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| 緋の衣は、アメリカ、New Jersy州、Warren county、Washington 付近の起源と言われるアメリカ原産の品種です。1804年に、J.Wycoff
氏が、New York州、Tompkins County に持ち込み、 Kingと名付けましたが、1855年頃、King of Tompkins Countyと改名されました。紅玉Jonathan 同様、200年以上も前から知られていた歴史のある古いりんごです。因みに、1804年と言えば、アメリカでは第3代大統領トマス・ジェファーソンの時代、日本では享和4年/文化元年の第11代将軍徳川斉昭の時代です。 日本へは、1871(明治4)年に開拓使 (明治2〜15年の間、北海道開拓を任務として設置された官庁) によってアメリカから導入され、翌年に東京から北海道・七飯開墾場(官園)に送られ、そこで繁殖・養成のうえ、1875(明治8)年4月、民間に無料で配布された品種の一つで、当時の北海道余市地区の人々の努力で、リンゴ産業がおこるきっかけとなったリンゴ品種の一つです。明治時代から昭和の初めまで、北海道余市地方の代表的品種でした。 果実は扁円〜円錐形。黄色に淡紅の地色に濃紅の縞が入る大形のリンゴ。果肉はやや粗で、色は黄白色で、甘酸適和で、芳香がある中生〜晩生の生食・料理兼用の、10月下旬から11月にかけて収穫できる、三倍体の品種です。 この品種が日本に輸入されたのは1871(明治4)年のことです。開拓使がアメリカから導入しました。明治初期に欧米から導入された品種には、勿論、欧米での名前がついていました。しかし、現在のように横文字やカタカナに馴染んだ時代ではありませんでしたので、横文字名前のままでの普及は難しかったようで、最初は産地ごとに勝手に名前をつけていたため、かなりの混乱があったようです。この品種も、十九号、十八公、松井など、いろいろな名前で呼ばれていましたが、1900(明治33年)の第6回名称選定会までに緋の衣という名前に統一されました。 1869(明治2)年、東京謹慎中の会津藩士らの蝦夷地行きが決まり、同年9月、兵部省の管理下におかれた旧会津藩士団103戸333名は、品川沖からコユール号にて出帆、11日間の船旅の後オタルナイへと到着しました。 到着後しばらくは、兵部省の北海道からの引き揚げなどで落ち着き先が決まらない日々が続きました。藩士団は樺太開拓使黒田清隆に請い、樺太開拓使管理下に入りましたが、後には樺太開拓使も廃止となり、開拓はなかなか進展しませんでした。最終的に余市への移住が開始されたのは、小樽上陸後1年半が過ぎた1871(明治4)年旧暦4月のことでした。 1871(明治4)年旧暦正月、隊長宗川茂友以下193名による開拓の決意を秘めた血判がおされた御受書がされ、同年4月には先発隊が余市入りし、7月までにほぼ全員の移住が終わりました。彼らは余市川上流の川東に 4ヶ村(黒川村)、川西に 2ヶ村(山田村)を開き、開拓を行ないました。 入植地には子弟教育の為の日進館、講武館が設けられ、会津から取り寄せた漢籍を使用した日進館は余市町の学校教育の草分けとなりました。入植前後には開拓使から請われて官公吏、教師、警察官となるなど、転出された方もいました。 前述のように、北海道開拓使は1875(明治8)年に札幌、有珠、余市など道内各地にりんご苗木を無償で配布いたしました。余市へは同8年に500本が各戸に配布されました しかし、海のものとも山のものともつかない、初めて見る苗木は、生活苦のどん底にあえいでいた開拓農家にとっては、魅力的なものではありませんでした。配られた苗木はどこの家でも畑の隅に植えられ、ほったらかしにされており、多くの苗木が枯死したようです。 そのような状態でも、努力の人がいたのです。4年後の1879(明治12)年には、会津藩士であった赤羽源八氏宅と金子安蔵氏宅の庭先のリンゴが遂に実りました。 赤羽氏宅からは配布時の品種名19号の樹から6個の大きい果実が収穫できました。この19号は、あとで緋の衣(ひのころも)という日本語の品種名が付けられます。 この名は、江戸末期、孝明天皇が信頼の証しとして会津藩主松平容保に与えた「緋の御衣」と、戊辰戦争降伏時、式場に敷かれた「緋毛氈」という会津藩にとって明と暗の両方をイメージして名付けられたものとのことです。 同じく金子氏宅の品種名49号の樹からも7個が収穫され、やがて各地で栽培されるようになり、国光という名に統一命名され、明治・大正・昭和の約100年間、日本のリンゴ産業を支える大品種になります。 翌年もリンゴは結実し、1本の樹から50kg弱ほども収穫できるようになり、札幌で開催された農業博覧会に出品され好評を博しました。リンゴ1貫目(3.75kg)で白米4升ほどのよい値段で取引されたリンゴ栽培は徐々に軌道に乗り、余市地方は北海道におけるリンゴの大産地に発展していきます。 緋の衣は、昭和の初めまでは、余市のリンゴを代表するほどたくさん栽培されましたが、現在では幻の品種になりつつあります。しかし、幸いなことに、猪苗代出身の吉田清亥氏が園主だった吉田農園で、その品種がまだ大切に守り続けられていました。 そのことを知った会津若松・会津坂下・塩川のりんご生産者が、会津平成りんご研究会を結成し、2000(平成12)年2月23日、「藩士ゆかりのりんごを会津でも」とその農園から枝を譲り受け、復活に取り組みました。また、その農園の現在の園主吉田初美氏から会津若松市にたくさんの苗木が寄贈され、あいづ総合運動公園に、2000(平成12)年10月23日に、記念樹2本を植樹することができました。記念樹の前には、記念碑・案内説明板が設置されているそうです。 研究会ではその後、試行錯誤の末、約50本の木を育て、たくさんの実をつけるようになったということです。 「会津藩士のりんご」が会津で復活したのです。
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〈文献〉 1) 余市町Official Web Site 余市町の紹介 余市でおこったこんな話 −その17 「リンゴ」の巻ー 地域間交流 福島県会津若松市 2) 会津若松市ホームページ ようこそ市長室へ 市長日記 「藩士ゆかりのりんご」「平成17年12月1日」 |