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■01/04/28 『原理』つづき・『黄金のラフ』
朝日新聞27日に靖国参拝の閣僚態度一覧表、眺むるに「家族と桜を見に行ってますが、いままで公的、私的とか格式ばった参拝はしたことがない」との意見。花見のついでといわんばかりの姿勢に、おもしろいなあと見ればこれが扇千景。カブキ役者と元宝塚の家族ならばこの態度もなんとなく納得。
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先日の日記で柄谷らの構想から相互扶助の視点が見当たらないと書いたのは不当ですね。西田忠の説明によれば地域通貨LETSの運営はアソシエーションではなく、コミュニティの存在が前提となる。LETSの「地域通過」って意味は国・中央銀行だけが通貨を発行できるって現状への否定。それとともに地域や関心領域などでの共同性をもつものによる"評判"をつかって、信用の供与やフリーライドの防止をはかろうとするもの。ソーシャリストじゃない「アソシエーショニスト」たる柄谷は、こうゆういわば市場外の共同体規制の必然性についてどうとらえるんだろうな。
コミュニティがあるならここに相互扶助の倫理を導入できる。透明でも公正でもない不完全な市場取引を実現させる余地がある。明文化されない取引主体間の強い相互規制、経済外の規範を持ちこむことができる。柄谷はヤだろうけど。
西田のいうコミュニティをかりに柄谷風にミニマムに理解してみると、国家の物語と中央政府の仕組みも不要で、フェイストゥーフェイスの心理的紐帯(家族・ムラ)も、生業などに結びついた排他的な共同性(組合・ギルド)もあてにしない、同士的な共同性ってところか。
そこで倫理的な取引をやってくのは、もんのすごく面倒くさそうだよなあ。まあ、心配しなくともそういう事態に巻きこまれる心配はないだろうけどな。
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ビッグコミックの、なかいま強『黄金のラフ』いいですよねえ。節度のある倫理。いまでも思い出すのは、主人公草太がスポンサードの獲得を争ったライバルの家族。お父さんを応援する母と兄いもうとがコースをついて回る。草太のボールが見とおしの悪い林に入ってライバルの息子である少年の目の前に。これを隠しちゃえばお父さんは勝てる。そう思った少年を、お母さんは制止する。声を荒げるではない、なかいまの描く温和な顔の基本形そのままに、少年を見つめる鬼のような母の形相。
それ見てちょっと感動しました。なかいまの描写力を再認識。ビッグではもひとつ楽しみなのが山本おさむ『聖』ですが、こっちはものすごい展開。難病に苦しみつつ夭逝した将棋打ちのノンフィクションってだけじゃ物足りないのか、飢えと内戦に苦しむアフリカの少女が難民キャンプで看護婦を目指すというサブストーリーを導入しています。
■01/04/22 柄谷行人『原理』
ジュンクで井上章一『南蛮幻想』と柄谷行人『原理』。柄谷の本はその「編」とするものと、単著のように見える編の表記がないものが並んでいた。柄谷が抜けて旧新左翼残党中心となったアソシエが綱領(?)の決定過程への批判をしていたらしいのでその問題がかかわるのか。まあ、21世紀の社会主義運動をちょっと覗いておこうという興味だから中身を確認せず買ってきました。
一読、資本・国家を揚棄せよという威勢のいいアジ。市場は置いといて資本が敵というのはマルクス経済学の現代への適用の際に決定的にアナになるだろう部分。労働価値説・搾取はハードコアのひとつだからもう替えられないんだろうけど、わたしらはマルクスに義理立てする必要がないのでここは、市場のほうが迷惑なんだよと柄谷は言えば良かった。とはいえ自立した消費者と小生産者の連携による市場取引ってのはNAMのハードコア。市場好きも元ブント組で数例。こっちも変えられないんだろうなあ。
