2004年1月の日記

2004年01月01日

 あけまして、おめでとう。
 僕は今年の抱負なんかを書く気はありません。
 でもね、いかに負け続けていても、いや、負け続けているからこそ、理不尽な世界との戦いをやめちゃいけないはずですよね。
 いまは、近所の鐘のある寺の除夜の鐘がまだ聞こえています。
 抱負は書く気がないと言ったけど、ひとことだけ。
 僕は気に入らないことは、気に入らない。
 食うための妥協はしても、このサイトでは嘘は書かない……。
 そういうつもりで、ほぼ毎日更新しますから、これからも、偶にはのぞいてみてくださいネ。

2004年01月02日

 昨夜、久しぶりに買った吟醸酒を四号瓶丸々一本飲んでしまい、午前11時ころから、この日記を書き始める。
 その直前には、ビデオに録画しておいたNHKの年越しトーク『心に灯をともす』(犬養道子と養老孟司の対談)とNHKスペシャル『日本再生ひとりからの出発〜村上龍とリーダーたちの対話』を続けて見ていた。
 82歳になる今も世界中の難民キャンプをたった一人で訪ね歩き、「現代の悪とは、救いとは?」と問い続けている犬養道子さん、うーん、迫力ありすぎ。養老さんが口が出せないほどの独演会でおそれいった。いや、本物の悲惨を直視し続けている犬養さんのような方がいらっしゃることこそ、この世の希望だと、はなはだ深い感銘を受けたのだけど。
 まぁ、養老さんは養老さんで、お話しになるところをうまくつくってもらっていらっしゃったが……。

 村上龍の番組のほうは、軍縮会議日本政府代表部全権大使の猪口邦子さんとの話のなかで出てきた、軍事費に金をかけず、経済発展を遂げた日本は、ある意味では、ひとつの理想的な国家 モデルだという話に興味を持った。そこで、思い出したのだけれど、僕がむかし読んだ本に『鉄砲を捨てた日本人』(ノエル・ペリ ン著・1984年に紀伊國屋書店より単行本が出て、91年に中公文庫におさめられた本。訳者は川勝平太)というものがある。著者はニューヨーク生れの環境科学を教えているアメリカの学者。いま、物置から同書を引っ張り出してきたので、その前書きを転記 してみよう。

 他人の国の行動に口出しすべきでないということは承知しているつもりです。ヘンリー・キッシンジャー氏ほどの外国通、田中角栄氏ほどの実力者であってさえ他国のことに干渉していません。
 しかし、希望を表明するのは一向に差しつかえないでしょう。わたくしは日本に希望を抱いています。
 それは、このところアメリカ合衆国が日本に対して次第に強力にかけている自衛隊の規模を増強するようにという圧力に、日本が屈してほしくない、というものです。日本が合衆国の陸・海・空軍に「ただ乗り」しているという主張は、アメリカ 合衆国政府(ないし合衆国の政府機関筋)における常套句になりつつあります。 「ただ乗り」といいますが、いったいどこがその終着駅だというのでしょうか。核戦 争ではありますまいか。すでに核を合衆国は広島と長崎に見舞いました。もうたくさんでありましょう。

 日本はその昔、歴史にのこる未曾有のことをやってのけました。ほぼ四百年ほど前に日本は、火気に対する探求と開発とを中途でやめ、徳川時代という世界の他の主導国がかつて経験したことのない長期にわたる平和な時代を築きあげたのです。わたくしの知るかぎり、その経緯はテクノロジーの歴史において特異な位置を占めています。人類はいま核兵器をコントロールしようと努力しているのですから、日本の示してくれた歴史的実験は、これを励みとして全世界が見習うべき模範たるものです。ささやかながら、本書もまた日本の経験をめぐって執筆したものです。
 この場をかりて敢えて希望を申し述べることが許されますならば、日本にいま一度新しい模範を示していただけないものか。日本が国の栄誉のために自衛隊の増強を決めたとしても、それはそれで仕方がありません。外部からとやかくい うべき筋合のものではまったくないからです。それでもなおわたくしは、ワシントンの野心家の機嫌をとるだけのために日本が新式兵器に金をかけることのないよう、貴国に希望を託しています。

一九八四年二月二十四日 ダートマス・カレッジにて ノエル・ペリン

 二十年も前の本だけど、いまでも文庫は買えるようだ。
 文庫版のカバー裏の紹介文は以下の通り。

 十六世紀後半の日本は、非西欧圏で唯一、鉄砲の大量生産に成功し、西欧のいかなる国にもまさる鉄砲使用国となった。にも拘らず江戸時代を通じて鉄砲を 捨てて刀剣の世界に舞い戻った。武器の歴史において起こるべからざることが起こったのである。同時代の西欧では鉄砲の使用・拡大によって戦争に明け暮れていたことを考えると、この日本の<奇跡>が示唆するところは大きい。

 村上龍と猪口邦子の対談に話を戻すと、軍縮というのは、甘い平和主義ではなく、極めてシビアーな利害調整と戦略を要するもののはずだと彼らは言っていた。
 僕もそう思うが、同書はいまでも古びていないのではないだろう か。

 アマゾンでも買えるようだが、ウェブ上の古本屋サイト、日本の古本屋やスーパー源氏で検索してみたら、200円で売られているものがあった。興味のある方には、ご一読をオススメしたい。

 なお、松岡正剛の千夜千冊に川勝平太氏を紹介したものも見つけたので、リンクを貼っておく。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0225.html

