平成徒然草

 

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本について気になること
・自分に理解力がないのか、書き手が下手なのか?(このHPもひどいが・・・)
・著者はテーマについてちゃんと理解しているのか?
・箇条書きにすれば数ページで終わるものを、目いっぱい膨らませる必要があるのか?
・理解不可能な悪夢のような翻訳は、翻訳が悪いのか、原作が悪いのか?
(09.11)

日本音楽は存在するか?
文学、舞踊、建築など、様々な分野で伝統的な日本文化が今も生きている。
ところが、その例外が日本音楽ではないか。
まったく無いわけではないだろうが、お世辞にもきちんと生き延びているとは言えない。
今や、コンサートと聞いて雅楽や三味線を思い浮かべる人がいるだろうか?
朝のバロックではなく、朝の邦楽を楽しんでいる人がどれだけいるだろうか?
そもそも明治以降の西欧化のせいなのだろうが、それにしては音楽以外の日本文化が健在なのが不思議だ。
(09.11)

「孝」という思想
孔子の儒教の基本は「孝」にある。「孝」は親子や兄弟など血縁の結びつきである。
街を歩いていても電車に乗っていても、そこでひしひしと感じるのは「他人」という冷たい言葉である。
その点、孔子の思想は血縁に限るのだから、説得力がある。
もっとも、血縁だからといっても争いは決して減らないだろうが。
(09.11)

中古品どうし
子どものころから新しいものを次々と買うことに何の抵抗もなかった。新しい電化製品、新しい車、新しい家・・・。高度成長を遂げた日本経済のおかげだろうか。
しかし、最近購入しているものは、本はもちろんのこと、家も車もすべて中古だ。
決して日本が貧しくなったわけでもなく、ものが不足しているわけでもないのだが、浮足立った感じがなくなり、生活が落ち着いてきたようだ。
こう感じるのは、自分が「中古品」になったからかもしれないが、それだけでもなさそうだ。社会の成熟の一面だろうか。
将来、古いものに囲まれて、中古品どうし、仲良く静かに朽ちていきたい。
(09.11)

集団生活を考える会
集団生活のメリットは何だろうか?
食事、交通などを団体で行うことによる効率化だろうか?
例えば、米を大量に仕入れて大釜で炊飯することにより、人件費や場所代を差し引いても、各家庭が別にするよりも安くなるのであれば、それは集団生活のメリットであろう。
集まることによる精神的癒しのようなものがあるかもしれない。
べったり集まるのではなくとも、ちょっと話をするだけで何らかの効果はあるのかもしれない。
助け合いといった、人によって考え方の差が大きいことについては難しい。しかし、助け合いなどしたくない人が入っていてもいいのではないか。
集団生活の煩わしさなど、当然デメリットについても考えねばならない。
(09.9)

グイン・サーガの行く末
栗本薫の最期は悲惨だった。
彼女が明るくふるまえばふるまうほど悲惨さは増した。
彼女にはライフワーク「グイン・サーガ」を無理にでも完結しようという意図はなかったようだ。
実際に彼女が死に対しどのように対応したのかわからないが、もしかすると、本当にサバサバしたものだったのかもしれない。
彼女の作品が、死によって彼女とは完全に断ち切れてしまうのだということを悟っていたかのようである。
(09.9)

兄弟姉妹から人間関係を学ぶこと
子どもを見ていると、兄弟姉妹関係を通して人間関係を学習している部分が多いことがわかる。
逆に一人子の場合、この学習機会が当然少ないであろうことが想像できる。
発達心理学において、兄弟姉妹関係は、父母などと一緒に家族としてとりあげられることが多く、特別に重視されることはない。それでいいのだろうか?
(09.7)

人間は一回では何も理解できない
もちろん「一目惚れ」はあるし、本を一回読んだだけで頭に入る人もいるだろう。しかし、多くの場合はそれとは逆である。
大ヒットした自分も好きな曲を初めて聴いたとき、あまりピンとこなかった記憶はないか?好きになったのは、何度か聴いた後ではないか?
クラシック・コンサートは百曲程度の有名な曲(スタンダード曲)をとっかえひっかえ演奏しているだけである。
男女のお互いの最初のイメージというのは多くの場合外れている。
面白い小説のストーリーでもすぐ忘れるくらいだから、評論や論文になれば、メモをしたりアンダーラインを引きまくらなければ頭に残らないが、残念ながらそうしても忘れる。
曲や男女の好き嫌いは別にどうでもいいが、本の場合は理解できなければまずいので、これはなんとかしなければならない。
簡単な対策は「(わからなくなったら)もう一度読む」ということではないか?その時には「とばし読み」も役に立つだろう。
(09.6)

