のテロリストの標的にされつつも勇敢に反対姿勢を貫き通し、
   ついに同盟案を葬り去る。
   (しかし、米内・山本・井上が去った後年の別内閣で三国同盟は成立。
    これで対米・対英関係は一気に悪化し、最終的には太平洋戦争に至る)  


  ●1941年1月 海軍航空本部長として将来の軍備のあり方について
   『新軍備計画論』を執筆し、及川古志郎海相に提出。

   この中で、次の戦争は航空機が主役となり、日本海海戦のような
   戦艦同士の艦隊決戦は起こらないこと、南洋の島々の飛行場の争奪戦が
   戦いの姿となること、だから海軍は「空軍化」すべきことを主張。

   この主張は海軍内部では通らず、戦艦大和・武蔵の建造に象徴される大艦巨砲主義が
   推し進められてしまうが、 1941年に始まった太平洋戦争は井上提督の
   予言通りの推移となる。


  ●1941年12月 太平洋戦争勃発。

   南洋諸島を担当する第四艦隊の司令長官としてウェーク島攻略の責任者となるが、
   米軍の猛反撃で味方駆逐艦を喪失し、攻略失敗。

   連合艦隊の開戦時の各種作戦の唯一の失敗例となる。
   また喪失駆逐艦は、真珠湾攻撃の特殊潜航艇を除けば、
   太平洋戦争を通じての日本側の最初の喪失艦船となる。

 
  ●1942年5月 珊瑚海海戦

   第四艦隊所轄のニューギニア島ポートモレスビーの攻略作成の途上で発生した
   世界初の空母vs空母の洋上戦闘。

   米空母1隻を撃沈、1隻を大破させるが、
   味方も小型空母1隻を喪失(日本海軍初の喪失空母)、主力空母1隻を中破。
   日本側は攻略作戦を中止。 

   「傷ついた敵空母に追い討ちをかけなかった」として海軍内部で厳しい批判を浴びる。
   (これがもとで「戦争の下手な提督」という評判が浸透し、
    海軍兵学校の校長に「左遷」)


  ●1942年10月 広島県江田島の海軍兵学校の校長に就任。

   当時敵性語とされていた英語を授業から外す計画が持ち上がった際に、
   「実質的な世界公用語となっている英語を使えない海軍将校は役に立たない」と
   猛反対し却下。戦時下の国内で唯一英語教育を存続させる。

   また、前線の将兵不足を補うために在校年限を短縮する計画や、
   一般教養科目を削減する計画があがった際にも
   「海軍将校の教育は丁稚教育ではない」と猛反発し却下。

   あくまで海軍伝統の「ジェントルマン教育」を貫いたことで
   「戦後に活躍できる」人材を育成。


  ●1944年8月

   小磯国昭内閣の海軍大臣・米内光政に強く請われて海軍次官に就任。
   秘密裡に終戦に向けた工作を開始。


  ●1945年5月

   当人の猛反対にもかかわず海軍大将に昇格。
   これを理由に海軍次官を辞任。責任ある地位から外れる。

   終戦工作をするうえで米内大臣に万が一のことがあった場合の
   「控えの海軍大臣」として温存されたという説もあるが、
   単に米内大臣と「肝心なところで喧嘩別れした」という説もあり、
   今日に至っても真相は不明。


  ●1945年8月

   太平洋戦争終了。横須賀市長井の自宅に隠棲し、
   以後、いっさい公の場に出ない生活となる。

   近所の子供たちのために英語学校をひらいたりするが、
   どのように薦められても職に就くことを拒み、貧窮の中で暮らし続ける。

   最晩年は、かつての兵学校時代の教え子達から「半ば無理やり」な
   資金援助を受けつつ暮らし、1975年12月ひっそりと病没。享年86。



この人は、戦後長いあいだ一般世間にはあまり知られず、
「知る人ぞ知る」という感じの人物でした。

そして、はっきり言って好き嫌いがかなり分かれる人物です。

ワタシ(のんぶれす)がこの人物を初めて知ったのは、大学時代(1985年ごろ)。
通っていた大学が主催する「横浜市民講座」という公開セミナーみたいのがあって、
港湾論を専門にしている教授が「最後の海軍大将 井上成美」とかいう題で講演したのです。

当時、まだ井上提督は世間ではほとんど知られていませんでした。

教授はそんな井上提督の事跡を紹介しながら、
彼の先見性、視野の広さ、ファシズム否定の妥協のないリベラルな態度と勇気、
戦後はいっさい公の場に姿を見せなかった潔さ、などを激賞しました。
「このような軍人もいたのです!」と。

