グラディウス論

 

<はじめに>ゲームがたちあがるまで・・夢と多様性(バブルシステムの思い出)・・

 

「ついに、その時が来た。この異常な体験は、夢や幻ではない。異次元の世界が現実となり我々の前にその全貌を現す。

この中に宇宙があるのか、それとも自分が宇宙に迷い込んでしまったのか。常識を超えた新たなグラフィックの旋風が吹き荒れる。

−Are you ready?−

また1つ伝説が生まれようとしている。」

<1・9・8・5・宇宙が・マルゴト・ヤッテクル>

(以上、グラディウスのインストカードより抜粋)

 

グラディウスは、コナミのバブルシステム基盤によって、作成された(1985年)。これは、泡のような媒体を使用して、記憶素子とするものらしい。そのため、電源にノイズが入ることにより、いとも簡単に記憶内容が消滅してしまうという問題を発生させることになり、バブルシステムは短命な基盤として終わった。

 

しかし、泡のような記憶素子とは、不思議な響きである。

泡という、不定形で不安定な感覚。同じような形態でありながらも多様なフォルムを保ち、かつ統一的なイメージを保持することに成功している物体。常に変化しつづけ、なおかつ安定している存在。

そして、夢のように消滅した存在。

これらのイメージは、そのままグラディウスのことを言っているような気さえする。

 

バブル基盤を立ち上げるとき、カウントダウン時に音楽が流れる。これはバロックに元曲を持つという。この美しいテーマを聞くとき、バロックを特徴づける、単一的な多様性、繰り返し、その中でどこまでも続く差異化、などなど、やはり泡と同様の意義を示していることに気付く。

 

その後、基盤が温まってくるとようやく「GRADIUS」というタイトルが表示される。なぜ、この作品にグラディウスというタイトルがネーミングされたのか、実際のところの意味は知らない(たぶん、「侵攻する者」という意味からきているのだろう。ストーリー的には、惑星グラディウスを守る物語だからなのだが。)。しかし、この言葉は、GRADUATIONGRADITUDEなどと同じくGRAという接頭辞を使用している。これは、これらの言葉からの連想でわかるように、拡張、広がり、変化、多様化していくことを意味する、ラテン語起源の語であると思われる(このあたりは、推測)。

 

バブルシステム、バロック音楽、グラディウス。ここまでくれば、内容を見なくても、このプログラムが、多様化、変化、そしてその中にある統一性といったことをテーマにしていることが、ほとんど運命的なものであることに、誰でも気付かざるをえまい。

 

これは、一言で言えば次のように言い換えられる。

「1985・宇宙が・マルゴト・やってくる」

 

この、当時のグラディウスのコピーは、まさに本作品の真髄である多様性を表現している。

 

2.ゲームスタート・・対立項で多様化を図る世界

[ゼビウスとの対決]

ゲームを開始するとともに、軽快なテーマが流れる。そして、最初の敵編隊が猛スピードで現れる。彼らは、一直線にやってきたかと思うと、また折り返して去って行く。ここで、彼らを全滅させると、パワーアップカプセルが取得できる。つまり、完全なやられ役なのであるが、ここで注目すべきは、彼らは(少なくとも1面では)、こちらの自機の動きに全く無関心であるということである。こちらが攻撃しようと、逃げようと、関係なく自分達の行動を繰り返す。

 

 

 

 

ここで、プレイヤーは、グラディウスの設計に秘められたひとつの意図に気付くことになる。

それは、ゼビウスへの対決姿勢である。

 

ゼビウスは、当時最も高い評価をされていたゲームであった。

その衝撃は、例えば、美しい縦スクロールであり、緻密に設計された世界観であり、敵キャラのアルゴリズムであった。

例えば、ゲーム開始後に最初に出てくる敵キャラは、自機が攻撃しようとすると、それに合わせて左右に旋廻しながら逃げて行った。

このことについて、製作者の遠藤氏は、それまでのシューティングの敵キャラが嘘っぽいという批判をしていた。敵も、できるだけ生存を図るのが当然であるのに、シューティングの敵キャラは、特攻するように近づいてくるだけである。だから、ゼビウスではあのようなアルゴリズムを採用したのだ、と。

 

グラディウスの製作者が、ゼビウスのこの理念を知らなかったはずはあるまい。

しかし、ゼビウスと異なり、完全なやられ役の敵が存在するよう設計されている。

しかも、それに加えて、味方をパワーアップさせるアイテムを残すという芸当までしているのである。

パワーアップというアイデア自体は、ツインビーにもあったし、エネルギー補給という概念ならもっと昔からあった(例えばスクランブル)。しかし、敵キャラを破壊すると味方のパワーアップにつながるという設計は、どう考えても説明が苦しい(ストーリーのこじつけは可能だろうが)。

ゼビウスでは、ひとつひとつ敵の役割が決められていた。例えば、ある敵は斥候の役割を持っているから、これを倒すと、後々敵の攻撃が弱くなる、とかである。このような緻密に考えられた世界観を、そのままゲーム化したかのようであった。

 

それに対して、グラディウスは、当時最も人気があったゼビウスが提示した、緻密な世界観を裏に持ったゲームという魅力を、完全に無視していたのである。設定考証をあざ笑うように、ゲーム的アイデアに特化しているように見えた。

 

 

[対立項の提示]

では、グラディウスが提示しようとした世界とは何か?

