リンゴの花粉は昆虫によって運ばれます。花を利用する昆虫と、昆虫を利用する植物はお互いに依存関係を保ちながら長い間進化してきました。ところが、農薬を使う、除草剤を使う、環境を変えるなど、人がいろいろと手を加えることによって昆虫の数が減少し、リンゴの花に必要な花粉が十分行き渡らなくなりました。
そこで人工授粉が、1955(昭和30)年頃から行われるようになりました。綿棒の先に採取した花粉を付け、花の一つ一つに人手で授粉するという気の遠くなるような作業です。かつてはリンゴ開花期には、たくさんの人々が集中してこのつらい仕事をして、少なくなった虫の代わりをしていました。 ところが青森県のりんご園では、この人工授粉をする人の姿が近頃めっきり少なくなりました。それは、マメコバチという小さなハチを使って授粉作業をするようになったからです。マメコバチの増殖技術の進歩と農園の管理、特に農薬散布などが地域全体でハチの生活史に合わせて実施する体制が整ってきたからです。
マメコバチは上図のような、ミツバチより小さいハチです。普通は内径6〜8ミリほどの柱や材木の穴、枯れた草の茎、特にわら屋根のヨシなどの小さな細長い穴に花粉を運び込んで花粉塊を作り、それに卵を産みつけます。産卵が終わると隔壁を作り、また花粉団子を作っては卵を産みつけるということを繰り返します。条件がよければ、1日に3〜4個の花粉団子を作ることがあります。花粉運搬・巣作りはもっぱら雌が行います。
ですから、マメコバチが野外で飛び回って活動するのは1年間に1回、たった1ヶ月弱です。あとは穴の中だけで過ごしています。 花粉を持ち運ぶ昆虫としてはミツバチが有名ですが、ミツバチは1年中活躍しています。真冬でも巣の中の蜜を食べながら生活しているので、ミツバチを飼育すると授粉に関係のない季節でも世話を続けなければなりません。それに管理も難しい昆虫です。人も刺します。 その点、マメコバチは1年のうち、11ヶ月は穴の中で過ごしますし、人を刺すこともありません。ものすごく管理しやすいわけです。 いま青森県のりんご園には、右図のようなヨシの茎がつまったリンゴ箱が積み上げられた小さい小屋が見られます。これがマメコバチの巣です。 ヨシの茎を割ってみると、下図のように、筒の入口に近い方の花粉塊に生みつけられた卵は雄になる傾向があることがわかります。雌は筒の奥に多く見られます。ミツバチ同様、マメコバチは雌雄を産み分けることができます。
リンゴの花が咲く前に出られては困りますので、春少し暖かくなり始めると、マメコバチの巣を冷蔵庫に入れて、4℃ぐらいで保管し、その年のリンゴの開花に合わせて適当な時期に畑に出してやるなどのハチの巣からの脱出時期の調節をやります。このリンゴ保存用冷蔵庫利用による、羽化脱出適期の調節法や共同防除による農薬からのハチ保護対策は、板柳町横沢地区の方々の創意・工夫によるものです。 マメコバチは珍しいハチではありません。昔はわら屋根の家が多かったのです。つまり葦(ヨシ)の茎を何層にも積み重ねて作った屋根です。そのヨシの茎を巣にし、花粉を運び込んで団子をつくり、それに卵を産んで幼虫を育てるハチがたくさんいました。花粉団子が丁度大豆の粉(きな粉)のようでしたので「豆の粉の蜂」=マメコバチという呼び名が生まれたとも言われます。子どもたちが、ヨシの茎を割って、中の花粉団子を食べて楽しんでいる地方もありました。
このマメコバチをリンゴの授粉に利用しようと試みた最初の人は、青森県鶴田町中野の松山栄久氏(1906-1964)です。まだ、戦争中のことす。当時、草地の開墾が多く行われると同時に、薬剤散布が行われるようになったため、訪花昆虫が年々少なくなってリンゴの不稔果の発生が多くなったのだと考え、花粉交配に最も能率的なものとしてマメコバチの増殖を試みたのです。 初期の頃は電柱の節穴などに営巣しているものがあることから暗示を得て、板、木材、丸太などに、ボルトで多数の穴を開けて巣材として与えて、マメコバチの増殖に成功しました。今でも、そのような人工巣材(上図)が見られます。 松山氏がマメコバチの増殖に成功し、実用化したのが、戦争末期の1944(昭和19)年のことです。これらの試みは1.5ヘクタールの自分のりんご園で行いました。
最初はヨシ茎の筒束を直接リンゴ樹に取り付けたため営巣率が悪く失敗しましたが、リンゴ園内の小屋の軒下に取り付ける方法に切りかえて成功しました。 これらのことは、毎日、読売、時事通信、東奥日報などの新聞紙上でも紹介されました。例えば、1951(昭和26)年6月9日付け読売新聞には 「おとぎの松山農園、今年のリンゴ凶作も知らず、働き手は小鳥と蜂、一里四方だけ実りの秋約す」 とあります。 また、松山氏は1942(昭和17)年10月31日から1944(昭和19)年5月31日まで五所川原農林学校に、1947(昭和22)年頃は東奥義塾の講師として勤務し、この間にマメコバチの増殖と利用に関して講義したことがあるそうです。これらのことは、後のマメコバチの普及に大きな影響を与えることになります。 青森県柏村の福井正夫氏もマメコバチを導入し、1945(昭和20)年にその増殖に成功ました。福井氏のマメコバチ飼育技術は特に優れたもので、その後、松山氏をしのぐ繁殖に成功し、近隣のリンゴ生産者に「たねバチ」として多数分け与えています。