大学であまり感動的な話を聞く機会のなかった小生はいたく感動し(笑)、
以来、少しずつ井上提督のことを書いた書籍を読み始めたのでした。

それからしばらくして刊行されたのが、阿川弘之著『井上成美』。
これは『米内光政』『山本五十六』に続く旧海軍提督三部作の最終話みたいなもので、
発売と同時にちょっとしたベストセラーになりました。

この伝記作品の中での阿川氏の筆調はつねに淡々と第三者的で、
決して井上成美をヒーローとして扱っていません。

たとえば、井上提督が晩年隠棲した横須賀市長井のご近所の人が「リコバカ」と評した
エピソードなども載せています。

  「頭の良い大変なお利口さんだが、融通というものがちっともきかない。
   だから、利口で馬鹿のリコバカって言うだよ」

実際、井上成美は頭がものすごく切れる人物で、
同時に公私のケジメや「理にかなっているか」という点に極端すぎるぐらい厳格で
「三角定規」と呼ばれていました。


そのため、航空優越を予想した先見性、三国同盟を葬った見識と勇気、
兵学校長としての教育への深い洞察などを高く評価されている反面、

「水清すぎて魚住まず」と評されれば
「水清ければ毒魚住まず」と言い返すほどの徹底した潔癖主義に
周囲の人々は結構敬遠していました。

また、兵学校校長時代に
「海軍の歴代大将には1等大将から3等大将までがあり、○○や××などの3等大将は
 国賊にも等しく尊敬の対象にすべきでない」というような厳しい批判を、
対象の当人が存命中であっても公然と言い切ってしまうなど、
対人関係では妥協も甘えもまったく許さない面があり、毛嫌い・敬遠する人も多い人物でした。


他に、作家・半藤一利氏が終戦ついて書いている別な書物で別な角度から
井上提督を見ると、彼の終戦工作が実際に日本の終戦のためにどれほど役にたったか
という点でも疑問があります。
(このへんを書き始めると長くなるので割愛しますが・・・)

秘密工作だったため知られていないだけかもしれませんが、
正直、ほとんど貢献していなかったようにも見えます。

井上成美という人は、教育者としてはそれなりの結果を残したかもしれませんし、
徹底した人格者であることも事実ですが、
武人としては実績なし、政治家としても人間性の点で難があり、
「所詮は学者・批評家」だったのかもしれません。

ワタシ(小生)自身の感じとしては
「すごく立派な人なのは認めるけど、この人が親類や近所にいたら最悪」(笑)、
ってところかな。。。




2.人間を神様にしてはいけません



さて、今月とりあげたこの言葉ですが、
これは上述の阿川弘之著『井上成美』の冒頭に出てくるものです。

これは、井上成美が晩年に東郷元帥についてどう思うかを問われた際に
答えた言葉です。

東郷元帥とは、
日露戦争でバルチック艦隊を全滅させた「世界三大提督」のひとりですね。
(この『今月の言葉』でも2003年3月にとりあげてたなぁ)

東郷平八郎提督は、日露戦争の時には確かに名将としての結果を残しました。
でも、その後はどうだったか?

1922年のワシントン軍縮条約会議。

当時、日本は戦艦八隻・巡洋戦艦八隻の「八八艦隊」というのを建造しようと
していました。でも、これは日本の財政上非常に負担が大きく、
当時の海軍大臣・加藤友三郎(日露戦争当時の参謀長、つまり東郷提督の補佐役)は
内心中止したく思っていました。

ワシントン会議での米英側の主張は、主力艦(戦艦や巡洋戦艦)について
米10、英10に対して日6、の比率。

当時、米国相手の国防を全うするためには比率7割が必要という意見があり、
「艦隊派」と呼ばれる海軍士官たちは6割案に猛反対でした。

しかし、軍縮会議に全権主席代表として出席していた加藤友三郎は
「比率6割でも妥協して軍縮を成立させるべき」という立場で、
最後に日本にいる東郷元帥に電報で意見を聞きました。

東郷元帥からすぐに返電があり簡単明瞭「ロクワリヤムヲエズ」。
結局、これでワシントン軍縮会議は成立しました。

日本側代表団帰国後、艦隊派として7割を主張していた随員達が
東郷元帥を訪問し、6割を呑んで帰国したことを詫びました。
すると、元帥曰く「でも、訓練には比率も制限もないではないですか」。