 

最初の敵は、高速で突っ込んでくるやられ役であった。

これと対照的なのが、次に現れる敵キャラである。これは、非常にスローな動きだが、確実にビックハイパーを目指して攻撃しながら近づいてくる。

その次には、また先ほどの高速で登場する編隊がやってくる。

 

ここまでで、2つの非常に対象的な攻撃が繰り返されたことになる。

第一  非常に高速かつ、ビックハイパーとは無関係なアルゴリズム。パワーアップ供給。

第二  非常に低速かつ、ビックハイパーに依存したアルゴリズム。攻撃。

 

優れたシューティングゲームというものは、最初に登場する敵の動き一つで設計思想が全て表明されるものである。

グラディウスの場合も例外ではない。この瞬間、プレイヤーは、電源投入時以来の予想通り、このゲームのコンセプトの一つが、極端な対立項の提示による、ゲーム感覚の多様化であることを予感させられる。

 

 

 

このことは、後ほどプレイを続けるに従って、はっきりと示されることになる。

例えば、面構成でいうと・・

 

<時間軸の対立>

・最も原始的な生命と、最も高度な生命の対比(6面の細胞面とボスの巨大脳みそ)

・古代遺跡と未来文化の対比(3面のモアイ面と7面の要塞面)

<空間軸の対立>

・自然と人工物の対比(1面の火山による攻撃と敵戦闘メカによる攻撃、など)

・無機質な面と有機質な面の対比(2目の石だらけの面と、5面の触手面)

 

こうしてみると、時間、空間ともに、最も極端な対立を提示しているのがわかる。だからこそ、主役は、時間と空間の対立を超えるという意味で、「超時空戦闘機ビックバイパー」なのであり、インストカードの表現が「世界がマルゴトヤッテクル」という言葉なのである。

 

もちろん、グラディウスが、極端な多様性でゼビウスに勝負を挑んだ背景には、ようやく、基盤の映像表現力と音楽表現力が、多彩な世界を構築できるまでに向上したことがある。そもそも、ゼビウスがあのような均質感を持てたのは、映像や音の制約が、プラスに作用した面もあった。

統一感あるセンスだけで挑んだら、ゼビウスにはかなわないだろう、それよりも、最新の基盤の能力を生かし、今までのシステムでは表現できなかった、多彩な世界の提示を行ってみよう、ということだと思う。

 

このような対比は、シリーズを追うに従い、さらに発展していく。

例えば、太陽面と月の(?)砂漠の対比、炎の面と水晶面の対比など。

これらのシーンに、それぞれにふさわしいBGMが鳴り響いていたのは言うまでもない。

 

それに、ゼビウスの複雑なストーリーとは異なり、そもそもグラディウスという物語自体、惑星グラディウスvsバクテリアンという、簡明な2項対立によっている。

 

もちろん、対立項は画面設定や音楽だけでなく、ゲーム性についても同様である。

 

・射撃しながら道を切り開いていくシーン(例えば壁の破壊)と、逆に高速スクロールするシーン

・スクロールシーン全般(ザコキャラ戦)とスクロール停止シーン(ボスキャラ戦、火山)

・パターン構築が重要なシーンと、ランダム性が重要なシーンの対比

・パワーアップ時のプレイ方法と、装備を全て失った時のプレイ方法(復活パターン)の対比

 

これらに、縦スクロールと横スクロールの対比(サラマンダ)、縦スクロールと3Dとの対比(グラディウス3)を加えることも可能かもしれない。

 

 

つまり、ゼビウスが、論理的に設計された世界観をゲーム上で再現したのに対して、グラディウスは、シューティングゲームとして考えられる限りの対立する設定、感覚を導入し、ゲームとして、多様化を図る方法を選んだのである。

 

まず小説を書くところから始まったというゼビウスと、リアルな設定よりも、ゲームとして五感に訴える対立項を集めたようなグラディウスの違いといっていいかもしれない。

 

ゼビウスは、統一的な世界観を持つ反面、非常に均質なゲーム性となった。どこをプレイしていても、同じような雰囲気やゲーム性を保っているのである。

それに対し、グラディウスは、面構成における時間軸/空間軸、音楽、ゲーム性、物語などで、さまざまに対立的な感覚をプレイヤーに与えることを目的としている。

統一的な世界観よりも、多様な対立感覚の提示をその核としているのである。

 

