老いと死
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ハロウィン
10月末はハロウィンである。
もともとキリスト教とは関係のない、古代信仰に基づく収穫・死者の祭りである。
西洋版「お盆」と言えるだろう。東アジアの「お盆」も仏教と関係はない古代信仰であるから、その意味でも似ている。
「収穫」と「死者」は関係ないようで実は深く関わっている。
死は人生の収穫ともいえようし、作物の収穫は作物の死でもある。
(09.10)
睡眠と死
睡眠中も人は生きている。死んではいない。しかし意識の面からみると、人は睡眠により意識を失う。意識だけをみると、人は毎日死んでいるようなものである。逆に死は永遠に覚めない睡眠ともいえるかもしれない。このことは、あまりに当然のことなので、誰も深く考えようとはしない。明日の朝、もしかすると目が覚めずに、このまま死ぬのではないかと心配する人はほとんどいない。
死が睡眠のようなものなら、臨死体験は夢ではないか。希望通りの夢を見ることはできないが、意識が夢に影響を与えているのは間違いない。死にかけた人の見た夢がいかにもそれらしいもの(臨死体験)であってもまったく不思議はなかろう。
(09.9)
医者と宗教家
かつて人の死をとりあつかったのはシャーマンであった。
その後、シャーマンの機能は科学や宗教にわかれ、シャーマン自身は消えた。
現代において、シャーマンの死を巡る仕事を引き継いでいるのは医者と宗教家である。
医者は科学的治療法により、多くの人を病気や怪我の苦しみから解放し、人の寿命を延ばしたが、それに精神的な救いが伴わないため、残念ながら幸福につながっていないことも多い。
死の精神的なフォローをしなければならないのが宗教家なのだろうが、医者に比べると、目に見える革新などがないためか、まったく精彩がない。
多くの宗教家がいるのに、ニーバーの祈り、「変えることのできないもの(たとえば死)については、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ」を上回る救いを与えてくれる宗教家はいない。
(09.9)
大量死の時代
太平洋戦争の4年ばかりの間に310万人の日本人が死んだ。
毎日、知りあいや身の回りの人々が死んでいく時代とは、どんな時代だったのだろう。
その時の「死」に対する考え方は、今とはずいぶん違っていたことだろう。
最初のころは、死の恐怖や生への執念は強かったかもしれないが、末期には相当弱くなったのではないか。
(09.9)
死を楽しみに待つ
何の楽しみもないつまらない生活の先にも必ず死は待っていてくれる。
苦しくつらい日々が続いていても死は必ずそれを終わらせてくれる。
暗闇の先にある光が死である。
(09.9)
死のつらさは人生の楽しさに比例する
人生が楽しければそれを失うのはつらい。
人生が楽しいのは素晴らしいことかもしれないが、楽しければ楽しいほど死は苦しい。
楽しさを死後にまで持っていくことはできない。いずれ全て失う。
(09.9)
二度わらし
人生は山登りのようなもので、後半は下り坂となる。
老後の標高は子どもの時と同じであるから、老後見る景色は子どもの時見たものと同じである。
自我の希薄化、足腰の弱体化、発語の不安定化など、かつて人生の初めに経験したことを再び経験することになる。
(09.8)
絶対的価値基準
死はすべての絶対的価値基準である。
死を前に、それまで偉そうなことを言っていた人が慌てふためくのをみれば、実はたいしたことを言っていなかったのがわかる。
改めて、ブッダがまともなことを言い、まともな人生を送ったことがわかる。
もちろん、出家などしなくとも、ブッダのような生き方をすることはできる。それはブッダもわかっていただろう。
(09.7)
要不要
基本的に、生きる必要がなくなったら死は近づくと考えた方がいいようだ。
バリバリ仕事をしている人が死ぬこともあるが、それは過労・ストレスといった別の理由だろう。
身体を動かして頭を働かせている限り、寿命も「まだ死ねないな」と思うのだろうし、逆に、仕事がなくて身体を動かさない、あるいは「生きるのがつまらない」などとばかり言っていれば、寿命は「あ、もういいのね」と思うのだろう。
外面的に「若づくり」することは、精神的にも良い効果があるのかもしれない。
この面では、早々と引退して気ままに過ごすのは良くないのか、死ぬまで働いた方がいいのか、精神的にも悟りきるのは良くないのか、など判断が難しい。
さらに、これもまた、これまでして長生きするのがそんなにいいことか、という究極の疑問につながる。
(09.7)
姥捨て山
姥捨て山はなぜ「姥(老婆)」なのか?捨てられるのは女性だけか?
