宗教論

 

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火と水
古くから火と水は信仰の対象となる二大シンボルであった。
三大宗教をはじめとした世界中の宗教がそれを取り入れている。
両方を適当に取り入れている場合もあるが、どちらかに集中したり、両者を善・悪に使い分けている場合もある。
例:拝火教とも言われるゾロアスター教、(水による)洗礼派
(09.11)

アイヌのイヨマンテの論理
・動物を殺すことは、魂(カムイ)を故郷に帰してやることである。
・動物の子どもを育てることにより恩をうることができる。
・動物の肉や毛皮は動物のおみやげ(お礼)である。
これは(現代の牧畜業ではなく)数頭の家畜を自分で育て、自分で屠って食べていた人々の気持ちにも通ずるものがあるだろう。こうでも考えなければ、多少なりとも情が移ってしまった家畜を殺すのは辛かったであろう。
(09.11)

願望達成と願望放棄
人々の望むものは「願望達成」であるが、さすがそれだけでは世の中の実状に合わないと、古今東西の思想家・宗教家は気が付いていた。
「仏教」や「老荘」に代表される「願望放棄」がそこのところをちゃんとカバーしている。
(09.10)

古い思想・宗教の取り扱い
古い時代から永々受け継がれてきた人類の英知とでも呼べる思想・宗教がある。
しかし残念ながらすべて古ければ素晴らしい、ありがたい、というわけにはいかない。
たとえば、「死について」といったテーマは、現代も何も解決されていないから、過去の思想・宗教が役立つ面もあるかもしれない。
しかし、医学や天文学など、科学に関しては多くの知識が塗り替えられてしまった。それは否定できない。
人間の脳・身体のしくみや太陽系の知識などについて、現代の子どもより知らない人々が説く「世界・宇宙のしくみ」を、何も疑わずに信じろと言われても難しい。
その意味で、古い思想・宗教を「世界遺産」のように批判せずにありがたく崇めるような扱い方は間違いであろう。
学問においても、今やどう考えても廃棄ゴミのようなものを自分の都合で「再認識・再評価」して若者をたぶらかすのは、時間・労力・才能の無駄遣いであるのでやめてほしい。
(09.10)

聖典の問題点
聖典が絶大な権威を持っているということは、宗教をまとめやすいというメリットはあるが、デメリットも持っている。
三大宗教は聖典の権威にがんじがらめになっており、聖典の内容のつじつま合わせとこじつけにほとんどの勢力を費やして来ざるを得なかった。
それにしても、聖典が神により作られたのであれば、神が過去に作ったまま、必要な改訂もせず、放ったらかしているのはおかしくないか?
後世の人が勝手に解釈したり、「なんとか伝」を付け加えたりするのを黙って見ているのもおかしいだろう。
(09.10)

こけおどし
宗教は、もともと願望達成のための虚構であるから、「こけおどし(虚仮威し)」によって成り立つ砂上の楼閣である。
こけおどしは、寺院建築、芸術など目に見えるものから、経文や呪文、理論に至るまで、宗教のすべての面に盛り込まれている。
しかし、信者を含む宗教関係者は「こけおどし」のメカニズムを認めてはならないから、証明はできなくとも、宗教はすべて真実であるという立場をとらねばならない。
矛盾をきたして窮地に陥った「こけおどし」には、これは「方便」なのだ、といった逃れ方もある。
であるから、宗教を研究する場合には、(1)こけおどしのメカニズムを客観的に解明する、(2)こけおどしを棚に上げて、実態をルポする、(3)こけおどしなど無いとし、宗教の理論をそのまま受け入れる、といった様々な方法があることになる。
(09.10)

概念による「こけおどし」
トマス・アクィナスは、『神学大全』において、聖なるあるいは教義的神学の原理は、啓示された真理であり、経験から得られたり、理性によって定式化された真理(哲学)ではないとした。
「啓示」といった概念は一種のこけおどしである。
概念によるこけおどしは、(1)誰も読むことも理解することもできない書物を山積みし、(「君は理解していない」などと言い続けて)議論が成立しないようにしたり、(2)誰も定義できない「聖なる体験」が必須であるとし、入門すら拒むことによって、その防御システムを堅固なものとしている。
(09.10)

