エヴァンゲリオンの構造分析



1.序論 どのように作品を分析するべきか
「神話はその本性からして、重ね合わされることによって翻訳可能性の諸規則を浮き立たせる複数のコードをつねに併用する。

神話の意味作用はつねに総体的なものであり、特定の1コードから引き出される意味に還元されえない。天文学的言語、性的言語その他いずれも「より適切な」意味を伝えるわけではない。あるコードが、別のコード以上に真実であるということはない。

神話の本質あるいは、その方がよければ、神話のメッセージは、コードがコードとして備えている相互の転換可能性という特性にある。」(レヴィ=ストロース「やきもち焼きの土器作り」より)

エヴァンゲリオンの評論は多数存在しますが、どれも一つの視点でのみ語ったものです。例えば「エヴァンゲリオンは他のアニメ(ゲッターロボ、魔獣戦線、デビルマンなど)のマネである」、「(特に映画版は)性的な象徴ばかりである」、「登場人物の心理的なものにもっと注目すべきである」などなど。


エヴァンゲリオンは情報量が多いため、見る人によって全く違うものが見えてきます。しかしながら、その一つの視点にこだわって考えると、作品全体のうち、別な視点でしか見えない、数多くのものを見落としてしまします。


ここでは、私はエヴァンゲリオンを構造分析の立場から見てみますが、その前提となる精神は、上記のレヴィ=ストロースの神話分析によります。つまり、ひとつの視点からのみ語るのではなく、まず、どのようなコードが使われているのかを確認し、それらのコードがどのように結びついているのかを見ていきます。うまくいけば、一つの視点からでは絶対理解できない、エヴァ独自の構造が見出されるでしょう。

ちなみに、エヴァの構造主義的分析は皆無というわけではなく、「ポップ・カルチャー・クリティーク0号(エヴァの遺せしもの)」に掲載されている「アニメーション構造分析方法論序説・・新世紀エヴァンゲリオンの構造分析を例題として」という例があります。ここでは、著者はアニメにおける批評の程度の低さ(というか評論自体が存在しないこと)を指摘しつつ、ロボットアニメという枠組みにおけるエヴァンゲリオンの構造分析を行っています。

そして、「レヴィ=ストロースの神話分析は構造分析のお手本とされている」といいつつも、方法論が見えづらい事から、実際にはグレマスの行為項分析とプロップの機能分析を用いています。
この分析は、これはこれで興味深いものですが、私の考えでは、エヴァンゲリオンの個性をもっとも純粋に取り出すには、レヴィ=ストロース的なやり方の方が適していると思います。

ここでは、あくまでもレヴィ=ストロース的な構造分析をエヴァンゲリオンに適用することによって、他の分析法では見つからない点がみえてくるのではないかと期待しつつ、分析を行ってみます。

 


2.エヴァコードの抽出
まずは、分析に入る前に、ざっとエヴァンゲリオンで一貫して使われているコードの整理をしてみます。これらをどのように活用していくかは、実際の分析場面で説明します。

地理的コード
第三新東京市内            第三新東京の外側
地下(黒き月、ガフ、楽園)       地上
地上(罪)                 宇宙(贖罪)

家族的コード
父(ゲンドウ)              子(シンジ)
別居(バラバラの家族)        同居(他人との同居)
胎内(風呂)               人間関係(ATフィールド)
母の消失                エヴァにのること

戦闘コード
           
ヒト                    シト
ネルフ                  ゼーレ

宗教・神話コード
知恵の実                生命の実
アダム                  リリス


精神的コード
リビドー                  デストルドー
ゼーレ(魂)               ネルフ(神経)
           
学園コード
転校生                 友達
生徒                   年をとった教師

性的コード
ロンギヌス               リリス

過去作品からのコード
様々なアニメや映画からの要素の取り入れ(引用、オマージュ、パロディ、パクリ?、など)がある。

他にも色々思い浮かびますが、それらは必要に応じて追加します。


3.試論1 映画版とテレビ版26話の構造変換について(アヤナミレイはなぜ明るくなったのか、あるいは、なぜシンジはアスカの首をしめたのか)

まずは、小手調べとして、テレビ版と映画版26の構造について分析します。物語を放棄したといわれるテレビ版26話と、一応の完結をみた映画版26話とでは内容が全く別のものになっていました。