男性は長生きしないからか?男性中心の儒教思想の影響か?
(09.7)
デクレシェレンド
山の下りはデクレシェンドである。静かに消え入るように・・・である。
「回復」も「回生」もいらない。後ろを振り返る必要はない。
目の前に「死」と「無」があるだけである。
(09.7)
毒薬が幸福への薬?
中国の錬丹術で生み出されていた不老不死の丹薬は、水銀やヒ素といった劇薬を含んでいたことが今では知られている。しかし、昔の人に化学的知識がなかったことを笑うだけでいいだろうか?
もしかすると、彼らは自分の作っている薬が毒薬であること、それによって人が死ぬことを知っていたのではないか?
例えば、この世よりはるかに素晴らしい死後の世界が本当に存在すると信じていたら、毒薬は死=幸福への薬ということになるのではないか?
もちろん、死への恐怖はそう簡単にはなくならないだろうから、丹薬による神仙の世界への羽化を信じるようになることが前提であろう。そのためには、方士による「神仙伝」の紹介や巧妙な説得などがなされたことであろう。
(09.7)
絶対逃れられない
みんな知っているように、誰も老いと死を避けることはできない。
それらをちょっと遅らせることはできるかもしれないが、できるのはそこまでだ。
「若く見えるね」「長生きだね」と言っても普通より多少ましだということでしかない。
若返るわけではないのだから、元気な「じいさん」「ばあさん」になるだけである。
まして、本当に幸せになれるかどうかもわからない。
(09.6)
出家のすすめ
◆「この世をはかなんで、必ず生死の迷いの境地から逃れて悟りたいと思うならば、何が面白くて、朝夕主君に仕え、家庭をかえりみる営みなど、せっせとやれようか。心というものは、周りの色々な関係にひかれて動くものであるから、静かな境地にいなければ、仏道は修行しにくい。」(吉田兼好(1283〜1350)『徒然草』第58段)
◆「出家の一大事を発心したような人は、よんどころなく、気になっているような素志を、すっかり片づけないで、そのまま捨ててしまわねばならぬ・・・寿命も人間を待ってくれはしない。無常という死がやってくることは、水火が押し寄せてくるよりも素早く、逃れにくい」(『徒然草』第59段)
◆「人は何事につけ、思い切って即座にやめれば、それで即座にけりがつくものである。ところがもし、やめるのに適当な時機というものを見つけてからと思うと、(いつまで待ってもその時機は来るものではない)、嫁取り嫁入りをすっかり済ましてしまっても、俗事はいっこうに少なくならないし、(それではと)、出家して僧や道士になるのがよいと思っても、そんなことでは心性を悟りきれるものではない。古人も「今すぐにやめてしまえばやめることができる。しかし、もしやめる時機を見つけようとしていたら、やめる時機はないだろう」と言っている。まことに卓見である」(洪自誠(1600ころ)『菜根譚』後集15)
年寄り料理人
年をとると感覚が鈍くなる。視力は一番気づきやすいが、他の感覚は自分ではなかなか気がつかないこともある。例えば、嗅覚が利かなくなって、自分の体臭や口臭がわからなくなってしまっても、あまり不自由はしないので気づかない。たぶん若い人など周りの人は迷惑を被っているのだろうが。
プロの世界には味覚や嗅覚を武器にしている人がいる。味覚を売り物にする料理人や料理評論家、さらには嗅覚を使って香水を製作している人などもいるようだ。
彼らも加齢とともに能力が衰えているはずである。それともプロはそれほど衰えないのだろうか?もし衰えていることを周りが気づいたとき、そして本人が気づいていないとき、難しいだろう。
(09.4)
ありふれた話
「(私(新井白石)の親には)初め女の子が二人まで生まれたが、二人とも、三つにならないうちになくなり、その次もまた女の子で、十九歳で亡くなった。私には妹が一人あったが、十八歳で死んだ。」(「折たく柴の記」)
「白石は、妻朝倉氏との間に三男六女を得たが、うち五子を幼いうちに失くしてしまった。これはおそらく当時の日本の幼児死亡率の高さを示しているのであって、必ずしも子どもたちの体質の虚弱、ないしは両親の不注意の罪に帰することはできないであろう。しかしいま六十一歳になって三男(宜卿)に先立たれたことは、白石にとってよほどの打撃であったにちがいない。」(桑原武雄「日本の名著・新井白石・解説」)
(09.2)
老衰は死因か?
