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 平成十一年一月二十三日(土曜日)
             
   「言語と文芸の会 研究例会」発表資料              
        於 東京・カンダパンセ五0五号室
    大岡昇平の『堺事件』論争
        −『堺港攘夷始末』まで
   
                               関塚 誠
  要旨
 
 
 なぜ森鴎外だったのか。なぜ『堺事件』だったのか。
 この根本的な問いは、大岡昇平の側からはあまり語られてはいない。衝撃的なあの論文から二十年以上、鴎外の側からの発言に終始しているこの論争は、大岡昇平にとって、必然的な流れの中にあったのである。
 まず大岡の戦争体験が、天皇制軍事国家イデオロギーの中の敗軍であったということが重要である。大岡を作家にさせた、戦争犠牲に対する怒りは、その多くの作品の原動力となっている。歴史上の敗軍への共感は、イデオロギーの犠牲になった命ひとつひとつに向けられている。敗軍を書くことは歴史を書くことであり、自然と「歴史小説家森鴎外」の方法を研究し、その<庶民無視>の文学に、それまで指摘されて久しい<イデオローグ>を発見してしまったのである。大岡はその軍隊経験から、同じ文士としての軍人森林太郎を意識せずにはいられなかったのである。
 その嫌悪感が具体化したのが『堺事件』である。すでに昭和の情報過多は、歴史を語ることを、煩雑なジャーナリズムの中、読者の興味という点に中心が移り、歪められつつあった。大岡が史実を簡単に捨ててしまった歴史小説に噛みついたのが、昭和三十七年の「『蒼き狼』論争」である。その後も、次々とあらわれる史実を無視した(売れる)歴史小説が発表される。それに対し、大岡は歴史を語る上での史実の情報処理自体を示す必要があると考え、その材料として、昭和四十年、友人中山義秀の『土佐兵の勇敢な話』をきっかけに、鴎外の『堺事件』を発見したのである。
 そして大岡は、その答えとして『堺港攘夷始末』を遺書として我々の前に遺した。論争を振り返ることで『堺港攘夷始末』への道が見える。ますます情報過多となるこの時代に、自立した情報処理の手本として、この論争は評価できるのである。そして、『堺港攘夷始末』それ自体が、大岡昇平が超一流のジャーナリスト(情報発信者)であることを証明しているのである。
 
 
  一 イデオロギーがもたらす人の死
 
 
 @
  明治末から大正初めに到る山県体制が抗争的であった時点では、彼が主人に忠実なイデオローグとして働いた、と見做すのが、『堺事件』のこれまで検討した捏造と、繰返される歴史の自然尊重宣言とのあり得べからざる矛盾の一つの解であろう。
                   (<『堺事件』の構図> 第十九巻 四二五頁)
                  (以下、大岡昇平の引用は筑摩書房版全集による)
 
 A
  日本の民主主義革命にブレーキをかけようとして(鴎外は、)五人まえも八人まえも仕事をしています。(中略)この上からの力を、粗末なものから精密なものに、低級なものから高級なものに改めて行かねばなりませんが(中略)そこに、鴎外が、日本の古い支配勢力のための一番高いイデオローグであった手柄があると私は思います。
        (中野重治 <鴎外位置づけのために> 昭和二十二年「展望」 ()内引用者注)
 
 B
  私はこの前の戦争で捕虜になった。死んだ戦友に対して、常にすまない、と思っていた。今日まで生きていることだけでも相当なのに、その上、国から名誉を受け、年金をもらうことはできない、とかねがね思っていた。
          (<六十三、四の正月> 昭和四十七年一月六日「毎日新聞 夕刊」  第二一巻 四九頁)
 
 C
  「堺事件」を起した警備隊は、農民までまじった雑軍で、年齢四十歳以上の者あり、 (中略)当時土佐藩は殆ど総動員だったから、その下で黙々と働き死んでいった、勤王党でも迅衝隊でもない農民、町人、職人、がいたのだ。
     (『成城だより U』 昭和五十八年四月 文芸春秋 第二十二巻 一六四頁)
 
 D
  「攘夷」とひと口にいっても、朝廷、幕府、大名(土佐藩や長州藩等のこと)、浪士(吉村虎太郎など)にとって、それぞれその意味は異なる。
                 (『天誅組』 第八巻 四0二頁 ()内引用者注)
 