このことが、おそらくコピーにおける「宇宙が・マルゴト・ヤッテクル」という言葉の主旨だったのだろう。

 

[横画面・横スクロールシステムの採用]

さて、このようにグラディウスにはゼビウスとの対決という意味と、ゲーム性の多様化という意味があったと考えると、なぜ横スクロールなのかということも明らかになる。

 

当時のシューティングは縦スクロールが全盛であった。

ゼビウスも縦スクロールである。ただし、縦スクロールというのは上方から見つめた視点となり、高さの概念になじみにくい。上から見れば、空中を飛んでいる敵も、地上を歩いている敵も、本質的には同じなのである。ゼビウスはその点を空中用、地上用の2ボタンをわけることで解決していたが、根本的な問題は変らない。事実上、縦型シューティングの歴史は、その後地上物であれ空中物であれ同一ボタンで攻撃できる方向に動いて行った。

 

それに対し、横スクロールは、水平な敵と地面の敵(さらに言えば上方の敵)とを、はきりと描き分けることが可能になる。

さらに、上方から見た物体は左右同じであるのに対し(例えば、人間を上方から見ても、左半分と右半分は対称になっていて同じである)、横から見た物体は非常に変化に富んでいる(人間を横から見れば,非常に不均一で、特徴的な形態をしている)。このことは、ゲーム内容を多様化する上で、縦スクロールに比較し、横スクロールの決定的な利点となる。

グラディウスのパワーアップシステムを見れば明らかなように、攻撃用パワーアップは、水平攻撃用のレーザー、斜め上方攻撃用のダブル、斜め下方攻撃用のミサイルというように、きれいに用意されている。

つまり、論理的に3種の攻撃方法が存在することを、納得いくかたちで示せるのである(縦スクロールで同じことをあてはめようとすると、斜め右用の攻撃システム、正面用の攻撃システム、斜め左用の攻撃システムの3つをバラバラに備えたマシンを操ることになる)。

これは、敵キャラについても言えることである。縦スクロールで、斜め右前方から飛来する敵と、斜め左前方から飛来する敵のフォルムが異なるというのは説明に窮するが、横スクロールで、上方から来る敵と、地上から来る敵のフォルムが違っているのは納得しやすい。

 

このように、横スクロールの採用ということは、多様性としかいいようのないゲーム内容を表現するのに必要不可欠だったのである。

ちなみに、コナミが出した横スクロールシューティングは「スクランブル」の方が先だが、これは縦画面であった。そのため、左右の動きよりも、上下の動き(具体的には爆弾の投下)に重点が置かれていた。「グラディウス」では、横画面を採用することによって、横スクロールの特性を一層出すことに成功している。

 

 

さて、ゲームをしばらく進めると、パワーアップアイテムがたまり、自分で選択したパワーアップができるようになる。

 

この、パワーアップシステムの意義を最もよく確認するには、同じコナミがグラディウスの3年前に出した「スクランブル」と比較してみるのが一番だ。

スクランブルは、横スクロールシューティングであり、水平方向に飛ぶ通常弾と、地面に向けて落ちるミサイルを使い分けて進むゲームであった。つまり、グラディウスと、基本的には同じシステムなのである。

このゲームとグラディウスで、システム的に最も大きな違いは、パワーアップ性にある。

スクランブルには、パワーアップという概念がなかったのに対し、グラディウスは、スピード、ミサイル、ダブル、レーザー、オプション、バリアといった5種類の中から、プレイヤーの好みや戦略によって、好きなものをパワーアップできた。

つまり、同じ面をプレイしていても、どのような装備でどのように攻略するかは、各人の好みに任されていたのである。

それまでのゲームでは、同じシチュエーションでは、誰がやっても同じ展開にしかなりようがなかった。それが、グラディウスでは、プレイヤーにより千差万別の展開が可能となったのである。

このことは、特に、初心者プレイヤーと上級者の間に、プレイ方法の多様化をもたらした。初心者は、好きな装備で、好きなようにプレイする。上級者になるに従い、高得点をかせぐために、特定の装備を整え、特定のプレイを行うことになる。しかしながら、上級者の中には、あえて難しい装備で挑むものも現れる。

つまり、ゲームプレイを見ていると、その人の好みや経験が如実に反映されることとなり、プレイの多様化、ユーザー層の多様化につながった。

この例は、例えば、一面後半の火山地帯などでもわかる。

これは、下に2つならんだ火山から溶岩が吹き出る面であり、画面上に逃げ場はないように思われる。しかし、実際には画面左上が安全地帯になっており、そこにいればやられることはない。ここは、噴火口から最も遠い場所でもあり、初心者でも気がつきやすい。