しかし、一方ではテーマ的には(台詞的には)似たような感じでした。
ここで問題なのは、

@.なぜ演出が全く変わったのか(例えばテレビでは学園編があり、明るいレイが登場する一方、映画ではシンジはアスカの首をしめます)

A演出が全く異なるにも関わらず、なぜ同一テーマを表現できたのか。

まず、映画版とテレビ版において、同一である要素をまとめてみます。

シンジの自己否定(価値のない自分)
→デストルドー(無への回帰)
→自分がいない
→シンジの自己肯定(見方を変えれば世界も変わる)

次に、映画版とテレビ版において、変化している要素をまとめます。
焦点をしぼるため、26話の中でも非常に個性的な、テレビ版学園編の部分と映画版の「one more final」の部分について見てみます。

映画版 ONE MORE FINAL      テレビ版 学園編
消えていく寂しげなレイ         (転校初日)登場する明るいレイ
寝ているアスカの首をしめるシンジ
 寝ているシンジを起こすアスカ
シンジの頬をなでるアスカ
       シンジをピンタするアスカ
シンジを侮蔑するアスカ(気持ち悪い) シンジをかばうアスカ(レイと口喧嘩)

もし、焦点を広げて、26話全体として考えると、主なものには以下のようなものがあります。

映画版 26話            テレビ版 26話
最後の台詞「気持ち悪い」     最後の台詞「おめでとう」
無限に生きるエヴァ初号機
    エヴァの完全な不在
シンジ一人での決断
        多くの人に囲まれての決断
ゲンドウなしで生きるユイ
     ゲンドウとユイの夫婦生活
巨大なアヤナミレイ
        普通の女子学生であるアヤナミレイ
最後に泣くシンジ
          最後に笑顔のシンジ


さて、同じテーマでありながら、なぜこうも演出が変わったのか。

これを分析するのに役立つのがレヴィ=ストロースの神話変換の公式です。
レヴィ=ストロースは世界各地の(主にアメリカの)神話を分析した結果、ひとつの地域の話と、隣の地域の話では、同じ話が全く違う結論になっているのを発見しました。

ある地域では、人間に役立つ鳥が、隣の地域では、人間を陥れる鳥になっていたりです。また、ある地域でハッピーエンドの話が、他の地域では、バッドエンドとして語られていたりします。

このように、もとは同じ話がいつのまにか全く別の話になっている例を数多く分析した結果、レヴィ=ストロースはそこに一定の法則を見出しました。そして、彼は、これを人間精神の特性によるものとしました。
これがその法則です。


Fx(a):Fy(b)=Fx(b):Fa-1(Fy)


左辺は、ある物語をあらわし、右辺は別な物語をあらわします。
aやbは項であり、普通に言えば登場人物のことですFxやFyは関数であり、ある登場人物のはたす役割とか機能のことです。a-1というのは、ある話におけるaが、逆つまり正反対の役割を果たすことを意味します。


この公式をあてはめることによって、話が全く違っているかのように思われる話でも、実は物語りにおける関係は全く同じであることがわかります。


たとえていうなら、じゃんけんをグー・チョキ・パーとよぼうが、昔ふうに石・はさみ・紙とよぼうが、さらに古風に(?)庄屋・たぬき・鉄砲と言い表してもゲームそのものは同じであるようなものです。
つまり、この式による分析によって、登場人物が変わっていたり、結末が正反対になっている物語も、実は、基本的には同じ物語であることがわかるわけです。

さて、この式を使って映画とテレビの26話を分析してみましょう。どのような点が変化しているかは先ほど一覧であげました。

例えば、映画版の特徴のひとつである
「消えていく寂しげなレイ」を使ってみます。
主人公シンジとの関係を考えますと
a=消えていく寂しげなレイ、b=シンジ

映画版26話の最後のシーンでレイは何を意味したのでしょうか。
「私たちは、希望なのよ」
よって、レイにより果たされる機能Fxを希望とします。

一方、シンジの果たした最後の機能は、ふたたびATフィールドの世界を望むこと、他人にいる世界を望むこと、でした。ここで、シンジにより果たされるこの機能をFyとします。

