THE END OF EVANGELION における構造変換について


<はじめに>
今度は、映画のTHE END OF EVANGELIONにおける構造変換について考察します。

試論1では、テレビ版と映画版におけるラストを比較しました。二つのラストに置ける変換関係を考察したわけです。


ここでは、映画版に焦点を絞ります。映画版の始めと終わりにおいて、どのような変換関係が見られるかを考察します。うまくいけば、また違った角度で、シンジの行動が理解できると思います。

そこで、映画冒頭からタイトル「第25話AIR」表示までの部分と、試論1でもとりあげた「ONE MORE FINAL」の部分を比較します。

<映画冒頭場面>
まず、AIRの冒頭部分です。ここでは、シンジがアスカに対し、悲痛な訴えをするところから始まります。

青空、青い湖、首のない天使像、たたずむシンジ

一転して場面は病院へ

シンジ

「ミサトさんも、アヤナミも恐いんだ。助けて。助けてよ。アスカ」
「ねえ、起きてよ。目を覚ましてよ、アスカ」
「ねえ、ねえ、アスカ、アスカ、アスカ」
「助けてよ、助けてよ、助けてよ、助けてよ、助けてよ」
「また、いつものように僕をバカにしてよ」
「ねえ」

シンジ、アスカをゆすり、胸がはだける。
シンジの息遣い


「最低だ、俺って」

 

<映画冒頭とラスト(ONE MORE FINAL)の対比>

この場面はおおまかに言うと3つの場面に分けられます。


1.最初の、青空に、青い湖の前でたたずむシンジ
2.寝ているアスカに助けを求めるシンジ
3.アスカの体を見て欲情するシンジ

さて、この3つのシーンがラストにはどのように変換されているでしょうか。



冒頭
                   ONE MORE FINAL

1.
青空
                   
青い湖
                  赤い湖
首のない天使像
              首のないエヴァ像
目が髪で隠れているシンジ
      目を異常に大きく見開いたシンジ

2.
病室で寝ているアスカ
         浜辺で寝ているアスカ
眠るアスカに助けを求めるシン
ジ    眠るアスカの首を絞めるシンジ
助けを求め、叫びつづけるシンジ
   無言のシンジ

3.
アスカに欲情するシンジ(リビドー)
  アスカの首を絞めるシンジ(デストルドー)
アスカに応えて欲しいシンジ 
     アスカにバカにされるシンジ


黒バックに白文字「第25話 AIR」  白バックに黒文字「終劇」


ざっと以上のような対照性が浮かび上がります。

<アスカとシンジの関係の変換>
ここでは、特にアスカとシンジの関係に注目します。冒頭では、シンジはアスカの体を見て欲情しながらも、直接触れることはしません。

一方、最後には、シンジはアスカに直接ふれ、首を絞めます。
この、性的な欲情および、殺意の対照性は、エヴァの中で使われている言葉で言えば、リビドーとデストルドーになります。

さて、冒頭においてリビドーがシンジを突き動かしています。もっとも、シンジはアスカの体に触れるわけではありません。
一方、シンジはアスカとコミュニケーションをとりたいにもかかわらず、アスカには応えてもらえませんでした。

これらの関係をまとめると、シンジから見て、アスカとの関係は
シンジ(接触しないリビドー):アスカの無反応(コミュニケーションの願い)
となります。
これを、試論1で紹介した変換公式にあてはめると
Fx(a):Fy(b)=Fx(b):Fa-1(Fy)ですから、

シンジ(接触しないリビドー):アスカの無反応(コミュニケーションの願い)
=シンジ(コミュニケーションの願い):接触したデストルドー(アスカの無反応)

このように、映画冒頭における、接触しないリビドー(性欲)は、公式にしたがって、映画ラストには、接触するデストルドー(殺意)へと変換されます。

つまり、シンジとアスカにおいて、冒頭には二つのシーンつまりアスカに助けを求める部分と欲情する部分があります。
しかし、助けを求める訴えに対してアスカは無反応でした。
これらの関係が最後には上記のような公式に沿った変換を引き起こします。

その結果、冒頭においては、アスカに触れることのないリビドーであったものが、ラストにおいては直接的なデストルドーを呼び起こします。
これが、シンジがアスカの首を絞めた過程です。

THE END OF EVANGELIONとは、構造的に語るならば、シンジがアスカに対して助けをもとめつつも与えられないことから、寝ているアスカに対して、リビドー(性欲)からデストルドー(殺意)へと正反対に変換される過程であるということができるでしょう。

では、シンジとアスカの関係は構造変換されただけであり、映画を通して何も変わらなかったと考えるべきなのでしょうか。
しかし、注目すべきは、
「また、いつものように僕をバカにしてよ」
というシンジの訴えに対し、構造変換の最後の最後になって、アスカが、「気持ち悪い」と答えてくれた点です(冒頭の、アスカからの無応答が、アスカからの応答へと変換されている)。
つまり、コミュニケーションが崩壊していたシンジとアスカでしたが、最後の最後になって、アスカはシンジに答えてくれたのです。THE END OF EVANGELIONは、シンジの求めに、アスカが答えるまでを描いた物語でもあったのです。


<映画の流れ>
シンジからアスカへのコミュニケーションの訴え
「また、いつものように僕をバカにしてよ」

寝ているアスカへの、接触を伴わないリビドー

映画本編

寝ているアスカへの、接触を伴うデストルドー

アスカからシンジへの回答
「気持ち悪い」




<最後に>
このように見てみると、THE END OF EVANGELIONはきれいな対比的構造になっているのがわかると思います。冒頭部分と終幕部分が、正反対の変換を伴ないながらもきれいに対応しています。

まるで、キールの言葉のようです。

キール
「始まりと終わりは同じ所にある。よい、全てはこれでよい。」




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