老衰は死因になりうるのだろうか?年老いて衰弱した人間にとっては、取り囲む環境すべてが死因なのではないか。人間の体は、若いころ本人は意識しないが、常に過酷な環境と闘い続けている。防御の手を休めれば、たちまち環境につぶされるだろう。がんという内乱がなくとも簡単に死に至るであろう。
(09.2)
認知症の精神的原因
NHKの番組で、認知症の精神的原因として「人との会話が少ない」「生きがいのある活動的な生活でない」があがっていた。食べ物や運動に気をつけるだけではなく、「生き方」にも気をつけねばならないということなのだろう。これは私の脳卒中の原因にもあてはまるかもしれない。
(08.12)
精神的寿命
人間の寿命には、肉体的なものと精神的なものがある。肉体的な寿命が話題になることが多いようだが、精神的な寿命も重要である。人間が死ぬのは肉体的寿命によるだけではなく、精神的寿命によることも多い。精神的寿命がくれば肉体的寿命がきていなくとも死ぬ。私がそうだ。
精神的寿命はボケとか精神的疾患のことを言っているわけではない。やる気のなさ、楽しみのなさ、生きがいのなさといった状態を意味している。寿命をエネルギーの枯渇と定義すれば、まさに精神的エネルギーの枯渇である。
(08.9)
人間の身体という共同体について
人間の体は60兆もの細胞が見事に共同生活をしている不思議な共同体である。死に関してもこの細胞は一致団結しているようだ。70〜80年ですべての細胞が死を迎えることに同意しているようだ。(08.12)
「知る」と「わかる」
死について「(机上で)知る」ことと「(リアルに)わかる」ことが違うということについては多くの人が語っている。とくに自分が知的な人間であると自覚し、それなりに立派な死生観を述べていたような人に、この現実を知った時の衝撃は強いらしく、自分を納得させるためにも、この「知る」と「わかる」について悩まざるを得ないようだ。(08.12)
宗教と死
宗教が役に立つのは、生きているときの、つまり現世の苦しみを減らしてほしいときだろう。死ぬときには、どの宗教を信じようが、敬虔な宗教家だろうがなかろうが、極端な話、無宗教だろうが、差はない。(08.10)
平等な死
死は誰にも平等に訪れる。勉強しても悟っても訪れる死は同じ死である。金持ちも貧乏人も有名人も無名人も、訪れる死に差はない。世の中にこれほどの平等があるだろうか。(08.10)
さっくりとした死
「さっくり」というのは現実の死の表現にいいのではないか。平静感、乾燥感をよく表している。病気などで長く苦しんだ人でも死ぬ時はあっさりとしているように感じるものだが、それをもうまく連想させる。(08.10)
仏陀の体験
仏陀は「生老病死」について悩み出家したという。つまり、生活に何不自由ない若き王子シッダルタが、他人の悩みや苦しみを知り(街で老人や病人の姿を見て)、決して自分の切実な問題ではないにもかかわらず、いわば「知的に」関心を持ち、それに一生を費やそうとしたわけである。これは「死」について悩む若者と同じであろう。(08.8)
自分の死の体験
昨年の自分の死の体験は、突然であった。何の準備もできなかった。誰に別れを告げることもできなかった。
生き返ってその後今に至るまで、あの時死ななくてよかった、今も生きていてよかったと思うことは一度もない。(08.8)
二種類の死
死は通常、老いや病気によりエネルギーが減少し、枯渇した状態で訪れるものである。しかしそうでない死もある。私のような突然死である。老いもほとんど未経験であった。(08.7)
アンチクライマックス?
生前、死について立派なことを言っていた知識人の、死にぎわの最後の思想や発言や行動が不思議と伝わってこないのはなぜか?彼らの死は、生前のイメージとあまりに異なる、報道できないほどのアンチクライマックスなのだろうか?
人生や死生観などについて立派なことを言っていた人がありふれた、あるいは普通より恵まれない死に方をしたとしても、それをあざける人はいないだろう。なぜなら誰もそんな因果応報は信じていないからだ。(08.7)
「安楽死・揺れるEU」
「ベルギー:望み通りの死、フランス:許されず女性自殺」
「国ごと異なる対応、「合法」求め国境越えも」
「法整備遅れる日本」
(08.5.24朝日新聞)
年老いた親に対するアンビバレントな感情
年老いた親はいつまでも元気でいてほしい。しかし、年老いた親には会いたくない。年寄りや病人と一緒にいることにより、こちらの気持ちまで暗くしてもらいたくないということだろうか。
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死は生の定め
NHKスペシャル「立花隆・思索ドキュメント:がん・生と死の謎に挑む」を見た。
がん細胞は体細胞の一部であり、がん化は生命の定めであり、その治療は不可能に近いということがわかる、いい番組だった。
人類の半分がガンにかかり、3分の1がガンで死ぬそうだが、もしガンにならなくても、人間は80年も生きれば、他の理由で必ず死ぬ。
遺伝子末端のテロメアがなくなり、細胞が分裂しなくなってしまうらしい。
これを「定め」と呼ばずしてなんであろうか?
