もう何年も前の話である。 このときのことを思い出すだけでも胸が締めつけられる。 汗がでる。 その頃、私はWちゃんの追っかけをしていて、 彼女のステージを三日と空けずに観ていた。 ステージの脇でタンバリンを叩き、リボンを投げる。 当時、大学の研究室で実験に追われ、 心身ともに疲れ果てていた私にとって、 彼女の甘く切ないステージが心の支えだった。 心の安らぎだった。 そんな毎日を送っているとき、ふと彼女の異変に気がついた。 痩せてきたのである。顔色も良くない。 彼女と会ったときにそのことを訊いてみた。 「どうしたの? 痩せたんじゃない?」 「うん、最近胃の調子が良くないの。 ときどき、みぞおちのあたりが痛くなるし」 「病院に行ったの?」 「先週、休みだったじゃない。 地元の病院に行ったの。いろいろ検査されたわ。 先生が言うには、軽い胃潰瘍みたいだけど、 もう少し詳しい検査が必要だからしばらく入院しなさいって。 仕事があるからできないって言ってもしつこいのよ。 冗談じゃない。 今週穴を空けるわけにはいかないし、 つべこべ言わずに薬をくれって怒鳴ってやった」 「じゃぁ、薬を飲んでいるんだ」 「それがねぇ、一ヶ月間旅に出るから、 一ヶ月分の薬くれって言ったらなんと3万円も取られた」 「保険入っていないの?」 「もちろん入っているわ」 「だったらそんな高い胃薬あるわけないだろう。 どこかの怪しい医者に騙されたんじゃないの?」 「そうかなぁ、T大学病院なんだけど」 T大学病院・・・、Wちゃんの地元の拠点病院だ。 「これが、もらった胃薬なんだけど・・・」 Wちゃんはハンドバックから薬袋を取り出した。 私は受け取って袋の中を覗いた。 この瞬間・・・、そう、この瞬間のことは一生忘れない。 背中に氷を押しつけられたような感触だった。 動揺と、それを隠さなければという本能が激しくぶつかった。 褐色のこな薬。 それでも、間違いであるわずかな可能性を確かめるべく 袋から取り出し、においを嗅いだ。 さるのこしかけ科に属するカワラタケから 熱水抽出してできるこの薬、かすかではあるが、 特徴ある香は間違いなかった。 当時、広く使われていた経口抗がん剤である。 私はこの薬について、だれよりも詳しかった。 どういう場合に使われるかも、痛いほどに知っていた。 この薬でWちゃんを救えないことも・・・、知っていた。 なぜなら、それは私が骨身を削って研究している薬である。 こんなことってあるんだ。 運命なんて軽い言葉じゃ納得できない。 それから、なにをしゃべったかも覚えていない。 どこへ行ったのかも覚えていない。 薬袋を覗いた瞬間の情景だけがいつまでも記憶に焼き付いている。 私はタンバリンを叩き続けた。研究も放り出した。 自分の一番大切な人を救うこともできなかった研究なんて 辛くてできない。 私はタンバリンを叩き続けた。 やがてWちゃんはステージから消えた。半年後、この世からも消えた。
[舞太郎](1997.11.21)