新古典派、科学的社会主義に対抗して「倫理」を高く掲げるNAM-LETSの構想が、再分配の機能を組み込んでいない点は致命的な欠陥。LETSのポイントつまり価格を商品毎に統制するのならば、計画経済そのもの。また市場に任せると再分配へのインセンティブはない。競争のなかですべての小生産者の利潤率、大半の労働者の給与はかぎりなく低下していく。国家の規制がないというLETSの特徴は、市場の敗者を決定的な敗者とするのにすごく役に立つ。柄谷らの構想の中から、こうゆう考えかたに反論できる根拠は見られなかった。
資本を蓄積しなくとも市場が正当に機能する限り市場の敗者が発生する。これへの対応が現代の社会主義的な社会構想の中心にあるべきだと思います。つまり資本じゃなくて市場が敵。そのときに倫理が不可欠であるという点は柄谷に共感。
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井上章一は日本現代文学の棚、井沢ナニガシのあたりを通りかかってふと目に触れる。装丁がおどろなんで、ちょっと引いた。めくると関敬吾・金閣丈夫らの名、「百合若大臣」の話題らしい。私が百合若大臣-ユリシーズが伝播による関係と記憶しているのは関敬吾だったかなあ、和歌森太郎だったかなあ。「霊柩車の井上」がどうなったのか知る以外にも興味が出たので購入、未読。
茶店でコーヒーを飲みつつ『天使な小生意気』8巻を片付けたのち、本日の収穫をぱらぱらとめくる。至福の時。
週刊文春、近田春夫連載の安西肇のイラスト、Masaharuとなっている下駄はいた少年はフクちゃん。あれは福岡日日のフクだから「福山」ではないな。近田春夫のオールナイトニッポンは私のお気に入りでした。歌謡曲をきちんと鑑賞するともっと楽しくなるって教えてくれた。いまの中高生に近田のような役割を果たしてる、文化観賞の手引きをやってあげてんのは、たとえば水道橋博士なのかなあ。あ、彼らの本また買うの忘れた。『男の星座』だっけ。 2004/09/25(土)訂正 知ったかぶりするもんじゃない。フクちゃんは1936年から朝日、1956年から毎日でした。ごめんなさい。くわしくはこちらにありました。http://www.bunkaplaza.or.jp/mangakan/chronicle/chronicle.html
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『デカポリス』の岩塚卓、少年チャンピオンで何度かトライアル読みきり。復活するのかなあと思っていたら少年マガジンで四コマ連載開始。『魁!クロマティ高校』とともにマガジンの懐の深さを示す。連載はまだ暖まってないが、ふてぶてしいネコのねたはもう定着だろう。作家が消耗しないうちに人気が定着して欲しいなあ。
■01/04/19 『ぷろぶれむちゃいるど』
あ、誉めようと思ってるうちに、少年チャンピオンの高柳ヒデツ『ぷろぶれむちゃいるど』終わっちゃった。このところの話で言えば、主人公の勘兵、ちょっとダメなほうが入った悪い意味での「平凡な僕」として登場。でも園崎さんの視点に切り替えると、まりやに対してさらっとたしなめる姿など、勘兵の良いところが見えてくる仕掛けだった。
外界に対して働きかけることをあきらめて自らをそこに閉じ込めてしまった「平凡な僕」が主体であることを取り戻す唯一の道は、「女子寮の管理人になってモテモテ」なり「ボクサーで暴力の快感」なりのファンタジーに浸るのではなく、また行為の源泉を正義と限定したうえでその相対性を告発してせつなの欲求に流されて為さざることのイイワケとするものでも、ないはず。
日常のちょっとした行いでさえ「僕」が「僕」であることで認めてくれる人がいるかもしれないという認識は、ほぼまあこれも妄想だけど、すごく教育的によろしいなんじゃないかなあ。
でぶっちょのさゆりちゃんもキレイ。作者の心根がキャラの設計に現れてるんだろうね。勘兵と園崎さんの気持ちの交換の中で、上記のような美点が増幅されることを期待してたんだが、高柳先生の次回作に期待。
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鮎川潤『少年犯罪』読了。
