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メディア観察日記
その1/2/3/4/5(工事中)
これは最近僕宛てに来た手紙の内容の紹介です。念を押しておきますが、e−mailじゃなくて手紙です。差出人は、内容から察するに女性らしいです。送ったのはこいつしかいないという心当たりはあるのですが、あえて彼女の名前は伏せておきます。「これをどこかで公開してもいい」とのことなので、要点をかいつまんで紹介しちゃいます。以下、手紙の内容です。
わたしは11歳にして高校生に間違われるほど大人びた子供でした。身長も学年の中で一番高く、ただそれだけの理由で先生から課外活動にバスケットボールを選択させられていました。練習はそれなりに厳しかったですが、友達が出来て楽しかったです。
父親は県庁の役人で、それなりに高い地位にあり、母親は専業主婦をしていたのですが、二人とも一人娘のわたしを可愛がってくれていました。ただ、父親のわたしを見る目がなんとなく変だなとは薄々感じていましたが、あまり気にはなりませんでした。父親は仕事で毎晩帰るのが遅く、顔を合わせる時間が少なかったからというのもあります。
当時母親は妊娠していて、日毎に大きくなる彼女のお腹をたまに撫でさせてもらった記憶があります。わたしは弟が欲しかったので、男の子が生まれるといいなあ、と漠然と考えていました。
ある日課外活動を終えて家に帰ると、母親が苦しそうに息をしながらキッチンの床にへたり込んでいました。わたしはこれが陣痛かと思いつつ、119番に電話を掛けて救急車を呼び、父親の職場にも連絡を入れました。今思い返しても、冷静に行動できたと思います。
結局母親は出産まで入院することになりました。今思えば、陣痛とはまた違う症状だったのかもしれません。父親から、かあさんは一週間は入院することになるだろうと聞かされ、あたしが生まれたときもそうだったの?と訊ねると、お前の時はまだかあさんも若かったけど、今回は高齢出産だからどうなるかな、との返事が返ってきました。
その日から、ほとんど一人ぼっちの生活が始まりました。食事は、父親は外で済まし、あたしは昼の給食以外、全部コンビニ弁当です。それを見かねた近所のおばさんに、晩御飯に呼ばれたこともあります。
そんな生活を始めて四日目の晩、いつものように遅く帰ってきた父親に、居間でビデオでも見ないか、と言われました。断る理由も無かったので父親と二人並んでソファーの上に座り、ディズニーの『眠れる森の美女』を観ました。
最初は夢中で画面に見入っていたのですが、父親が見入っていたのはわたしの胸元だったようです。気がついたら押し倒されていました。7人の小人が眠っている白雪姫の周りで唄っているのを横目で見ながら、信じられない、これはなんなのと思いつつ、わたしは必死で抵抗しました。
その時わたしの顔に、父親が締めているネクタイが垂れ下がってきました。そのネクタイの両端を掴んで、わたしは父親の体を押しのけようと試みました。その結果、わたしは父親の首を絞めていました。
わたしも怖かったので、止められませんでした。父親がわたしから体を離し、顔を背けて逃げようとしても、わたしはネクタイの両端から手を離すことは出来ませんでした。ここで止めたら殺されると思ったからです。
父親が失禁し、二度と動かなくなった時には、白雪姫は王子様にキスをされ、目を覚ましていました。
警察には自分で連絡しました。電話を切ってから、取り返しのつかない事をしてしまった、これであたしの人生終わりだ、という思いが湧き上がってきて、涙が出てきました。
警察の人がわたしを警察署に連れて行くことは分かっていたので、わたしは泣きながら着替えを済ませ、伝えるべきことを頭の中で整理しておきました。ただ、それが却って悪かったのか、婦人警官からすらも、ふてぶてしい子だねあんたは、と言われました。
