プレイステーション論

 

1.ネメシス(復讐)としてのプレイステーション

一見明るいイメージのPLAY STATIONであるが、その裏に、これほど強烈な怒りをしのばせたマシンもないであろう。まさに、復讐という言葉がぴったりである。

 

<任天堂vsソニー:ファミコン対MSX

ソニーのゲーム業界への参入は、いつだったろうか。最初は、SMC-777向けにソニーブランドでゲームソフトを出していたと思う。

やがて、MSX企画の登場により、松下と共にMSX連合の中枢を担った。特に、MSX2はソニーと松下2社の共同戦線のイメージがあった。もちろん、敵は任天堂である。

ソニー/松下という2大企業が連合すれば、単なるゲームメーカーに過ぎない任天堂では勝てないだろうと思われた。

 

<ナムコと任天堂>

しかしながら、任天堂は、この戦いにも、セガなどのゲーム機メーカーとの戦いにも勝利する。この要因はいろいろあるだろうが、最大の理由が強力なサードパーティーの存在だろう。それまでの家庭用ゲーム機では、ハードメーカー1社がソフトも提供もまかなっていた。

任天堂も当初、独自のソフト販売しか考えていなかったと言われる。

ところが、ファミコンに注目し、他社でありながら、初めてソフトを提供したのが、ナムコである。ナムコのこの戦略は、ナムコにとっても、ファミコンにとっても大成功をもたらす。ゼビウス、ドルアーガなどアーケード人気作の移植、ファミスタ、女神転生などのファミコンオリジナルのヒットなどにより、ファミコン人気を決定づける役割を果たした。

 

しかし、ファミコンが売れ、サードパーティーが増加していくなかで、任天堂はライセンス料をアップしていく。これに対して、ナムコは激しく抗議するが、任天堂からすればナムコのみを例外とするわけにはいかない。ナムコは、法的にはライセンス料は不要なのではないかと考え、裁判を起こす準備までするが、仮に販売したとしても問屋へのルートを持っていないことを考慮し、断念する。

この時期以降、ナムコの任天堂に対する態度にはっきりとした変化が現れる。それまでは、あくまでもヒット作はファミコンで出していたが、かなり手広く様々な機種にソフトを提供する。かといって、特定ハードを強く押すわけでもなく、また、同じソフトをあっちこっちで出すわけでもない。広く浅くといった感じで、そのハードなりにソフトを展開していく。

特定ハードを重視しない方針であるのは誰の目にも明らかであった。

そのうち、ナムコが独自のハードを設計しているという噂が出る。当時の人気アーケード「スターブレード」が動く、驚くほど高性能のマシンだという。

 

あの、ライセンス問題がこじれた結果、ナムコが任天堂と独自ハードで勝負する決意をするに至ったのである。裏にはもっといろいろな話があるのだろうが、ナムコの任天堂への怒りは非常に強かったと思われる。

 

ナムコからすれば、「ファミコンの成功は、自分たちの貢献による」との想いがあったし、任天堂からすれば、「ナムコには、うちのマシンでもうけさせてやったんだ。義理を感じる間ではない。」との意識のギャップがあったようだ。

 

<ソニーと任天堂>

スーパーファミコンが起動に乗った時点から、オプションでCD−ROMが発売されると言われていた。これは、当時PC-ENGINEに加えメガドライブまでもがCDを取りいれたことを意識したうえでである。

最終的に、フィリップスのCD−XA企画を採用し、「スーパーファミコンCD−ROMアダプター」として、定価2万7千円で発売されるとまで発表された。発売予定は93年1月である。

この企画にはソニーが加わっており、ソニーが発売予定だったマルチメディアCD−ROMマシン(ゲーム機ではない!)「プレイステーション」と、データの互換性も持つ予定であった。

つまり、ソニーは、任天堂と手を結び、家電とゲームで切り分けを行いながら共存していく道を選んだのである。

ところが、価格まで発表されていたにも関わらず、任天堂はCD−ROMの発売をやめる。

この理由については、様々な噂が流れた。しかし、最も大きな理由は、PC-ENGINEもメガCDも、とてもスーファミに太刀打ちできそうになかったことで、なにもCD−ROMを発売する必要もないと思ったのだろう。任天堂からしてみれば、そもそも十分な検討をした上で、CD−ROMを出すと言っていたわけではなく、当時はマルチメディアという言葉がブームだったので、とりあえずスーファミもCDを使えるようにするというだけ言っておいて、他社のCD−ROMマシンを買い控えさせる意図が強かったのかもしれない。

そのうえ、確かに、CD−ROMならではの時代を感じさせるソフトは、ほとんど存在しなかった。任天堂としては、サードパーティーからのもうけが大きいROMソフトの方がおいしかったのだろう。