ご愁傷様とは何様?
「ご愁傷様です」とは他人の親族などが亡くなった時にとりあえず言っておけば無難な便利な言葉として使っているが、どうして「御」や「様」がつくのか不思議だ。しかし、ちょっと考えてみれば「お疲れ様です」「ご苦労様です」と同じパターンだと気づく。
「様」は相手を尊敬しすぎるような気もするので、試しに「様」を外してみると、「お疲れ」は言える。というかすでに使っている。「ご苦労」と「ご愁傷」はちょっと時代物風になってしまう。「ご苦労であった」「ご愁傷であった」みたいになってしまいそうだ。
(09.6)

手当て
手当ての語源は患部に手を当てて治すということにあるらしい。現代医学が普及した今、この呪術のような話は生きていない。私も信じてはいない。とはいえ、一つだけ手当てが効くように思える部位がある。それは胃である。胃は敏感でよくわからない臓器である。私が罹っている食道裂孔ヘルニアや逆流性食道炎という病気も不思議な病気である。季節の変わり目を中心に軽い胃痛が続く。胃がどういう状態でそうなっているのかわからないが、これに一番効果があるのが「手当て」であるようだ。なぜかはわからない。ただ、手を当てることにより、不思議と胃の不快感が雲散することが多いので驚く。この背後には間違いなく何かメカニズムがあるはずだ。しかし今のところわからない。
(09.6)

存在と時間
存在と時間はイコールであり、分けることはできない。存在は時間であり、時間は存在である。
私という存在がなければ時間は無意味であり、時間がないということは私も存在しないということである。
私が死ねば私の存在はなくなり、私の時計は止まる。とはいえ時が止まってしまうわけではない。私以外の人にとっての時間は続く。
道元『正法眼蔵』(有時(うじ)の巻)「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」。
(09.6)

ソリティアの恐ろしさ
ソリティアシリーズ3。
ソリティアにハマると時間が矢のように過ぎ去る。時間つぶしには良いのだろうが、君はソリティアで人生つぶしをしたいか?
数時間もやっていると体がおかしくなる。目の疲れ、頭痛、内臓への圧迫、精神の停滞、それらをごまかしながらやっていると簡単に病気になり死に至ることもある。
毒のように恐れていても、それは同時に蜜のように甘く魅力的である。頭を使わないようで適度に使う必要もある。運と頭を使う最高のアトラクションだ。
パソコンのボタンを押すだけで起動できる。道具も手間もかからない。手を伸ばせばそこにソリティアが・・・。でも君には今やらなきゃならないことが他にあるでしょう?
(09.6)

二つのエコ
ただ「エコ」とだけ言われると、「エコロジー」か「エコノミ―」かわからない。
簡単に言えば、地球のためにCO2の排出を減らそうというのがエコロジーで、日本の景気を良くするためにCO2を排出しようというのがエコノミーなのだろうが、この対立する二つのエコが同時進行しているので、話が複雑になっている。
京都議定書で決めたCO2排出制限が守れないので、高いカネを払って外国のCO2排出権を買うと同時に、景気回復のためには、高速料金を引き下げて車をどんどん走らせてCO2排出を増やしている。
CO2排出が少ないとうたった車や電化製品を、交付金を出して作らせたり買わせたりしているが、いずれにしろCO2を出さないわけではないのだから、結果的にはCO2排出は増えるだろう。本気でCO2排出を減らしたいのであれば、車や電化製品を買わない人に交付金を出したほうがいいに決まっている。
結局どちらのエコが大事なのか?と問われれば、やはりエコノミーなのだろう。明日の命の危機でも突きつけられない限り、エコノミーに勝てるものはなさそうだ。
(09.5)

カーペンターズのソリティア
ソリティアシリーズ2。
カーペンターズの「ソリティア」に言及しないわけにはいかない。作ったのはニール・セダカとフィル・コディである。
ソリティアと恋や人生をダブらせているが、ソリティアの虚しさと魅力について、もの悲しいメロディにのせて見事に歌っている。
ソリティアをしながら死にかけた私の人生とまったくシンクロしている。
(09.5)

脳死
脳死をめぐる議論は、突き詰めて考えれば、非常に簡単だ。要するに「臓器移植のために、他人の脳死は認めても、自分の脳死は認めたくない」という状況をどう打開するかということだろう。
(09.4)

老年特攻隊
もし戦争が始まって特攻隊を募らねばならなくなったら、若者ではなく老人をターゲットにした方がいいだろう。
命を捨てることに対する躊躇や未練は、年寄りのほうが少ない。中高年の自殺は今後増えていくことであろう。
アラブの自爆テロにも、夫や家族が戦死して、生きる希望を失った人物が選ばれているという話を聞いたが、それも老年特攻隊と似た発想ではないか。
(09.4)