 
  二 森鴎外『堺事件』論難まで
 
 E
   歴史小説は原則として、歴史上の人物を人間的に描くのであるが、現代の管理社会では個人の役割は減少しつつある。その反作用として、偉大な個人の成功とか、没落の悲劇への憧れが生じる。歴史的人間は、何等かの地位に就き、歴史に参与しなくては興味を惹かなくなっている。
   一方現代の情報過多は、情報の処理と操作への興味を増大させる。いまの読者は小説的創造だけでなく、歴史的情報の処理自身に興味を持っているのである。
   (<歴史小説の方法> 昭和四十八年四月九日「朝日新聞」 第十六巻 五一0頁)
 
 F
  歴史に死んだ子を惜しむ母親の嘆きを見るのは正しく(中略)間違いではあるまい。しかしこれらの感情的理由から、歴史全体を律しようというのは、幾世紀にわたる修史家の地下作業、過去を詳細に知りたいという自然の要求を無視することになる。一民族が母親の感情だけで生きていたら、確実に亡びてしまうだろう。
           (<現代史としての歴史小説> 昭和三十九年十一月「文学界」
                               第十六巻 一六九頁)
 
 敗軍への共感
+軍人鴎外の<庶民無視>
+歴史情報処理の必要性
+中山義秀『土佐兵の勇敢な話』
+『天誅組』吉村虎太郎と土佐藩への思い
=『堺事件』論難
 
 
   論争の経過
 
 これは大岡側からのまとめであるが、鴎外側に対して、できる限り網羅したつもりである。今まで、大岡側に立った論争評価がなされていないことが、この表の第一動機である。また、大岡が鴎外を論難するにあたって参考にしたであろう資料は、論争に関するものに限った。『堺港攘夷始末』執筆の資料は省いた。
 

年代

人名

事項

一八六八年
 (慶応四)
 二月十五日



 

堺事件。(陽暦三月八日)夕刻、堺港内でフランス水兵 の殺傷事件勃発。
 

一八九三年
(明治二六)

佐々木甲象
 

『泉州 堺烈挙始末』刊
鴎外蔵書(初版)。鴎外の『堺事件』の典拠となった。

一九一四年
 (大正三)
   一月

 

森 鴎外



 

『大塩平八郎』を「中央公論」に発表。
その後、鴎外は「三田文学」に評論として『大塩平八郎 』を発表し、<あまり暴力的な切盛や、人を馬鹿にした 捏造はしなかった>と書いた。現在「附録」という形に なっている。この点大岡論難。

 同 二月

森 鴎外

『堺事件』を「新小説」に発表。

一九一五年
 (大正四)
   一月

森 鴎外

 

『歴史其儘と歴史離れ』を「心の花」に発表。

 

一九四一年
(昭和十六)
   三月
 

小林 秀雄


 

<歴史と文学>を「改造」に発表。
小林は唯物史観を批判し、「子供に死なれた母親」のど んな条件の死かという確認よりも、かけがえのない命を 失った悲しみ、それが歴史だとする。

一九四二年
(昭和十七)

岩上 順一
 

『歴史文学論』
大岡援用。鴎外に庶民の視点が無いことを言及。

一九四四年
(昭和十九)
   十月


 

稲垣 達郎




 

<鴎外と「歴史其儘」−『堺事件』について>「五十嵐 博士記念論集日本古典新攷」早稲田大学文学部編に発表
竹盛天雄氏の解説によると「大岡の批判的姿勢に同感す る点があるごとく」であったという。
『森鴎外の歴史小説』(岩波書店 平成元年四月 刊) の解説より。

一九四七年
(昭和二二)
   八月

中野 重治

 

<鴎外位置づけのために>を「展望」に発表。
戦後の鴎外像を啓発する<日本の古い支配勢力のための 一番高いイデオローグ>の指摘がある。

一九六一年
(昭和三六)
   一月

大岡 昇平

 

<常識的文学論(一) −『蒼き狼』は歴史小説か> を「群像」に発表。
その後井上靖と論争になる。

 同 七月


 

大岡 昇平


 

<歴史其儘と歴史離れ>を「文学界」に発表。
<鴎外自身もその歴史小説において、口でいうほど史料 に忠実でなかったことは、作品と素材との比較研究によ って明らかにされている>と指摘。