(09.11)
父の死の拒否
父がガンと死の宣告を受けてから、父の死を封印し拒否してしまった。
そして、まるでその宣告がなかったかのように振る舞った。
父にとってもその方がいいのではないかとも思った。
今思うと、事態を直視して、父とも死を前提としたつきあいをした方がよかったのではないかと、反省している。
(09.11)
天寿など全うできなくて当たり前
誰もが当然のごとく、自分は天寿を全うできる、全うしたいと考えているかもしれないが、人類の歴史を見ても、動物の生活を見ても、長生きできるのはほんの一握りであったのが実態である。
現代の日本には戦争の恐れもなく、食糧難の可能性もない。これは奇跡的に恵まれているのではないか。私も10年前に生まれていれば空襲や食糧や医療の不足で死んでいたかもしれない。少しの差で死んで当り前という時代だったのだ。
子どもが多くてもほとんどが育つことなく若くして死んでいた。今では考えられないことだ。そのころは死についての考え方も今とは違っていただろう。
(09.8)
動物のように死ねない
動物は、いつか来る死を待つ。待つというよりは、ただ自分の状態をそのまま受け止めているだけだろう。楽なはずだが、人間はそのような生活がなかなかできない。(08.8)
チンパンジーは「現在」のみにに生きている。過去や未来を考えたり、それらに悩むことはない。それがチンパンジーの限界であり幸せなところでもある。(京都大学霊長類研究所教授 松沢哲郎氏)(09.7)
未練
死が辛いのは、現世に未練があるからだろう。家族、友人、財産、地位、夢・・・など。たくさんあるし、とても捨てることはできない、というのが定説だろうが、しかし、よく考えてみれば、どれも決して捨てられないものではない。
多くの宗教も似たようなことを言っている。財産は宗教団体に納めろといったちょっと見当違いの勧誘もあるが・・・。
もし現世への未練が死をつらくしているのであれば、老後少しずつでもこれを捨てていけばいいのだろう。(08.10)
死が幸福という考え方
死=悪あるいは不幸、というのが常識的な考え方だが、そうでない考え方もあるだろう。なにしろみんな最後は死ぬのだから、人はみんな最後は不幸になるというのもおかしな話だ。(08.9)
親の死の受け入れ方法
・親の死はすべての人が経験することである。さらに、身のまわりの人の多くがすでに親の死を経験している。
・毎日膨大な数の親が亡くなっている。
・順番であり、自分ももう少ししたら死ぬ。
(08.8)
死の経験
他人の死をたくさん経験しているほど、死に対する抵抗は少なくなるのではないか。そのためには、まわりに人がたくさんいて、死もたくさんあるという環境が必要だろう。もちろんそうであっても、自分の親や自分自身の場合は別かもしれないが。
死はありふれたできごとである。毎日多くの人が死んでいる。この当たり前のことを肌で感じることができなくなっていることの方が、よっぽど異常なのではないか?(08.8)
ひとり静かに
死の宣告を受けた時に、もしまわりに人がいなければ、そのショックは小さいのではないだろうか?死ぬのがつらいのは、周りに人が、とくに元気な人がたくさんいるからではないか?
TVをつけても、CMも番組も、みな大声や大音量の音楽を流している。これは死にゆく人の気がおさまるような環境ではないだろう。いくら便利で生活がしやすいといっても、やはり死ぬときはひとり静かに迎えたいものだ。(09.2)
他人の存在
この世に自分一人しかいなければ、人は死について考えなくなるのではないだろうか。誰もいないというのはありえないにしても、少なくとも身の回りに他人の存在が少なければ少ないほど、死について考える必要がなくなり楽になるような気がする(修道院へのあこがれ)。死について考える裏には、羨望や別れといった他人との関係があるのではないか。(08.6)
死なない人はいない
世の中に、死なない人はいない。生きとし生けるもの、早い遅いの違いはあるが、誰もが例外なく死ぬ。みな死にゆく仲間だ。これはとてもありがたく、気がおさまることだ。死について悩むのが馬鹿らしくなってくる。
最高の知恵を与える秘伝の書には、ただ一言「お前は死ぬ」と書いてあるのではないだろうか?この言葉の前にひざまずかない人間がいるだろうか?これ以上の真理があるだろうか?