悪に魅入られた体験
多くの人が振り込め詐欺だとわかりつつ被害にあうという不可思議な現象が発生している。これはもう「悪に魅入られる」とでも言わざるを得ないようだ。
この理知的な私も悪に魅入られ、自分で理解できない行動をとったことがある。今考えても不思議だ。
1.ローマ
ローマの街を歩き回り疲れ果てていた。なぜか急にそれまでしょっていたリュックを肩からおろし、手に持ち、なんと歩道の車道沿いにリュックをぶら下げて歩き始めた。当時、バイクによるひったくりの話は聞いていた。ローマがそのメッカであること、日本人ガイドがそれによりひきずられて死亡したことも聞いていた。しかしこのとき私がやっていたことは、どう考えてもひったくりを誘う行為であったとしか思えない。そして案の定、うしろから二人乗りのスクーターが近づいてきた。もちろん彼らが本当にひったくりだったのかどうかはわからない。私が彼らに気付き自分のしていることの恐ろしさに我に帰った時には、彼らは道路の反対側に気をとられ自分から離れて行くところだった。警官の姿でも見たのだろうか?わからない。
2.上海
安売航空券による到着は夜中近かった。バスはわかりづらく、もう無いようだった。そこにタクシーの客引きが話しかけてきた。しつこく言うようだが、タクシーの客引きが危険であることは十分知っていた。私はガイドブックマニアであるので、旅行者の体験記を含めて、その手の情報は嫌というほど聞かされていた。今考えても、なぜそれに無抵抗についていったのかわからない。結果として当然通常の4倍近い料金を支払わされたことは言うまでもない。疲れていたとは思えないが、夜中に着いた、あまり慣れていない、言葉も不自由な中国の空港に若干パニクったのかもしれない。
追加:H・P・ブラヴァツキー『インド幻想紀行』(第21信)
「インドに来て以来信じるようになったのは、生きた人間の「霊」の潜在能力、(ごくわずかの例外を除いて)今まで秘されてきた生来の、隠れた可能性です。一定の生活条件の下では、この霊―神の火花―は、煽らない限りほとんど消えた状態になる一方、人間自身の内部で霊力を開発することは可能で、一般人から見ると、後にインチキがばれた交霊術者の存在たち(エンティティーズ)が現わす現象よりもはるかに驚異の現象を生じさせられる、と確信しました。体操によって、筋力を十倍に強化でき、(有名なアクロバット選手に見るように)ほとんど超人的なしなやかさと弾力性が得られるのですから、生きた「霊」にだって、一定のトレーニングを受ければ、同じことができない理由はありません。」
(09.4)

温泉の効用
山奥の温泉の雰囲気を楽しむのは結構だ。温泉に入るのも気持ちはいいだろう。しかし、温泉に入ることのみとりあげれば、その効果は家の風呂とほとんど差がないことを一応認識しておくべきだろう。温泉に溶け込んだ鉱物に何らかの医学的効果があるにしても、それを飲むならともかく、それに浸かっても、人間は体表からほとんど何も吸収しないのだから、何の効果もないということを知っておくべきだろう。(09.3)

若者を見る楽しみ
今年もまた5月に早稲田大学正門で青空古本市がある。専門書がけっこうあるので毎年行っているが、この古本市の楽しみは大学生、とくに毎年の新入生の観察ができることにもある。全国から成績のいい学生が集まっているせいか、化粧やおしゃれの下手な田舎者の雄姿はほほえましい。先輩が後輩に言っているいい加減な本の解説も面白い。彼らも卒業するころには少しは垢ぬけて社会に入っていくのだろう。自分の若いころを思い出す。(09.3)

疑わしい「おくりびと」
納棺師を描いた日本映画がアカデミー外国映画賞をとったということで話題だが、今のところ見たくはない。納棺師と言っても葬儀屋の片割れだろう。葬儀屋とか坊主と聞いただけで印象は良くない。
先日の父の葬儀にはイケメンの華麗な納棺師など登場しなかった。仏頂面の社員がいかにも事務的にやるだけだった。まあ、下手にパフォーマンスなどやられては、また何万円か追加料金をとられるのだろうから、こちらからお断りだが。
映画に出てくるような納棺師はどこに存在しているのだろうか?地方にはいるのだろうか?本当に日本の伝統なのか?疑わしいものだ。原作のノンフィクションがあるようだが、この映画が脚色している部分も多いのではないか?
(09.3)

不老長寿をめざした人がかえって短命に
運動不足の人が短命なのはわかるが、人一倍体に気を配っていると思われる人に早死にされてしまうと、どうしたらいいかわからなくなってしまう。
昨年「整体の達人」岡島瑞徳が61歳で死んだ。
彼の師であり、野口整体の開発者であった野口晴哉自身も65歳で死んでいる。
体に注意し鍛えようとするの人は、皮肉なもので、本人が病弱であるケースが多いのかもしれない。
(09.3)