一九六四年
(昭和三九)
   十一月
 

大岡 昇平


 

<歴史小説と批評>(単行本所収の際<現代史としての 歴史小説>となる)を「文学界」に発表。
<一民族が母親の感情だけで生きていたら、確実に亡び てしまうだろう>と小林秀雄を否定。

一九六五年
(昭和四十)
   五月


 

中山 義秀




 

『土佐兵の勇敢な話』を「群像」に発表。
大岡と中山は、共に鎌倉在住の縁から文学仲間として接 し、福島の棚倉出身の中山は当時の土佐兵の暴徒ぶりを 聞いて育ち『堺事件』の感想に「砂をかむ」ような感情 だったとする。フランス兵の死者が十一人だったことや 土佐兵の至近距離からの発砲の残虐性への指摘がある。

一九六七年
(昭和四二)
   一月

大岡 昇平

 

『レイテ戦記』を「中央公論」に連載開始。二年後の昭
和四四年まで連載。 一九七一年(昭和四六)中央公論社から単行本刊行

 同 一月




 

大佛 次郎




 

『天皇の世紀』を「朝日新聞」に連載開始(一日)。昭 和四八年まで続く。堺事件について、大佛は鴎外に振れ ているが、大岡は、大佛もその影響下にあり公平な歴史 ではないと指摘。堺事件は「内乱」の章で叙述。 「内乱」の章所収単行本『天皇の世紀 八 江戸攻め』 は、昭和四六年十一月 朝日新聞社 刊

 同 二月




 

大岡 昇平




 

<森鴎外>      
中央公論社刊 日本の文学3『森鴎外(二)』解説
大岡は、<『堺事件』では土佐藩兵の集団切腹を見、 狼狽して立ち去るフランス士官を書いた。事件はいくぶ ん国粋的に美化され、事実の認定が不公平である>と指 摘している。

一九六八年
(昭和四三)
   八月
 

大岡 昇平


 

<歴史小説論> 『全集・現代文学の発見 第十二巻 歴史への視点』(大岡、平野謙、佐々木基一、埴谷雄高 、花田清輝の編集) 学芸書院刊 解説。
大岡は『堺事件』と中山義秀との関連を言及。

一九六九年
(昭和四四)
   十二月

小泉浩一郎

 

<『堺事件』論 −一つの素描>を大東文化大学「日本 文学研究」に発表。後、単行本『森鴎外論 実証と批評 』所収の際に改稿、<献身と官僚主義>の副題になる。

一九七一年
(昭和四六)
   六月

尾形 功

 

筑摩書房版『森鴎外全集3』語注
大岡はその注に「皇室」への叙述がないこと等を指摘。
 

 同 十一月
 

大岡 昇平
 

『中山義秀全集』第四巻(『土佐兵の勇敢な話』所収) 解説。大岡は編集委員の筆頭。

一九七三年
(昭和四八)
   二月

藤本千鶴子

 

<歴史上の「阿部一族事件」 −殉死事件の真相と鴎外 の「阿部一族」>を「日本文学」に発表。
この時期の一連の藤本論が大岡に影響との指摘は多い。

 同 四月
   九日
 

大岡 昇平

 

<歴史小説の方法>を「朝日新聞(朝刊)」に発表。
大岡は、読者が<歴史的情報の処理自身に興味を持って いる>と指摘。

一九七四年
(昭和四九)
二、三、四月

菊池 昌典

 

<歴史小説とは何か>を「展望」に連続発表。
「『蒼き狼』論争」や、史実の尊重などについて、大岡 側ととれる論を発表。

 同 六月

 

大岡 昇平

 

<歴史小説の問題>を「文学界」に発表。
大岡は、鴎外に<戦意高揚小説の走りともいうべき『堺 事件』を書くべき理由があった>と指摘。

 同 十月
 

大岡 昇平
菊池 昌典

対談<歴史・人間・文学>「月刊エコノミスト」発表。
 

一九七五年
(昭和五0)
   三月

大岡 昇平

 