ところが、上級者から見れば、ここは、格好の得点かせぎ地帯である。

自機を噴火口のすぐ側に近づけ、オプションとレーザーを使用して溶岩を片っ端から破壊する。溶岩も破壊すれば得点になるので、ここを破壊すればそれだけで1UPなのである。

 

さらに、パワーアップシステムの中でも極めつけの点が「オプションの追加」である。これは、自機の周辺に、同じぐらいの大きさの、自機同様の攻撃が可能な物体を追加することである。アイデア自体はツインビーの分身を拡張させたのかもしれないが、オプションは敵弾にやられないため、フォーメーション化して防御に使用したり、攻撃に集中したり、とバラエティーに富んだ使い方ができた。そもそも、自機に似て、かつ異なるものを複数展開させていくという発想自体が、バロック的、バブル的である。

 

さて、以上をまとめると、グラディウスにおけるシステムの革新は、横スクロールの採用にしろ、パワーアップシステムにしろ、全て、ゲーム内容の多様ということに基づいて構築されていると言える。

 

ゼビウスが、統一的なトーンの徹底によって、幻想的な美しさを誇っていたのに対し、グラディウスは、面構成にしろプレイ感覚にしろ、可能な限りの多様性で勝負しようとしていたのである。

 

 

[ポップな感覚]

ゼビウスの研ぎ澄まされたような、無機質な、統一された世界観。それに対する、グラディウスの何でもごちゃまぜにしたような世界観。

 

しかし、初代グラディウスがゼビウスに対して最も異なったのは、そのポップな感覚だったかもしれない。

このことは、先ほどの火山シーンの音楽もそうだが、ゲームを先に進めて行くとはっきりする。

 

ゼビウスにおける神秘的なナスカの地上絵に対する、どことなくユーモラスなモアイの登場。不死身の(コアだけ逃げる)アンド・ア・ジェネシスに対する、ビックコア(毎回いさぎよく爆発して消える割には何度も繰り返しボスとして各面に登場する)、飛び跳ねては弾を撒き散らすジャンパーの姿など。

言うなれば、笑いにつながら要素が存在していたのである(この要素が、後にパロディウスシリーズにつながる)。

 

その意味で、グラディウスという存在は、作品内における多様化を図っただけでなく、ゼビウスの対極に位置するものを登場させることによって、シューティングの世界そのものを決定的に多様化させていく存在であったといえるだろう。

 

[まとめ]

以上見てきたように、多様な世界を想像し、構築することこそが、グラディウスのコンセプトであり、ゼビウス打倒への核心であった

そして、この作品によって、長く続いていたゲームセンターにおけるナムコの時代は終焉を迎えたのである。

 

 

3.神話的想像力・・夢の現実化・・

さて、ゲームを進めて行くと、3面でモアイが登場する。

遺跡イメージを採りこむことによって、想像力を刺激しようという発想はゼビウスにおけるナスカの地上絵が先であった。

しかし、ナスカの地上絵があくまでも静止物であったのに対し、グラディウスにおけるモアイは攻撃をしてくる。

ここで、グラディウス独特の神話イメージ喚起方法がひとつあきらかになった。せっかくだから、いくつかまとめてみよう。

1.静止しているものを動かす。

・攻撃するモアイ(全シリーズ)

・攻撃する植物(グラディウス3)

2.極小物を極大化させる。

・アメーバの巨大化(グラディウス)

・目の巨大化(グラディウス2)

・昆虫の巨大化(グラディウス3)

・植物の巨大化(グラディウス3)

3.神話的イメージの活用

・フェニックス(グラディウス2)

・炎の龍(グラディウス2)

・黄金のライオン(グラディウス3)

 

静止すべきものが動いたり、小さいものが巨大化したり、想像上の動物が現れたり・・

論理的なものを反転させ、非存在物を存在させる。火山面に対する逆火山面のようなこの手法は、まさに神話の世界/夢の世界の特権的な技法である。

そして、多彩な世界像を、わずかなシーンの中につぎ込む圧縮。

 

反転と圧縮こそは、フロイトが分析した夢の表現方法の2大特徴であった。

 

また、グラディウスの視覚表現やゲーム性が2項対立を基本としていたことも、神話や夢の論理を思い出させる。

 

これらの意味で、グラディウスとは、まさに夢の世界の視覚化であった。

当時のコピー「この異常な体験は、夢や幻ではない。異次元の世界が現実となり我々の前にその全貌を現す」というものが、夢の視覚化を為し遂げた製作者達の自信をうかがわせる。

また、シリーズのどの作品のコピーをとっても、夢、神話、伝説といったキーワードが見つかるのも偶然ではないだろう。

 

巨大な脳、黄金のライオン、炎の龍など、あくまでも想像力を大いに刺激する、夢のような造型物が多様された。

 