TVについて
TVのデジタル化は、改めてTVについて考えるいい機会になりそうだ。
最近の、液晶TVがブラウン管TVを駆逐した勢いはすさまじかった。今やブラウン管TVを買おうとしても見つからない状態である。しかし、これほどにブラウン管TVが絶滅されねばならぬ理由があったのだろうか?電機メーカーが高いTVを売りたかっただけではないのか?
デジタル化によって画面が鮮明になるようだが、美的に高画質が必要な番組にはいいだろうが、バラエティやニュースなど他の番組が高画質になってもあまり意味はないだろう。高画質になったということは、画面が小さくても鮮明に見えるということだから、大画面である必要はなくなるのかもしれない。
ところで、情報を伝えてくれるTVの機能は重要であろうが、本当に必要な情報というのはどれくらいあるのだろう?たぶんTV放送の1%くらいではないだろうか?それ以外のTV放送の大部分はCMといわゆる「娯楽」である。娯楽がこれほど身辺に溢れている状態は、人類が始めて経験しているものではないだろうか?
いちおうTVは自分でスイッチを切ることができるのだから、この娯楽の洪水を受け入れるかどうかは視聴者が自分でコントロールする建前になっているが、現実はどうなのだろう?
(09.2)

スパイダ・ソリティア
今ハマっているウインドウズ付属のゲーム「スパイダ・ソリティア」には不思議な魅力がある。
ありふれたトランプゲームでしかないのに、一回ごとのゲームにそれぞれ異なったイメージが伴うのだ。物語や映画のような雰囲気や映像をもったイメージである。そのイメージは自分に関係あることもあるし、ないこともある。
例えば終戦後の焼け野原とか、貴族の生活といった感じだ。前者はゴチャゴチャしていて最後まで片付かない。しかし活力がある感じでそれほど悪いイメージではない。後者は整然として上品なのだが、最後になって突然ゲームオーバーになってしまうこともある。
言葉で説明するのは難しいが、ゲームの展開が、最近の生活や過去の人生などの記憶と微妙に絡み合うようでもあり、面白い。
(09.2)

マックの計略
今日、いつも食べていた「てりやきマックバーガー」とコーヒーを頼んだら10円値上がりして400円になっていた。ムッとしたが、あと10分待って11:30になると、フライポテトがついたセットが490円になるというので、ちょっと待とうかと、いったん店から出た。外に出て頭を冷やしたら、自分のやっていることの馬鹿馬鹿しさに気がついた。
1.もともと、フライポテトを食べたいなどとは思っていなかった。
2.それにたぶんフライポテトが安くなるのは10円だけ。要するに今回の値上がり分が戻ってくるだけ。
セットになると安くなるからと言って食べたくもないものまで注文するのはやめよう!単品の値段で購入の判断をしよう!ああ、情けない。(09.2)

虎ノ門評論家
TVニュースで「オフィス街の声」みたいな感じで流れるインタビューを受けた中高年ビジネスマンの意見が意外としっかりしていて感心することがあるが、それも当然といえば当然だろう。なぜなら、虎ノ門あたりを暇そうにぶらぶらしている連中の多くは準公務員の社団法人や公共法人の社員であり、天下りの悠々自適な人々も多いだろう。多くの場合彼らの仕事は朝から晩まで新聞やビジネス雑誌を読むことであり、彼らはもともとそれなりの学歴をもった人々だから、いっぱしの評論家程度の発言ができるのは当り前だろう。(09.2)

葬儀のメリット
葬儀は「奇妙」で「坊主ぼったくり」ではあるものの、メリットがまったくないわけではない。死に対する精神的ふんぎりのつけ方を教えてくれたり、死体の処理をスムーズにやってくれることなどが挙げられるだろう。葬儀がないと、いつまで死体をそのままにしておいていいのか、処理のタイミングや具体的な方法がわからず、戸惑うこともあるだろう。もっとも、役所が代わりにやってくれれば、それでいいのだが・・・。(09.1)

ネットは産院?墓地?
ネットで検索していた情報が見つかっても、まず日付をチェックしないと、何年も前の催しものの案内だったりするので危ない。ネットには新鮮な情報があふれているというイメージがあるが、ネットの恐ろしさは、ネットには(あっという間に古くなってしまった)情報が山のように残っているということであろう。そしてそれらは古雑誌のように黄ばんだりせず、今生まれたような顔をしているのである。(09.1)

最も敬虔な宗教家
一見、そのように見えないかもしれないが、私はこの世で一番敬虔な宗教人である。誰も気づかないだろうが、私は朝起きてから夜寝るまで、一瞬も休むことなく、常に心の中で手を合わせ、神仏に祈りをささげている。
だから私は神社仏閣をはじめとした宗教施設に行く必要はない。初詣などチャンチャラおかしい。
(09.1)

