ティービングは言った。「コンスタンティヌスが抹殺しようとした福音書のなかには、かろうじて残ったものがある。1940年代から50年代にかけて、パレスチナの砂漠にあるクムラン付近の洞窟で、死海文書が見つかっている。
そして、1945年にはナグ・ハマディでコプト語文書が見つかっている。これらは聖杯の真実の物語を記すとともに、イエスの伝道を実に人間くさく描いている。もちろんヴァチカンは、情報操作の伝統に則って、文書の公開を懸命に阻止しようとした。」
(ダ・ヴィンチ・コードより)
マグダラのマリアの福音書は、通常の聖書には入っていない、いわゆるナグ・ハマディ文書のひとつである。
現存するのはわずかなページであり、邦訳では目次を入れても8ページである。
内容は、イエスの死後、弟子達が今後の宣教に自信をなくし、イエスに最も近かったマグダラのマリアに意見を求めるというものである。
このへんは、たしかに「ダ・ヴィンチ・コード」の言うとおり、マグダラのマリアがイエスに最も近い存在であったことを感じさせる。
以下、抜粋するが、重要な点は・・
@イエスが、法を作るようなことを否定し、自分自身の中に神を見るように言っていること。これは、この福音書の編集者による明らかなヴァチカン批判(教会組織批判)であり、信仰をめぐる、ある種の戦いが行われていたことを示すと思う。
Aイエスが、マリアを最も愛したということが、マグダラのマリアの福音書およびフィリポの福音書に記載されている。また、マリアの福音書には、マリアが特別な教えを受けていたと書かれている。
Bマリアのことを最も激しく敵視するのはペテロである。マリアの福音書およびトーマスの福音書を参照。
以上3点と、カトリック教会がペテロによって創設されたことを考えるとき、以下の文章が、抹殺されるに足るだけの内容を持っていたことがわかるだろう。
以下、抜粋・・(岩波書店「ナグ・ハマディ文書」より)
マグダラのマリアの福音書
(イエスの言葉)「人の子がいるのはあなたがたの内部なのだから。あたながたは彼の後について行きなさい。
それで、あなたがたは行って、王国の福音をのべなさい。
法制定者のやり方で法を与えるようなことはするな。あなたがたがその法の内にあって、支配されるようなことにならないために。」
彼はこれらのことを言った後、去って行った。
すると彼ら(使徒たち)は悲しみ、大いに泣いた、「人の子の王国の福音をのべるために異邦人のところに行くといっても、われわれはどのようにすればいいのか。もし彼らがあの方を容赦しなかったとすれば、このわれわれを容赦することなどどうしてありえよう」と言って。
」
そのとき、マリヤが立って、彼ら皆に言葉を送った。彼女は自分の兄弟たちに言った、「泣かないで下さい。悲しんだり、疑ったりしないでください。というのも彼の恵みがしっかりとあなたがたと共にあり、あなたがたを護ってくれるのですから。それよりもむしろ、彼の偉大さを讃えるべきです。彼が私たちを準備し、私たちを『人間』として下さったのですから」。
マリヤはこれらのことを言って、彼らの心を善い方に向けた。そして彼らは救い主の言葉について議論し始めた。
ペトロがマリヤに言った。「姉妹よ、救い主が他の女性たちにまさってあなたを愛したことを、私たちは知っています。あなたの思い起こす救い主の言葉を私たちに話してください。あなたが知っていて私たちの知らない、私たちが聞いたこともないそれらの言葉を。」
マリヤが答えた。彼女は「あなたがたに隠されていること、それを私はあなたがたに告げましょう。」と言った。
−−省略−−
マリヤは以上のことを言ったとき、黙り込んだ。救い主が彼女と語ったのはここまでだったからである。
すると、アンドレアスが答えて兄弟たちに言った、「彼女が言ったことに、そのことに関してあなたがたの言いたいと思うことを言ってくれ。救い主がこれらのことを言ったとは、この私は信じない。これらの教えは異質な考えのように思われるから。」
ペトロが答えて、これらの事柄について話した。彼は救い主について彼らに尋ねた、「彼がわれわれに隠れて一人の女性と、公開でではなく語ったりしたのだろうか。将来は、われわれは自身が輪になって、皆、彼女の言うことを聴くことにならないだろうか。救い主が彼女を選んだというのは、われわれ以上になのか。」