 ここまで書いて、昼からBS2の小津安二郎特集を見ることに。
 今日の映画は小津が唯一大映で撮った『浮草』。
 見終わった後、その感想を書くことにしたい。

*     *     *

 うーん、『浮草』、素晴らしかったぞ。
 色っぽいというか、画面が全編、艶っぽくて……。
 小津といえば、原節子と笠智衆の映画ばかりが有名だが、僕、 この大映作品のほうが好きだなぁ。先代の中村鴈治郎が素晴ら しく、その上、撮影が宮川一夫。若い若尾文子が魅力的だし、川口浩も市川崑が撮った幸田文原作の『おとうと』(岸恵子がお姉さん役)と、これがいちばんみずみずしくて、いいんじゃないだろう か。

 それにしても先代の中村鴈治郎って、いいなぁ。
 市川崑の『炎上』、『鍵』、『ぼんち』とか、川島雄三が撮った『雁の寺』に出ていた彼の演技なんかも僕はよく覚えている……。
 なんか常にスケベったらしくて、スタスタ歩いて……、僕はそこがなんともいえず好きなんだけど。

 ところで、この『浮草』は、戦前の無声映画のリメイクなのだが、 BS2では14日に、無声映画版『浮草物語』も放映する。
 次のリンクをクリックすれば、それぞれ、NHKの紹介サイトに飛 べるので、興味のある方はどうぞ……。

http://www.nhk.or.jp/ozu/introduction/index51.html

http://www.nhk.or.jp/ozu/introduction/index31.html

 また、これからビデオでも借りてみようという方には、よけいな お世話だろうが、以下のgooのサイトで、ほぼ全ストーリーを要約したあらすじが読める(gooの映画サイト http://movie.goo.ne.jp/ は、俳優ごとの作品リストから、その作品のスタッフ・キャスト・ 解説・あらすじなども読めて、古い映画の記録を調べる時には重宝している)。

http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD26445/story.html


 そういえば、『雁の寺』の鴈治郎のお妾役も若尾文子だった。 吉村公三郎・宮川一夫コンビの『越前竹人形』のヒロイン役も……(『越前竹人形』のいやらしい男の役は西村晃だったっけ。たしか殿山泰司も出ていたはずだ)。また増村保三の『赤い天使』 (有馬頼義原作の悲惨な従軍看護婦もの)なんて傑作もある。

赤い天使 http://kadokawa-daiei.com/masumura/film15.html

 こんなことばかり考えていると、また古い映画を見たくなった。

*    *     *

 ここで、話をふたたび変えるが、せめて正月二日くらい、仕事をせずにいようと、今日はいつもより長くネットサーフィンに耽っていたのだが、いくつか、面白いサイトをみつけた。

 ひとつは江戸川乱歩についての、どうういう方がつくっているのか、著作権がどうなっているのかはわからないが、名張人外境というサイト。

http://www.e-net.or.jp/user/stako/

 このサイト内の『乱歩百物語』では、以下のような文章が読めるのだ。

http://www.e-net.or.jp/user/stako/ED2/E10set.html

[第一話]    江戸川乱歩評判記 中島河太郎
[第二話]    書簡 小酒井不木
[第三話]    日本探偵小説界寸評 国枝史郎
[第四話]    『心理試験』を読む 平林初之輔
[第五話]    乱歩氏の創作集 春田能為(甲賀三郎)
[第六話]    濫読者の手帳 三上於菟吉
[第七話]    マイクロフォン 夢野久作
[第八話]    江戸川乱歩の持ち味 浜尾四郎
[第九話]    乱歩氏の懐し味 海野十三
[第十話]    禿山の一夜 小栗虫太郎
[第十一話]   献詞 天城一
[第十二話]   書簡 萩原朔太郎
[第十三話]   怪奇と推理の作家江戸川乱歩氏 T生
[第十四話]   薄暗い仕事場と赤い錦絵の蒐集 E・F・G
[第十五話]   一寸法師【七巻】
[第十六話]   乱夢譚 西秋生
[第十七話]   疑問の戦死者 江戸川乱歩
[第十八話]   未発表日記〔1949〜1992〕抄 中井英夫
[第十九話]   翳の祭典 乱歩と私 中井英夫
[第二十話]   語りの事故現場 高原英理
[第二十一話] 彼 江戸川乱歩論序説 村山徳五郎
[第二十二話] 文芸五十年史 杉山平助
[第二十三話] 江戸川乱歩氏と語る
[第二十四話] 川崎克と江戸川乱歩 江戸川乱歩一代記 旭堂南湖

 もうひとつは、ED関連のサイトを探しているうちにみつけた(株)メディカルトリビューンが公開しているサイト。

http://www.medical-tribune.co.jp/ss/contents.htm

 こちらは性をめぐる問題を多面的に扱っているところで、上野千鶴子の対談なども読める。まぁ、上野千鶴子なんかはどうでもいいが、面白い読み物もいろいろありそうので、ちょっとオススメかも 。

*    *     *

 さぁ、これから久世さんの『向田邦子の恋文』でも見よう。
 あぁ、今日はお正月のサービスで、いっぱい書いた。
 明日からは仕事をする気なので、毎日少しずつしか書けないだ ろうけど、ご勘弁を。

(追記)
 年賀状がわりに、アメリカの小出さんにメールを出したら、すぐに返信のメールが。お元気に頑張っておられるようで、僕も嬉しい。

2004年01月03日

 友人と電話で話したのだが、僕がつくった佐野洋子さんの著作リスト、「スゴクない?」と言われた。
 ハハハ、佐野さんにバレたら、「やっぱり、アナタ、ヘンな人ね」って言われるかもなどと思う。
 でもね、このホームページをのぞいてくれている編集者諸君、あのなかには、まだまだ沢山文庫化できるものがあるはずだが、どうだろう。
 どこかで誰かが、そんなことをしてくれたら、嬉しいんだけどな。