天職
魅入られたように惹きつけられる。どんなに厳しくても辛く感じない。競争心も湧かない。恐怖心もない。褒められても当然としか思わない。報酬は少なくとも、あるいは無くともいい。もう働くなと言われてもやめられない。
(09.1)

外出の必要性
若いころには問題にはならないだろうが、ある程度の年齢になると、外出をしなくてもよくなったり、外出したくなくなったり、外出できなくなったりすることがある。
肉体的に、運動不足はさまざまな面で悪影響があることはけっこう知られている。しかし、問題なのは精神的な面である。家の中でやることがあれば、というか外出しなければいけないことがなければ、外出する必要はない、あるいは外出しなくてもいいのは一種の「贅沢」であると考えがちだが、これはとんでもない間違いである。
外出に伴う、気分転換、視野の拡大、ちょっとした緊張感、といった効果は、外出しないと得ることはできない。これは精神的健康の維持に極めて重要なのだが、このメリットは実際に外出しないとわからないという問題がある。
(08.12)

相続税って何?
国がいろんなことをやってくれる代わりに国民が納めているのが税金だろうということはわかる。国の経済的な仕事をフォローする税金がさまざまな商業活動にかかるということもわかる。
しかし、「相続税」って何だろう?汗水たらして働いたカネが死んだ時に残ると税金をとられ、残らなければ支払わなくてもいいのが「相続税」だ。
カネを残した人は残さなかった人に比べて国に余計に働いてもらって迷惑をかけているだろうか?逆のような感じもする。
たしかに、どちらかというと親に迷惑をかけてきた子供たちが、親のカネを自動的にもらうというのはおかしいのかもしれない。
税金には、国民の金もうけの才能を無視して、所得を平準化しようとする、という「出る杭は打たれる」的な極めて政治的な面もあるらしい。一度ちゃんとした法律の本を読む必要がありそうだ
(08.12)

出家の絶好の機会
今回の国際的な金融危機による株や外貨の暴落によって貴重な老後の資産を失った人がいるかもしれない。
一生懸命働いてきた血と汗と涙の結晶をあっという間に失くし茫然自失となっているかもしれない。
しかし、考えようによれば、これは財産を捨て世間を捨てる出家の格好のタイミングなのではないか。 無理をしなくても財産が勝手に減ってくれたのだから、神の思し召しと言えるかもしれない。
(08.12)

宗教は絵空事
神やあの世の存在を証明することは誰にもできない。たぶんそんなものは存在しないのだろうが・・・。
それにもかかわらず、宗教は人類の歴史とともに存在してきた。絵空事かもしれないが、必要性はあるということか。
初詣や葬式など、社会に公認された宗教儀式にも、根拠があるわけではない。
世に出回っている多くの「宗教本」は、もっともらしいことを書いているが、所詮、空想の羅列でしかない。
それを読むことによって費やされている膨大な時間や費用や頭脳を考えると、虚しさを感じる。
(08.11)

古本は好き、でも古本屋は嫌い
神保町には毎週通っている。神保町の古本のおかげで、定価の3分の1程度で数千冊の蔵書が揃えられたのだから、ありがたいことだ。
しかし、古本屋に対して愛着を感じたことはない。古本屋はただの商売人だから、高額の買い物をする人にもみ手をしても、ワゴンの廉価本を粗雑に投げたり、それを買う客を無視したとしても、それは仕方がない。
古本市などで古本屋たちが話しているのを聞いても、とても知的な本を扱っている人たちの話とは思えない。要するに彼らは読書家ではなく、やはりあくまでも本で金もうけをする商売人でしかないということだ。
(08.11)

地獄に最も近い人々
父の葬式をした。菩提寺が離れているので、とりあえず近所の見ず知らずの坊主に葬儀を依頼したところ、25万円取られた。今の世の中に、ちょっと何かを朗読するだけで25万円稼げるような楽な仕事が、他にあるだろうか?
坊主は、自分が本当に25万円の価値の仕事をしていると思っているのだろうか?25万円で成仏できるなどとペテン師のようなことを言って、自分が地獄に落ちないと思っているのだろうか?
(08.10)

本が読めない理由
1. パソコンのやりすぎ。・・・インターネットやゲームをやっていると時間はあっという間に過ぎ、気がつけば夜中だし、もう本を読む時間も気力も体力もない。
2. どうしても読まねばならないことはない。・・・結局、そういうことなんだよね。読めば面白い本がたくさんあるのに。仕事であればともかく、そうでもなければ。
3. 本を買うと忘れてしまう。・・・目の前にないと忘れてしまう。そんなことにならないように目の前に積んでおくと、瞬く間にまわりは本の山になり身動きができなくなる。
(08.9)