■01/04/18 『戦群』・長新太
なんだか「始末」っつーか、とりあえず終結しました。
今週の漫画サンデーはお買い得。永井豪『戦群』が面白くて、この作家の久々の当たり。永井豪はステロタイプからやや&すごくずれたキャラクターを多く造れることが得意なのだけど、おなじみのキャラを手癖で描いてても需要はあるし、観念的な構成だけでストーリーはどーにかなるって思ってるところがあるのか『デビルマンレディ』などは面白くありませんでした。
ここでは吉川英治を原案としてるので、ストーリーの起伏は吉川が用意してくれるし、出さなきゃなんないキャラクター数も多い。それに永井のキャラをはめていってうまく回転してる。今週登場の下人どももおどろおどろしく、またキュート。
ただ、中性的な少年(例えば今週も登場のちんぽ丸出し少年)のかわいらしさってのは永井の魅力の中心のひとつだと思うのだが、このところタッチが硬くて昔年の『イヤハヤ南友』のような色気には欠ける。
夏目・呉の大人漫画紹介頁(好企画)は、長新太『トンカチおじさん』。私の初見は雑誌「話の特集」。立ち読みして感動、書き文字を真似たりしてました。ちょっと前に吉祥寺の絵本専門店で長新太の小さな作品を見つけたし、まだ制作活動やってるんだよな。呉の文では『怪人ジャガイモ男』が紹介されてたけど、「タマネギ男」って作品もなかったかなあ。
郷田マモラ『なにわ下町小劇場』、眼の下に頬骨の丸い線、頬を伝う汗、繰り返されるバストショットなど湿度高め。うまくない役者やマンガ作家にやらせたら、「意地悪でやさしくって」なんて人格設定はスイッチの切り替えになるところを、郷田は実にうまく表現する。だからストーリーが切実になってる。
それと、政岡としや・山田勝啓『ナニワ極道繁盛記 ナンバー2物語』(ナニワもの二本…)、大阪貸本劇画の伝統の異様に広い肩幅。印刷品質・原稿の大量生産の必要が生み出した濃いベタの効果が健在。政岡のもつ軽いユーモアが原作設定に適合してて、好ましい。
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『ギャンブルレーサー』と『純情パイン』のコミックス購入。後者は打切り(?)を惜しみ購入も、作者の巻中ラクガキに公害病をネタのギャグを見つけて、ヤな気分になる。深呼吸して、作品の価値に変わりはないと自らに言い聞かせ、書架に収める。
■01/04/15 『クロカン』・三波春夫
ああ、また世間を狭くしてしまった。どう始末をつけようかなあ。
えーと、今日は結婚する友人を寿いできました。いっぽうで離婚報告のハガキも届いて、人生色々。ロマンチックラブイデオロギーも人生の立場からは容易に相対化できない。人間を不幸にし、また幸せにもする。私たちを幸せにしてくれるものがいかほどにあるものか。
電車中でゴラク。『クロカン』、この作品の力はすごい。野球マンガではちばあきおが白眉であったがそれに匹敵するレベル。思い出すのは甲子園でトンネルした少年、悪夢のような見開きの描写、そこから一年かけて立ち直っていく姿。できることとできないことの限界を踏まえつつ最大限に能力を引き出そうとする教育者。私はスポーツの部活はやらなかったが、人を育てる機能がそこにあることが良くわかる。まだ、マンガの鉱脈は尽きないと心強くなる作品。あ、チャンピオンの中学生野球もイイね。素朴に見える絵柄と裏腹にキャラクターの類型をいくつももてる実力を背景に、ストーリーを育んでいって欲しい。どきどきしながら見てる。
毎日死人の話で申し訳ないが三波春夫死去、私にとっては長らくシベリア抑留と万博の人で、竹中労だかが誉める意味がわからなかった。数年まえに懐メロ番組の古いモノクロの収録で「俵星玄蕃」を謡う三波の姿を見て印象が変わった。単に浪曲の凄みではない、この奇怪な人物が表情を操作しつつテンションを上げていって、しまいに自らのコントロールを離れて声が謡い出す。背筋に寒気が走った。
なんだ、私を幸せにしてくれるものは意外に多いな。
■01/04/13 サンディーヌエキスプレス・政治主導