<『堺事件』疑異>を「オール讀物」に発表。
大岡は<中間報告>として、鴎外が「朝命」を省いたこ とと、フランス兵の無法の追加をを具体的に指摘。

 同 三月

山崎 一穎

<『堺事件』試論>を「跡見学園女子大学紀要」に発表

 同 三月
 

尾崎 秀樹
菊池 昌典

対談<人間学としての歴史学> 「季刊 歴史と文学」に連載開始。昭和五四年まで。

 同 六月
   七月

 

大岡 昇平


 

<森鴎外における切盛と捏造 −『堺事件』をめぐって >、<『堺事件』の構造 −森鴎外における切盛と捏造 (続)>を「世界」に発表。
大岡は鴎外の「イデオローグ」を指摘

 同 十月

山崎 一穎

<大正三年の鴎外>を「評言と構想」に発表。

 同 十月


 

川嶋 至


 

<事実は復讐する>を「季刊藝術」に発表。
小堀桂一郎氏は、対談(後出)の中で、<大岡が鴎外を 標的にしたきっかけの論文>と指摘しているが、それで は発表順序のつじつまは合わない。

 同 十二月

吉田 精一

<森鴎外は体制イデオローグか>を「本の本」に発表。

一九七六年
(昭和五一)
   四月

蒲生 芳郎

 

<『堺事件』論覚え書 −大岡昇平氏の『堺事件』論を めぐって>を「評言と構想」に発表。
 

 同 六月
 

菊池 昌典
 

<歴史小説とは何か>を再び「展望」に発表。
大岡の論難を評価。

 同 十月
 

前田 愛
 

<歴史と文学のあいだ −大岡昇平『文学における虚と 実』を読む>を「海」に発表。

一九七七年
(昭和五二)
   一月

小泉浩一郎

 

<最近における鴎外歴史小説研究への一視点 −大岡・ 菊地・藤本・蒲生氏等の諸論をめぐり> 「東海大学紀要」

 同 三月
 

谷沢 永一
 

<鴎外・漱石への視角 −大岡昇平・方法の確立と変奏 >を「国文学 解釈と教材の研究」に発表。

 同 七月

尾形 功

<堺事件 −もう一つの構図>を「文学」に発表。

 同 七月
 

小泉浩一郎
 

<『堺事件』再論 −鴎外は体制イデオローグか>を「 鴎外」に発表。

 同 九月

大岡 昇平

<『堺事件』批判その後>を「群像」に発表。

 同 十二月
 

高橋 正
 

<森鴎外「堺事件」論ノート −大岡論文をめぐって> を「日本文学研究」(高知日本文学研究会)に発表。

一九七八年
(昭和五三)
   六月

山崎 一穎

 

<一連の『堺事件』論に思う>を「国文学 解釈と鑑賞 」に発表。
 

 同 七月


 

大谷 晃一


 

<鴎外、屈辱に死す>を「文藝」に発表。
大岡は、『成城だより』(筑摩全集二二巻四四頁) の中で、際どい内容に対して鴎外研究者の反論のないこ とを不満としている。

一九七九年
(昭和五四)
  十二月

山崎 一穎

 

<『堺事件』論争の位相>を「日本文学」に発表。

 

一九八0年
(昭和五五)
   一月

 

大岡 昇平



 

<成城だより>を「文学界」に連載開始(十二回)。
以後、論争への回答や、『堺港攘夷始末』執筆の経過の 発表の場となる。
<成城だより U> 八二年(昭和五七)十二回
<成城だより V> 八五年(昭和五九)十二回

 同 一月
 

蒲生 芳郎
 

<『堺事件』私見 −『堺事件』は”反”権力的な小説 か>を「文学」に発表。

 同 四月
 

菊池 昌典
綱淵 謙錠

対談<敗者雪冤 歴史を組みかえる視座>
「図書新聞」

 同 七月
 

菊池 昌典
平岡 敏夫

対談<小説家・鴎外をめぐって>
「国文学 解釈と鑑賞」

一九八二年
(昭和五七)
   二月

 

高橋 英夫
大岡 昇平


 

大岡昇平集 岩波書店 十四巻(鴎外関連文所収巻) 解説 <歴史の中の人間探究>を発表。
巻末に大岡の<作者の言葉>。<森鴎外『堺事件』につ いては、目下国文学者と慢性的に論争中>としている。 大岡は論争自体に結論を出さないつもりでいたらしい。

一九八四年
(昭和五九)
   一月

福本 彰

 

