印度は明治初年に青森県津軽城下の弘前市にひょっこり生れ出た品種で、当時は、「酸っぱくないのはりんごに非ず」と地元の人々からは見向きもされなかったものです。しかし、すっぱいりんごがあまり得意でない消費者がいたのでしょう。甘いりんごとして次第に有名になり、戦後は高級りんごとして出回りました。硬くて、甘くて、酸っぱくない異端な味のする、よく保存のきくりんごでした。
 昭和10年代、私たちの子供の頃は、甘さに飢えていましたので、その時に食べた甘さがまだ記憶にあります。また、このりんごは日本以外ではあまり栽培されていません。
 収穫期は10月下旬からであるらしいのですが、11月初旬に食べてもあまり甘さを感じません。「こんな味ではなかったが?」という感じです。糖度もそれほど高くはありませんでした。しかし、1月には「これが印度の味だよな!」いう感じに変化してきます。糖度を測定してみますと、赤く色付いた陽光面で 16.0%、緑色の部分で14.9%ありました。酸味はごく少ないりんごです。
 一時小売店から姿を消しましたが、2002年頃から、いろいろな場所で売られるようになりました。今では青森市内でも容易に手に入ります。販売店の方に伺いましたら、「お客様は懐かしがってけっこう買っていかれますよ」とのことです。

 前述のように、日本で生まれた西洋りんごなのですが、その歴史には詳細な点で不明なことが多い品種で、次のようないろいろな説があります。印度という名についても、弘前市東奥義塾教師のジョン・イング からという説、彼がインディアナ州出身だったからという説、インディアナから種子が送られてきたからだなどいろいろあります。 
 1875(明治8)年12月25日、弘前市東奥義塾教師ジョン・イング(John Ing)氏が、同僚や塾生に母国アメリカからの西洋りんごをご馳走し、当時の学長菊池九郎氏がその種子を蒔き、実生を弟の三郎氏の園に栽植した文献1
 上述の菊池九郎氏の次弟群之助氏が米国のインディアナ州農学校に留学し、在学中西洋りんごの種子を送ってきた。それを菊池三郎氏が播種し、菊池九郎氏の庭内へ植えた文献2
 上述の菊地九郎氏の三男軍之助氏が留学生として明治8年渡米、インディアナポリス市の学校に入った。ここは丁度気候が故郷に似ているのでりんごの種子を親元へ送ってきた。この種子は早速菊地邸内に播かれた。ところが一つだけ芽を出した。明治10年のことである。この新芽は家中の皆から大切に育てられ、やがて待望の果実がなったのは明治20年の秋である文献3
 また、播かれた種子は白龍(White Winter Pearmain)のものではないかと思われています。

 印度は、その独特の個性から、日本のりんご改良に大きく貢献しました。王林ゴールデンメロン静香陸奥ジャンボ王林東光などの交配親です。

 三戸町の栽培家から、「三戸ではまだたくさん栽培しているから見に来なさい。必要だったらあげるから」と電話がありました。すぐに飛んで行きました。国道のすぐ近くに写真のような、元気な樹がたくさんあり、豊かに実っていました。 感激!







ジョン・イングについて
 プロテスタントの布教史の上では、札幌のクラーク、熊本のジェインズと並び称される人物です。3人はいづれも南北戦争における北軍の将校でした。
 中国での長期間(7年間とも10年間ともいわれる)の布教活動を切り上げて、母国に帰る途中、日本に立ち寄りました。そこで東奥義塾の菊池九郎の熱意ある説得に応じ、予定を変えて明治7年12月に弘前の東奥義塾に赴任することになります。
 語られるように彼がもってきた果実の実生が印度だったかどうかは別として、津軽の青年たちに西洋りんごを食べさせて驚かし、明治開明期の青年たちのやる気を起こさせ、産業思想を吹き込んだことは忘れることができません。イングの滞在期間はわずか3年間でしたが、津軽がいま日本一のりんご生産地となった原動力は、イングに負うとことが大きいと思います。
 一般向けの説明として、ジョン・イングが持ってきた果実を食べ、その美味しさに驚いた津軽の青年たちが、そのりんごの種子を播いて日本最初のりんご品種印度を弘前で育成したという伝説が一つのロマンとして語られています。〈文献2〉

<文献>  1. リンゴ品種大観 長野県経済事業協同組合連合会 昭和61年8月
      2. りんごを拓いた人々 斎藤康司著 筑波書房 1996年4月1日
      3. くだもの百科 斎藤義政著 婦人画報社 昭和39年8月10日