一言でいうならば、神話的だったのである。

 

グラディウスシリーズの栄光とは、豊かな夢のイメージを創造したことの勝利でもあった。

 

 

例えば、私は、グラディウス2の太陽面ほど、美しい象徴性を感じさせるモチーフ図を現代日本の文化の中で見たことがない。また、グラディウス3ほど、芸術という言葉に値する作品を、やはり現代日本文化の中で見たことがない。

 

アートとして現代に存在している幾多の作品よりも、はるかに優れた作品だったと思うのだが、これは、現代芸術が、神話性をモチーフとして有効に利用できなくなったことと、大きく結びついていると思われる。

 

@一つの作品の中に、世界の様々な反響を見出すこと。

A(ユングの言う元型のような)人類の精神が共通に持っている神話モチーフを取り出すことで、鑑賞者の潜在意識にイメージを直接訴えること。

Bその時代における最大限の技術力を使って行うこと。

C非日常の世界を提示すること。

D五感を刺激すること。論理ではなく、感覚や肉体に訴えかけること。

 

これらの点は、過去の宗教芸術では当然であった。しかしながら、現代芸術では忘れ去られている。グラディウスシリーズに、もしもゲーム性以外の感動を覚えるならば、それは、これらのような芸術的感動ではないだろうか。

 

ともあれ、グラディウスシリーズは、神話的なトーンで統一した多様性を見せていた。

同時に、まさにシリーズそのものが様々な意味で神話となった例でもある。

グラディウス3のサブタイトルは「伝説から神話へ」であった。製作側も、自分たちが現代の神話を創出していること、そしてこのシリーズ自体が神話になるだろうことを自覚していたのだろう。

 

実際、グラディウス3は、その難易度の高さと、バグの多さゆえに比較的短命に消えて行ったことも合わせて、神話的存在になった。

 

 

 

 

4.夢みる力の敗戦・・神話からお笑いへ・・

[神話的想像力の限界]

さて、ゲームをラストまで進めていくと、最後のボスとの戦いに入る。

ボスは巨大な脳である。

このことに、象徴的な意義を感じない人はいないだろう。

夢を現実化し、宇宙をまるごと表出させるということがうたい文句だったこのゲームにおいて、最後の敵が脳みそであることは、当然といえば当然である。

全ての夢も、宇宙のイメージも、創造力も、脳の中にある。

このゲームを製作する側も、遊ぶ側も、脳の中にある夢見る力を最大限に振り絞って戦ってきたに違いない。

 

と、同時に、ある種の不安を、抱かざるをえないことも確かである。

我々は、本当に、脳との戦いに勝つことができるのだろうか?夢見るイメージを、いつまで膨らませつづけることができるのだろうか?

今回こそ、「夢ではない。現実だ。」「宇宙がマルゴトヤッテクル」と宣言してみたものの、実は、現代人の持つイメージの力など、それほど無限なのであろうか?

一言で言ってしまえば、想像力の限界、ネタ切れを起こすのではないか?と。

 

実は、これはグラディウスのみならず、コンピュータゲームにとって本質的な問題を孕んでいる。コンピュータによって、どんなイメージも造型できるようになってきたが、新たなイメージというものは、どこまで作りつづけることが可能なのだろうか。最後には、人間の想像力の限界を自覚させられるだけではないか。

多くのゲーム世界が、神話やファンタージーなど、数百年以上昔の造型イメージをそのまま活用しているのがいい例である。

 

 

グラディウスシリーズは、イメージの奔流でユーザーを圧倒させてきた。

例えばグラディウス2の太陽面のような、美しいイメージ。グラディウス3も、とても素晴らしいイメージを見せてくれた。それに賛嘆の声を送りつつも、でも、もう続編を作成するアイデアはないだろう、という気がしていた。

これまで以上に、斬新なイメージを表出しつづけることは、もうできないだろう、と。実際、3では、開発側もネタ切れになったのか、ユーザーからのアイデア募集も行われていた。つまり、想像力の欠如の問題である。

 

[神話ネタから人間ネタへの移行]

徹底して多様性を追いつづけたグラディウスシリーズの中で、ひとつだけ完全に避けられている面があった。

それは、もっとも卑俗なネタ、すなわち人間自身である。

あれだけ化け物やら宇宙船やらが出てくるにも関わらず、人間は全く姿を見せなかった。

 

もし、同じゲームであっても、神話的なトーンでまとめられた多様性の世界から、神話性を抜き去ったらどうなるのか。つまり神話ネタから人間ネタへの移行である。

 