のぞみの出発まで30分。東京駅中央通路のサンディーヌカウンターでコーヒーを飲んでると、三つ先のイスにハタチ前後の女の子が座ってノートに書き物しています。五線譜を埋めているようです。アタマのところから順に作っていくのではなく見開き三つくらいの範囲をめくりながら、ポイントをスケッチしています。ときおり指でノートをたとん、たとんと叩く。足もとに大きなスポーツバックがあるから長距離、八重洲からドリーム号に乗って帰省、と勝手に思いこむ。一色まこと、さそうあきら、真行寺君枝(だっけ?)の記憶。
東京駅の代表的な弁当は深川飯でしょうか。むかし読んだ丸谷才一のエッセイでは「赤とんぼ」のサンドイッチがうまいとありました。赤とんぼってのは知らないけど、「サンディーヌエクスプレス」(中央通路&八重洲口)のサンドイッチはいいです。車内販売のやつより50倍くらい好ましい作り。500円、おすすめします。
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八日づけの天声人語。いぐさ・葱などの農作物のセイフティガードの発動で自民党農林族が動いたことに対して文句。鍋物の材料が安くなっててありがたい消費者を無視するんですか、これが政治主導ですかとイヤミになってないイヤミを述べていました。官僚ではなく選挙でえらばれた政治家が政策の主導権をとること、これが「政治主導」ですから官の指示によらず族議員が活躍したことはまさしく政治の主導、さもしい疑問形の訴えがイヤミになってないとするゆえんです。記者はコトバを間違っている。当該施策の評価はともかく、天声人語のコトバの間違いについて考えてみます。
記者が「これが消費者主権なのですか」と問い掛けたならその一文の意は通っていた。セーフガードを主張した農林族がかりに消費者主権と国内生産者の保護がすなわち両立するものとして主張しているとしたら批判としても有効になる。ここで「消費者主権」と「政治主導」両方をふくむ用例を二つしめすと次のようになります。
「国内生産者の保護のために政治主導でセーフガードを発動する。消費者主権、ここでは鍋物の権利は、ある程度犠牲になってもやむをえない。」
「消費者主権、鍋物の権利のために政治主導でセーフガードを廃棄する。国内生産者はある程度犠牲になってもやむをえない。」前者は農林族の主張で後者は都市選出議員でしょう。両方とも主張としてスジが通ってる。言葉の使い方はまちがっていない。これらの例のように、政治主導が消費者主権に反する場合もありますし、逆もある。しかるに記者は消費者主権というべきところを政治主導としてしまった。天声人語は、政治主導と消費者主権が矛盾しない概念であると考えています。
記者の頭には、とにかくスバラシイもの・誰も反対できないもののタカラ箱があって、そこに「政治主導」と「消費者主権」がほうりこんである。いっぽうで、とにかくヨクナイものを詰めこむゴミ箱には「永田町の論理」「利益誘導政治」「官僚支配」などがたぶん入ってる。同じ箱に入ってる限り、それぞれの語の関係、矛盾などは考えないようになっている。これが間違いの理由でしょう。
こうゆうを政治的立場を隠蔽してうんぬん、存在被拘束性とかなんとかでこの人を罵倒するのも可でしょう。天声人語子は都市在住のホワイトカラーですから、農業生産者とおおむね利害が対立します。その彼が、俺さまの利益を代表することだけが政治主導だと新聞の一面で主張してしまっているわけですから、コトバの一元的な支配への権力の発動であります。
まあ、そゆのはともかく、彼がステロタイプを共有する読み手に甘えて、ものを考える手間を節約して貧しいステロタイプに酔っ払っている点がヤですねえ。
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私の人生を豊かにしてくれるのは、あすなひろし。いま、車窓を流れる風景、青い空のした丘を埋める山ツツジ・曲線を描く堤防・小学校の校庭、それらにぼくの心が何かしら動くのは、まさにあすなひろしの描線の記憶がかかわっています。
