第四章
第四章 変化するということ
<生と死の2項対立が意味するもの>
エヴァンゲリオン全編を生と死の2項対立が覆っているのを見てきました。
そして、何度失敗しても、前向きに生きるようにというメッセージがあることがわかりました。でも、生きることとは、そして死ぬこととは、何を意味しているのでしょうか。もう一段深い意味を探ってみましょう。
まずは、エヴァにおいて生とは何を意味しているのでしょうか。
そもそも、エヴァという言葉自体、聖書によれば「生命」という意味です。
また、エヴァンゲリオンというアニメそのものも、生命の誕生から始まっています(オープニング冒頭のしずく。絵コンテへの書きこみによる。)
脚本版には、以下のようなセリフがあります。
シンジ「何だ、これ?なつかしい…生命?そんな感じがするもの?…なんだろう?」
「そうだ。変化しているんだ。変わっているんだ。みんな。」
「常に変わっていくもの」
「変わらないもの」
「この二つがそろっているモノ」
「イノチ?」
テロップ「そう、命」
命を、変化として捉える考えは、本編にもそのまま出てきます。
リツコ「加持くん、変わらないわね。」
加持「変わったさ。生きることとは変わることだからな。」
これとは反対に、死ぬことは、変化がないことと関連付けされています。
ゼーレ「神もヒトも、死をもってひとつになる。」
「それは、魂の平安でもある。」
端的に言って、生きることは変化と結び付けられており、死ぬことは平安、つまり、変化がないことと結び付けられています。
このような対比は別な表現もされます。
リツコ「ホメオスタシスとトランジスタシスね。」
ミサト「何それ」
リツコ「今を維持しようとする力と変えようとする力、その矛盾するふたつの性質を一緒に共有しているのが生き物なのよ」
<変化すること> <静止すること>
生きること 死ぬこと(魂の平安)
トランジスタシス(変えようとする力) ホメオスタシス(維持しようとする力)
つまり、ここでは、変化と停止が対立させられているわけです。
別な言い方をすると、変化しようとする心と、変化を拒否する心(安定を望む心)の対立であるわけです。
この観点から人類補完計画を位置付けてみましょう。
ゼーレの人類補完計画とは、母胎へ帰る事で完全な平安を取り戻そうという試みでした。
「われわれは、あんな方舟などいらないのだよ」
「それは、魂の平安でもある」
つまり、形態的な変化をしてまで生きることを拒絶するとともに、精神的な変化も拒絶します。求めるのは、絶対的な安定です。
ゲンドウは、生き続けようとは考えましたが、心の安定だけは欲しいため、魂の集合による新たな道を探りました。
「ヒトは進化すべきなのです。そのためのエヴァシリーズです」
「すべての心が一つとなり、永遠のやすらぎを得る。ただそれだけのことに過ぎない」
形態的な変化はかまわないが、精神的な安定を欲しております。
ユイは、純粋に生き続けることを願い、形態であれ、精神であれ、あらゆる変化を恐れませんでした。
「エヴァは無限に生きていけます。その中に宿るヒトの心と共に」
「生きて行こうと思えば、どこだって天国になるわよ」
まとめると、
精神的な変化 形態的な変化 人類はどうすべきか
ゼーレ 拒絶 拒絶 母へと帰り魂の平安を得る
ゲンドウ 拒絶 OK 一人では生きられないから融合
ユイ OK OK どこでも一人でも生きていく
つまり、エヴァンゲリオン全編を覆う生と死の対立の意味するところは、変化がある世界を望むのか、変化のない世界を望むのかという対立でもあるわけです。
これは、こころの問題としても考えられます。
世界は常に変化し、自分自身も意思で変わることができるにも関わらず、変化を拒否して自閉的に安定して生きていくことを選ぶのか、どうか。
「あなたは世界の、自分を取り巻く世界の閉塞を願った」
「嫌いなものを排除し、より孤独な世界を願った、あなた自身の心」
「それが導き出した小さな、小さな安らぎの世界」