ここまでの2つのポイント

  1. 想像力の欠如の問題
  2. 神話的なイメージの奔流から人間ネタへの移行

これらを先取りしていたのが、オリジナルのパロディウス(MSX版)である。

ここで見落としてはならないのは、パロディというのは、グラディウスシリーズのパロディという意味ではないということである。確かに、作品内には、グラディウスシリーズや他のゲーム要素が、お笑い的に取りこまれている。しかし、本当にここでパロディ化されているのは、人間そのものであり、開発者そのものであるのだ。

 

そのことは、そもそも、舞台が宇宙歴6500年の惑星グラディウスから、1988年の地球(つまり現代)に変っていることでもわかる。テーマは、夢を見るチカラが欠如してきた現代人そのものであり、夢のパワーを吸収してしまうバグである。つまり、ユーザー、開発者双方における想像力の欠如と、バグと戦う開発者の姿がテーマなのだ。

 

内容的には、夢見るチカラの復権のために、当時のコナミの人気全キャラクタ(グラディウスのビックバイパー、魔城伝説のポポロン、ゴエモンシリーズのゴエモンなど)が集結して、バグと戦うというストーリーであった。そして、主役は、夢を提供するため、宇宙をさすらうプログラマー「タコ」であった。夢の表現のためにバグをつぶすタコの姿は、まさに開発者そのもののパロディだろう。

 

神話的想像力が完全に失われた世界がここにはある。敵は黒人女の召使であり、食べ物に舌なめずりする口であり、巨大な手とのじゃんけん勝負であった。これまで全く登場しなかった「人間」が、ここではメインテーマなのである。

 

お菓子の国や巨大な口との戦いなどの食欲、性欲をモチーフとしたキャラ、排泄物などからなる敵キャラ、多彩なキャラを扱いながらも、全てが、品のなさも含めて、人間そのものがテーマであったのだ。

 

このノリは、やや薄まりつつもグラディウス3の後継である、アーケード版「パロディウスだ」でも受け継がれ、ちちびんたリカ、生理用品ネタや避妊用具ネタ、股間をかくしてふんどし攻撃するすもうとりなどが話題となった。

サブタイトルである「神話からお笑いへ」という移行は、惑星グラディウスを守る宇宙戦争から現代の人間にテーマを変えることで、あっさりと達成されたわけである。

 

この作品によって、人間の想像力の限界の問題、神話的想像力を失ったあとに行きつく場とは何かということを痛感させられた人は多いはずである。

また、人間をテーマに据えると言う事が、それだけで笑えるものであるということも、実感したはずである。

 

MSX版「パロディウス」の方が、アーケード版「パロディスだ」より面白いのは、前者が、夢と想像力の、自信あふれる時期に開発者自身も含めてパロディ化してみせた作品であるのに対し、後者が、「グラディウス3」で想像力の限界を感じた後に、お笑いに逃げた作品だからであろう。

 

その意味で、本質的な点で、1990年のパロディウスの戦いは、敗戦だったのだろう。それを証拠に、想像力は復権することなく、以後10年にわたりグラディウスシリーズは作成されなくなる。

あのグラディウス3の後では、もはや、お笑いにでもいくしかないことは、さびしいけれども何か納得するしかないものがあった。

 

その後、「極上パロディウス」「セクシーパロディウス」「おしゃべり実況パロディウス」などが作成される。グラディウスと異なり、パロディウスはつくりやすいことがわかる。人間ネタなので、いくらでも作れるのだ。

 

象徴的だったのは、アーケード版最後のパロディウスである「極上パロディウス」のサブタイトルが、「過去の栄光をさがして」だったことである。昔はよかった・・という嘆きから始まるこのゲームは、グラディウスシリーズの行きついた先を示していた。

 

 

4.復活

さて、1999年、ついに、グラディウス4として、シリーズが復活した。

これは、私にとっては完全に予想外のことであった。

神話に行きついた果てに、それ以上続けられなくなり、お笑いに転じたのではなかったか。

それに伴い、ゼクセクスなどの素晴らしい作品を生みながらも、コナミはシューティングからは離れて行ったし、ゲーム自体が変っていったはずだった。

アーケードゲームは、スト2以降、格闘ゲームブーム一色になり、シューティングの居場所はなくなった。

一方、コナミは、家庭用では、ときめきメモリアルなどの美少女キャラゲームで大成功をおさめた。さらに、アーケードでは、ここ数年ダンスゲームが大人気であり、コナミはこの面でも大成功をおさめている。

それにも関わらず、あえて、「グラディウス4 復活」を作成したのはなぜなのか。

 

グラディウス4のストーリーはこうである。

『伝説は人々の記憶の彼方へと去っていった。あの戦いも英雄も、あたかも神話の出来事のように感じられそして忘れられていた。

 

 しかし、決して平和ではなかった。宇宙からの悪魔は現れなかったが、「敵」を失った星の若者は有り余るエネルギーを互いに傷つけあうことで消化した。昔を知る者達は、小さな新しい悪が徐々に大きくなることに気付いていた。