<堺事件論 詳細な検討を通して>を「鴎外」に発表開 始。
 

 同 十月
 

大岡 昇平
 

『堺港攘夷始末』を「中央公論文芸特集」に連載開始。 八九年(平成元年六月)中央公論社刊

一九八五年
(昭和六十)
   一月

大岡 昇平

 

<土佐日記>を「文学界」に発表。
大岡が、高知県へ取材した模様について。
 

 同 三月
 

岡林 清水
 

<森鴎外「堺事件」 −その歴史性・文学性をめぐって >を「高知大学学術研究報告 人文科学」に発表。

一九八八年
(昭和六三)
   五月

福本 彰

 

<森鴎外作『堺事件』の位相(一) −大岡昇平著『堺 港攘夷始末』への道>を「森鴎外研究」に発表。
 

 同 十二月
 

大岡 昇平
 

二十五日、没。
 

一九八九年
(昭和六四、
  平成元)
   三月

菅野 昭正


 

<博捜と明視 −大岡昇平『堺港攘夷始末』をめぐって >を「中央公論文芸特集」に発表。

 

 同  六月
 

菅野 昭正
 

大岡昇平 中央公論社刊『堺港攘夷始末』解説
<歴史が小説になるとき>

一九九0年
 (平成二)
    二月

蓮實 重彦

 

<文芸時評>を「文芸」に発表
『堺港攘夷始末』を評価。
 

 同  二月
 

山崎 一穎
 

<研究史及び作品論 堺事件>を『別冊國文學 森鴎外 必携』に発表。

 同  春

亀井 秀雄

<「歴史」と歴史と小説の間>を「文学」に発表。

 同 十一月
 

蓮實 重彦
 

大岡昇平 岩波同時代ライブラリー『歴史小説の問題』
解説。<露呈する歴史のために>

一九九一年
 (平成三)
   六月

蒲生 芳郎

 

<鴎外『堺事件』論 −<堺事件>をめぐる四つの作品 ・その(一)>
「宮城学院女子大学 研究論文集」

 同 八月
 

蒲生 芳郎
 

<『堺港攘夷始末』論覚え書>を「日本近代文学」に発 表。

 同 九月
 

山崎 國紀
 

<大岡昇平「切盛と捏造」考 −蓮實重彦説への疑問> を「文学・語学」に発表。

 同 九月
 

石田 仁志
 

<物語言説(ディスコース)に仕組まれたもの −森鴎 外「堺事件」>を「論樹」に発表。

一九九二年
 (平成四)
   三月

蒲生 芳郎

 

<鴎外『堺事件』論・続 −<堺事件>をめぐる四つの 作品・その二>を「宮城学院女子大学 人文社会科学論 叢」に発表。

 同 四月
 

松元 寛
 

<「昭和末」の大岡昇平 −自伝二部作から『堺港攘夷 始末』へ>を「三田文学」に発表。

 同 六月
 

蒲生 芳郎
 

<鴎外『堺事件』論(その三)>を「宮城学院女子大学 研究論文集」に発表。

 同 十月


 

柴口 順一


 

<大岡における歴史(一)>を「北海道大学文学部紀要 」に発表。
同題(二)同紀要 平成五年十一月 発表
同題(三)同紀要 平成六年 三月 発表

一九九四年
 (平成六)
   二月

小堀桂一郎
山崎 國紀
 

対談<森鴎外を考える>
『森鴎外を学ぶ人のために』 世界思想社
 

 同 十一月
 

野口 武彦
 

<忠実の肉声 −『堺港攘夷始末』をめぐって>を「ユ リイカ」に発表。

一九九五年
 (平成七)
   二月
 

柴口 順一


 

<大岡昇平における歴史(四)>を「帯広畜産大学術 研究報告人文社会科学論集」に発表。
同題(五)同紀要 平成八年二月 発表
同題(六)同紀要 平成十年三月 発表

 同 五月
 

井田 進也
 

<『堺港攘夷始末』疑異 −歴史の<時間>は消せるか >を「思想」に発表。

 同 十月
 

大谷 晃一
 

<大岡さんの手紙>
大岡昇平全集 筑摩書房 月報4

一九九六年
 (平成八)
   一月

大江健三郎

 