このような選択自体は、それほど間違っていたとは思わない。実際、メガCDやPC−ENGINEに比較してスーファミは圧勝していた。

問題なのは、ここからである。噂によると、任天堂は、ほとんどソニーに説明らしい説明すらせず、一方的に企画の破棄を通達した。ソニーは、寝耳に水という感じだったという。

さらに、任天堂の山内会長は、機会があれば「CD−ROMはゲームの媒体として失格である。」ということを強調するようになっていった。当初は、おそらく、任天堂がスーファミCD−ROMアダプタを採用しなかったことについての説明のつもりだったのだろう。CD−ROMのような容量の大きさが、ゲームにとっての本質ではないといったレベルでの。ところが、いつの間にか、CD−ROMというデバイス自体、ゲームにはマイナスだというような話になっていった。余談だが、任天堂に関わらず、この当時の評論家にも、CD−ROMはゲームには不適当だという人がいたのも事実である。読みこみの遅さや、ゲームの本質とは違うという点がその根拠だった。結局のところ、当時のハードでCD−ROMならではの面白いソフトがあまり無かったことが影響しているのだろう。

 

さて、どこまで本気だったのかわからないが、この当時の山内会長の決定や発言が、NINTENDO64もROMカセットを採用するという、明らかに時代錯誤な結論につながった事は間違いない。

一方、ソニー関係者の怒りも相当なものだったという。この辺のいきさつは当時の一般週刊誌ネタにもなり、ソニー側の非公式な怒りがあらわにされた。それを受けて、任天堂の独裁者山内会長に対する批判から、さらには秘書の一人との愛人問題までクローズアップされることとなった。

これらを受けて、マルチメディアマシン「プレイステーション」は完全にゲーム専門機として企画を再検討される。

 

任天堂向けに出荷されるはずだった「CD−ROMアダプター」の発売時期は93年1月だったのだが、それが完全に消えた後、93年6月(推定)に、ソニーにて、ゲーム市場参入の可否を問う会議が開かれた。

先にも書いたが、ソニーは1度、MSXで任天堂に完敗している。かなり会議は難航したもようであり、最終的に、ゲーム市場に参入はするものの、ソニーそのものが参入するのではなく、ソニー・コンピュータ・エンターテイメントを設立し、実働はそちらがやることとなった。

ソニー内には、ゲーム業界を嫌う役員もいた結果だという。結局のところ、任天堂に勝てる自信が、無かった面もあるのではないだろうか。

 

<ソニーとナムコの結託>

任天堂にゲームを提供しつづけ、ファミコンの繁栄に貢献したにも関わらず切り捨てられる憂き目にあい、独自マシンを検討していたナムコ。

任天堂にハードを提供する予定だったにも関わらず、唐突に切り捨てられ、独自マシンの検討をすることになったソニー。

この、両者の任天堂に対する復讐心が結実したのが、「プレイステーション」である。

ハードはソニーが作り、ソフトはナムコが引っ張った。もし、初期の段階で、ナムコがあれほど熱心に取り組まなければ、今日の繁栄もないであろう。

もっとも、ナムコのスタンスもかなり微妙なものではあった。ソニーは、「プレイステーションは、うちと、ナムコさんとによるマシンです。」と言いきっていたのに対し、ナムコ側は、ライバル機サターンにも参入を表明していたからである。

このあたりは、まるで恋人に手ひどく振られたため、人間不信に陥っているかのようであった。ナムコは、プレステに全力を注ぎつつも、ソニーの態度や、プレイステーションの形勢しだいでは、いつでもサターンに寝返るよう、準備を怠っていなかったのである。「ウチはソフトメーカーですから、特定ハードにかたよるつもりはありません」という言葉が、ナムコのスタンスをよく表している。サターンの雑誌からのインタビューでは、ナムコはいつも、「ソフトを出荷する時期は検討中」といっていた。(結局、最近ドリームキャストに参入したが・・)

 

さらに、プレイステーションには様々な点で任天堂に対する敵対心が現れていた。あのパッドの採用も、十字パッドを使用すれば任天堂に特許料を支払わなければならないため、それを嫌ったのが理由だと言われる。また、任天堂が「ファミリーコンピュータ」という非常に汎用性の高い、普通名詞をつなげることで、家庭用ゲーム機=ファミコンというイメージ戦略に成功したのを参考に、「ワークステーション」の遊び版ということで「プレイステーション」という、汎用性の高いネーミングを採用した。このあたりは、「MSX」というネーミングのわかりにくさが、ファミリーコンピュータという誰でも直感的にイメージがつかめるネーミングに負けたことに対する反省が見える。

 

一方、任天堂の方は逆に、「NINTENDO64」という、もっとも汎用性の低い、固有名詞そのもののネーミングを行った。また、山内会長の一連のCD-ROM批判にのっとり、CD−ROMはゲーム向きではないとして、採用を見送った。