すべての過去の人類が避けることのできなかった「死」を前にして、今生きている人間がなぜ恐れ戸惑うのか?なぜ自然に迎えることができないのか?
(08.5)
肉食動物に捕獲された草食動物の眼
肉食動物に捕獲された草食動物の眼は不思議だ。恐怖も怒りも何の感情も表してはいない。初めてで最後の経験を前に、精神が混乱しているのだろうか。彼は、もうすぐやってくる死の意味を意識してはいないだろう。生まれたときに与えられた生と同じく、自然に与えられた死を、ただ当たり前のように受け入れるだけだ。
死について考えない
世がこれほど死に満ち溢れているのに、多くの人がそのことを考えずに面白楽しく生活しているのは不思議なことだ。
若い人の死
新聞の死亡欄に自分より若い人が載っていると、それだけでうれしい。
今死んでも変わりはない
今死んでも、これから何十年か生きても、あまり変わりがあるとは思えない。今後、つらいことより楽しいことの方が圧倒的に多いとは思えない。どちらかといえば逆ではないか。
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生き過ぎ
最近の人間は生き過ぎているのではないか。昔だったらとっくに死んでいる人たちがみんな生きている。
昔だったら、老いた頭と体をひきずって、いつまでも生きるのと引き換えに闘病の老後生活を続ける必要はなかっただろう。その前にとっくに死んでいたから。歳とってから自殺する必要もなかっただろう。
(09.3)
延命治療
病院が家族の同意を得て延命治療を中止することの善し悪しが問われることがある。
この「延命」を問うことは、まさに「長寿」を問うことに他ならない。
(09.2)
下り坂の後半生をどう考えるか?
一生は前半の上り坂と後半の下り坂からなる。人は普通、上り坂の頂上で死を迎えるわけではない。頂上を人生の半分で越え、その後の半生は下り坂である。
下り坂は、肉体的にも精神的にも衰える一方である。それを「楽しい後半生(老後)」と考えるのにはちょっと無理がありそうだ。人生の後半はこんなものだと考えねばならないのだろうが、どうしても「諦め」が中心にならざるを得ない。
(08.12)
人生はなぜ最後に近づくにつれて悲惨になるのか?
(09.10)
医学のおかげ
長寿は古くから人々の願望であった。過去には立派な宗教家や聖人が、あっけなく短命で死んでいったが、現代人は医学のおかげで、修行も信心もなしで、みんな長寿を謳歌することができるようになった。
長寿の内容を見てみると、寝たきり、認知と、決して幸せとは言えないようだが、少なくとも生きてはいるようだ。
死ぬプロセスの引き延ばし
現代人の寿命が延びているということは、老化とのつきあいが長期化しているという意味であろう。それは本人も家族もである。これが長寿の一面である。親の長い老後を看取った後、今度は自分の長い老後が待っている。
医学の進歩が生み出したのは、死ぬプロセスの引き延ばしである。それは、もちろん喜ばしいことであろうが、つらいことでもある。最終的な死のつらさは変わらないのだろうが、それを短期的に経験するか長期的に経験するかという違いだろう。
何年にもわたる死ぬプロセスは、皮肉にも、本人や家族に死への期待をもたらすかもしれない。それがポックリ死へのあこがれに現われているのだろう。(08.8)
長寿より早世
長生きしてもたいして楽しいことがないことは、誰でも気づいているはずだ。みんなそう思っているのに、どうして大声でそう言わないのか?「もしかすると今後、何かいいことがあるかもしれない」とでも思っているのだろうか?そんなことがないことは、まわりの年寄りを見ていればわかるだろう。
幸福を味わえる年齢
理想的長寿は長ければいいわけではあるまい。
幸福を味わうためには肉体や精神にエネルギーが必要である。いくら社会的に認められ、経済的にゆとりがあったとしても、その幸福を味わうためにはエネルギーが必要である。そのエネルギーがなければ、幸福の持ち腐れ状態である。つまり、幸福を味わうにはエネルギーの面から年齢的制限があるのである。
言い換えればそれが理想的長寿の限界でもあるのではないか。
ところで、そのエネルギーから見た理想的長寿は何歳だろうか?幸福を味わうために必要なエネルギーがある年齢とは?50歳だろうか、60歳だろうか?80歳や90歳ではないだろう。(08.9)
年齢による生死観の変化
すべての見方が年齢とともに変化するが、とくに生死観についてそれは言えるようだ。若い人にとっての死と老人にとっての死は違う。老人にとっての死はリアルであろうが、それにもかかわらずというか、それゆえにというか、抽象的な「死」のために苦しみ自殺する老人は多くはないようだ。(08.7)
親不孝じゃなくて子供不幸
長生きして子供に世話をさせるのは親の権利なのか?自分が90まで生きれば子供も70近くだということがわかっているのか?子供はそのうち大きくなって自立するが、老人は何十年たっても死なないかもしれない。
親の介護や死で子どもを苦しめ悲しませるのであれば、子どもはいない方がいい。
なぜもっと生きたいのか
今後何も良いことのなさそうな老人がなぜもっと生きたいのか?