 今は、まだ三日の10時過ぎ。だが、今夜は早くも、これから横になって、グウェン・エイデルマンの『夜を抱いて』を読むつもり だ。ネットで注文した大宅壮一『実録・天皇記』も暮れに届いたし、去年から読み残している本も山積している。まぁ、仕事を優先 させなきゃならないのは当たり前だから、仕方がないのだけれど。

2004年01月04日

 年末年始のテレビ番組には、ほとんど見るに値するものがないと言いながら、今年の正月はけっこうテレビばかり見ていた。と言っても、いわゆる正月特番のバラエティ番組は、まったく見ていない。すでに書いた犬養道子と養老孟司の対談、村上龍の対談、小津安二郎の映画『浮草』のほかに見たのは、『向田邦子の恋文』、NHKドラマ『老いてこそなお』など(これは好きだった『ケイゾク』のシナリオライター・西荻弓絵が書いた作品だから見た)。それに、今日見たのは、BS1の『世界潮流「国連」・イラクをめぐる米国との攻防』(緒方貞子が出ていた)、『詩のボクシング・高校生大会』の再放送(高橋源一郎や佐々木幹郎が解説で出ていた)。
 『詩のボクシング・高校生大会』には驚いた。高橋源一郎も言っていたが、僕も見る前は、見ているこちらのほうか気恥ずかしくなってしまうのではないかと心配していたのだが、出てきた高校生諸君の水準が、予想をはるかに超えて高かったのだ。
 自分がプロの物書きだなどと思っている人たちは、こういうものこそ見るべきだろう……。
 素人もガキも侮っちゃいけない……。

*     *    *

 『夜を抱いて』の感想については、日をあらためて、コラムのほうに書くことにする。ところで、昼間、書店に『クロワッサン』を立ち読みに行った。同誌で『夜を抱いて』の訳者が、この著書について語っている記事があると、ある人が教えてくれたからだ。
 僕は図書館やコンビニの立ち読みで、いろんな雑誌をチェックしているが、『クロワッサン』までみていない。このホームページを 読んでくださっている方たちが、僕が知らない情報をメールでお知らせくださると嬉しいのだが。
 六日に玄先生とお目にかかることになっているので、明日中には、先生に尋ねるべきことを整理しなければならない。
 もうテレビなんて見られそうにないなぁ。

2004年01月05日

 村上龍のメルマガjmmの今年に入って二度目の配信を読む。
 村上自身が書いている『編集長より』が、自衛隊イラク派遣問題について触れていて、面白かった。
 以下に一応、URLを貼っておくが、このサイトでは最新号しか読めないので、明日になれば、僕の読んだ文章がもう読めなくなっ ているかも。

http://ryumurakami.jmm.co.jp/

 何度も書いているが、このメルマガは無料で配信が受けられるから、登録したほうがいいよ。
 それから晩飯を食いながら、NHK『クローズアップ現代』を見た。
 東南アジアのイスラム原理主義過激派『ジェマ・イスラミア』について、取り上げていたからだ。

http://www.nhk.or.jp/gendai/index2.html

 (このサイトは過去の放送記録も読めるようになっているので、 1月5日放送分が今日僕が見たものです)

 話が変わるが、仕事をしていると、つい気分転換がしたくなり、 また少し、トップページをいじった。
 今後トップを飾る絵を変えるために、高畠華肖とか、僕の好きなバルティスなんかの画像データも入手した。
 あまり、こんなことばかりしていられないので、今日はこれだけ。

(追加)
 正月、バラエティ番組をまったく見なかったと書いたが、一言だけ言っておきたい。
 僕は基本的にお笑いの芸人さんたちを尊敬している。
 人を笑わせるほど重要な仕事はないだろうと考えているからだ。
 番組がつまらないのは、つくっている側の責任だ。テレビ局で働いている人たち自身が、そのことを最もよく知っているだろうが。

 そうそう、またネットの『日本の古本屋』で本を注文した。
 前から読もうと思っていた荒川洋治著 『忘れられる過去』。
 早くも半額だったぞ。

日本の古本屋 http://www.kosho.or.jp/servlet/bookselect.Kihon

高橋源一郎の書評
http://book.asahi.com/review/index.php?info=d&no=4394


2004年01月06日

 午前0時を過ぎた6日の深夜、眠る前に、僕は花村萬月が、12月29日に更新した『独りだけのための小説教室』を読んだ。

http://www2.odn.ne.jp/cbr37550/syousetu.htm

 花村萬月のことを、僕は小説家として高く評価している。
 だから、もう彼をクサすような文章を書くことは止めようと思っていた。
 しかし、僕もシツコいが、彼がウェブ上で書いている小説作法を、僕は認めることができない。

 僕らが今日(こんにち)書いている現代口語文のルーツのひとつは、まちがいなく、明治の俳人・正岡子規が提唱した写生文の理論によって誕生したものだろう。
 子規は病魔に侵されながら、誰にも書ける文章を目指し、35歳 という短い人生を生き抜いた。
 すべての近・現代文学は、そういう視点から見れば、彼の偉業の末裔なのだ。芥川賞作家として世に認められた萬月くん、君の文章も。