一方ソニーは、CD−ROMを当然採用する。しかし、その理由は、ゲーム向きかどうかではなく、生産コストの安さと、流通の問題であったという。ある意味、この視点の違いの時点で、プレイステーションは任天堂に勝つことが決まったと思う。

 

ソニーが、自社ソフトの弱さから、徹底的にサードパーティーの獲得につとめ、プレステ発売時には180社のライセンシーを獲得したのに対して、山内会長は、人気10社程度によるセカンドパーティー構想をぶちまけた。ゲーム戦争は、結局はサードパーティの数が全てだということも、MSXがファミコンに敗戦した時にソニーが痛烈に感じたことであったのだろう。MSX2時代、ソニーが他機種の人気ソフトを、片っ端から移植したのが思い出される。

 

また、ソニーは、おそらくはMSX時代の敗戦から学んだ、「ゲーム専用機に汎用マシンは勝てない」という原則を徹底的に忠実に実行した。

セガが、次世代マシンという言葉にのって、モデムなどを使用した端末として使用できることをうりにしているのとは正反対である。プレイステーション2でさえ、家庭用端末ではなく、あくまでもゲーム機であり、通信はやりたい人のみやればいい、という姿勢を貫いている。さらに、最近のCMでは「ゲームひとすじプレイステーション」といい、マルチメディアを取りこもうとするセガに対して皮肉を効かせている(本当にゲームひとすじだったのはセガなのに・・)

 

(まとめ)

結局のところ、以上の話のポイントは2つにつきる。

  1. ソニーはMSXの反省を最大限にいかしたが、任天堂は、なぜファミコンが勝利したのか、わかっていなかった。おそらく、任天堂製ソフトの優秀さと、マリオというキャラクターの成功が全てだと思っていたのだろう。
  2. ナムコも、ソニーも、任天堂と一緒に商売がしたかった。しかし、任天堂は、どちらもはねつけた。結局のところ、任天堂がおごっていたということだろう。

 

 

2.デジタルドリームキッズとしてのプレイステーション

先ほどにも書いたが、ソニーの成功は、MSXの失敗の反省が生かされている。そして、当時このMSXをソニーで指揮した人物こそ、他ならぬ現社長 出井氏である。

輝かしい経歴を持ち、一気にライバル多数を抜いて社長となった出井氏であるが、彼の人生の唯一の汚点が、MSXによる、ファミコンへの敗戦なのである。

 

さて、プレイステーションは、ソニーの製品ではなく、ソニー・コンピュータ・エンターテイメントの製品である。もともとはソニーで出荷するはずの企画だったが、社内のゲーム界に対する偏見もあり、別会社化されたという。これは、当時の社長大賀氏が、ゲームがあまり好きではなかったことにもよる。東京音大を主席で卒業した大賀氏は、自らクラシックの指揮を手がけるほどであり、趣味が高尚なのだろう。当時のCMも「IT’S A SONY」であった。ソニー=かっこいいこと、であるべきだったのだろう。

 

こうして別会社となったSCEは、一方ではライバル会社に敵意を見せつつも、一方ではソニー本社に向けて敵意を見せる。これは、ソニーの製品ではなく、自分たちの製品である、と。当時のソニーのショールームでは、プレイステーションをソニー製品であると説明する女性に対し、「あれはソニーではなく、SCEの商品だ。間違えるな」と食って掛かったという。

 

プレイステーション発売とほぼ同時に、ソニー社長は大賀氏から井出氏に代わった。出井氏は、もともとMSXも含め、デジタル家電が大好きである。

テレビのCMも「デジタル・ドリーム・キッズ」に変った。パソコンでは、VAIOを情報家電の中枢と位置付け、斬新なデザインと、AV関連のツールをからめて(このあたりはMSX時代もやっていたのだが、ハードの性能が不足していた)大成功させ、いちやく人気NO1のパソコンメーカーにもなった。一方、電子ロボット犬であるAIBOも、一瞬で売りきれたのは記憶に新しいところである。

当然、プレイステーションの位置付けも変ってくる。家庭用の、まさにデジタル・ドリーム・キッズの世界の中心として、戦略の核に取りこまれることとなった。この結果、ソニー・コンピュータ・エンターテイメントは子会社化され、プレイステーション2は、全面的にソニーが指揮することになる。

このあたりは、SCEの人間から見れば複雑な思いがあるようで、雑誌のインタビューにもたまにそのへん話題になる。

 

ともあれ、プレイステーション2は、DVD搭載にワークステーション並(ソニー曰くスーパーコンピュータ並)の機能を誇ることになり、出井社長みずから発表式をとりおこなう力の入れようであった。  

−第三部以下、作成中−