大岡昇平全集 筑摩書房 第十三巻(『堺港攘夷始末』
所収巻)解説 <多面的なエクリチュール>

 同 一月
 

久留島 浩
宮崎 勝美

<大岡さんの「最後の戦争小説」>
月報13

 同 五月
 

清水 徹
 

全集第十六巻(鴎外関連文章所収巻)解説
<評論から小説へと遡行する>

 同 五月
 

井出 孫六
 

<『堺港攘夷始末』の背景>
月報16

 同 七月

 

金井美恵子

 

全集第二二巻(『成城だより』所収巻)解説
<「小説家」であること −あるいは「ひたすらな現在 」>

 同 八月
 

菊池 昌典
 

<大岡さんの歴史小説観>
月報23

一九九七年
 (平成九)
    夏

山崎 一穎
高橋 英夫
井田 進也

鼎談<森鴎外という存在> 「文学」に発表。
井田氏は、大岡を指して「イデオローグ」と指摘。
 

一九九八年
 (平成十)
   一月

井田 進也

 

<鴎外と大岡昇平 −「堺事件」との格闘>
「國文學 解釈と教材の研究」
 

 

 

 
 
 
  三 「『堺事件』論争」の経過
 
 この論争の論点は、鴎外研究者の長年にわたる詳細な反論によってほぼ出尽くしている感がある以上、ここでは大切な点に絞りまとめ、大岡側からの発言としたい。
 反論者の方も、論点を整理しながら『堺事件』のモチーフをひとつの線につなげる論理を提出しているので、論点は問題を浮き彫りにするはずである。
 
 ・論点一 フランス兵の無法性について
 
 佐々木甲象 フランス兵が乱暴の限りを尽くしている。
  森  鴎外 乱暴の度合いを和らげて書く(小泉氏指摘、後出)。しかし乱暴は書いてあり、フランス兵が<一斉射撃>をしたと書く。
 中山 義秀 何も乱暴はしていない。
 大岡 昇平 山県体制の開国征夷の征夷の部分に奉仕する構図を捏造と指摘。フランス兵の無法性は、鴎外のモチーフでもあったと指摘。
  *『堺港攘夷始末』(昭和五十九年秋号より連載「中央公論文芸特集」)では、遺された測量図の物的証拠から、フランス兵の堺港における砲台の測量を軍事的逸脱行為と指摘。
 
 ・論点二 土佐兵の正当性について
 
 佐々木甲象 土佐兵が堺市民から英雄扱いを受ける。
  森  鴎外 英雄扱いは省く(岡林清水氏指摘)。
 中山 義秀 フランス兵の惨殺死体を描き、土佐兵の暴虐ぶりと堺市民の共犯を指摘。
 大岡 昇平 土佐側の発砲を状況証拠から指摘。
       『堺港攘夷始末』では、測量を行き過ぎとして、土佐側の正当性を主張。
 
 ・論点三 フランスの要求五箇条から皇室陳謝の条を省いたことについて
 
 佐々木甲象 五箇条すべて叙述。
  森  鴎外 三箇条にする。
 中山 義秀 三箇条(尾形氏指摘、後出)。
 大岡 昇平 皇室に都合良くするための切盛と指摘
 蒲生 芳郎 話の筋の単純化及び抽象化。
       五箇条の内速やかに三つ実行という史料の記述に引きずられたとする。
 尾形 仂  史料の後半に三箇条の正当性を発見したと指摘(大岡再批判、後出)。
 山崎 一穎 第三条(皇室陳謝の条)に鴎外の書き込みがあることを指摘。
 
 ・論点四 除名九名流罪の発令元の朝命を省く
 
 佐々木甲象 <朝廷御沙汰>としている。
  森  鴎外 省略する。
 大岡 昇平 切盛したため、流罪発令があたかも土佐藩のようだと指摘。
 小泉浩一郎 <士分取扱の沙汰は終に無かった>の叙述に注目し、必ずしも鴎外が朝廷有利にしたわけでないことを指摘。
 
 ・結論(森鴎外『堺事件』全体の評価)
 
 稲垣 達郎 明治という変革期における犠牲
 大岡 昇平 開国征夷の山県体制に忠実な<イデオローグ>鴎外による切盛と捏造
 蒲生 芳郎 原書の捨象と抽象化による壮絶な切腹ドラマ
 尾形  仂  大逆事件から影響している権力と無名の兵士という単純な静止図
 小泉浩一郎 権力から裏切られた皇国意識
 山崎 一穎 組織から弾かれた個
 