家庭裁判所が下した判決は、少年院送致5年。初等を終えても中等にまた入る訳です。裁判長曰く、過剰防衛もはなはだしいということでした。母親は、裁判の傍聴にも、少年院への面会にも来てくれませんでした。法務教官の人から、産まれたのは男の子だと聞かされた程度で、差し入れも何もありませんでした。
毎朝行進の練習。そして毎日、なんで書かなければいけないのか分からない反省文を書かされました。『どこをどう反省しろというのか。未だに分かりません』と書いたらおばさんの法務教官に竹刀で滅多打ちにされたこともあります。
ただ、他の入所者からリンチを受けるとか、そういうことはありませんでした。父親殺しは、外の世界では重たい十字架ですが、少年院では金縁の看板です。特に初等では、年上の女の子もわたしに敬語を使うので、妙な気分でした。
ただ、中等になるとなかなかそうもいきません。自分でも知らない間に、『初等で番格だった女』にされていて、妙になついてくる子もいれば、あからさまに対抗意識を燃やしてくる子もいて、うっとうしかったです。仕方なく掴み合いの喧嘩をして独房に入れられ、出てくればまたなついてくる子
が増えていて。気がつけば一つの派閥を率いてました。仕方が無いので開き直り、子分達からキャンディーやチョコレートを用心棒代として巻き上げてました。仕送りが無いのはあたしだけだったし、正直、甘い物に飢えてたんです。
でも、一番欲しかったのは愛情でした。子分の子が家族からもらった手紙を読んでいる姿や、面会室に行く姿を見ると胸が締め付けられそうな気分になりました。子分の子達が誕生日を祝ってくれた時など、余計に辛くなって泣いてしまったこともあります。びっくりされました。姉貴(当時のわたしのあだ名)でも泣くことがあるんだ、と。やっぱりふてぶてしい女だと思われていたようです。
母親のことは諦めてました。でも産まれてから一度も会っていない弟のことを思うと。ここを早く出て、無理かもしれないけど弟に会いたい。その一心で寂しい少年院暮らしを務めていました。するとある日、突然釈放され、あたしを門の外で出迎えた初老の背の高い、ヴェルサーチのスーツを着た男性が、数千万のお金が振り込まれたあたし名義の預金通帳を渡したのです。
あんた、正当防衛が成立したよ。その金はこれまでの慰謝料だ。その男性は告げました。
少年院ボケしていたということもあり、あたしは文字通り呆然としていました。釈放されても帰る場所がある訳でも無く、その日が来ることを却って怖れていたくらいなのに、これは一体どういうことかと。
でも、その男性の顔には見覚えがありました。少年院内でもニュースくらいはテレビで見れるからです。東京で一番偉い人。東京都が東京市に変わり、その男性、つまりSさんが市長になったことぐらいはわたしも知っていました。
他に何か希望はあるかね、という彼の問いにわたしは応えました。
弟に、会いたいです。
Sさんが、わかった、と言うのを聞いて、わたしはこの人に一生ついていこうと思いました。
14歳で少年院を出所した後、わたしは名前を変えました。その主な手続きはSさんの部下のNさんという、当時30歳位の男性がやってくれました。家庭裁判所に申請したらすんなり通った記憶があります。小学校の時の同級生の誰かが、ネットにわたしの名前と顔写真を流してしまい、あの子が父親を殺したということが公然の秘密になっていたからというのが、名前を必然的に変えなければならない理由として認められたようです。
おそらく、そのような理由で姓名を変えた事例は、わたしが日本で初めてだったと思います。
Nさんは、わたしがアパートを借りる時の保証人になってくれましたが、彼がしたことはそれだけではありません。わたしは書類上、横浜の公立中学に在籍していたことになっていました。つまり、わたしの履歴から少年院に入所していたことが消えたのです。ちなみに小学校はNさんがあれこれせずとも、卒業扱いになっていました。
どんな学校に編入したいか、とNさんに聞かれた時、わたしは即座に、スカートを履かなくてもいい学校がいいです、と返事をしました。女として見られることに恐怖感があったからです。男性が怖いというのとは、また違う感じです。.