 

 星には悪魔と戦う力はもうなかった。圧倒的戦力の前に降伏寸前に追い込まれるのにさほどの時間も必要ではなかった。人々があきらめかけたその時に、それは飛び立った。人々の夢も希望も、そして想いも、何もかもを復活させる為に!』

 

これだけ読むと、やや不可解なことに気付くだろう。2段落目で、は悪魔は存在しないのに、3段落目では唐突に降伏寸前となっている。敵がいないから若者が互いに傷つけあうというのは何を意味しているのか?新しい悪とは、悪魔のことなのか、そして、何もかも復活させる、とは何をいいたいのか?単に敵を倒すのが目的ではないのか?

一言でいえば、それまでのシリーズは敵を壊滅させることが目的だったのに、4はあくまでも復活が目的なのである。

 

 

面白いのは、このストーリーを批判するファンに対してのスタッフによる解説である。

 

「実はあれはなんで今グラディウスを作るかみたいな、開発の思いもこめたストーリーなのです。

 

それから、ストーリーには、もう一つ別パタンがあって、これはインストカードなどに書かれているいわば表版のようなものです。

 

こんなのです。

 

『人々の記憶からはすでに遠い過去のことであった。破壊惑星“バクテリアン”の名は忘れさられようとしていた。惑星グラディウスは復興し平和が当り前の世になった。しかし悪夢はふたたび訪れた。

 

突如出現した圧倒的敵戦力の前にグラディウス防衛軍は降伏寸前となる。その時グラディウス星の空にたった一機の白い機体の飛び立つ姿があった。』

 

 

以上のストーリーとコメントを、考察しよう。

 

グラディウス4の公式ストーリーでは、敵に襲われるから戦うという、ただそれだけの話である。

一方、裏ストーリーでは、

  1. 過去の栄光はもはや神話であり、忘れられている。
  2. 現在、敵はいない。
  3. 問題なのは、内部の若者達の、エネルギーの傷つけ合いである。
  4. 夢も、希望も、想いも、何もかも復活させるため、再びビックバイパーは飛び立つ。

 

おそらく、これは、コナミのことをそのまま言っているのではないだろうか。

 

現在、かつてのグラディウスシリーズの栄光は、社内的にも忘れられている。

 

コナミはダンスゲーム(ビートマニアやダンス・ダンス・レボルーション、ギターフリークス)や美少女ゲーム(ときめきメモリアル)で大成功をおさめた。まさに、ゲーム会社として敵無しである。

 

しかしながら、かつてのコナミを知る者にとっては、何かおかしな感じがつきまとっていた。コナミが、アーケードやMSXを舞台に、間違い無く世界最高のソフト会社であった頃の、何か本当に重要だったものが失われてしまったような・・

おそらくその思いは社内的にも同様だったのだろう。どのような若者同士の傷つけ合いがあったのかは分からないが、かつてのコナミに憧れて入社した者たちは、古くからのファン同様、ダンスゲームと美少女ゲームで成り立っている今のコナミに一抹のさみしさを感じていたに違いない。

そこで、夢も、希望も、何もかもを復活させるために、一部のスタッフ達(メインの2名を除き、ほとんどが新規だという)は、グラディウス4を出したのだろう。

 

さて、以上は一つの推測だが、別な見方もできる。

 

すなわち、ここで語られているのは、ゲーム界のことを言っているのかもしれない。

かつては、ゲームといえば、圧倒的な力を誇る敵からの、侵略をふせぐ戦いであった。インベーダーにしろ、グラディウスにしろ。常に、悪と善とが雌雄を決する宇宙規模の壮大なストーリーであった。

ところが最近は、そのような神話的想像力を刺激する舞台から、ごくごく世俗的な舞台がメインとなっている。そこでは、もはや敵は宇宙からの大軍団ではなく、柔道家や空手家だったり、よその国の格闘家であったり、女子高生だったりするのだ。すなわち、格闘ゲームの人気全盛である。

格ゲー人気こそ、まさに「敵を失った星の若者は有り余るエネルギーを互いに傷つけあうことで消化した。」というフレーズにぴったりあてはまるのではないだろうか。

 

ところで、格闘ゲームの面白さというものは、人vs人という部分に大きく依存している。極端な話、将棋でもかけっこでも味わえる、人との闘争の面白さなのだ。これは、CPU対戦でも本質的には同じである。一人プレイの時は、あるキャラクターに同一化し、他のライバルを倒すために技を磨くことになる。

どちらにせよ人間レベルでの対戦の面白さである。

 

美少女ものの人気や、ダンスゲームの人気などを合わせて考えてみても、最近は昔に比べテーマがはるかに人間的になっていることは確かだろう。昨今のゲームが悪いとは言わないが、少なくとも、格闘にしろ、音楽にしろ、恋愛にしろ、その気になれば実体験できる範囲の楽しみを、手軽に行えるところに本領があるといえるであろう。