 
  四 『堺港攘夷始末』の二時間の処理
 
 
  しかし箕浦を苛立たせたのは、目の前で異人と戯れる妓楼旭茶屋の使用人と堺の住人  の愚かさよりは、港内のパリスの測量ボートの動きであったろう。
 
  挿図[の示すように(図参照 中略)パリス少尉は(中略)港口の砲台下を測量し直  し、発砲時に北側のC地点にいたことは文句のない逸脱行為で
 
  (「外国掛上申書」のパリス上陸証言)は、台場の偵察以外には考えられない。そし  て事実、挿図[の港内測量図には、ここへ上がらなくては観察できない事実が誌され  ているのである。(中略)港内はすべて石垣で護岸されていたから、水上のボート上  からは見えないはずである。
 
  箕浦は遊歩が総年寄のいうように合法であるならば、測量も合法であることについて  文句はなかった。しかし砲台の偵察は軍事的に許すことはできなかった。
           (『堺港攘夷始末』「八 測量」 十三巻 一一七頁から一二0頁)
 
 慶応四年二月十五日 堺にて
 

 

大岡昇平

井田進也

PM.3:00
 

フランス兵を乗せた二艘のボートが堺港に入港。うちひとつは着岸。パ
リスの乗ったボートは測量開始。

3:40前後
(七つ時)
 

通報後直ちに出動。測量監視のため 旭茶屋二階に舞台配置。PM4:00には 完了。

当日縁日で付近は賑わっていた。 伝達がうまく行かず出動が手間取 る。

4:50まで
 

パリス測量隊が砲台場に上陸するの を発見。  

狭い大小路ゆえに行軍が手間取り PM5:00前後港にようやく到着。

4:50
 

着岸組のうちのふたり、デュレルとルムールが八番隊の尋問中に突然逃 亡をはかる。

5:00頃

 

逃亡者やパリス測量船に向け発砲
照準はあらかじめつけてあった。
 

なだれ込むようにして次々と発砲 する。
 
 
 
 
 <図一>
  『堺港攘夷始末』より(筑摩版全集 第十三巻 P.121)
   
 
 <図二>
  『堺港攘夷始末』より(筑摩版全集 第十三巻 P.109)  
 
   <図三>
  『堺港攘夷始末』(平成元年十二月 中央公論社)表紙画より
 
   
    五 歴史家と小説家とジャーナリスト
 
  大岡は、批判の対象であった森鴎外に対して、礼にかなった批評と尊敬とユーモアをこめて、さりげなく『阿部一族』の冒頭を踏襲しているのだ。
                    ( 金井美恵子 筑摩全集第二二巻 七0四頁)
 
   明治維新朝幕政権交替を決した鳥羽伏見の戦いの後三日の慶応四年正月九日(一八六八年陽暦二月二日)八ッ時(午後二時)洛東妙法院方広寺の屯所を発した箕浦猪之吉を隊長とする土佐藩六番隊は、すでに淀城に進出しているはずの皇軍総裁仁和寺宮嘉彰親王護衛の藩兵先鋒と交替すべく、伏見街道をひたすら南下、富ノ森で火をとぼした。                       
                            (『堺港攘夷始末』 冒頭)
 
   従四位下左近衛少将兼越中守細川忠利は、寛永十八年辛巳の春、余所よりは早く咲く領地肥後国の花を見棄てて、五十四万石の大名の晴々しい行列に前後を囲ませ、南より北へ歩みを運ぶ春と倶に、江戸を志して参覲の途に上ろうとしてゐるうち、図らず病に罹って、典医の方剤も功を奏せず、日に増し重くなるばかりなので、江戸へは出発日延の飛脚が立つ。
                              (『阿部一族』 冒頭)
 
  これらの史伝(『澀江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』)は対象たる人物の一生だけでなく、その子孫の代まで追及したのが特徴である。(中略)これはむろん日本で初めての試みであり、世界文学に例のない大壁画が完成されたのである。(中略)『澀江抽斎』には対象の発見とともに、方法の発見の喜びが感じられる。
                  (「森鴎外」 第十九巻 三八三頁 ()内筆者)
 
 
 以上、レジュ
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