Nさんは男性でしたが、部屋の中で二人きりになっても不思議と警戒心は湧きませんでした。これは自分でもなんでだろうと思っていたのですが、Nさんの恋人だという人を紹介されて合点が行きました。その人は男性でした。Nさんはゲイだったのです。それはそれで、こういう世界が実際にあるんだとびっくりしてしまいましたが。
それはともかく、わたしの答えを聞いたNさんは、それだったらアメリカンスクールかな、と言いました。
アメリカンスクールと言われても、あたしは英語が喋れません。少年院の中でも普通の中学や高校と同じように英語の授業はありましたが、さすがに英会話までは。
わたしの不安を見抜いたNさんは、大丈夫だよ、僕も最初は喋れなかったから、と励ましてくれました。ちなみにNさんは、日本語だと普通の男性と変わりが無いのですが、英語だといわゆるオネエ言葉になるそうです。
編入試験は意外と簡単でした。面接は、東京市長のSさんが親代わりになってくれた時点で通ったも同然です。ただ、学費はあたしが自分の口座に振り込まれた国からの慰謝料から払いました。
入学当初は、英語が分からないので、いわゆるお客さん状態でしたが、へたくそなりに周りの同級生に話しかけたりしていたのが良かったのか、じきに慣れてきました。同級生は欧米人六割、アジア・アフリカ系二割、日本生まれの日本人が二割位だった記憶があります。
学園生活はおおむね楽しかったです。これまで自分がいかに殺伐とした生活を送っていたのか身にしみて理解しました。その当時でわたしの身長は175センチありましたが、それもそこでは目立たなかったのも安心できました。クラブ活動は、男の子に混じってサッカーをやっていました。
ただ、弟にはまだ会わせてもらえませんでした。Nさんにそのことを伝えると、母親が面会の拒否をしているとのこと。それでも食い下がると、遠くから見るだけなら、と煮え切らない答えが返ってきました。
それでもいいと言ったあたしをNさんは車に乗せ、千葉県のある市に連れて行きました。人口10万人くらいの小さな街です。
Nさんは古ぼけた市営住宅の入り口に車を停め、車の外に決して出ないようにと強い口調でわたしに伝えました。
寂れた商店街を抜けてこちらに歩いてくる親子連れを指差して、あれが君のおかあさんと弟だよ、とNさんに言われるまで、その痩せた老婆が自分の母親だとは気づきませんでした。だって、まるで別人でしたから。わたしが知っている母は、もっとふっくらとしていて、肌にもつやがありました。
大学を卒業してからほとんど自分でお金を稼いだことのない母が、あたしに父親を殺されて最低限の暮らしをしているということは、その当時のあたしにも理解出来ました。そんな生活に追いやったあたしを、あたしが思っている以上に憎んでいるだろうことも想像がつきました。それはもう、しょうがないです。
でも弟は、可愛かったです。車のドアを開けて駆け寄り、あたしがあなたのお姉さんよ、あたしと一緒に東京に行こう、って言いたかったです。ただ、その資格が自分にはまだないことも分かっていました。あたしはまだ14歳だし、彼の誕生日は、彼の父親の命日だということも知っていましたし、彼から父親を奪ったのはこのあたしだったのですから。
あたしは二人の姿を見つめ、市営住宅のどの棟に入るのか観察していました。そしてNさんに、もういいです、と告げました。
それ以来わたしは、いつか弟をあそこから連れ出して、幸せな生活をさせてやるんだ、と心に誓いました。もちろんそれにはお金が必要です。慰謝料の数千万円だって、いつかは底を尽きます。
高速道路を走る車の中で、わたしはNさんに、何か仕事がしたいと言いました。
どんな仕事がいい?というNさんの問いに、儲かる仕事がいいです、と答えたところ、それだったら道路掃除でもする?と意味ありげに言われました。
Nさんが言っていた道路掃除に使う道具とは拳銃でした。Nさんは車の窓から外国人の街娼達を、わたしの目の前で無造作に射殺しました。普段は優しいNさんでしたが、ゲイだからなのか、彼女達に対する同情の色は微塵も感じさせませんでした。ただ単に慣れていただけなのかもしれません。
怯えるわたしを尻目に、あ、外しちゃったと呟きつつ、まだ息のある街娼にとどめを刺すNさん。でも、一人当たり二十万円だから、と説明された時、わたしの心は揺らぎました。ただ、わたしがその手の仕事に手を染めたのは大学に入ってからで、麻薬マフィアに目を付けられたNさんが蜂の巣にされて死んだので、その後を引き継ぐという形になりました。
多分、これ読んで誰のことだかピンと来る人は少ないと思うんですが、これが手紙の全文ではなく、続きもあるので希望があったらUPしたいと思います。くれぐれも、真に受けないようにして下さい。多分そんな人はいないと思いますけど。
2005年11月23日