映画版ゲド戦記 FAQ

映画版ゲド戦記は、イメージとして理解することは可能ですが、細かく考えると説明不足の点が多く、難解です。
ここでは、映画を見て疑問となる点について、できるだけまとめてみようと思います。


Q1.二人のアレンはどういう関係なのか?

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Q1.二人のアレンはどういう関係なのか?

ゲド戦記においては、アレンが2人登場します。
原作を知らない人にとっては、なぜアレンが二人登場するのか、理解しにくかったと思います。

原作をご存知の方は、第一巻「影との戦い」に出てくる、ハイタカと影の物語が、映画ではアレンと影の物語に置き換えられているのがわかったと思います。

しかし、それにしても、原作に比較しても映画のアレンと影の物語は理解が難しくなっていました。
一方では、私にとっては、映画版の2人のアレンの物語は、映画版ゲド戦記で最も興味深く、魅力的な部分でもありました。

ここでは、できるだけ簡単に説明してみたいと思います。


1.ユング心理学における「影」
まず、「影」というのは、もともとユング心理学の考え方です。
普段、自分が考えている自分の気持ちや考え方に対して、そのバランスをとるための、もうひとりの自分のようなものです。

つまり、ある考え方にこだわっている人に対して、そのバランスをとるためにあらわれる、正反対に近い考え方です。

たとえば、すごく清潔で潔癖な人がいたとします。

それが、限度を越えて潔癖症になったとすると、その人の意識のバランスをとるために、だらしない自分という「影」が発生します。

そして、普段の、潔癖すぎる自分の意識を補正するために、「影」は、夢の中に現われたりします。
つまり、その人の片寄った意識のバランスを直すために、本来は手助けとして発生するのが「影」なのです。

ところが、この人は、とても潔癖な人なので、そのバランスをとるための「だらしない自分」という影を認められません。そこで、たいてい、同性の他人の姿をとって、夢のなかに現われます。

すると、この人は、「あいつは、だらしない奴で、本当にダメなやつだ!」といった感じで、自分の問題ではなく、だらしない他人の事をせめる気持ちが強くなります。

こうして、本当は自分の問題だと気づけずに、他人の問題だと捉えてしまうと、この人は、いっそう潔癖症になります。

すると、精神のバランスはいっそう崩れ、本人が潔癖症になればなるほど、次に夢に出てくるのは、よりだらしない人だったり、だらしない動物だったり、最後はよくわからない化け物になったりします。

これをつきつめていくと、自分は異常に潔癖になり、一方、いつも何か不安な感じがして、最後は精神のバランスが崩れてしまいます。

しかし、本人が、「もしかして自分は潔癖すぎなのかも」とか「夢にでてきただらしない人は、実は、自分の過度の潔癖さが生み出しているのかも」と、影が自分自身の問題であることに気づき、意識のスタンスを変えられれば、やがて「影」は消え、自分のバランスを取り戻すことができます。

つまり、一見すると、自分の意識からみて最も敵対する存在なのですが、実は、自分自身のくずれた精神のバランスを修正するために、自分が産み出している無意識が「影」なのです。

(歴史上の人物の実例)
有名な哲学者のソクラテスは、常に、いろいろ人に議論をふっかけ、ロジックで粉砕していました。その結果、人々の恨みをかい、死罪となります。
しかし、彼はロジックで生と死を理解していたため、死を全く恐れませんでした。
ところが、死が近づくと、夢に精霊のような声がでてきて、「もっと踊れ、ソクラテス」といいます。
そこで、彼は、自分は今まで理屈ばかりだったけど、本当にそれで正しかったのか、もっと感情のおもむくままにすることも大切だったのではないかと考えるようになりました。



2.原作版ゲド戦記における「影」
さて、原作版のゲド戦記第一巻「影との戦い」では、「影」はハイタカが産み出します。

ユング心理学と違うのは、「影」が、夢の中で出てくるだけでなく実体化しているところです。
なぜ、実体化したかというと、ハイタカがある強大な魔法を使って失敗したために、実体化してしまったのです。

そして、ハイタカがどこに逃げても、必ず追ってきます。
なぜなら、自分自身なので、逃げられる場所はないのです。

ところが、ある時点で、ハイタカは、敵が自分とよく似ていることに気づきます。もう一人の自分であることに気づくのです。

そして、逃げるのをやめ、向かい合おうとすると、それまで強大に追いかけてきた敵が、逆に弱々しくなっていることに気づきます。

そして、最後に、影と向き合い、正面から対決することで、影は消え、ハイタカは自分のバランスを取り戻します。


3.映画版ゲド戦記における「影」
アレンは影に追われています。そして、この一見、どこまで行っても追いかけてくる敵こそは、実は自分自身であることは、ユング心理学や原作版ゲド戦記と同じです。

そして、影は、一見敵対するようでありながら、実は心のバランスをとって自分を助けるための存在なのも同様です。

アレンが捕まっている時、もう一人のアレンが現われ、テルーに剣を渡しますがこれも、影は、自分自身を助けることを目的としているからです。

ところが、映画版では、独自の解釈をいくつか入れているため、いっそう解釈が難しくなっています。

@「影」が主役になっている!
あまりに道徳的で、健全すぎる主人公に対して、心のバランスをとるために凶悪で非道な影が発生するということはありえます。

しかし、映画では、逆に「影」を主人公としました!

宮崎吾郎監督コメント「主人公の心の闇を強調するため、影を主人公としてみました。」

そのため、いきなり父親を刺し殺したり、自暴自棄だったり、意味不明な行動が多くなっております。

しかも、説明が最後までないため、難解な表現になっております。


A主人公と影との対決やバランスの問題が最後まで語られていない
結局、あの二人は何なの?という感じになっております。

本当は、主人公のアレンがあまりにも素直で前向きで道徳的だったために、非人間的な影が発生し、アレンはそれにうまく対応できなかったため、心のバランスがくずれて置き換わってしまったということなのでしょう。

この、精神のバランスが崩れる過程は、映画では表現されませんでした。

そして、原作のハイタカの物語のように、影がどうして実体化したかという説明は一切ありません。
魔法使いではないアレンには、ハイタカとは別の事情で影が実体化してしまうきっかけがあったはずなのです。

また、原作にあった、影と向かい合うことで、最後は影と同化し、精神のバランスを取り戻すというプロセスも表現されませんでした。



4.まとめ

私は、ゲド戦記の映画で一番面白かった点は、実はこの「影」の表現です。
追ってくるようでもあり、手助けしてくれるようでもあり、じっと心配げに見つめていたりと、「影」の表現として、とても優れていたし、面白かったと思います。

しかし、ただでさえ難しい概念を説明なく出し、かつ、オリジナルな修正や中途半端な表現が重なったため、普通に見れば、意味不明となってしまいました。

映画としては問題あると思いますが、イメージ的にはとてもよく表現されていたと思うので、この解説を読んで、2人のアレンの関係を楽しんで見てくれる人がいたら、うれしいです。


 

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