『青い空を白い雲がかけていった』『哀しい人々』、あすなひろし01年3月22日没。
■01/04/08 コドモ・傾奇者
良い天気、駅前のベンチでビールを飲みながらスぺリオール。久しぶりにこのスタイル。一息ついてぼんやりしてると、たしか去年の秋、ここでの出来事を思いだす。
仕事を終えて帰路、自宅近くの駅の改札を抜けると、おばさん・おじさんが数人、上の方を指さしてしゃべっている。「死ぬわ」「単なる痴話げんかだろ」「死なしてあげたらいい」「どうせ死なないって」。見上げるとマンションの外階段の七階ぐらいのとこの踊り場で男女がもみ合っている。女の方が手摺りに足をかけていまにも落ちそうになっている。男が押さえているようだ。
おばさんらの解説どおり痴話げんかなのだろう。噴水になっている駅前ロータリーを通り過ぎながら、そう思う。仮に落ちるところ見てしまうと夢見が悪い、落ちたという話を聞いても気味が悪い。そのように思いいたると、きびすを返して全速力ダッシュしていた。
マンションの階段を駆け上がる。持っていた荷物は三階ぐらいで放り出した。 いま何階なのかわからない。息が荒い。いきなり頭の上に空を感じる。…気が付くとすでに最上階に到着していたようだ。踊り場でもみ合ってた二人の痴話げんかは収まり、部屋に引っ込んでいたのだろう。
こんどはゆっくりと、階段を降りていく。あの二人の姿が下から見えたのだから、私が階段を上って、そして降りてくる姿をおばさんたちはすべて見ている。途中カバンを拾い、一階まで降りてマンションを出る。若いわねえ、おばさんが声をかける。そう、私はコドモなんだろうと思う。
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…もう一本ビールを飲む。『あずみ』って何が面白いんだろ。これ見よがしの下品さ。口直しにと原哲夫・隆慶一郎『花の慶次』vol.1を読む。傾奇者たる主人公は前田利家の甥だそうだが、道々の者出身でないと話が収まらないような。実は白拍子の子とか。いずれにせよ網野善彦直系。
鮎川潤『少年犯罪』、世界思想社の前著を読んでからから平凡社新書のコレに気づいた。新書だけで良かったかなあ。
■01/04/02 不良マンガ
こうやって風呂上りにノートパソコンをぽつぽつ打ってると、暴走族の走る爆音が遠く聞こえてきます。なんで私こんなに不良に親切に考えてんだろ。けっこうヤンチャもやったけ、なんて過去もないのに。
えーと、思いついた80年代なかばから90年までの不良マンガ。あとは、『なんと孫六』『Toy』もこのころかなあ。司敬作品もあるか。『カメレオン』が00年に連載が終わって、まだ続いているのは、舞台セットのような校舎裏で、もう永遠にバカ話してそうなビーバップだけか。それぞれについて話したいことはあるけど、今日は、『今日から俺は!!』の話をちょっと。
吉田聡 『湘南爆走族』 1983 少年キング きうちかずひろ 『BE-BOP-HIGHSCHOOL』 1983 ヤングマガジン 楠みちはる 『シャコタン★ブギ』 1985 ヤングマガジン 宮下あきら 『魁!!男塾』 1985 少年ジャンプ 西森博史 『今日から俺は!!』 1988 少年サンデー 森田まさのり 『ろくでなしBLUES』 1988 少年ジャンプ 加瀬あつし 『カメレオン』 1990 少年マガジン 不良になることは主体を回復する行ないである、って先日のべました。学校の秩序は、生徒をいくつかの基準によって価値意識を伴いながら順位付けしたり、規律を叩き込んだりしてる。集団生活の規律が苦手、勉強がダメ、あるいは端的におれ暴力がだい好きだぁなんてやつは、その秩序からはじかれたり、序列の劣位に位置付けられたりする。
学業不振など学校での失敗からくる疎外感を、みずからの選択によって学校のわくから飛び出したと捉えなおして、主体性を取り戻すのが不良化だってこと。もちろんコレだけで不良がわかったというつもりはないよ。前に述べたように家族の問題は大きいし、決定的には本人の趣味。暴力が好きとか。とにかく、学校の仕組みが不良というかたちの主体を生産してるって側面がある。これが理想化されて不良マンガの登場人物の"モデル"になります。