老化からの救済
つらい老化からの救済のシステムが死なのではないか?
悲惨な「最長寿」
TVで報じられる多くの「最長寿」は、ほとんど話すこともできず、ただ生きているというだけ。それがなんでおめでたいのか。
これからの葬式 ▲トップへ戻る
葬式が変わらない理由
◆伝統的な行事だから仕方がない。先祖に逆らえない。
◆他に選択肢がない。遺体・遺骨を勝手に処分すると犯罪になる。
(09.5)
葬式は誰のもの
葬式は個人のものだろうか、それとも集団・社会のものだろうか。確かに一人っきりで生きてきた人は少ないだろうから、その死に影響を受ける家族をはじめとした多くの関係者がいるのが普通だろう。そういう意味では葬式は社会的なセレモニーなのであろう。
社会的セレモニーの裏には、訳のわからない理由で少なからぬ収入を挙げている宗教や葬儀関係者がいる。葬式は彼らのためのものでもあるのだろうか。
(09.5)
宗教なしの葬式
歴史上、今まで世界中で宗教なしの葬式というのはあまりなかったかもしれない。しかし、現代のように宗教の価値が落ちた時代も今までなかっただろう。これからは宗教なしの葬式が求められてくると思われる。(09.5)
宗教なしの死体処理
宗教がなくとも人が死ねば死体が残る。死体の処理システムは必要である。すでに自然葬といった新しいシステムはある。合葬という方法もある。しかし現在まだそれらは宗教とつながっているようだ。宗教式葬儀の歴史、あるいは寺の収入の関係で縁が切れないのだろうが、そろそろ宗教と無関係の死体処理システムができてもいいのではないだろうか。なにもすべて宗教なしにすべきということではなく、宗教なしでできる道も開いておくべきだということである。(09.5)
現在の合葬
インターネットには多くの寺の合葬の宣伝が出ている。「宗派を問わない」「安い」といったことを宣伝文句にして、地元の檀家にこだわらず、全国から募集しているようである。たしかに檀家の減少が激しい地方の零細な寺にはいいアイディアかもしれない。1回きりではあるが、1人当たり10〜30万円程度ずつ収入があり、合葬後の手間はほとんどないし、いくら埋葬しても土地がいらないのだからいい。葬儀に対する偏見がなければ、部外者が参入してきてもおかしくないかもしれない。
しかし、安定的に檀家から収入が上がっている寺がこれを始めることはないかもしれない。やはり今までの伝統的寺商売による収入に比べれば安定性もないし、金額的に期待はできないのだろう。(09.5)
自殺 ▲トップへ戻る
自殺のボタン
押すだけでスッと死ねる「自殺のボタン」が手元にあるとしたら、すでに何回か押しただろうか。
それとも何度も手前まではいくものの、押せずにいるだろうか。
(09.9)
社会が自殺を許さない理由
家族が悲しむとか、生きていればいいこともあるさといった甘ったるい話は別にして、社会が自殺を許さない確固たる理由がある。社会が存続するためには、構成要素である人が、生きて社会を政治的・経済的に支えてくれることが必須条件なのである。であるから、病気や事故は仕方ないにしても、そうでもないのに個人の都合により社会のメンバーから外れるのは許されないのである。
(09.4)
消極的自殺
普通の自殺を「積極的自殺」とすると、それと違って、通常自殺とは考えられていないが、結局最終的には自殺と同じ結果をもたらすようなものがある。
例えば重い病気になっても医者にかからなかったり、入院したり手術をしなければいけないのに救急車を呼んだり病院に行ったりしなければ、寿命を縮めて死を早める可能性は十分に高いだろう。これは「消極的自殺」とでも呼べるのではないか?
