ジョージ・レーゼンビーは、わずか1作の主演である。
にもかかわらず、ピーター・ハント監督はこういう。
「本物のボンドはショーンでもムーアでもない。ジョージだ。彼こそがボンドだ。」
なぜだろうか?
ここでは、なぜ、本物はジョージ・レーゼンビーなのか、なぜ彼は一作でジェームズ・ボンド役を降りたのか、考えてみたい。
誤解しないで欲しいのは、よく言われるように、彼の人気がなかったせいではない。
制作スタッフは、もともとジョージ・レーゼンビーの作品を続ける予定だった。
だが、ジョージ・レーゼンビーは、自分から、映画公開前に継続のオファーを蹴ったのである。
これには、プロデューサーを含め、誰もが驚いた。巨額の契約金と、ジェームズ・ボンド役というビッグ・ネームを、新人俳優が断るとは・・・?
なぜ、ジョージ・レーゼンビーは、ジェームズ・ボンド役を降りたのか?
私が考えるに、ことの真実は、Qが言っている次の一言に集約されている。
「かわいそうに、あいつは、役者ではなかった・・」
そう、ジョージ・レーゼンビーは、実は役者ではなかった。
ボンド役が初めてだったのである。
役者というのは、一つの職業であるから、実は、本当に役に同一化などしない。
あくまでも、仕事として演技するだけだ。
だからこそ、ショーン・コネリーも、ロジャー・ムーアも、冷めた視点でジェームズ・ボンド像を見ていたし、それを批判したうえで、自分なりの解釈を持ち込むようにしていた。
だが、ジョージ・レーゼンビーは、役者ではなかった。
彼は、原作を必死で読み込み、そこに描かれているジェームズ・ボンドになりきろうと思ったのである。役者とは、そういうものだと思って。
ところが、たまたま、「女王陛下の007」に描かれていたジェームズ・ボンドは、他の作品と異なる大きな特徴を持っていた。
@ボンドは、自分の状況に不満を持っており、Mに叩きつける辞表の文案まで作成する。(小説版)
A辞職を願いでるが、マネー・ペニーが気を利かせて、2週間の休暇願いに切り替える(映画版)
B結婚を機に転職することを決意する。(映画版)
つまり、映画版にしろ、小説版にしろ、「女王陛下の007」というのは、辞職しようというボンドの意思が、最も濃厚に表現されている作品なのである。
私が思うに、ジョージ・レーゼンビーは、これらのボンドの気持ちに大きく影響された。
「女王陛下の007」のボンドになりきった人間が、いくら巨額の契約金と名声が得られるからといって、ボンド役を続けるものだろうか?
本物の役者なら、大喜びでやるだろう。
だが、本物のジェームズ・ボンドになりきった人間には、絶対できないことだ。
自分のキャリアのことや、収入のことなど歯牙にもかけず、後先考えずに、とりあえる辞めるはずだ。
私には、「女王陛下の007」における、あっさりと転職を口にするボンドは、そのまま、レーゼンビーの気持ちを表現しているように思えてならない。
ボンド「諜報員は公務が最優先だ」
テレサ「知ってる。不平は言わない。」
ボンド「転職するよ。」
テレサ「本当?」
ボンド「愛してる。君をあきらめられない。結婚したい」
テレサ「本気?」
ボンド「そうだ」
ボンドの辞職願望の強さに加え、ジョージ・レーゼンビーが、(スタッフが本物のボンドとして期待した通りの)「自信に満ちた男」だったことも影響したのだろう。
ジョージ・レーゼンビーは、自分がジェームズ・ボンドに同一化しすぎている事に気づかず、自信を持って、名声も契約金も放り出し、ジェームズ・ボンド役を降りた。
そして、ジョージ・レーゼンビーに、他の役者にない「ボンドらしさ」を見出し、喜んでいたピーター・ハント監督たちをがっかりさせた。
ピーター・ハント監督「彼に続けて欲しかった・・・」
後になって、ジョージ・レーゼンビー自身、自分が俳優としては2流でしかないことに気づき、自分の決断を悔やむことになる。