それと学校のすべてが楽しくてしょうがないってやつは少数派。だから不良でない子もそれぞれに学校に対して不満をもってる。でも不良じゃないから主体になれないんですね。だから自分が満足できる環境にいないのは、不幸なのは、ヨノナカのせいなんだってキモチを持っている。こうゆうのが怨念ですね。疎外感が意識レベルでリロン化して怨念になる。
この人たちは不良マンガの"読者"になります。不良じゃない子は不良マンガの主人公らの自由なふるまいを読んで気持ちよくなる。実際の不良はもうすでに主体化されていますからフィクションでの解放は必要じゃない、そういう意味で不良マンガも不良でない男の子、「平凡な僕」のためのジャンルですね。平凡な僕が読む不良だから、実際の不良とは違う。怨念を持ってる。
つまり学校での不満が不良と平凡な僕を生む。不良は学校から飛び出して主体化されるが、平凡な僕は不良の自由をうらやみつつ怨念を蓄積していく。不良マンガの主人公は、主体であるという点で不良をモデルとしている。また、同時に彼は読者である平凡な僕にカタルシスを与えるために、怨念を共有している。まあ繰り返せばイイってもんじゃないけどわかるかな。
ボクが閉じ込められている学校から飛び出して、あるいは学校の秩序を叩き壊したりしてくれるボクらのヒーロー。ぼくらの恨みを代弁してくれる、晴らしてくれる。そのうえ、フィクションだからボクらの目の前にいないから、ボクを殴ったりしない。
そういう不良マンガ群のなかで『今日から俺は』の特異性は何か。
主人公の三橋は、金髪で変形学生服着ててまぎれもなく不良なんだけど、ぜんぜん不良って気がしません。それは三橋が不良の重要な要件を欠いているからです。三橋はガリベンやスポーツさわやか野郎、生徒をモノ扱いする教師、あるいはマジ坊を敵視しようとしない。もちろんストーリーの都合上悪者は出てくるけど、平凡な僕たちが怨念の対象としている類型は登場しない。同時に対カタギで形成されるべき"われわれ不良"というアウトサイダーの仲間意識もない。まあ、くどく述べることはない、三橋は怨念のカゲを持たない男なんです。ここまで、いいでしょうか。あとは今度。
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お返事コーナー。お便り、ありがとーございます。それぞれお返事させていただきましたけどそのエッセンス。
・『カムイ伝』は個人のマンガじゃねえだろう。
『カムイ伝』は階級闘争のマンガであるといわれています。しかし、それは違うなあという印象があります。そこにあるのは群像であり集団ではないっすよね。その印象の裏づけはモブシーンなどの図象的把握やストーリー細部の分析によってなされていくべきでしょうけど。ここではこの作品の個人の強調が、安易な物語への回収を忌避しているという意味で評価してます。べつに個人的だから偉いっていってるわけじゃない。・ポスコロ的には柳田は敵じゃん。
柳田学への告発、日本民俗のフィクション性の告発はわたしは間違いだって言ってるわけではありません。正面から反対はしない。ただ柳田の立場に対してむしろほとんど同情的に考えています。くりかえしだけど、彼は、成立してしまったからっぽの国民国家にナカミを入れようとしました。その空洞に近代的自意識の充填を図ろうとする福沢・丸山ら啓蒙派とはちがって、自生的な規範・国語・生活様式で埋めようともくろみました。柳田のやったのは、文化の多元性の擁護の政治的な実践であり、国家の物語に対しての民俗・生活の強調による批判であります。そうとらえるとカンタンには批判できないんじゃないかなあ。それと付随的には批判派のアンチ国家の物語の捏造も不安。まあ、まず趣味的には折口の貴種流離譚のほうが性にあわんのだ。
・話を聞いてやったぞ。
作家の方からのメール、たまに見てるとの事。またあるマンガ誌の編集の方、ここで言及されてたのを作家に見せたとの事。私が述べてるよーな話、すなわち制作に役立つわけはないだろうけど、なんかすごくうれしいです。