1962(昭和37)年には、竹島氏を中心にマメコバチ保存会が結成され、会員相互の飼育技術の向上を図り、町からの補助金を受けるきっかけにもなり、さらにマメコバチの分譲価格を決めるなど画期的な事業を行っています。 1959年から7年間に、竹嶋氏を通して分譲されたマメコバチは、青森県内はもちろん、北海道から九州にわたって全国で15,000本の巣筒、ハチ数で総数15万匹に及ぶものと考えられています。リンゴ栽培家はもちろん、各道府県や国の試験場や大学も含まれています 現在では、各種の巣材料が見られます。右上のような板溝式(板または合成樹脂板に溝を彫り、互いに重ね合わせたもの)や紙製のストローなどがありますが、いま一番普及しているのがヨシの茎です。 このマメコバチOsmia cornifrons の学会における標準和名は「コツノツツハナバチ=小角筒花蜂」でした。しかし、1950(昭和25)年に、日本及び朝鮮のマメコバチの仲間を分類整理した九州大学の平嶋義宏氏が、1963(昭和38)年の日本昆虫学会で、 「このハチは青森県に一番多く、しかも地元ではマメコバチと呼んでいるので、そのような呼び名に変えたらいかがでしょう」 と、提唱され、大方の学者がこれに賛成し、津軽地方の俗称のマメコバチが標準和名に格上げされてしまいました。それほど青森県のこのハチは有名になったのです。 青森県りんご試験場(現・地方独立行政法人青森県産業技術センターりんご研究所)でも、訪花昆虫の研究が行われていましたが、1962(昭和37)年からミツバチ及びマメコバチなどの飼育・利用の研究に本格的に着手します。 特にマメコバチについては生活史、県内の分布、成虫の活動性、飼育方法、天敵などについての基礎的及び応用的な本格的研究が行われ、リンゴ栽培に貢献しています。 りんご試験場の研究によると、野生のマメコバチの卵の死亡率は 4%強です。そのうちの 3%ほどはツツハナコナダニChaetodactylus nipponicus によることが知られています。つまり花粉塊の 3%以上にはコナダニが見られることになります。 子どものころマメコバチの花粉団子を食べて遊んだ1935(昭和10)年生まれの山田正輝少年は、やがてハチ類に興味を持つようになります。山田少年が食べた花粉塊の03%以上にコナダニがいたのでしょうが、少年はすくすくと成長し、高校生になると生物クラブに属し、昆虫の採集と観察、特にハチ類に熱中します。大学で本格的に学問に励み、青森県りんご試験場に職を得ることになります。 彼はここでリンゴの害虫や訪花昆虫などの研究に上司や同僚と共にうちこみ、やがてマメコバチ研究の中心的存在として青森県のりんご産業振興に尽くすことになります。 山田雅輝氏は場長を最後にりんご試験場を定年退職しましたが、2001(平成13)年に、マメコバチの授粉研究の功績で、木村甚彌賞(青森県りんご協会)を受賞しています。
いまでは、どこのりんご園にもマメコバチの巣箱が置かれるようになりました。つらい授粉作業をハチに任せるようになったことで、農家は労働力的に本当に助かったと思います。 板柳町の横沢地区の皆さんが、1984(昭和59)年に始めたマメコバチ感謝祭を、1992(平成4)年に板柳町が引継ぎ、5月8日を「マメコバチの日」に定め、この日に板柳町ふるさとセンターで「マメコバチ感謝祭」が毎年開かれています。 横沢地区では、早くからマメコバチの利用について地区を挙げて取り組んで成果をあげてきました。板柳町横沢地区にはこの取り組みを記念して下のような「マメコバチ 繁殖の地」記念碑が建てられ、次のような碑文が刻まれています。
(注) 1)木村甚彌賞 渋川傳次郎氏によって、1946(昭和21)年に栽培家を中心に設立された純然たる民間団体である青森県りんご協会が設けた、りんご産業振興に著しく功績があった個人または団体に贈られる賞。毎年、今年は誰々が受賞すると新聞をにぎわしている。 2)木村甚彌 1901(明治34)年〜1982(昭和57)年 柏木町(現 平川市柏木)の高名なりんご栽培家の木村甚吉氏長男で、子供の頃から成績抜群で周囲も勧め、本人も大学への進学を希望したが、父親は進学すると帰郷しなくなり、りんご園の後継がなくなると反対した。しかし、盛岡高等農林学校なら農業の専門家になるのだからよかろうと許可された。 盛岡高等農林卒業後、北海道農業試験場技手を経て、昭和4年に青森県農事試験場園芸部(りんご試験場前身)技手になる。青森県りんご試験場で、41年間にわたり、りんご病害研究に従事し、当時風土病と言われたモニリア病の解明・防除法の研究に貢献した。昭和30年〜45年の15年間はりんご試験場長。りんご病害虫防除やわい性台木の導入などに尽力した。 昭和24年東奥賞、同38年農林水産大臣賞、同50年勲四等旭日小授章。 |
〈文献〉
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