「ローン・オレイリーという男から受けた間違ったアドバイスのせいだ。彼が、「ジェームズ・ボンドを続けるのは、ためにはならない」と言った。それを聞いて、僕は、「ボンドはコネリーの役だ。僕の役じゃない。僕も有名になったんだから、自分で別のことをやったほうがいい」と思うようになった。そうこうするうちに、会社側にも嫌われてね。」
「もうボンド映画には出ないと宣言したんだ。
シリーズも潮時だと思っていた。
もう一本出演すればよかったな。
そしたら、あと7本ぐらいは僕が演じていたかもしれない」
プロデューサーのブロッコリ「今では彼もあれは間違いだったと言っている。ある時、彼が私に電話で、またボンド役をやりたいといってきたことがあるんだ。だが私は不可能だと答えた。とはいえ、あれはいい映画だった。脚本も良かったし、ジョージもボンド役として最高の演技を見せてくれた。」
彼がボンドを降りたのは、悪い友達のアドバイスのせいでも、シリーズが潮時だと思ったせいでもない。
繰り返しになるが、彼がボンドを降りた真の理由は、彼が、ジェームズ・ボンドになりきりすぎたせいであるというのが、私の考えだ。
その証拠に、彼は、自分の決断が間違っていたことを全面的に認めつつも、常に、ひとつだけ、理解できないことがあるという表情でこう言う。
妻が殺されたシーンで自分が流した涙についてだ。
「原作のラスト・シーンには泣かされたよ。
撮影現場に本も持ち込んだ。」
「テイク1が採用されると思ったが
涙を流したのがまずかったらしい。
なりきったよ。涙を見せるなといいわれた。
泣いたほうがいと思ったんだ。」
「実は最初のテイクの方が良かったんだが、僕が泣いてしまってね。ピーター・ハントが「涙なしでやってくれ。ジェームズ・ボンドは泣きはしない!」といってNGになった。」
彼は、監督や脚本家が求めるものを演技するのではなく、本当にボンドになりきったのである。
自分が最もボンドに同一化し、涙を流したシーンが、なぜカットされてしまったのか、いまだに不思議なのだ。
ボンドに同一化しすぎたことが、ボンドの辞職願望に影響され、自分もボンド役を降りることになった決定要因であることを、最後まで理解しなかった。
さて、私の願いを一つ。
ジョージ・レーゼンビーが涙を流した、本物の(?)ラストに差し替えた「女王陛下の007」を是非見せて欲しいということ。
あと、感想を一つ。
ピーター・ハント監督、ジョージ・レーゼンビー主演による「007は2度死ぬ」を是非見たかった!!
(本来、「女王陛下の007」に続く、新婦が殺されたことへの復讐譚である。映画では撮影の都合で順番が狂い、話がめちゃくちゃになってしまった。また、ピーター・ハント監督は「007は2度死ぬ」の監督を熱望していたが、却下された)
レーゼンビーには、せめてあと一作だけ、同じスタッフと一緒に、映画をとり、妻が殺された復讐を果たしてから、辞めて欲しかったものである。
だが、もし、レーゼンビーが「007は2度死ぬ」をやった場合、彼はどうなっていただろうか?
彼は、またもや原作に影響され、最後は廃人のようになっていたかもしれない。(もしくは日本に帰化するか)
また、レーゼンビーが続投する場合、「女王陛下の007」の構成自体が変わる予定だったというピーター・ハント監督の言葉もある(「女王陛下の007」のラストは、結婚によるハッピーエンドで終わり、新婦が殺されるシーンは、次回作のオープニングへ移動)。
それらの点を考えると、ジョージ・レーゼンビーが1作で終わってしまったことは、ある意味仕方がなかったのだろう。
さて、ジョージ・レーゼンビーの問題がひと段落した後、映画会社は、とりあえずショーン・コネリーにつなぎで一本依頼しつつ(「ダイヤモンドは永遠に」)、新しいジェームズ・ボンド探しを始める。
その条件のひとつは、「新人ではなく、活躍しているスターであること」だった。
これが、ジョージ・レーゼンビーという、役者ではない「本物のボンド」で苦い経験を積んだ映画会社が出した結論であった。
*上記に抜粋した各インタビューは、DVDの特典映像か、書籍「究極の007大集合」より抜粋したものです。