すると、映画版におけるレイとシンジの関係は以下のように表現されます。
Fx(a):Fy(b)
希望(消えていく寂しげなレイ):他人の存在する世界を望む(シンジ)

さて、これを先ほどの公式にそって展開しましょう。
映画版26話から変換されうる別な物語とはどのようなものでしょうか。
Fx(a):Fy(b)=Fx(b):Fa-1(Fy)ですから(左辺が映画版、右辺がテレビ版)

<映画版>
希望(消えていく寂しげなレイ):他人の存在する世界を望む(シンジ)

<テレビ版>
希望(シンジ):「消えていく寂しげなレイ」の正反対(シンジの望む他人の存在する世界)
となります。

ここで、「消えていく寂しげなレイ」の正反対とは、ようするに、登場する明るいレイであることに注目してください。
つまり、
希望(消えていく寂しげなレイ):他人の存在する世界を望む(シンジ)
=希望(シンジ):登場する明るいレイ(シンジが望んだ他人の存在する世界)

これはどういうことかといいますと、映画版においては、レイは希望の象徴を担いながらも、キャラクタとしては寂しそうに去っていきます。シンジは、一度は他人のいない世界を望みますが、その後、再び他人のいる(ATフィールドのある)世界を望みました。
テレビ版ではシンジは希望を持った学園生活を送っています。新たな転校生にも希望を持ち、第三新東京自体が希望に満ちた街となっています。

そしてこの、シンジが望んだ世界(他人のいる世界であると同時に、シンジが世界に対する見方を変えた世界)には、転校生として明るいアヤナミレイが登場します。

ここで、両者が正確に逆の構造になっていることに注意してください。映画版ではレイとシンジはATフィールドがとけて融合していました。その後、シンジがATフィールドを望むとともに分離し、遠くから静止した状態でシンジを見つめたまま、いなくなっていきます。

それに対し、テレビ版ではレイはよその街から転校してきて、走ってシンジに近づき、ひとつになります(もちろん、ATフィールドのある世界ですから、融合せずに、ぶつかって、お互いに転倒することになります)。
これが、先ほどの公式でいう、aとa-1という変換の例(まったく逆になる)です。

つまり、テレビ版と映画版ではレイ一つとっても全く違う役割を担っていましたが、実はそれは神話の変換式で予測できるとおりの変換だったのです。

もちろん、製作者側が、意図的に神話の変換公式を使ってストーリーを組み立てているわけではありません。同じ精神が生み出した物語は、製作者が意図していようがいまいが、一定のパターンで変換されるものなのです。特にエヴァンゲリオンの場合はもともとテーマとしては変わっておらず、あくまでも演出やストーリーを変更しようとしたものだけに、変換のパターン性がはっきりしています。
このことからの結論は二つあります。


1.映画において、なぜそのような演出が行われたのかよくわからないといわれた部分、例えば
@アヤナミの巨大化
Aシンジが寝てるアスカへの首締め(永遠の眠りへ)
Bアスカがシンジを撫でる
C泣いているシンジへの「気持ち悪い」

といった演出は、テレビの学園編以降の
@アヤナミの普通の女子学生化
Aアスカが眠っているシンジを目覚めさせる
Bアスカがシンジをピンタする
C笑っているシンジへの「おめでとう」

といった演出を、変換公式に従うかのように正反対にしたものなのです。

もちろん、製作者はある程度意図的だったかもしれません。もしかして、意図していなかったかもしれませんが、それこそ、人間の無意識による変換法則が現われたといえるでしょう。

2.変換されうる物語は、どちらも同一の物語と見なすことが可能です。演出・表現・ストーリーは異なりますが、同じ構造とテーマを持っています。

つまり、映画版26話とテレビ版26話を、我々視聴者は全く同様に扱ってかまわないのです。例えば、映画版25話のあとに、テレビ版26話をおいてみるのもいいでしょう。映画版26話が好きでない人はそのようにしてかまわないと思います。また、映画版26話はいいけど、最後のシーンだけがいやだという人は、one more finalのあとの部分は無視してそこにテレビ版学園編以降をつなげてみるのもいいと思います。逆に、テレビ版の25話・26話が嫌いな人は、映画版だけで考えて、テレビ版は無視するのもいいでしょう。