そのとき、マリヤは泣いて、ペトロに言った、「私の兄弟ペトロよ、それではあなたが考えておられることは何ですか。私が考えたことは、私の心の中で私一人で考え出したことと、あるいは私が嘘をついているとすればそれは救い主についてだと考えておられるからには。」
レビが答えて、ペトロに言った、「ペトロよ、いつもあなたは怒る人だ。今私があなたを見ていると、あなたがこの女性に対して格闘しているのは敵対者たちのやり方でだ。もし、救い主が彼女をふさわしいものとしたのなら、彼女を拒否しているからには、あなた自身は一体何者なのか。確かに救い主は彼女をしっかりと知っていて、このゆえにわれわれよりも彼女を愛したのだ。むしろ、われわれは恥じ入るべきであり、完全なる人間を着て、彼がわれわれに命じたそのやり方で、自分のために完全なる人間を生み出すべきであり、福音をのべるべきである、救い主が言ったことを越えて、他の定めや他の法を置いたりすることなく。」
(欠落部分あり)したとき、彼らは告げるため、またのべるために行き始めた。
フィリポの福音書
「そしてキリストの同伴者はマグダラのマリヤである。主はマリヤをすべての弟子たちよりも愛していた。そして彼は彼女の口にしばしば接吻した。他の弟子達は彼がマリヤを愛しているのを見た。彼らは彼に言った、「あなたはなぜ、私達すべてよりも、彼女を愛されるのですか。救い主は答えた。彼は彼らに言った、「なぜ、私は君達を彼女のように愛さないのだろうか。」
トマス福音書
シモン・ペトロが彼らに言った、「マリハム(マリアのこと)は私たちのもとから去った方がよい。女達は命に値しないからである。」
イエスが言った、「見よ、私は彼女を天の王国へ導くであろう。私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る活ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るであろうから。」
さて、以上のようなナグ・ハマディ文章は、キリストの真実の姿にどこまで迫っているのだろうか?
今回はあまり抜粋しなかったが、ナグ・ハマディ文書の教義は、いわゆるグノーシス思想と呼ばれるように、高度に観念的な世界であり、福音書にでてくるイエス・キリストの言葉とはかなり趣が違う。
内容的にも、これらの福音書は、新約聖書の福音書よりも、イエスが登場しないナグ・ハマディ文書の内容にずっと近いこともあり、私には、編纂の過程で、他のグノーシスの教義と融合していると思われる。
しかし、だからといって、マグダラのマリアの福音書の内容を全て否定していいものだろうか?
複数の文書で、マリアが他の使徒達からイエスに最も近いとされ、そして、使徒達から非難される過程はどうだろうか?
哲学的な内容とは異なる、マグダラのマリアと12使徒との人間関係。
これこそが、グノーシス思想とは別の経緯で生き残った、マグダラのマリアの真実を伝えているのではないだろうか?
たとえば、これらのナグハマディ文書に見られる、マグダラのマリアがイエスに最も近い存在であったとする考え方は、彼女だけが、イエスの復活を見たという新約聖書の福音書の記述の、自然な前提に思える。
そして、ナグハマディ文書における、12使徒たちがマリアに質問し、彼女を敵視し、追放していく過程は、新約聖書の福音書における、復活したイエスをマグダラのマリアが見た後に発生しそうな、自然な、12使徒たちとのやりとりに見える。
マグダラのマリアの福音書は、実際に彼女自身が書いたものではないだろうし、グノーシス主義とまじってはいるものの、そこに表現された人間関係(マリアとイエスの親密性及び、12使徒たちからの追放)は、マグダラのマリアの真実のいくばくかを伝えているように私には思えるが、どうだろうか?
<参考>
このページの抜粋は、全て下記の本からとっています。
マグダラのマリアの福音書をはじめ、興味深いイエス・キリストの姿がいろいろあり、値段は高いけどとても重要な、価値のある本です。