 

今のゲーマー達は、昔はゲームといえば神話的なものだったことすら忘れているかもしれない。

しかし、コナミが1988年のパロディウスの戦いで、当時の人気全キャラの総力あげて目指していたのは、まさに非日常の世界、「夢見る力」のための戦いだったはずだ。ゲームの中でしか味わえない、宇宙規模での壮大なストーリー。現実では決して味わえず、夢の中でしかありえない世界を提示して、「この異常な体験は、夢や幻ではない。」と宣言したところから、グラディウスシリーズは始まったのだ。

 

グラディウス4の裏ストーリーは、最近の世俗的ゲーム全盛の流れに対して、再び「夢見る力」の復権のために戦うという宣言なのかもしれない。

 

 

コナミのHPには、グラディウス4を作ったからといってシューティングの復権とは言えないのではないかというファンにこう回答している。

 

「そうですね。続けなきゃいけません。グラディウスIVのあともチームは解散せずにどんどんシューティングを作っていくつもりです。」

 

 

もう1度、ストーリーの最後の文に注目しよう。

『人々の夢も希望も、そして想いも、何もかもを復活させる為に!』

 

ここで、「夢」といっている点に注目してほしい。1988年の「パロディウス」における戦いは、まさに夢食獣バグに蝕まれた「夢みる力」の復活のための戦いだった。

マニュアルから引用しよう。

「西暦1988年、受験シーズンのまっさかり、全地球的規模で人々は夢を失っていた。

若者達は受験地獄に苦しみ、子供達は親よりもゲームパソコンを大切にするといい、大人達は日々の暮らしに追われ、世界各国ではスパイが暗躍し紛争が絶えず、民主主義と共産主義の衝突による第三次世界大戦勃発の不安は高まり、占星術師と科学者は地球の滅亡を説き、そして人々は次第に夢を見失っていった・・」

「今ここに、宇宙を旅し、巡り会った星の人々に夢と希望を与えるプログラマー「タコ」がいた。」

「彼は、自ら修行の場を宇宙に求め、新しいエンターテイナー「夢プログラマー」として大成したのだった。全宇宙に夢と希望を与え、平和の芽を植えてやるのが彼の究極の芸だった。」

 

 

夢。人間の想像力。「グラディウス3」のあと10年間破れていた「夢」の復権が、グラディウス4の目的なのである。

 

 

別に、ダンスゲームも、ときメモも良いと思う。神話を描くよりも、より日常的な、ダンスや美少女の方がユーザー層も広く、利益も大きいだろう。しかし、それらの作品が芸術だと考える人はどこにもいないだろう。

それに対して、現代における最高の芸術性が、かつてのコナミ作品にはあったと思う。

 

私は、グラディウス4は、まだ実はやっていない。半年以上前にゲームセンターに出荷されていたことを知ったのは最近である。いくらゲームセンターに普段行かなくなったからといって、全く情報が入ってこなかったのはショックであった。いかに、話題にならなかったかがわかる(そのショックを静めるために、この文章を書いているようなものである)。

 

グラディウス4が、夢も想いも全てを復活させることに成功したかどうかは知らない(おそらく、あまり人気なさそうなので、失敗したのだろう。私がいまだに遊んでない最大の理由は、地元のゲームセンターにおいてないからである)。

しかし、10年前、当時のコナミの人気キャラが総動員で目指した「夢見る力」の復活のための戦いのリターンマッチである以上、グラディウス4に対して最大限の支持をしたい。

 

さて、最後に、惑星グラディウスの宿敵が、なぜバクテリアンなのか、ということを考察しよう。

 

「バクテリアン」という言葉は、おそらくトリプル・ミーニングだ。

  1. バクテリア。
  2. 夢を実現化しようとするプログラマーを打ち砕く、バグ。
  3. 人々の夢をむしばんでゆくといわれる、動物のバク。

 

グラディウスシリーズとは、徹頭徹尾、夢を実現するための戦いだったのだ。

グラディウス3は、かなり大量のバグに敗れた。聞くところによると、グラディウス4にも多くのバグがあるという。

 

しかし、これはコナミという会社だけの問題ではないことは、言うまでもない。

「夢みる力」、「異次元を想像する力」、これらをどこまで支持できるかは、ユーザー側の選択の問題である。

 

もし、「グラディウス4」が、10年ぶりの今回の戦いにまた敗れたのだとしても、製作陣も言っていたように、これ一作で終わらず、あきらめずに挑戦し続けて欲しい。

 

かつては、コナミという会社自体が、どこよりも神話的な輝きを誇っていた時期が、確かに存在したのだから。