もし、高齢者が交通が不便な山の中に一人で住み始めたら、それだけで「消極的自殺」未遂かもしれない。
しかし、「積極的自殺」をした場合は犯罪になるが、「消極的自殺」をしても犯罪にはならないだろう。
(09.3)
自殺は損切り
株や外貨が暴落して儲けどころかマイナスになってしまった時、これ以上保有していても好転の可能性がないと判断して損承知で売却して取引に幕を下ろすことを損切りと言う。
これは取引の自殺であろう。ということは、逆にいえば自殺は損切りのようなものだと言えるだろう。
自殺とは、商売の失敗や病気のため、もうこれ以上人生を続けていても事態は悪化する一方であると考えた人がとる、「人生の損切り」であろう。
暴落した株や外貨を、将来のマーケットの好転を期待して持ち続ける人もいる。期待通りになることもあるし、損失を広げるだけの可能性もある。もっと早く損切りをしていればよかったと思うこともあるかもしれない。
(09.1)
本来の出家は自殺だ
日本仏教における出家には何の意味もないが、本来の出家は、本当に家を捨て家族を捨てる、ほとんど自殺のようなものであろう。捨てる欲望の中には、当然ながら生きる欲望も含まれているはずである。(08.10)
死ぬほど退屈
精神的破綻は十分な死の理由だ。破綻と言っても精神病などである必要はない。毎日することがなくて退屈だといった程度で十分である。
それにしても「死ぬほど退屈だ」とはよく言ったものだ。
私がキェルケゴールであれば「死に至る病、それは退屈である」というところであろう。
昨年死にかける前、毎日のように「生きていても何の楽しみもない」とか「今死んでも何の変りもない」と言っていた。もちろん本当に死ぬと思っていたわけではないが、でももしかしたら、多少は本気が入っていたかもしれない。
当時、運動不足(1日中外出せず)、菓子の食べ過ぎ、スーパーの油濃い総菜を中心とした食生活、就寝が夜中になり不規則な睡眠・・・など、これでもかというほどのメチャクチャで悲惨な生活をしていた。
今考えれば、いつ死んでもおかしくない生活だった。
(08.9)
生も死も変わりはない
何の楽しみもなく、毎日ただ生きているだけという人生に、いったいどれだけの価値があるのだろうか。死がそれよりましかどうかはわからないが、生きていても何もないのと、死んで何もなくなるのと、いったいどの程度の差があるのだろう。
生きていれば何かいいことがあるさ、とよく言うが、あるかもしれないがないかもしれない。いいことだけが起こるはずもない。
『荘子』は、世の中のことに何も差はない(「万物斉同」)、生も死も同じだと言う。死を勧めているのではないかもしれないが、自殺を否定しているわけでもなさそうだ。
世間では、自殺を拒否するあまり、自殺という言葉を口にするだけで「自殺を賛美している」などとエキセントリックに騒ぐ人がいる。しかしそのような人々は、かえって自殺が無視できないほど魅力的なものであると公然と認めているようなものである。
(08.9)
長寿と自殺
医学の発達は、寿命の伸びという、とりあえずありがたい結果を与えてくれているが、もちろんこれが今後引き起こすであろう様々な問題を考えると、ただ単純に喜ぶことはできない。
医学が引き延ばしてくれた死のプロセスが、もし耐えがたいものとなった場合、皮肉な選択は、医学の拒否となる、自殺ということになりかねない。(08.9)
なぜ自殺が犯罪か
自殺は他の犯罪とはちょっと異なっている。他人を傷つけていないし、多くの場合、不幸なのは犯人本人である。
家族や知人を悲しませたのが犯罪なら、犯罪者は他にもたくさんいる。
たぶん、死体の処理などで他人に迷惑をかけた罪だろうか。(08.8)
なぜ宗教が自殺を認めないか
たぶん、多くの宗教は自分たちの集団を守るためのものであるから、集団を維持するのに必要な兵士や労働者の数を減らさないように自殺を禁止したのだろう。(08.8)
なぜ自殺してはいけないか
人には自分の生死を決める権利があるはずだが、まわりの人々にはまた別の都合がある。「都合」の戦いである。(08.5)
自殺してもいい人
自殺をとめる言葉に「君が死んだら悲しむ人がいる」というのがある。しかしこれは両刃の刃だ。自分が死んでも悲しむ人がいなければ自殺していいということになるからだ。でも本当にそうなのかもしれない。
自殺しない人
世の中には自殺とは縁のない人がいるようだ。これは良いとか悪いとかいう話ではない。もちろんうつ病ではないという前提であるが。そういう人には自殺という言葉が入り込む隙がまったくないようだ。
私が脳卒中になったとき、自分が病気であるという意識(病識)すらなかったのに近いかもしれない。
なぜ動物は自殺しないか
なぜ動物が自殺せずに人間だけが自殺するのかと考えると、人間の生物的特徴か人間社会というものに特殊性があると考えざるを得ないが、私は後者と考えたい。痴呆などにより社会という意識が希薄になった人がまず決して自殺しないことを見ればわかる。
自殺する前に確認すべき点
自殺する前には視野が狭くなっていることが多い。他の人の意見を聞いたり本を読んだりする余裕はなくなっているのが普通である。客観的に見て自分より不幸な人たちがたくさんいることにも気づかない。
もっと生きなければいけないか
今後、健康上の理由で、どうしても悪い予想しかできない人が、自分で死を選んではいけないか?