言語による「こけおどし」
そもそも意味のわからない経文を読んでもらうだけで、ありがたいような気がするのに、ましてそれが外国語なら煙に巻く効果は絶大であろう。
外国語による「こけおどし」効果は、現代も外国語コンプレックスや会話学校ブームにつながっているようだ。
チベットの「マニ車」は内部に経文を入れて回せば唱えたのと同じ効果があるという。中に辞書を入れて回せば語学にも効果があるかもしれない。踊りながら経典を曲芸のように空を舞わせる禅宗の「転読」も便利な方法だ。
(09.10)

現世利益
現世利益を求める宗教は、原始的とか低級とか言われて馬鹿にされることが多い。
だからといって、現世利益を見下している思想家・宗教家が幸せな人生を送り、満足して死んでいるとも思えない。
さらに、彼らの行動は、多くの人に尊敬されたい、本を沢山買ってもらいたいといった現世利益を求める行動そのものであったりする。
どの思想家・宗教家も自分こそ正しいと主張しているが、所詮想像力を競っているに過ぎない。
現世利益を求める生き方のアンチテーゼは、それに代わる「高尚な」哲学や宗教ではなく、欲望や神やあの世を求め続けること自体を捨てさせる原始仏教をはじめとした思想なのだろう。
(09.9)

哲学や宗教の限界
人類が発生してから多くの素晴らしい知恵が生まれた・・・はずである。
科学や医学が目覚ましい実績をあげているのは否定できない。
問題は哲学や宗教である。
哲学や宗教を語った本人を含めて、それを学んだ人々が、それ以外の人々と比べてみて、どうしても、より幸福になっているようには見えない。普通の人と変わらず7〜80年の寿命をヨレヨレと終えている。
その悲惨な実態を見ると、数限りない人々が偉そうに語ってきた哲学や宗教は、実際には何の役にも立っていないと言わざるを得ないようである。
せいぜいブッダのように、無駄な欲望を捨てて、ただ生きて死ぬのが限界のようだ。
書棚にあふれる小難しい哲学や宗教の数々は、どれだけ偉そうに見えても、何の役にもたっていない。ペテン師たちの口上にだまされて、人生を無駄な読書や思考に費やすのはやめよう。
(09.8)

戦争と戦争宗教
戦争とキリスト教やイスラムなどの戦争宗教はまさにニワトリと卵の関係にある。
戦争宗教は戦争のために生み出されたが、今や戦争宗教が戦争を続けているともいえる。
(09.7)

戒と罪
モーセの十戒は神との約束である。
仏教における戒は自分との約束でしかない。であるから、そこに罪は存在しない。
(09.6)

宗教と社会背景
あたりまえのことだが、ある宗教の流行とその時代の状況とは深い関係がある。
自由な宗教思想が生み出されるためには、ある程度の社会の安定や経済的なゆとりなどが必要である。
(09.6)

日本人による日本論の限界
自国の宗教や思想の研究には、自分たちが意識しないうちに大きな限界が生まれがちである。とくに日本では、日本に生まれて死ぬまで、日本人の学者が書いた日本語の本だけを読んで、すべてをわかったような気になれる環境ができあがっている。他国からの批判や反論もあるだろうが、島国という地理的有利さの中で、日本語という他国とほとんどつながりの無い単一言語で固まっていることから、温室状態が続きやすいようである。
その結果「我が国独特の」とか「他国民には理解しにくい」という言葉をつければ、学会でもみんなうなづいて丸く収まってしまうようなまずい状況が続いている。(09.5)

阿弥陀教
法然や親鸞が唱えた浄土宗・真宗は、阿弥陀仏のみににすがる宗教である。もちろん浄土経に基づく大乗仏教ではあろうが、大乗仏教それ自身、すでにブッダの原始仏教からは遠くかけ離れているのに、それにさらに輪をかけたこれらの宗教は、もう仏教から独立した「阿弥陀教」とでも呼ぶべき別の宗教と考えるべきなのかもしれない。(09.5)

ディズニー教
完全なリゾートには、宗教と同じような「別世界」「安心感」「喜び」といったものがあるようだ。
ディズニーリゾートの客も従業員も宗教の信者につながるものを感じる。
ディズニーリゾートの社員教育、とくにパーティー形式のものなどには新興宗教の熱気がある。
(09.4)

どの宗教にもまとわりつく要素
・権威・・・派閥・学閥など。「私が一番偉いのだ。私が正しいのだ」。
・政治との癒着・・・どちらがどちらを利用しているのかわからないが。
・宗教ビジネス・・・やはりカネがなきゃ。講演一つだってカネがらみ。
これらは宗教の本質とは直接関係ないもので、最初からあるものではないかもしれないが、そのうちに必ず湧き出てつきまとう要素である。宗教の社会的側面と言っていいかもしれない。多くの宗教において、精神的側面を脇に置いて、一番重要な存在意義となっている。それは何教にかかわらず人間の宗教には逃れられない運命のようだ。
(09.3)