自閉的ではないにしろ、固定観念に安住し、自分の思いこみで防壁を作りつづければ同じことです。自分はこういう人間で、他人はこう思っていて・・。静止したイメージで自分自身と世界を捉えてしまいがちです。
シンジ「エヴァにのることで、僕はぼくでいられる。」
アスカ「エヴァにのることで、私はわたしでいられる。」
そのような思いこみにこだわって、世界を固定した状態で捉えている限り、それは、現実とは全く関係のない、変化を失った、観念的な静止イメージなのです。それは、過去の記憶や、他人によって作られたイメージです。
そのような、静止したイメージはいつかは壊れます。
シンジ「ぼくはいらない子供なんだ。」
アスカ「いらないのよ。私なんて、誰もいらないのよ。エヴァに乗れないパイロットなんて、誰もいらないのよ」
ミサト「つかれたわ。」
「きれいな自分を維持するのに。」
「きれいなふりを続けている自分に。」
「もう、疲れたわ。」
「認められているのは、認められようと演じている自分で、本当の自分ではないの
よ。」
「本当の自分はいつも泣いているくせに。」
しかし、現在の自分とは、過去の自分でもなく、他人から作られたものでもありません。
「そして、世界の位置も常に同じ所ではないの」
「時の流れとともに変わっていくものさ」
「君自身も変わることができる」
「おまえを象っているのは、おまえ自身の心とその周りの世界だからな」
「だって、これはあなたの世界ですもの」
「あなたがとらえている、現実の世界ですもの」
「今のあなた、今のあなたの周りの人々。今のあなたを取り巻く環境。どれもずっと永遠に続くものではないわ。あなたの時間は常に流れ、あなたの世界は変化の連続でできている。何よりもあなたの心しだいで、いつでも変わるものなのよ。」
自分自身と世界のイメージを固定化して、決め付けられた静止した世界で生きるのか。
それとも、世界が変化の連続であるように、自分も変わっていくのか。
「でもみんな僕がきらいじゃないのかな?」
「あんたバカァ、あんたが一人でそう思いこんでるだけじゃないの」
「現実を悪く、イヤだととらえているのは、君の心だ」
「現実を真実に置き換えているあなたの心よ」
「現実を見る角度、起きかえる場所、少し違うだけで心の中は大きく違う」
「晴れの日は気分よく」
「雨の日は憂鬱だ」
「と、教えられていたら、そう思いこんでしまう」
「雨の日だって、楽しいことはあるのに」
「今の僕が、僕そのものではない。いろんな僕自身がありえるんだ」
「そうだ。エヴァのパイロットではない、僕もありえるんだ。」
観念やイメージを固定化し、自分のこころも固定化し、変化を拒否するのは、過去しか見ないことと同じです。永遠の安定を求めて、産まれる前に帰ろうとするゼーレの補完計画とは、このような精神から生み出されたのでしょう。
この観点からすると、映画ラスト近くの発言によって意味されていたのは、溶けたヒトが元の姿に戻れるかどうかといったことではなく、映画を見ている視聴者が、自己満足した状態(固定観念にとらわれたまま安定)で殻に閉じこもっているのか、それとも、苦しくとも自分自身でイメージを生み出し、自分の殻を打ち破って変化をしていけるのかといった問題だということがわかります。
「ヒトの心が、自分自身の形を作り出していくからね。」
「そして、新たなイメージがそのヒトの心も形も変えていくわ」
「イメージが、想像する力が、自分たちの未来を、時の流れを作り出しているもの」
「ただ、ヒトは、自分自身で動かなければ、何も変わらない」
「だから、見失った自分は、自分の力で取り戻すのよ」
「例え、自分の言葉を失っても、他人の言葉に取り込まれても」
「みずからの力で自分自身をイメージできれば、誰もがヒトの形に戻れるわ」
エヴァという作品の構造が、いわゆる「アニメ作品」として見た場合、かなり特徴的であるのも、製作者自身がこの問題(閉塞された状況を打ち破って変化すること)を引き受けているからともいえるでしょう。
そもそも、過去の多くの作品からの引用やコラージュも、数多くの難解な用語をちりばめた衒学趣味も、アニメ業界という閉塞された状況を変化させようという工夫でした。