 プロとは何かという愚かな自己規制……。
 それから自由にならなければ、どんな新しい言葉も生れないゾ。
 自分で自分に厳しいつもりは、つもりにすぎない。
 愚かな自己規制を振り切り、のびやかに自由であること。
 さらに言うなら、自己のいい加減ささえ認めること……。
 ともかく、素直に本当に思ったことを、たどたどしく言葉にする。
 たとえドモリながらでも。
 子規の写生文の理論は、少なくとも万人に開かれていた。

 小説であれ、どんな文章であれ、自己を解き放つことこそ、最も困難な作業のはずではないだろうか?
 だから、なんでもあり。見たまま、感じたままを言葉にする……。
 僕は、これこそ文章作法の原点だと思っている。

 自己に客観的であるということは、他者の価値観で自分を振り返ることだよね。それは、もちろん必要なことだ。
 だけど、他者の普通が狂っていないと、誰に言えよう。

  だったら、他者のフツウって、何だ?
 僕が先日見た『詩のボクシング・高校生大会』に出てたガキだって、真摯にそれについて考えてたゾ。

 僕は小説を書くなんて、ちっとも特権的なことではないと考えている。
 萬月くん、君は、こういうことを、どう思っている?

 君だって、ちゃんと分っているだろう。
 だから、君の小説は、人の心を打つものたりえているのだから。
 バカな説教臭いジイさんみたいな物言いは、もう止めな。

 この閉塞した現代を突き破る言葉は、説教からは生れないゾ!
 君の書いている『独りだけのための小説教室』を読んだら、僕は君が自分自身がやっていることに反して、とんでもない固定観念に囚われているようにしか読めないんだけど……。

 いまは、僕はシラフだ。
 酔っ払って、ケンカを売るつもりじゃないんだけどなぁ。

*     *     *

 今日、起きてから僕が取り組んでいた仕事は、録音しながら、 玄先生の話を聞くことだった。
 このサイトは、自分の仕事の報告だけではないので、それについては、かたちになった本で評価してもらおう。
 やれやれ、僕には荷が重いのだけれど……。

2004年01月07日

 半日玄先生とお話ししたテープをおこしながら、原稿を書く。
 正直、余りはかどっていない。
 昨日の話は、ある意味では哲学的というか、かなり突っ込んだ 内容だったのだが、文章化するためには、お喋りと違って、相当言葉を書き加えなければ、読者に通じないだろうからだ。

 仕事の合間に、ネットで、次の記事を見て、先日天野先生と会 った時、啄木の詩の話をしたことを思い出す。

イスラエル軍、パレスチナ人3人射殺 ヨルダン川西岸

 イスラエル軍放送によると、同軍は7日、ヨルダン川西岸パレスチナ地区の2カ 所で計3人のパレスチナ人を射殺した。うち1人は非武装の一般市民だったという。
 治安筋によると、西岸ナブルス近郊で、軍が行方を追っていたアラファト自治 政府議長系組織ファタハの軍事部門活動家を見つけ、射殺した。その際、そばの茂みの陰にいたパレスチナ人も殺されたが、武器は持っていなかった。
 また、西岸トルカレムでは武装パレスチナ人とイスラエル軍との間で銃撃戦が 起き、イスラム過激派ハマス活動家1人が射殺された。 (01/07 19:52)

 天野先生と話したのは、例の「われは知る、テロリストのかなしき心を」というヤツだ。
 これは『呼子と口笛』に収められた『ココアのひと匙』の冒頭の部分。
 そのあとも記憶をさぐったが、数節で次が わからなくなった。

 もちろん啄木は没後50年以上経っているから著作権が消滅。 青空文庫にあるはずだと考えて、アクセス。
 だが、残念ながら、なかったのである。そこで、『呼子と口笛』でググッて以下のサイトを見つけた。

つれづれの文車 http://www.nextftp.com/y_misa/

 詩が好きな一般の方が個人でつくっていらっしゃるサイトだった。
 僕も好きな近代詩人の詩が集められていて、なかなか充実している。その上、『梁塵秘抄』や『閑吟集』からも、いくつか選ばれている。あの『一期は夢よ、ただ狂え』は『閑吟集』にあるものだ。

何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ

 その解説のあるURLは以下のとおり。

http://www.nextftp.com/y_misa/kangin/kangin04.html

 話が横道に逸れたが、『ココアのひと匙』を再録しておこう。

ココアのひと匙

われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らんとする心を、
われとわがからだを敵に擲(な)げつくる心を――             

しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有(も)つかなしみなり。

はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜りて、
そのうすにがき舌触りに
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。

 ところで、現在普通の本屋にある啄木作品は、新潮文庫の『一握の砂・悲しき玩具』だけである場合が多い。これでは上記の詩は読めない。
 この新潮文庫を買うくらいなら、角川文庫の俵万智が解説を書いているヤツのほうがオススメかもしれない。まぁ、啄木の作品だったら、図書館に行けば、いくらでも読めるだろうが。

 今日も、なかにし礼の訳した『ラディゲ詩集』を開く。1973年、彌生書房から刊行された絶版の本だ。
 同書のカバーは、ピカソが書いたラディゲの肖像なのである。 気まぐれに、海外サイトまでググッてみたら、画像データが見つかった。あまり鮮明ではないが、その画像データも、一応保存した。
 気分転換は、ここまで。仕事に戻る。

(追加)
 青空文庫の石川啄木詩集に『ココアのひと匙』が入っていない というのは僕の間違いでした。
 ちゃんと入っています。ごめんなさい。

2004年01月08日

 ときどき更新した場合に、画像の表示がおかしくなることがある。その度、なんとか直しているのだが、どうして、そんなことが起きるのか、まだわかっていない。お気づきのことがあれば、メー ルをください。