家族
家族は死へのブレーキになるのかもしれないが、家族がいなければ、もうブレーキはなしか?
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J・K・ローリング「ハリー・ポッターと賢者の石」
(ダンブルドア)「死とは長い一日の終わりに眠りにつくようなものだ。結局、きちんと整理された心を持つ者にとっては、死は次の大いなる冒険に過ぎないのじゃ。」(p.487〜8)
「荘子」
「人がこの世に生きるのは、憂いと同居しながら生きているようなものである。だから長生きするものは、耄碌の状態に陥りながら、いたずらに憂いばかりが長くづづいて、死の安息も得られない。なんという苦しみであろうか。とするならば、長生きということも、やはりわが身のためをはかる道からは遠いものである」(森三樹三郎訳「外篇・至楽篇(一)」中公文庫・外篇 p.232)
葛洪「抱朴子」
「人の一生は光より速く、つむじ風のように過ぎ去る。若いときはほんのしばらくで、たちまちに老いる。そのはかなさ、たとえようもない。百年の寿命といっても三万六千日しかない。幼い時代は何もわからない。老衰してしまえばあらゆる快楽は無縁の存在である。幼い時と老いぼれた時とで数十年を差し引いた上に浮世の苦労、心配、病気が代わる代わる続く。それで生きている年のほぼ半分がつぶれる。数えてみれば、百年の寿命が得られると仮定して、平和に笑って暮らせる日は五、六十年を過ぎない。それもあっという間に消え去り、悲しみと憂いと耄碌ばかり。よいところは六、七千日だけだ。それくらいは瞬く間になくなる。まして百年の寿命を全うする人は一万人に一人もいないのである。よく考えてみれば、夏の虫や朝菌(キノコの一種。一朝だけの命)を笑うことはできない。思うにこれが仙道を知らぬものの行きつくところ。悲しいことよ!」(葛洪「抱朴子」勧求p.281〜2)
古詩十九首
原典は『文選』。訳は松枝茂夫編「中国名詩選(上)」。
第13首
「車に乗って上東門を出て、はるかに城北の墓を見やると、白楊はいかにも寂しげに風にそよいでいるし、松や柏は広い墓道の両側に並んでいる。その下には遠い昔に人々がいて、くらい地下に永い夜をすごしている。彼らは黄泉の下にひっそりと寝て、千年たっても永久に覚めることがないのだ。四季はどんどん移り変わり、人の命は朝露のようにはかない。人の一生は仮の宿のようなものだ。寿命には金石のような堅さはない。万年も昔から、人は送られて死んでいったのであって、聖賢といえどもこの律を越えることはできないのだ。薬を飲んで不老長寿の神仙になろうと願っても、たいていは薬にだまされて命を落とした。それよりは、いっそのこと美酒を飲み、美服をまとって面白おかしく暮らしたほうがましだ。」
第14首
「死に去った者は、日ごとに忘れ去られ、身近に生きている者は、日ごとに親しさをますものである。町の城門を出て見わたすと、目にとびこんでくるのは丘陵と墳墓だけ。古くなった墳墓は、いつか耕されて田畑となり、墓のそばのマツやヒノキも、伐採されて薪になってしまう。ポプラの木にあたる風はいつも悲しく、ヒュー、ヒューと鳴る音は、いたたまれない気分にさせられる。故郷に帰ろうと思うが、いかんせん帰る手だてもない。」
第15首
「人間どうせ百歳までは生きられぬ。それなのに先年も先のことまで心配している。昼は短く夜はばかに長い、それがいやだというなら、いっそ灯火をともして夜も夜通し遊べばよいではないか。楽しみを尽くすには、今という時期を逃してはならない。来年のことなど待っていられるものか。費えを惜しんで金を貯めこみ、後世の物笑いになるのは、愚者のやること。どうせわれわれに、仙人王子喬と同じような長生きは、できっこないのだから。」