これより「月月火水木金金」で有名となる海軍の猛訓練がはじまりました。

この当時の東郷提督は、まだ高所からの見識と理解がありました。


が、その後、加藤友三郎が病没し、艦隊派の強硬な主張が東郷元帥の周囲に集まり、
同時に高齢の元帥にはボケも少しまわってきました。
また、昭和にはいって東郷元帥を神様として奉ろうという動きも世間に出てきました。

そして、1930年のロンドン軍縮条約。

ここで、今度は主力艦だけでなく、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦といった補助艦艇にも
10、10、6の制限を設けようじゃないか、という話になります。

このとき、日本の浜口内閣と海軍省は賛成の立場で交渉に臨みますが、
艦隊派が占める海軍軍令部が今回も猛反対し、
そして今度はなんと東郷元帥が反対の旗頭になりました。

すったもんだの末に、どうにか条約は対米英6割で成立するのですが、
このあと野党(政友会)の国会での質問から「統帥権干犯問題」というのが発生します。

帝国憲法上、軍隊を統べる権限は天皇の大権に属する事項であるから、
政府が勝手に軍縮条約を結んでしまうのは天皇大権(軍隊の統帥権)の干犯だ、
という主張です。

これに神様・東郷元帥の艦隊派寄りの言動が輪をかけて騒動となり、
ついには浜口首相はテロリストの刺されて命を落とし、
さらに過激な海軍青年将校による犬養首相暗殺(五・一五事件)に発展します。


昭和の提督・井上成美はこういった経緯から東郷元帥が国を誤らせた元凶のひとり、
という考えをもっており、批判的でした。

でも、一般世間的には東郷元帥は昭和の段階ではほとんど神様としてあがめられており
「元帥がこう言われた」となれば、それがボケた発言であっても
誰も表立っての批判はできない風潮になっていました。
当時はまだ大佐の井上成美はこういう状況を苦々しく思っていたようです。

#ちなみに昭和九年に東郷提督は亡くなり、
#東郷神社が建立されて本当に神様になってしまいます。
#戦後、東郷神社は結婚式場として有名になります(笑)。


というわけで、

  人間を神様にしてはいけません。
  神様は批判できませんからね。



は、こういった経緯から出てきた言葉です。

で、東郷元帥も井上提督ももう歴史上の人物ですが、この言葉自体は今も有効ですね。

今回のワールドカップ、日本代表の監督は選手時代「神様」でした。

また、Jリーグ開幕時に彼が日本でプレーしていること自体が
どれほど大きな後押しになったかも考えれば、彼は日本サッカー界への貢献度でも
「神様」でしょう。

でも、監督としての実績はありませんでした。
そして、彼は「神様」なので、前監督や前々監督だったら「袋叩き確実」な状況でも
周囲は皆ガマンして「神様の奇跡」とやらを期待し続けました。

結果はご存知の通り。

近代サッカーでも「奇跡」なんてものは成立し得ないことを証明されました。

まぁ、御当人自身が自分から「神様」を名乗ったわけではなく、
周囲が彼を「神様」呼ばわりした結果なので、これは一種の悲劇です。

当人自身は、予選の結果はともかく、最後まで責任者として堂々と批判を甘んじて受け、
一切の弁解も無く去っていったわけで、これは立派な態度でした。

周囲が彼を「神様」として崇めてしまい、
しかも代表監督という重要な立場につけてしまったことが間違いだったわけで、
気の毒といえば気の毒だったのかもしれません。

やはり「人間を神様にしてはいけない」のかなぁ、と。。。。。


ところで、井上成美に戻りますが、阿川弘之著『井上成美』には
井上提督や彼に関係する他の海軍提督、さらには、彼らが引用した古人の言葉などが
たくさん引用されており、結構内容が深く考えさせられるものがいくつもあります。

せっかくの機会なので、ちょっと長くなりますが、いくつか引用してみましょう。


●陸海軍の協調がうまくいかなかった主因についての米内光政提督のコメント

  陸軍と海軍の教育方針の相違が根本にあったと思います。

  陸軍は十五か十六の子供時分から将校生徒の教育を始めて、
  若年の者に戦争のこと以外何も教えないのです。

  考え方に基本的なちがいが出て来るのは当然で、彼らの視野は狭く、
  海軍士官のように外の物事を広い眼で見ることが出来ませんでした。



●勝海舟の言葉

  ナニ、忠義の士というものがあって国をつぶすのだ


  (補足:五・一五事件やニ・ニ六事件の首謀者達は
      皆「憂国の至情」とかで行動する「超」真面目な連中でした)