 今日は仕事だけ。
 これに新しい情報を書き加える余力がないので、ご勘弁を。

(追加)
 原稿を書いていて、結局、普通の人間なんて、どこにもいないと思い始め、つい佐野洋子の『ふつうはえらい』(単行本も持っているが、新潮文庫版のほう)を本棚から引っ張り出した。
 河合隼雄が書いている解説を読む。
 むかし、一度読んでいるはずだが、この解説が河合隼雄だったことを忘れていた。彼は、この文章で小学生の書いた詩を引用している。

えらい人より
やさしい人のほうがえらい
やさしい人より
金のない人のほうがえらい
なぜかというと
金のない人は
よくさみしいなかで
よくいきているからだ

鹿島和夫編『続一年一組 せんせいあのね』

なかたに ゆうすけ君の詩

 まいったなぁ。僕は一応やさしいと言われることはあるが、金はないけど、よくいきているかというと、はなはだ疑問だからなぁ。

 ちょっと、書き足したけど、つまらないことを考えるのは止めにして、仕事に戻る(本当はちっともつまらないことじゃないけどね)。

(さらなる追記)

 実は夕刻30分ほど散歩をした。
 いいのか悪いのか、自宅からいちばん近い公園を抜け、5分ほど歩いたところにブックオフがある。
 近ごろは、そう頻繁に行っていないし、行ってもべつに掘り出し物がないか眼をサラのようにしているわけではないが……。
 しかし、行けば行ったで、目にとまる本というものがある。
 まず、百円の単行本の棚にあった村瀬幸浩と渥美雅子の往復書簡『性愛対話』(柏書房刊)。エゴン・シーレの絡み合った男女の絵を使ったカバーデザインにピンときて、装幀者の名を見れば、毛利一枝さんだった。
 毛利さんとは天野哲夫先生にご紹介していただいてより、何度もお喋りをしている。それで、彼女の装幀が、どれほど、一つ一つ 考え尽くされているかを、よく存じ上げているのである。

 まぁ、いま書きつつある自分の原稿と関係がないこともないので購入。
以下より、アマゾンの『性愛対話』のページに

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4760118292/reviews/ref=cm_rev_more_2/249-5506399-1252309

 本の写真の部分をクリックすれば、エゴン・シーレの絵も装幀の感じもよくわかります。

 ほかには、なかにし礼『翔べ!わが想いよ』(文春文庫版・来月から公開される映画『赤い月』の原作本のさらに元になったといえる自伝的エッセイ。最初の単行本が出たのは平成元年。東京新聞夕刊の連載をまとめたものだった。最近、『赤い月』の映画化に当て込んだのか、新潮文庫でも新版が刊行されている)。

 次に、犬養道子『フリブール日記 世界の痛苦を見つめる』(中公文庫、現在、版元品切れ。スイスの古都・フリブールに滞在した著者が、飢餓難民問題をはじめとする世界の諸問題を考察しつつ、フリブールの魅力にも触れた1981年に単行本が出たものの文庫化版。元は中央公論の連載だった)。この二つの文庫を 百円の棚で見つけてカウンターへ。
 これ以上、ウロウロ、棚に何があるか見ていれば、どうせまた 僕の目にとまる未読の本が見つかってしまう。
 この三冊で300円に消費税がついて315円。
 煙草を270円で買って、予定通り約半時間で、帰宅。
 読書の時間を確保するためにも、仕事に対する集中力をもっとアップしなければ……。

2004年01月09日

 今日は、仕事の合間にするお喋りのように、数分で書いた佐野洋子さんについての次の一文をアップすることに。

 僕はこれまで常に自己申告しているように、活字中毒者だ。
 大長編小説の世界にドップリと耽るのも悪くないが、そんな時間がとれない時は、短いエッセイなどを摘み食いするように読んでいる。口さびしいから、オヤツを食うような活字の読み方……。

 ところで、いまの僕には、残念ながら、ゆっくりと読書の快楽に身を任せている時間はない。
 そこで、このところ、佐野さんの短いエッセイを、昔のものも、最近のものも、チョロッと、毎日、ほんの少しずつ、再読している。
 当たり前のことなんだけど、こういうことをしていると、佐野さんは一生佐野洋子さんだなぁ、と思う時と、十年前の佐野さんといまの佐野さんは、やっぱり違うなと思うことがある。成長かどうかは即断したくないが、あきらかに思考の深みは増している。
 変節とか、転向とか、そんな話じゃないよ。

 言い方を変えよう。
 当然だけど、65歳の佐野さんは、やはり65歳でしか到達できない文章を書いておられる気がする。

 このあいだのBS2で、関川夏央が佐野さんの本を取り上げた時、ちょっと気づいたことがある。
 若い時から、佐野さんは、雑誌のグラビアなんかの取材にも応じていらっしゃったから、けっこう魅力的な笑顔で、可愛い彼女の表情を、僕は沢山見ている。
 だけど、先日のBS2で、一瞬、放映された佐野さんの顔写真は、真正面を不機嫌に睨み付けているぶーたれた写真だった。
 おそらく本人以外の番組制作者が彼女の風貌を視聴者に見せようとしたら、あんな写真を選ばないはずだと思った。
 それで、きっと顔写真を求められて、佐野さんご自身が、そんなふうにぶーたれた顔写真を選ばれたのではないかと思ったわけだ。
 これは、僕の勝手な想像だから、佐野さんに対して、ずいぶん失礼な言い草かもしれない。
 だが、いくらでも魅力的に撮れるだろうに、彼女ご自身が、あんなぶーたれた写真を番組制作者にわたされたのだったら、それもまた、いかにも佐野さんらしいなと僕は思う。

 佐野さんの若いころのエッセイと今のエッセイとの差は、雑誌の求めに応じて、笑顔の写真を撮られていらっしゃったころの彼女の顔写真と、あのぶーたれた顔写真の差と見合っているのではないだろうか?