シャーマンへの反発・差別
シャーマンに限るわけではないが、いわゆる霊的な分野を取り扱う業種に対して、その他の人々が感じている印象は、恐れや感謝であるが、それは軽蔑や嫌悪にもつながる。それが彼らをある時には指導者の右腕にもすることもあるが、多くの場合、社会の最下層、あるいは被差別者の扱いを受けることにつながっている。
シャーマンが社会の中で普通に生きていくためには、さまざまな知恵が必要なようである。その儀式を通して霊的なものをも扱っているはずの儒教の孔子が「鬼神を敬してこれを遠ざく」と非常に現実的なことを言わねばならなかったのがその表れであろう。
(09.3)

不可解なもの・悪者・敵
自分で解決できず、神に救済を求めなければならないような事態。
相手がいる場合(戦争・悪霊など)と相手がいない場合(豊作・死など)がある。
相手がいない場合も無理やり相手を作ることはできる。

宗教
大きな力をもつ何か(神)に救済を願うこと。
自分で解決できない限界に突き当たったとき、頼るもの。
呪術や魔術も、基本は同じ。
願う救済の内容によって、個人的なもの(死・健康など、「個人宗教」)と社会的なもの(戦勝・豊作など、「社会宗教」)がある。
「社会宗教」のうちとくに戦争に関わるような過激なものが「戦争宗教」である。
神がなければ「思想」である。

外来宗教・神のありがたみ
ある一つの宗教・神の力を維持し、人気を保つのは難しい。いくら祈祷しても、祭りをしたり、宗教者を代えても、まったく効果がないこともある。その時、遠くから、効能があるとうわさされる新たな宗教・神がやってくるのはありがたいことである。
中国や日本における仏教のありがたさは、まず、膨大なわけのわからない経典をはじめとした、いかにも効果のありそうな「外観」を持つことであったのだろう

布教・伝道の意味
宗教はなぜ布教・伝道を行うのだろうか?政治的・経済的理由によるのであろうか?本来ある宗教が優れているのであれば自然と人は集まるのではないか?仏陀やキリスト自身はそうでなかったか?

教団
宗教の規模が大きくなると、教団が形成される。教団の中心は、まずは宗教に専念する人々だが、次第にその周りにいわゆる「信者」の集団が生まれる。

宗教者の役割
宗教者は依頼者の願望を祈祷などにより実現させる力を持っている必要がある。依頼者は、個人から集団のリーダーまでいた。
現代においては、宗教について語る学者たちも立派な宗教者であろう。

ペテン、詐欺、芸能
宗教者は神というわけのわからないものを操作できるふりをして、救いを求める人々を納得させねばならないのだから、当然、ペテンや詐欺に近いこともしなければならない。手品、舞踊、音楽といった芸能もその一つの道具であろう。(08.8)

太陽・光
太陽や光の信仰のすべてを、例えばゾロアスターに帰したりするのは単純すぎるだろう。温暖あるいは寒冷な穀物社会において太陽や光が自然と崇拝の対象になるのは何の不思議もない。
一方、砂漠の乾燥地帯で太陽や光が信仰の対象になりにくいのも、同様に理解できる。

敗戦の落とし前
国家神道における敗戦の宗教的責任は誰がどうとるのか。シャーマンである天皇は戦勝した場合も敗戦した場合も最大の責任者であることは間違いないだろう。敗戦の最大責任者をその後も罰しないで保存するというシャーマニズムの理屈はないだろう。

新・犀の角
・病気を恐れ、医者を頼り、薬漬けになり、毎日をビクビク生きるのではなく、犀の角のようにただ独り歩め。
・『求めない』で、『悩まない』で、犀の角のようにただ独り歩め。

何でも「霊性」病
「霊性」大好き人間はすべてを「霊性」語で表現せざるを得ず、普通に「きれいだ」とか「気持ちがいい」とかとは言えないようだ。
例えば、『「生き生きと」「生命力」や「エネルギー」にあふれた自然の「神々し」さに胸をうたれ、「温かさ」や「ぬくもり」で包まれ、心が「癒される」』、とか。