●五・一五事件当時、海軍大学校の戦略教官だった井上成美(当時大佐)の言葉

  軍人が手近に武器を保有しているのを奇貨として勝手に人を襲えば、
  ただの殺人者になり下がる。



●晩年の井上成美が英語学校の先生として主張していたこと

  他国語を一つマスターすることは異なった世界の見える望遠鏡か顕微鏡を
  一つ持つことだ。



●岡田啓介首相の言葉
 (海軍大将、ニ・ニ六事件時の首相で襲撃されるが奇跡的に生き延びる、
  太平洋戦争末期には終戦工作に大きく寄与)

  いくら激している人間にも常識的な一面はあるんだからね。
  その常識が私の足がかりなんだ。そこを相手にする。
  狂人だったら別だ。ただ逃げる。
  これが私の兵法だ。



●戦後の昭和二十六年ごろ、日本の再軍備が論議される中での井上成美のコメント

  一と言では言えぬが、いずれ日本が国際連合の一員になった暁には、
  当然課せられた責任を果たさなくてはならんだろう。

  しかし、軍備というのは大変なもので、今の日本の経済状態で
  一人前の近代装備の軍隊を持つことは、殆ど不可能に近い。

  航空機の寿命は大体四年で尽きる。一機数千万円から数億円もする軍用機を、
  そんなに多数保持できるわけがないし、そもそも軍備というのは、
  現実の軍隊を維持するだけでは駄目なんで、近代科学の研究を不断に続けて
  初めて成り立つものだ。かつての日本は航空技術が五、六年、
  電気方面で十年アメリカに遅れていたから、
  今さらに追いつこうとしてもよほどむつかしいと思う。

  虫のいい考え方かもしれないが、アメリカ軍がずっと駐留していてくれれば、
  それが一番いいのではないだろうか。



●鈴木貫太郎の言葉
 (日本の終戦を実現した総理大臣、海軍大将、元侍従長)

  ローマは亡びた。カルタゴも亡びた。
  カルタゴなど歴史的にその勇武を謳われているが、
  勇武なるその民は今いずこにあるであろう。
  一塊の土と化しているに過ぎぬではないか。

  戦争というものはあくまで一時期の現象であって、
  長期の現象ではないということを知らねばならない。

  敗けるということは滅亡するということと違うのであって、
  その民族が活動力さえあれば、立派な独立国として再び世界に貢献することも
  できるのであるが、玉砕してはもう国家そのものがなくなり、
  再分割されてしまうのだから、実も蓋もない。



●井上成美が海軍兵学校の校長として訓話した際の言葉

  教育の目標は人を造るに在り、諸君は知識の切売り、技術の伝授のみに
  終始してはならない



●ヘーゲル(歴史家・哲学者)

  歴史を書くことは凡夫には出来ないけれど、
  歴史を作ることなら馬鹿でも気違いにでも出来る。



●アルフレッド・マハン
 (アメリカ海軍提督、近代海軍戦略の権威)

  煉瓦(れんが)を山と積んでも住宅とは言えないように、
  資料をいくら積み重ねても戦史とは言えない



●高木惣吉
 (海軍少将、米内・井上のもとで終戦工作に奔走、
  戦後、海上自衛隊の幹部学校での講演より)

  責任の地位が高くなり、war policy に携わるポストへ就くにつれて、
  用心深い思慮分別が極めて大事な働きをする。

  ところが、不幸にして興奮しがちな戦時の雰囲気の中だと、
  分別ある意見というものは大概臆病と間違えられて評判が悪い。

  世界大戦史を書いた英国のリッデルハートが、
  『戦争の熱狂の中では輿論(よろん)というものは多くの場合、
   極端な手段−−−drastic measures を求めて、
   その結果国民がどんな運命に陥るかということは余り心配しない』
  と嘆いているから、アングロサクソンのようなしぶとい民族でも同じらしいが、
  特にかあッとなりやすい我々日本民族の場合、五十人か百人ぐらいの部隊の
  部隊長にふさわしい景気のいい議論が大勢を動かす。

  後藤又兵衛や塙団右衛門(ばんだんえもん)は、大衆小説の主人公としては面白いけれど、
  実際問題として天下の動かせる大将軍には決してなれない。
  頼朝や家康が大衆にちやほやされないのは、それだけスケールが大きい証拠であって、
  最近でも、山本権兵衛、加藤友三郎、岡田啓介など、提督として余り一般受けがしない。