「オリジナル作品ということに限定して語るならば、アニメーションの未来には疑問を感じていますね。希望は本来、絶望の産物でしかないですから、希望を語るということは、あからさまに絶望していることにほかならないんですよ。そして絶望というものは、別名「死に至る病」ですからね。…現在の日本のアニメーションは、まさにそんな状態で、単に自己防衛に希望を語ってごまかそうとしているにすぎないんです。ついでに言うならば、情報誌的な形態を取りつづけているアニメ誌も同様でしょう。〜今やアニメといえばマンガやゲームからの輸入ものがほとんどです。それは、スポンサーもつくり手も観客も、その必要をさして感じていないからでしょう。自分が好きなマンガなどがセルになり、好きな声優さんたちの声が聞こえればそれでいい、ということなのではないかと思います。アニメ自体はすでに2次的なモノでしかありません。メディアの核としての力はもうすでに失ってしまっているのではないか、と感じもします。そのような状況に、僕は失望しています。」(95年1月号)
「アニメ業界もアニメファンにしてもそうだけれど、昔は勢いがあったのに、人数がドッと減ってしまって、細々となっている閉塞された世界っていうのは、アニメだと思います。」(ニュータイプ96年6月号)
「オタク産業って、これからどんどんダメになると思います。閉塞されるだけだから。いまやオタクのテレビアニメはなくなって、みんなヨリシロにしているのはビデオじゃないですか。〜そうなったときに、要するに、宮村優子ファン以外の奴は、もうアニメを買わなくなる。そうなったら何千人っていう人間だけを相手にやっていく商売になるから、それはそれで成り立つんスよ。その日暮らしには。でも、それ以上のことは絶対にないし、それ以下のものにはならない。ただ、その世界っていうのは閉塞されている。〜アニメファンが、アニメファンのために、アニメファン用のものをつくるしかなくなってくるのね。その中でどんどん小さくなっていく。そうなっていく中でやっていく方法論としては、買っていく人を、不特定多数のところから、一人でも多く増やすしかない。一般人だと思っている人でも、オタクの要素は必ずあるわけだから、そこを指摘して、一人でも増やす。」(アニメ−ジュ96年7月号)
表現としても、「アニメ作品」の枠をわざと壊した演出が多用されているのを思い出してください(TV版25、26話のストーリー、26話の絵コンテや台本シーン、映画版26話の実写シーン、不安定な終息など。なお、「彼氏彼女の事情」なども参照、ここでは、いわゆるアニメシーンは、あらすじ紹介だけという回もある)。
「本当は、表現としては絵に描いたものすら必要ないんじゃないかと思う。実際は、僕が出てしゃべってもよかったんです。それでもいけるはずだったけど、さすがに拒否された。セル画でない部分、絵コンテの絵をそのまま使ったのは、ワザとです。間に合わなかったとか、そういう問題じゃない。とにかく、セルアニメーションからの解放をめざしたんです。ただの記号論なんですよ、セルなんて。マーカーでアスカの絵が描いてあって、そこから宮村優子の声がすれば、もう十二分にアスカなんですよ。セルにこだわること自体が嫌になったんです。かといって
別にCGに行くということではない。アニメーションは表現媒体として線画だけでも機能するんだ、と言いたかったわけ。”セルじゃないから完成品じゃない”とか”セルじゃないから手抜きだ”なんて文句をつけてくるアホウな連中に何か言いたかったわけですね。それは解放なんです。自分がもってる固定観念みたいなものを、とにかく破壊してくれと。」(ニュータイプ96年6月号)
「アニメ的表現」という既存のイメージに安住せず、殻を壊し、変化しようとしたわけです。それが必ずしも演出上の成功に結びつかない可能性があっても。
なぜなら、既存観念の安定にしがみつくのではなく、変化すること、枠を打ち破ることこそ、生きることそのものであり、この作品のメッセージだからです。