 自然体とは、当たり前に、今の時代に対する違和感と抗議をあらわにすることとも関係している。
 半端な老人(?)でも、笑顔を見せようと思えば、いくらでも見せられる。
 なのに、ぶーたれた顔写真をおわたしになる……。
 半ば以上、勝手な想像で申し訳ないが、僕が好きな佐野さんは、そういう方のなのだ。
 僕の大好きな佐野さんは正直なひねくれ者のはずだから……。

以上の文章は、先日アップしたコラムの末尾にも、追加しました。

2004年01月10日

 朝から何故か鼻血が……。
 ティッシュを千切って丸めて鼻の穴に突っ込んで、これを書いている。

 さっき、内田樹先生の日記を一週間分読み直した。
 今年も絶好調のようだ。一月七日の分を少し引用してみよう。

「文化資本の局在化」については、佐藤学先生も指摘されていた。
芸術作品についての鑑識眼が備わっているとか、ニューヨークとパリに別荘があるとか、数カ国語が読めるとか、能楽を嗜んでいるとか、武道の免許皆伝であるとか、そういう子どものころから文化資本を潤沢に享受してきた学生が一方におり、一方に、ひたすら塾通いで受験勉強だけしてきて成績以外には取り柄のない学生たちがいる。
そのような集団の歴然とした「文化的インフラ」の格差が、この十年くらいのあいだに東大で際だってきた、というのが佐藤先生のお話であった。
同じことはアスリートをみていても感じる。一方に世界的水準の身体能力をもつアスリートが輩出しており、その一方で総体としての子どもの身体能力や身体感受性は目を覆わんばかりに劣化している。
日本人は「マジョリティ」のあとを追うことに懸命であるために、社会のおおきな地殻変動が「少数派」のあり方の変化から始まることを見落としがちである。
でも、実際に社会の地殻変動は起き始めている。
それはかつての「一億総中流」から「二極分解」への流れである。
実際には「総中流」といっても「中流」には「限りなく上流に近いアッパーミドル」から「限りなくビンボー人に近いロウワー・ミドル」までを含まれていた。
そのように中産階級の定義が「グレー」だったのは、最終的に「上流」とか「中流」とかの差別化の指標となっていたのが「年収」だったからである。
年収は定義上毎年変わる。
栄耀栄華を謳歌していたバブリーな紳士が夜逃げして四畳半一間に逼塞するということは珍しいことではないし、昨日までコンビニで働いていた姉ちゃんが一夜にしてアイドルスターになるということだってなくはない。
しかし、現在進行中の「二極分解」の境界線は毎年更新される「年収」ではない。
境界線として機能するのは「文化資本の差」である。
年収は本人の努力でいくらでも変わるけれど、子どもの頃から浴びてきた文化資本の差は、二十歳すぎてからはもう「更新」できない。 そのような「成人して以後はキャッチアップ不能の指標に基づく階層差」がいま生まれつつある(ジェイ・ギャツビーが遭遇した「限界」である)。
近年の統計によると、中学2年生の平均読書時間は一日15分。
一方テレビ、テレビゲームに費やす時間は2時間40分である。
自宅学習時間についても日本の子どもは(40%がゼロで)先進国最低である。そのような子どもが「ほとんど」である一方、そうでないごく少数の子どもがいる。苅谷によれば、その差は母親の学歴と相関している。
東大の入学者における親の学歴と平均年収の増加は急カーブを描いていることはメディアも報じているが、そのことの歴史的意味はまだみんなよく分かっていない。 それは、そのような「ごく少数の子どもたち」は成長したあとも、「メンバーズオンリーの閉鎖集団」を作るだろうということである(だって「バカとは共通の話題がない」んだから仕方がない)。
私たちはいま「新しい階級社会」の出現を前にしているのである。それは現在流布している「勝ち組」と「負け組」という身も蓋もない区分ではなく、「バカ組」と「利口組」というさらに身も蓋もない区分(「バカの壁」)によって隔てられた階級社会なのである。

 僕は数年前に小沢雅子の『新・階層消費の時代』(1985年・日経新聞社より刊行。のちに朝日文庫で文庫化されてもいる)という本を読んだことがある。その頃から、もう一億総中流なんて大嘘だと思っていたわけだ。
 だが、先生のおっしゃっていることは、そんなことではない。
 僕は、「バカ組」か「利口組」か、どちらだろう?
 ハハハ、やっぱり「バカ組」かな?