奥野修司 『心にナイフをしのばせて』
「1969年春、横浜の高校で悲惨な事件が起きた。入学して間もない男子生徒が、同級生に首を切り落とされ、殺害されたのだ。「28年前の酒鬼薔薇事件」である。10年に及ぶ取材の結果、著者は驚くべき事実を発掘する。殺された少年の母は、事件から1年半をほとんど布団の中で過ごし、事件を含めたすべての記憶を失っていた。そして犯人はその後、大きな事務所を経営する弁護士になっていたのである。これまでの少年犯罪ルポに一線を画する、新大宅賞作家の衝撃ノンフィクション。」(以上、文藝春秋社による内容紹介、2006.8)
殺人者が、社会的に更生したと認められれば、人を殺しても許されるというのは、殺人者にとっては、とてもありがたいことだろう。
(08.8)

奇妙な葬儀
TVで、人気漫画家の立派な葬儀を見た。風刺漫画を描いていた本人がおそらく最も嫌いそうな葬儀だったが、きっと遺言などで指示できなかったのだろう。
葬儀は、死んだ本人ではなく、残った人たちのためのセレモニーであるとはよく言われることであるが、有名人になると、まさに残った人、というか商売人たちのいいようにされたという感じだ。とくに、わけのわからない伝統を振り回して不景気知らずの荒稼ぎをしている坊主たち(なんで何人もいるんだ?)や葬儀屋は、笑いが止まらないだろう。
それにしても、今や100%アメリカナイズされてしまった霊柩車には違和感を感じる。今どき日本でこのような巨大なアメ車を乗り回しているのは暴走族か葬儀屋くらいのものだろう。
(08.8)

他人
電車から沿線の無数の家並みを見ていて思うのは、これらの家に住んでいる無数の人々がすべて自分とは縁もゆかりもない人々だということである。◇政治家や役人はさかんに「国民のみなさん」と言うが、そういうのは自分たちが勝手にやった(あるいは今からやる)ヤバイ話の責任を他に押し付けたいときに使う手だろう。(07/11)
テレビのニュースは、ほとんどが他人のニュースである。必要な情報がないとは言わないが、まずない。ましてCMとなれば、その商品が必要ない人に見せて買わせるのが目的なのであるから、何をか言わんである。(08/6)
加齢とともに他人への関心が薄れていくようだ。すべてのことに対して興味がなくなりつつあるのかもしれない。

議員の仕事
大分県で教師の採用や昇格試験の結果に外部から力が加わっていたというが、そもそも、金をもらってそういった闇の力を行使するのが、地方や国の議員の第一の仕事であろう。そんなことは誰でも知っている。わいろ、献金、袖の下・・・それがなければ議員の存在意義がないから、だれも議員にはならないだろう。(08/7)

学者の意地
有名な学者が「今まで禅の研究をしてきましたが、死が近づき、これからは浄土教で行きます」とは恥ずかしくて言えないだろう。せいぜいこっそりと隠れて念仏を唱えるくらいだろう。(08/6)

心霊術の致命的欠陥
霊を呼んで話をするという心霊術は、太古からいつの時代にもあった。しかし現代の心霊術は、国際化についていけないという致命的欠陥が明らかになってしまった。霊の世界に国境や言語のボーダーなどないはずなのに、なぜか呼び出される霊は霊媒の母国語しか話さないという欠点である。通訳はできるから原語のままで話してくれといっても話してくれないようだ。なぜだろう?(08/6)

命名効果(ネーミング効果)
「花粉症」に悩まされる人は多く、みんなTVの注意報を気にしてマスクをしたり(大げさな人は)ゴーグルをしたりしている。もちろんスギ花粉の増加といった科学的事実はあるのだろう。しかし、季節の変わり目に鼻や目の調子が悪くなるといったことは、むかしからあった。ただ「花粉症」という名前がなかったので、自分が「花粉症」の「患者」であるか否かという視点で見てこなかっただけである。もしかすると実際には「花粉症」は増えていないのかもしれない。自分が「花粉症」に分類されるということを知った人が増えているだけかもしれない。
そういう意味では、とくに季節の変わり目あたりに、みんな調子が悪いようだが、名前が付いていないので騒ぎにならない、といった現象があるような気がする。ヨーロッパでは気圧を健康のバロメータと考え、天気予報で伝えているところもあるそうだ。(08/6)

足元産業
足元産業と言っても靴や靴下の産業ではない。「人の足元を見る」産業である。はっきり言えば冠婚葬祭産業の別名である。結婚式も葬式も、あんなに金をかけねばならない理由はどこにもない。あるのは社会の人間関係くらいだろうか。足元産業は周りの目を(足元を)気にする人々の意識にうまく乗った商売なのだろう。しかし、社会も日々刻々変化しているから、気がついたら足元に何もなかったということもあるかもしれない。(08/6)