  日本人は結局、清水次郎長、国定忠治程度が好きな国民なのかと思う。

  武田信玄も、大衆にそれほど人気のある武将ではないが、その遺訓に

    一、分別ある者を悪人と見ること
    一、遠慮ある者を臆病と見ること
    一、軽躁なる者を勇剛と見ること

  右は主将の陥り易き三大失観であると言っているのはさすがであろう。



  #「後藤又兵衛や塙団右衛門」「清水次郎長、国定忠治」というあたりを
  #「近藤勇、土方歳三」などに書き換えてみても意味はまったく同じかと。。。


●(上に同じく高木惣吉)

  独立の国家がその存立の最後の保障として頼むのは、
  決して紙に書かれた法律や憲法ではなく、
  強制力の不安定な国際間の協定でもなく、
  所謂(いわゆる)実力の行使、警察機構と国防機構の二つである。

    ・・・

  現代戦において中立の維持が果たして可能かどうか。

  第二次大戦前のヨーロッパには、北欧三国を初め中立を守れそうに見える国が
  幾つもあった。しかし、戦争が勃発してみると、
  侵略の犠牲になった国と、スエーデン、スイス、スペインのように
  中立を全うし得た国との差が生じた。

  地理的条件その他、色々な条件が作用しての結果であるが、
  その条件を整理して行くと、次のような現代戦の通則を立てることが出来る。

  すなわち、

  『侵略国が攻撃のために支払う損害が、その獲得し得る利益よりも大きいと
   思わせるに足る抵抗力を一国が保持する時は、
   中立の維持が可能である』




これから10年、20年の間に日本という国は、
世界中に非難されながら日本海にポンポンとミサイルを撃ち込んでいる某国や、
その隣で強烈な勢いで軍事力を強化している某大国と
色々な意味で外交上のせめぎ合いをすることが予想されます。

その都度、一部のマスメディアが過激な論調を煽り立てることもありえます。
そして、外交や国防問題が選挙の争点になることもありえるかと思います。

そんなとき、今回ながながと引用した旧海軍関係の「良識派提督」の言葉を
思い出してみると良いでしょう。

先日、ミサイル発射の某国の国連代表が安保理決議を拒否して退場するシーンが
ニュースで流れていましたが、あの光景は、ファシズムに染まった旧日本帝国の外相が
国際連盟を脱退したときの映像とまったくそっくりでした。

残念ながら人間というものはあまり学習機能が強くないようで、
ほんの数十年前の「悪い思い出」でも平気で繰り返してしまう危険があるようです。

でも、このページをここまで読んでくれた方々だけでも
少しは過去の歴史を生かしてもらえれば、と。


サッカーネタに始まり、最後は国防・外交問題で妙に重くなってしまいましたが、
以上で今月の言葉はおしまい。

では、みなさん、夏バテしないよう。。。。。(ワタシが言っても説得力無いなあ:笑)



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※4月〜7月はヘタばってました。ごめんなさ〜い(_o_;;)。
2006年3月掲載分:『孫子』
2006年2月掲載分:松下幸之助
2006年1月掲載分:ボビー・バレンタイン

2005年12月掲載分:聖書/ヨハネス・ブラームス
2005年11月掲載分:トーマス・アルバ・エジソン
※9月・10月はお休みしちゃいました。ごめんなさ〜い(_o_;;)。
2005年8月掲載分:ジェフリー・チョウサー
2005年7月掲載分:山本有三
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2005年4月掲載分:フリードリヒ大王
2005年3月掲載分:フランクリン・D・ルーズベルト
2005年2月掲載分:蜂須賀家政
2005年1月掲載分:作者不詳(1960年代米国)

2004年12月掲載分:アントニオ猪木
2004年11月掲載分:戒厳司令部(ニ・ニ六事件の投降勧告)
2004年10月掲載分:ウィンストン・チャーチル
2004年9月掲載分:『東照公遺訓』
2004年8月掲載分:ジョージ・S・パットン
2004年7月掲載分:アルバート・アインシュタイン
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2004年1月掲載分:ビザンチン帝国皇帝マウリス

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2003年11月掲載分:ジョン・スチュアート・ミル
2003年10月掲載分:ランドゥール・カニンガム
2003年9月掲載分:『マーフィーの法則』より
2003年8月掲載分:エルヴィン・ロンメル
2003年7月掲載分:ニイチェ/新渡戸稲造
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