 そんなことを思いながら、次に新聞を見る。
 トップに石破防衛庁長官の写真が……。
 見出しは『陸自先遣隊に派遣命令』。
 僕、石破の顔を見るたびに、コイツ、正気なのだろうか、目つきがアブナイゼって感じるんだけど、もともとアブナイ男である僕がそんなことを言っても、説得力がないかなぁ。

 話を変える。
 僕が、なかにし礼の自伝的エッセイ『翔べ!わが想いよ』を読む気になったのは、これと、同じ素材を基にした『赤い月』とのあいだに、「どんな違いがあるか」というか、それを比べることで、小説とは何かについて考えてみたいと思ったからだ。
 以下の二つの文章も、それについて僕が考えていることと関係しているので、書き写しておきたい。
 まず、ひとつめ。

みすず書房刊『モンテーニュ エセー抄』宮下志朗編訳より
読者に

 読者よ、これは誠実な書物なのだ。この書物では、内輪の、プライベートな目的しか想定していないことを、あらかじめ、きみにお知らせしておきたい。きみの役に立てばいいとか、わたしの名誉になればいいといったことは、いっさい考えなかった。もっとも、わたしの力量では、そうしたくわだてなど、不可能なのだが。わたしは、親族や友人たちの個人的な便宜のために、この本を捧げたのである。わたしが他界してから──やがて彼らは、このことに直面しなければならないのだが──、この本に、わたしのありようや人となりをしのぶよすがを見いだして、わたしについての知識を、より完全で、生き生きとしたものとしてほしいのだ。
 世間で評判になりたいのならば、わたしだって、もっと技巧をこらして、きらびやかに身を飾ったにちがいない。でも、そうした気づかいや細工なしに、単純で、自然で、ごくふつうのわたしという人間を見てほしいのだ。わたしは、このわたしを描いているのだから。ここには、わたしの欠点が、ありのままに読みとれるし、至らない点や自然の姿が、社会的な礼節の許すかぎりで、あからさまに描かれている。原初の自然の法にしたがって、いまだに幸福で自由な生き方をしている人々のなかで暮らしていたならば、わたしが、よろこんで、わが姿をまるごと、はだかのまま描いたであろうことは、きみに誓ってもいい。
 つまり、読者よ、わたし自身が、わたしの本の題材なのだ。こんな、たわいのない、むなしい主題のために、きみの時間を使うなんて、理屈にあわないではないか。では、さらば。

モンテーニュにて。一五八〇年六月一二日。

 次は関川夏央さんの文章。

岩波新書・関川夏央著『本よみの虫干し─日本の近代文学再読─』
79ページ・<『抹香町』川崎長太郎 頼れるのは自分の感覚のみ>より
 私小説は価値の混乱期に書かれ、読まれた。戦後にも一定の人気を保ったのは、前時代の規範が崩壊して「頼れるものは自分の感覚のみ」と思われたからである。
 川崎長太郎は二十年住んだ物置小屋を出、六十歳のとき三十年下の女性と結婚した。老後は安堵されたが、そのかわり、畳の上で死ぬために「一番書きたく、又書くに値する泣き所」である「家庭内の消息」(『忍び草』)がかけなくなった。妻子を捨てても書く、などといえるのは壮年までのことである。
 東西冷戦下の平和と正義が失われたいま、私小説が栄えないのは不思議だ。
 と思っていたら、「ワイドショー」で他人の醜聞をのぞく趣味、インターネットに見られるだらだらした自己表出がそれだ、と気づいた。近代小説が、大衆化の果てに極限まで退化した姿が、そこにある。

 実は、僕は仕事をしていないとき、小説ではなく、少しずつ、自伝ふうに過去の思い出話を書いている。
 とても公開できるものではない。そこには、僕の恥ずべき過去の女性関係のすべてが書かれているのだから。でも、僕が何故そんなものを書こうと思ったかといえば、そんなバカな体験談からだって、小説を書くことに飛翔できるかもしれないと考えたからだ。
 ともあれ、金になる仕事以外でも、文章を書くことを習慣化すること。今年の僕は、こんなことを考えている。

2004年01月11日

 おぉっと、小田嶋隆さんのページが久々に更新されていた。
 昨年の3月末から更新されていなかったにもかかわらず、僕は定期的に彼のサイトが更新されていないか、チェックし続けていたのだ。
 9ヶ月間も、毎週かならず。
 まったく我ながら奇特なことである。

おだじまんhttp://www.wanet.ne.jp/~odajima/

 僕は、このサイトを開いたとき、彼の話から書きはじめている。
 彼の次のような言葉を見習いたいと思って。

この本だって、あるいは誰も読まないかもしれないのだが、それでも私は、原 稿 を書き続けるつもりだ。安全太郎のように根気強く、安全太郎のように邪心 な く、安全太郎のように黙々と、だ。

 『噂の真相』が廃刊になっちゃって、彼のコラムが読めないことが残念でならなかった僕だ。彼の健闘を祈りたい。
 トップページ上のdiary をクリックするか、下の偉愚庵亭日乗をクリックすれば、「1月1日」新年の挨拶が、「1月4日〜」に7日までの日記が追加されています。

2004年01月13日

 実は昨日は、朝日の日曜書評欄にある『亀和田武のマガジンウォッチ』について書く気だった。この連載は、僕が毎週楽しみに しているコラムのひとつなのである。
 今回取り上げられていたのは『諸君!』2月号に坪内祐三が書いた『いま何故、四十年前の洗脳テロリスト物語か?』。

 いま、図書館で仕事の合間に、同記事を読んだので、取り急ぎ、ちょっと紹介文を書いておこう。
 坪内祐三は『ミステリー・トレイン』の著者として知られるグリー ル・マーカスというアメリカの文化史家のファンだそうだ。
 これだけ書いただけでは、どんな学者だろうと思われるだろうが、彼は80年代まで、あのロック・マガジン『ローリング・ストーンズ』で活躍していた、いわばサブカルと政治状況を結びつけるような書き手だった。まぁ文化が政治や経済とどう結びついているかを研究する「カルチュラル・スタディーズ」の先駆者ってわけだ。
 まず坪内さんはアマゾンでグリール・マーカスの『The Manchurian Candidate』(満州の候補者?)なる本を買って読む。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0851709311/qid=1073888094/sr=1- 23/ref=sr_1_2_23/249-5506399-1252309#product-details

 語学が苦手な僕が上にリンクを貼ったページの英文のレビューを漫然と目で追い、分らない単語も俳優の名前さえすっ飛ばし、辞書もひかずに、いい加減に、こういうことが書いてあるのだろうと思った「意訳」とも言えない恥ずべき理解は、以下のような感じかな?