危うい翻訳文化
日本文化は外来文化によって支えられてきた。江戸までは圧倒的な中国文化の、そして明治以降は現代に至るまで欧米文化の影響であった。外来文化の導入は具体的には、翻訳という方法によることがほとんどであった。語学が苦手な日本人にとって、出会うのは必ず翻訳であり、原典ではなかった。となると、翻訳の質が問題である。重要なのは、翻訳の上手下手だけではなく、内容が正しいかどうかである。原典を読まない日本人には、それを問うのは難しいだろう。「読書百遍、意自ずから通ず」は「三国志」の言葉なので、翻訳ミスについて言っているのではないだろうが、日本人が読書百遍しなければいけない理由は、もしかしたらまずい翻訳にあるかもしれない。(08/5)

書斎曼荼羅
本が整然と並ぶ書斎は一つの曼荼羅である。一冊の本の背表紙は小さいが、それぞれがその奥に大きな世界を持っている。曼荼羅の一つ一つの要素は常に見えていなければならない。積み重ねられたり箱にしまわれた本は、その時点で曼荼羅から脱落してしまっている。
(08.4)

他人の目の必要性
倫理的な面を言っているのではない。異性の目、と言った方が正しいのかもしれない。他人の目があると、腹が引っ込み、姿勢が良くなるのはなぜだろう?という話である。表情にも緊張感というか締まりがでるから不思議だ。何歳か若く見えるし、自然と好感が持てる。これはすごいことだ。逆に言えば、他人の目が気にならなくなったら、人生おしまいかもしれない。(08/4)

聖火は存在しない
火は物質ではない。物質と酸素が高温で化合する「化学反応」である。オリンピックの聖火も「火」自体は物質ではなく化学反応である。燃える物質を考えれば、ギリシャの「採火用のたいまつ」と中国の「オリンピックのたいまつ」とは別物であるから、それが燃える火に連続があるはずがない。もし聖火が消えてしまった時にマッチで点け直したとしても、最初からギリシャの「聖火」ではないのだから問題はないだろう。(08/4)

ネットの墓地
私はいくつかHPをやっている。そして死にかけた。ところが、私が死んでもHPは残る。もちろん誰かがHPを置いているプロバイダーの契約を解約するまでの間だろうが。しかし口座に十分な残高があって、誰もプロバイダーの契約解約に気がつかなかったら・・・。私のHPはネットの中に私の墓のように、空の星のように半永久的に残るのだろうか。(08/4)

家畜とペットの違い
世界中の人々が家畜とペットをどう区別しているかは永遠のなぞである。日本でも、TVでペットを溺愛する人々が紹介される一方で、生きていれば同じくらい可愛いであろう子羊や子豚の丸焼きがグルメコーナーで紹介されている。家畜は生まれたときから食べられる運命にある、といった理屈づけではないだろうが・・・。(08/4)

葬儀費用2,250円
葬儀費用に含まれるのは、葬式代金として支払われる、仕出し、布施、葬儀などの費用であるらしい。普通の葬儀だと合計200万円くらいかかるようだ。私の場合、死んだ後に友人・知人を集めてもしかたがないし、普段縁のない宗教関係者にこんな時だけ来てもらっても意味がないので、葬式をやるつもりはない。となると、やってもらわねばならないのは、死体の処理だけだが、それはいくらくらいかかるのだろう?ちなみに地元の市営斎場の火葬は2,250円だそうだ。無縁仏でよければ、これで済むのだろうか?(08/4)

「老子」は訳すべからず
「老子」や「菜根譚」といった中国の箴言集を、現代語訳というか自由訳するのが流行っているようだが、これらの企画者はとんでもない勘違いをしているようだ。「老子」などを現代日本語訳するのは、例えれば、俳句や短歌を英語に訳すようなものであろう。あなたは英訳された俳句が面白いだろうか?面白さが外人に伝わると思うだろうか?中国語の作品、とくに「老子」「菜根譚」のような箴言集になると、それは中国語の特徴を生かした詩のような作品である。もともと中国語の発音や韻を楽しむものであり、意味や内容がないとは言わないが、それは二の次である。「道」という表現や自然や生命などへの言及により、まるで深い哲学的・思想的内容があるように感じるかもしれないが、所詮すべては、芸術的装飾でしかない。
「シナ語は論理的な思索には適合しないものであり、寧ろそれを妨げるものである。(但しシナの詩の有する特殊の情緒はこのシナ語の性質によるところが多い。)」(津田左右吉『シナ思想と日本』岩波新書p.27)(08/4)