自然と宗教
宗教における自然の意味を強調する思想があるが、すべて感覚的な自己満足でしかなく、たわごととしか思えない。
まず生死を考えても人が自然と切り離せないことは明らかである。そして2百歳まで生きた人がいないことからも、人のほうから自然をコントロールできないことも間違いない。

悟り
悟りほど言っている本人しかわからないこともなく、言ったもん勝ちでしかないものもない。仏教、とくに禅宗などの「悟った」「いや、まだ悟ってない」の馬鹿げた言い争いほど下らないものはない。
一生、宗教や思想をやってきた人たちは死ぬ前に悟ってみたいという夢があるのだろう。その願望と老耄が相まって幸せな悟りが訪れるのだろうが、客観的に見れば他の誰にも通じない。

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天使
・神と人の間の仲介者。シャーマン。
・神そのもの。モーセもキリストも、天使であり神であった。
・被征服民族・宗教の神たち。
・妖精、妖怪。
・人間と違って肉体をもたない精霊。逆に人間は肉体をもつ天使。
・守護天使。人間の分身。
(09.11)

神の存在の証明
神の存在の証明は、存在しないことを証明できないということしかない。
正確には、存在も非存在も証明できないと言った方がいいのだろう。
(09.10)

体内神=DNA
中国には古くから、人間の体内に三尸などの神が住んでおり、これを存思し定着させることによって不老長寿を達成できるという思想があった。
体内神が天に人間の行動を報告するのを防ごうと徹夜で行われた行事が、日本でも「庚申待」として知られている。
体内にいて、誕生から成長、死までをコントロールする。これはまさにDNAではないか。
DNAが天に報告しているとは思わないが、DNAが人間の目に見える(顕微鏡だが)唯一の「神」だとは言えるかもしれない。
(09.7)

神は死に対して無力なこと
世界中のどの神も、いずれ訪れる死から人を救うことはできない。
病気や事故も免れ得ないが、これらはすべての人が襲われるわけではないから、信仰が足りないとか、前世の報いだとか言えないこともない。
しかし、人類は今まで様々な神に祈ってきたであろうに、誰一人として死を免れた者はいない。
(09.7)

一神教の発生
多様な自然現象の背後に一つの神を想像するということ自体、無理がありそうだ。もちろん作物や天候を支配する神が何種類かダブった場合には困るが、とりあえず両方とも祀ってもいいわけだし、問題になることはない。
問題は戦争など政治的な出来事を支配する神を設定する場合であろう。人間同士の勢力争いのシンボルとして登場した神は「みんな仲良く」というわけにはいかない。一つの方がまとまりやすい。作物や天候を支配する神であっても、それが部族間の争いになる可能性はないとは言えないだろう。
(09.3)

救済の見返り
神に何かを頼むとき、人は(1)お礼(供物)をあげなければいけない、あるいは、(2)せめて自分も苦痛を味わねばならない、と考えるようだ。
いずれにしてもこれらの方法は人間社会で自分の願いをかなえてもらうために日常行われていることであり、それが神に対しても通用すると考えているものである。

三輪山の神の性格の推移
(1)山林とともにある神、(2)雷神、(3)蛇神の正身をもつ神、(4)霊異の大きい崇り神、(5)大国主神の幸魂、奇魂、(6)軍神、(7)光あるもの、(8)人間の女子と結婚する神、(9)氏族神
(池田源太『大神神社史』、和田萃『日本の古代 7 まつりごとの展開』)


大きな力をもつ何か。
望みを叶えてくれるのがいい神。利益(りやく)がないのはダメな神。
擬人化される理由は、人間に似たいいかげんさかもしれない。
とりあえずいろいろなものに願ってみた結果、効果があったものが神として永く敬われる。

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仏像の不思議
ブッダ自身の思想の正反対の場所にあるのが「仏像」の存在であろう。ブッダ自身の思想に「神」を崇めるといった発想は微塵もない。
とくに日本のような大乗仏教の国で仏像のない寺というものは想像できないが、最初の仏教からここまで変わってしまったのかという感じだ。
(09.3)

教団の不思議
ブッダは悟った後、黙ってただの乞食のように死んでいかなかったのはなぜか?
しかしそれは、現代も「欲を捨てよ」と説きながら、先生や教祖と呼ばれつつ贅沢な生活をしている多くの人を見ればわかる。
ブッダの王としての華麗な半生を考えれば、悟ってはみたものの、極端なことができなかった後半生もわかるのである。
(09.3)