今回のビデオのように、テレビ版と映画版を交互に見るのもいいのですが、どちらも全く同じ構造とテーマをもった作品なのですから、上記のように好きなように見るのもまたいいと思います。


<最後に>
映画版とテレビ版は、同じテーマと構造を持ちながらも、変換関係にあります。
このような構造は、ある台詞をどうしても思い起こさずにはいられません。もしかすると、このような変換関係は、以下のような点から解釈するべきなのかもしれません。

TV26話

   伊吹「現実を見る角度、置き換える場所、少し違うだけで、心の中は大きく違う」

  
加持「真実は人の頭の数だけ存在する。」

  
ケンスケ「だが、君の真実は一つだ。狭量な世界観で造られ、自分を守るために変更された情報。ゆがめられた真実さ。」

  
トウジ「ひと一人が持ち得る世界観なんて、ちっぽけなもんさ」

  
ヒカリ「だが、人はその自分の小さなモノサシでしか、物事をはかれない」

  
アスカ「与えられた他人の真実でしか、物事を見ようとしない」

  
ミサト「晴れの日は気分良く」

  
レイ「雨の日は憂鬱だ」

  
アスカ「と、教えられていたら、そう思いこんでしまう。」

  
リツコ「雨の日だって、楽しいことはあるのに」

  
冬月「受け取りかたで、別モノになってしまう脆弱なものだ。人の中の真実はね」

  
加持「人間の真実なんて、その程度のものさ。だからこそ、より深い真実を知りたくもなるがね」


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(付記)
なぜ、同じ構造の物語が、2つの流れに分化したのかですが、テレビ版については、スケジュールが間に合わなかったため、物語として展開させては、完結させられなかった点があります。そこで、構造とテーマだけは予定どおりで、演出を変えたのでしょう。

これは、作品の完結を放棄したわけでも、視聴者を煙にまいたわけでも、にげたわけでもありません。構造とテーマとしては、間違いなく完結まで導いてあったのですから。

映画版では演出レベルでも、24話までの流れに合わせて、ストーリーとして自然に進みました。テーマは同一であるにも関わらず表現を変える必要があったため、結局テレビ版26話を変換した形の展開になりました(もっとも、当初予定されていたもとの展開がどうで、それがテレビ版にはどこまで反映されたのか、映画版でどう変わったのかといった点は、正確にはわかりませんが)。

ひとつだけ言える点は、テレビ版26話から映画版26話への構造変換の中で意識的に行われた点のひとつは、
シンジが一人で決断 多数の人の助言で決断
という部分です。これは、テレビ版での演出が、人格改造セミナーのようだという批判がかなり強かったためと思われます。しかし、この演出を変更をすることで、必然的に
みんなから「おめでとう」
というシーン自体も変換せざるをえず、全てが連鎖的に変換されていったのかもしれません。

その結果、最後はシンジによるアスカの首しめおよび「気持ち悪い」で収束し、これもまた批判を別な意味で受けるのですが、これは奇をてらって造ったり、変な意味で受けをねらったのではなく、あくまでもテレビ版と表裏一体の、変換関係にあると考えるべきでしょう。

なお、この文章では、映画版が先か、テレビ版が先かという点については、あまり厳密に考えませんでした。なぜなら、もとのストーリーにつながる映画版を先とみなすべきなのか、作品として先行したテレビ版を先とみなすべきか、断言はできないからです。

そもそも構造主義的解釈とは、どちらが先でもいいのであり、同じ構造を見出すことが目的なのです。

また、変換公式ですが、あれは便宜的なものであり、ようするに、ひとつの項が正反対になるということと、ひとつの項が関数と入れ替わるということを表現しているのです。

(参考)
興味がある人のためにレヴィ・ストロースの書籍のうち、神話分析について書かれたものを一応紹介します(主著の「神話の論理」は日本語訳はありません)。
1.構造人類学             みすず書房
2.アスディワル武勲詩        青土社
3.やきもち焼きの土器作り     みすず書房

年代順ですが、1は値段が高いし、初めての人には2あたりが比較的とっつきやすいでしょう。

入門書では
1.レヴィ=ストロース            清水書院
2.はじめての構造主義           講談社現代新書
などが、価格的にも内容的にもおすすめです。



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