相対的不幸
人が自分が不幸だと思うのは、他に自分より幸福な人がいることを知ったときだろう。他人の不幸は蜜の味というが、他人の幸福は毒の味である。われわれは毎日マスコミが流し続ける他人のニュースによって一喜一憂している。たまに与えられる蜜の味が忘れられず、ニュースから離れられないのだが、結果的に毒にやられてしまうことの方が多いようだ。この悪癖を断ち切るべきだろう。他人の幸福を知らなければ、人は相対的な不幸を味わうことはなくなるのである。(08/1)

おかしな携帯電話規制
携帯電話の使用の規制が話題に上ったのは、たしか携帯が巨大で成金の土地ブローカーくらいしか持っていないころだった。その方々が新幹線のグリーン車で、これ見よがしに携帯でかい声で話をした(感度も悪かったのかもしれないが)のにクレームがついたのが最初だったはずである。しかし、そのとき規制を求められたのは「大きな声の会話」であったはずである。問題は、いつごろから「ペースメーカーに悪影響がある」というのが規制の理由としてあがってきたかである。ペースメーカーへの悪影響が話題になってから、規制の理由はもっぱらこればかりである。科学的な根拠があるような感じがするのがいいらしい。
問題は三つある。@小さな声で話せば使用してもかまわないはずなのに、どうしてだめなのか?全面的に携帯禁止してしまっては、どこでもかけられる携帯のメリットがゼロである。Aペースメーカーへの悪影響に科学的根拠はあるのか?実際にペースメーカーがおかしくなったという話を全然聞かないのはどうしてか?B携帯でメールをすることが放任されているようだが、メールだって電話と同じ携帯の使用であり、電波を出しているはずだが?(08/1)

無関係
日本人の野球選手がアメリカで活躍しようが、多額の給料をもらおうが関係ない。オリンピックで日本の選手がメダルをとろうがとるまいが関係ない。日本人の科学者がノーベル賞をとっても、日本の企業の製品が世界で爆発的に売れても関係ない。それと同じように、日本人が戦争中に何をしようが関係ない。食べたこともない鯨を捕ろうが関係ない。(07/12)

不幸な金持ち
カネがあったほうがいいのは常識だ。ところが、いい生活には雪ダルマ式にもっと多くのカネが必要になってくる。いい家に住むといい車に乗らざるを得なくなり、外出するときにはいい服を着ざるをえなくなり、スーパーも高級なところに行かざるを得なくなる。シンプルな生活など到底できなくなる。この悪循環に乗ると、いくら金持ちになっても満足することができず、幸福になることはできない。(07/11)

消費戦争は卒業
消費にもエネルギーが必要なようだ。そのエネルギーがなくなると世の売らんかな戦争は別世界の出来事になってしまう。テレビのCMも新聞の広告も、新しい店のオープンも関係ない。生きるために必要なものはほんのわずかしかない。(07/11)

死ぬと関係ないこと
先日死にかけた。今死ぬと、多くの心配事から開放されることに気づいた。もう地球の温暖化も関係ない。日本経済の明日も関係ない(もともと関係ないか?)。消費税アップも関係ない。TVのデジタル化も関係ない。年金も関係ない(どうせもらえないんだから)。(07/11)

敵は隣にいる
社会的不正を弾劾する際、「もちろん自分は弾劾を受ける方ではない」という前提がある。しかし多くの人や企業や役所がいれかわりたちかわり不正を摘発され弾劾されているうちに、気がつけば、弾劾されている人や組織の直接の関係者から、なんらかの形で少しはうるおっていたという人まで合算するとそれは相当の数にのぼるだろう。となると、もし、まったく後ろめたくない人しか他人を弾劾できないとしたら、弾劾の声は急激に小さくなるのではないか。(07/11)

税金で食べている人々
税金が増えるのは誰にとっても嫌なもの・・・と考えるが、実際はそうでもないようだ。世の中には「税金で喰っている」人々がたくさんいるのだから。@税金が収入であるだけでなく、税金を自由にできることがその権力の背景である政治家や国家公務員。A税金で運営されている天下り法人の従業員・社員。B公共事業で儲けている企業の社員。・・・彼ら、さらに彼らの家族・一族にとって、増税は収入の素なのだから、決して悪いニュースではないだろう。(07/11)

させていただく
昨今TVに登場する人々のコメントは「させていただく」の連発だ。とくに政治家とサービス業者の使い方が激しいようだ。言われるたびに「誰も許可してない!」と言い返したくなる。あまり言われ慣れてくると、「国民の皆さんは無視させていただきました」「お客様からぼったくらさせていただきました」などと言われても何も感じなくなるかもしれない。
「なぜ「させていただいている」のかというと、結局、他者とか全体からの意向に謙譲しているのだというような回路を設定し、その中に組み込んだ形で自分の行為を位置づけようとしているのである」(黒住真『複数性の日本思想』p.176)(07/11)

 


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