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神の二元性や異端の発生
ある神を信じる集団が少数であるかぎり、基本的に神は単一であり、異端は存在しない。ところが、集団の構成人数が多数になってくると、神や関係者のやり方に不満を感じたり、神への自分の要求を優先させたりする人々が出てきて、神をめぐる争いが発生する。そうなると単一神への信仰が維持できなくなったり、一部の人を異端として排除せざるを得ないことが起こり得る。それが神の二元性や異端の発端である。
神の二元性の根拠として思想的な背景を指摘する見方もある。たとえばローマのミトラス教の背景にプラトンの二元論を挙げる場合などである。

正統と異端
異なる宗教・神をもつ集団が一緒になったとき、それぞれの宗教・神をどうするかが問題になる。
収穫祭をやる程度ならそれまで通り別々に続ければいいが、戦争などによって二つの「戦争宗教」が一つになったときは、そうはいかない。買ったほうを正統として存続させ、負けたほうを異端として廃止せざるを得ない。

異端はかっこいい?
キリスト教の成立史のなかで、多くの宗教・思想が異端とみなされ消された。現代になって、正統による異端狩りの問題点・限界が知られるようになるとともに、文学や映画などで異端の再認識がテーマになっている。ミルトンの「失楽園」や、その影響を大きく受けた「ライラの冒険」や「コンスタンティン」などがある。

悪の必然性
神の正しさを言うために、それとはまったく異なるものとして悪が必要となる。

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宗教の分類
心の安寧を求める宗教(原始仏教、道家思想など)、現世利益を求める宗教(仏教、道教、シャーマニズムなど)、出世を求める宗教(儒教など中国思想)、選民思想(民族が戦いに勝つための宗教。キリスト教、イスラームなど)

社会宗教と個人宗教
「世界を動かす何かに救済を願うこと」が宗教なのだが、さらに形式をみてみると、個人的に救済を願うものもあるし、集団的・社会的に救済を願うものある。
現代人にとって宗教は個人的に生老病死の苦しみから逃れるためにすがるものかもしれないが、もともと個人などという概念が存在していないころの宗教の起源は、部落や民族などの集団が飢饉などの自然の災害や戦争から逃れるため、あるいは豊作や戦争の勝利を祈ったものであったろう。
むかしからある「宗教」と「信仰」の分類も、要するにこの「社会」と「個人」のことであろう。
「社会宗教」は社会のために個人の安寧や命の犠牲を求めることもある。だからといってそれに従った人々が幸せでないとは言えない。
「社会宗教」は人々に見放されたら意味がない。そのためには、個人救済の(「個人宗教」の)面も備えておかねばならない。

戦争宗教
集団で敵と戦っているときに、自分たちの精神的支えとし、団結力を強くするための宗教。ユダヤ教、キリスト教、イスラームなど。
宗教の起源が、もともと戦勝を祈念するものであったと言えないこともない。
敵の神は悪魔に貶められる。二元論。
対外的に過激なだけでなく、派閥争いや異端裁判など、対内的にも厳格である。
明治維新以降、外圧に対抗するため、当時西洋諸国で圧倒的な勢力を持っていたキリスト教に似せて国家神道が人工的に作られた。

ギリシャ思想の神
プラトンの「善のイデア」、アリストテレスの「ヌース(知性)」、プロティノスの「一者(エネルギー)」。

グノーシス主義
自分も神であり、キリスト教の神は敵であると考える。

キリスト教
旧約聖書はユダヤ人を、新約聖書はヨーロッパを、敵から守るための宗教である。
ユダヤの神エホバをそのまま使うのもカッコ悪いので、キリストという預言者を自分たちの新たな神に仕立て上げた。

原始仏教
原始仏教は宗教ではなく、哲学である。
欲望を捨てよと教えた。

大乗仏教
大乗仏教は宗教であり、阿弥陀仏などが神である。

禅宗
宗教ではなく中国思想、哲学に近い。

日本仏教
現在は観光業、墓地(不動産)管理と葬儀屋を営む。
僧侶が肉食妻帯し世襲するのは日本だけ。

中国思想
儒教をはじめとした中国思想は宗教ではなく、哲学や処世術である。
「気」や「陰陽五行説」は無神論ではあるが、呪術に近い宗教である。

道家思想
自然に従えと教える。

道教・神道
道教や神道はシャーマニズムに近い宗教である。

国家神道
明治時代に政府により創られた、天皇を神とする新興宗教。「戦争宗教」の一種。
「社会宗教」で「戦争宗教」

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