「<最後の晩餐>のなかには、たしかに聖杯がその姿を現している。レオナルドはそこにはっきり描いたんだ」
ソフィーはキリストの横の女性から目を離せなかった。
<最後の晩餐>は13人の男の絵のはずだ。この女性はだれだろう。何度も目にした名画なのに、この異常きわまりない特徴には一度も気づかなかった。
(ダ・ヴィンチ・コードより)
ダ・ヴィンチ・コードのなかでも、とりわけヴィジュアルに読者に驚きを与えるのは、「最後の晩餐」についての解釈であろう。
たしかに、小説で言われているように、キリストの隣にいる人物は女性にしか見えない。(Mの構図やVの構図の指摘は、ちょっとこじつけっぽいとしても・・)
加えて、謎のナイフを持った手まで出てきており、確かに、「悲しむ女性と、それを脅す老人」という構図に見える。
この構図が、そのまま、「マグダラのマリアの福音書」などに登場するマリアとペテロの人間関係とそっくりであることに気づいたのが、「ダ・ヴィンチ・コード」のアイデアの優れたところであろう。
ところが、「ダ・ヴィンチ・コード」全編の中でも、専門の研究者・学者から、これほど明確に否定されている解釈もない。
なぜだろうか?
以下、「最後の晩餐」における解釈のポイントごとに、いろいろ意見を対比させてみる。
@キリストの横にいるのは女性か?
研究者で、この人物を女性と考える人はまずいない。
検証番組「ダ・ヴィンチ・コード 真実と虚構の境界線」ではこう言っている。
「この人物を女性と考えている著名な美術史の専門家は、一人しか見つかりませんでした。世界有数のダ・ヴィンチ研究家テドレッティ氏です。」
なぜ、その研究者は女性と考えたのかというと、レオナルドの弟子が模写を残しており、それが明確に女性に見えるからということである。
他の研究者は、全員が全員、ヨハネと考えている。
なぜなら、聖書の記述でも、キリストの隣はヨハネであり、その顔はヒゲも生えておらず歳も若いとされているし、キリストの胸にしなだれかかったりするシーンさえある。
つまり、もともと女性っぽく(美少年っぽく?)表現されがちなキャラクターであり、ダ・ヴィンチ以外の画家が書く場合でも、女性的に描かれるのは珍しくない。
また、私もレオナルドの手稿を読んで気づいたのだが、「最後の晩餐」に製作メモが残っており、そこでは、登場人物が皆「男」か「他の一人は」と表現されていて、「女」という表記は見当たらない。
(例)「もう一人は別の男に囁いている。それを聞く男は耳を貸そうとふりむいている。片手にはナイフ、他の手にはナイフで半分切りかけのパンを握ったまま。
他の男はナイフを握ってふりむきざまに、手でテーブルの上の杯をひっくりかえす。」
この覚書は、現存する「最後の晩餐」とは若干違う構図であるが、それにしても、一人の「女性=マグダラのマリア」に焦点を充てようとしたという意図は読み取れない。
女性説は、旗色が悪いような気がする。
A聖杯はどこにあるのか?
ダ・ヴィンチ・コードでは、杯が描かれていない点を重視する。
ところが、この点についても、非難は多い。
よく見ると、ガラスのコップが皆の前に置いてあるのである。
たしかに、「聖杯」というイメージにふさわしい大きさではないが、かといって、コップがあることを考えると、必ずしも「杯がない」とまで強く主張できるものでもない。
杯とコップの違いは、大きさや表現の違いでしかないからだ。
ダ・ヴィンチの手記にも、「酒を飲んでいた一人が、盃をその場において頭を話しての方へ振り向ける。」
「手でテーブルの上の盃をひっくりかえす」
などの表現があることからも、みんなでワインを飲んでいたことは間違いないだろう。
後は、それが「聖杯」というイメージにどこまで近いかという、感覚的なところか・・
Bナイフを持った手は何なのか?
最後の晩餐で、ナイフが登場するのは絵画史的にも珍しい。
そのせいか、ナイフが登場する理由に対する専門家の解釈もまちまちであり、若干説得力が弱く感じる。
「ペテロが短剣を手にしているのは、このあとキリストが捕らえられる場面で、彼が大祭司の手下の耳を切り落とすという暴力的な手段に出るのを予告しています。したがって、その短剣は、ごく当たり前の象徴として使われているのです。」(「ダ・ヴィンチ・コードの真実」より抜粋)
「象徴」という解釈基準を持ち出したら、ダン・ブラウンが言うように、Mの字の構図やVの字の構図の解釈だってアリだろう。
「ペテロはユダに知られぬよう右手にナイフを隠し持っており、その裏切り者を刺そうというつもりだ」
(「レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯」田中英道より抜粋)
あのナイフは、裏切り者ユダに向けられた者だったのか?そうかもしれないが、これもなんとも言えない。
面白い解釈の一つに、ダ・ヴィンチが人物像を描くノートの中で、ナイフを持つ男をこう説明している点があることを指摘するものがある。
「絶望している男はどのように描くか」という問いに対して、(ダ・ヴィンチは)次のようなイメージを抱いていた。<絶望している男はナイフをふるい、両手で衣服をひきさいてしまったように描かねばならない。>と。彼はナイフが強い感情表現のためのモチーフであると考えていたのだ。」
(「レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯」田中英道より抜粋)
あのナイフは、脅しではなく、絶望表現なのだろうか?
さて、レオナルドの手記では、以下のように書かれている。
「もう一人は別の男に囁いている。それを聞く男は耳を貸そうとふりむいている。片手にはナイフ、他の手にはナイフで半分切りかけのパンを握ったまま。
他の男はナイフを握ってふりむきざまに、手でテーブルの上の杯をひっくりかえす。」
どうも、皆、パンの食事のためにナイフを使っていたようである。
それで、驚いたはずみに、いろいろアクションとるシーンをダ・ヴィンチはイメージしていたようだ。
脅しに使われた謎の手、という解釈は難しいと思われる。
以上、「ダ・ヴィンチ・コード」の中でも、とりわけインパクトの強い「最後の晩餐」の解釈であるが、女性説、聖杯、脅しのナイフ、といったどの点をとっても、主張は難しく感じる。
少なくとも、ダ・ヴィンチ自身の手記には、それらのイメージは感じられない。
<参考>
このページの抜粋は、以下の本からとっています。