「これこそハリウッドで今までに作られた最も洗練された政治的なスリラーであるかもしれない」とポーリーン キールが、『満州の候補者』(『影なき狙撃者』)について書いている。 これは、ジョン・フランケンハイマーが、朝鮮戦争で洗脳されて、暗殺者に仕立て上げられるアメリカ軍人について描いた1962年の政治的なスリラーなのだ。見る者を震え上がらせる、この作品は、アメリカ合衆国の政治を映し出す鏡ともいえる、じつに予言的な映画だった……。この殺人者に変貌させられる男を知れば、そこには忘れられない見所があるだろう。 マーカスによれば、フランク・シナトラが、ついに、悲劇の狙撃者が「悲しみと罪悪感でほとんど死んだ男」であることを見届けるまで、そばで怯えながら打ちのめされ、映画の中心にいるところこそ、その見所なのだろう。マーカスは、このドラマを、まさに新たに再構築したのである。彼は、この作品が、すぐには根絶できないアメ リカ的なるものと、それを解決するためのカギを、深く探ったに違いない。

 この著作は、まさにそういう試みなのである。
 これがジョン・フランケンハイマーの映画、『影なき狙撃者』について書かれたものだったのである。坪内さんの記事の大半は、この映画と原作の紹介なので、代わりに以下にgoo とアマゾンのリンクを貼っておこう。
 gooのあらすじ全文を読めば、どういう映画か、わかるだろう。

http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD1811/index.html

以下のURLには、ストーリーの結末が書かれているので、
読むか、 レンタルビデオやで探すかは、ご自分でご判断を。
読まないで、作品に先に接するほうがいいに決まってるけど。

 http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD1811/story.html

アマゾンで買える原作本は、こちら

 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4150410240/qid%3D1073879235/249 -5506399-1252309

 あらすじを読んだりしない方のために、簡単に言っておくと、朝鮮戦争時に中国で洗脳を受け、自国に帰ってから暗殺者になる男の悲劇を描いた作品なのである。さらに、ケネディ暗殺を予見 したような内容であることも有名らしい。そして、このリメイク版が、今秋、公開されることになっている。監督は、『羊たちの沈黙』のジョナサン・デミ、出演者は、ディン ゼル・ワシントン、リーヴ・シュライバー、メリル・ストリープ……。
 こちらは舞台を10年前の湾岸戦争時に移したリメイク版らしい。
 戦争をめぐる、人がいかに洗脳されやすいものかを描いたテー マが、ヤバイくらいに今日的で、今度の戦争とのからみで、公開が延期されたという話もあるようだ。
 坪内さんも優秀だが、チェックしている亀和田さんもスゴイ!

 このところ、頑張って毎日更新しているので、前日の日記を読んでない方は、過去の日記も読んでね。

     *     *     *

 (追加)
 映画のデータについて調べるときに goo の映画のサイトで検索すると便利だと何度か書いたが、わが恩師が若松考二のインタビューをまとめる仕事をなさっていることを思い出し、いろいろググッているうちに、次のようなサイトを発見。

http://www.imageforum.co.jp/wakamatsu/index.html

 若松考二の作品データが見られるだけでなく、彼の著書『俺は手を汚す』まで読めることを知り、お気に入りに追加。
 さらにキネマ旬報全映画作品データベースなるサイトも知った。

http://www.walkerplus.com/movie/kinejun/

 こちらは、どんな作品でも調べられそうだ。うーん、スゴイ!

*     *     *

 パソコンは便利だ。もう情報収集にパソコンは欠かせない。
 そう思いながら、僕は時に、パソコンのなかった時代に戻りたいと思うことがある。こんなにも、コンピュータに依存している社会が異常にさえ感じられることがあるからだ。
 ウチに帰って、すぐにパソコンの電源を入れると、奥さんの機嫌が悪いと言っていた友人の話を思い出す。帰ってきたばかりの時くらい、ちゃんと家族の会話をしろというわけだろう。
 本当に、もっともだと思う。なんか、電車内で他人が携帯をかけているいるときのような不愉快な感じと似ている気もする。
 こんなホームページをつくりながら、このような感想を漏らすの も滑稽かもしれないが……。

2004年01月14日

 偶にだけど、自分のパソコンがうまく機能しくなって、電話で、どうすればいいか、尋ねられることがある。だけどね。他人のパソコ ンのことは、電話で聞かれたって、よくわからないのだよ。
 どこの設定がどうなっているか、また、うまく作動しなくなったパソコンを直接さわっているのなら、ともかく、そうでないと、問題点を発見できる可能性は低い。だから、電話で尋ねられても困ってしまうんだよなぁ。
 メーカーの、自社のパソコンについての問い合わせに応じる仕事をしている人たちには、同情を禁じえない。
 僕だって、メーカーのお客様係に電話をしたことがある。
 客である僕たちは、なかなか通じないだけで、イライラ。
 相手の応対のドン臭さに、また、イライラ。
 でも、客に応対する諸君だって大変だろうなとしか思えない。