本屋で仕入れるときは、二冊以上を買わないようにしてる。四,五冊以上をまとめて買うと、読むほうがおっつかないからそうしてる。訪問ないし購入の頻度のルールはないから、あんま意味ないんだけどね。んで先日のジュンク、センえらんでもう一冊、ややテーマがかぶる小熊英二『単一民族神話の起源』と大江志乃夫とどっちにしようかなあと思いながら、大江の『日本植民地探訪』を仕入れた。小熊『単一』のほう立ち読みするに、私にとっての目玉である柳田の章、山人と常民の振幅がテーマと見えて、いまひとつ手が伸びず。
んで『日本植民地探訪』、「植生のない岩山の連続」と表現される朝鮮半島の山々の荒廃の描写あり。おそらく戦乱もしくは南北の開発独裁、計画経済によるはげ山ってだけじゃあなく、近世以降の人口爆発・階層分化による伐採の影響がのこってんだろうなあと想像する。同様の理由で成立した日本の四国・中国のはげ山が、そうとうに回復してるんは、はやい段階での石炭石油への燃料の移行、そして自然の再生産力の違いなんだろうな。日本の植民地支配の収奪が燃料の近代化を阻害し、共同体を破壊したことは、はげ山の促進に影響したはずだ。朝鮮半島の山林の所有・利用の形態がどうかかわったかはわかんない。
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今日はサンデー&マガジン、漫画サンデーをキヨスクで、そして漫画ゴラクの早刷り。少年マガジンは読まない作品がおおくなってるなかで、特別読みきりに小田扉、『高速扉道路』と題する作品。少年マガジンのアグレッシブさはたいしたもんだ。
小田扉は、サブカルチャー誌、漫画サンデー、モーニングなどを経由してスピリッツでの連載にいたった。私がその名を記憶したのはマンサンの『マル被警察24時』。マンサンだから刑事ものなんだろうが、蒸発した男が、おいてきた家族を理不尽に見守りながら犯罪にいたる回に泣いて、この作家の力に気づいた。そして、いまんとこ抜群なのはスピリッツの『団地ともお』、その過程は成長でもあろうけど、編集のシバリ・読者の評価がきついであろうメジャー誌のほうでこそ小田はよい作品を書けたんだろう、私はそう思い込んでいる。作家がマイナーポエットに安住できる環境は、作者の可能性を拡大しないんじゃないかとおもう。
ただ今週号マガジンの小田扉の当該読みきりはくすぐりのみ。感心するもんじゃあなかったな。小田のもつナンセンスと叙情の交錯は、少年マガジンじゃできないって気がした。マガジンは『魁!クロマティ』があって、島田英次郎も呼んでこれるんだから、小田扉はスピリッツにまかせててイイんじゃない。
『働きマン』にかかわって考えること、つづき。
いまんとこ、いわれのない差別は不正だとされるようになっている。男と同じように働ける女に同じ報酬、待遇を与えないのは正しくない、それは不正だと言い張ることによって、そういうふうになってきた。その成果に対して、基本的には文句はないのである。奥歯にものがはさまったよーな言い方だが、おおむねよろしいとは思ってる。女であることによる不幸が減ってるんだから、決定的には文句は言わない。
いくつかおもうことあるんだがとりわけ、いわれのない差別にたいする告発はすなわち、いわれのある格差については積極的に肯定、擁護する理屈になる点がきになってしまう。いわれって、たとえばバカ・無能なヤツが、バカ・無能であるから給料が少ないのは、ふつーにはその格差は、いわれのある格差ってされるな。
女はみずから女を選んだのではない、本人の意思によらず女であるのだ。だから、女であるからといって給料が少ないのは頭にくる。女については、そーいうふうな主張が世の趨勢をつくったんだ。それとおなじよーに、バカ・無能なヤツについても、みずから選んだんじゃない、本人の意思によらずバカ・無能なんである。そうするとバカも女も、本人に責任がないことで損してるって事情はおんなじだ。
本人の意思によらない属性によって、不利益なあつかいをするのが不正な差別なんだったら、バカ・無能だから給料が安いってのも差別なんである。そして、このバカ・無能への差別は、資本・市場の文明化作用によってめでたく性差別・人種差別がなくなっちまったとしても、のこってしまう不正なんだよなあ。
そういうふうにおもってしまう。ただ女が女であることはぬぐいされない、人生は一回である。そういう事情もある。また、わたしが比較的に安全なとこ(すくなくとも女である可能性からはまったく安全)からものを言っているといううらみはのこる。ここで書いたような理屈をうったえて、私自身の何ぞやらの、うしろぐらい意識を隠蔽しようとしてるんではないかとも考えられる。
ってむにゅむにゅ考えながら、東和広『ユキポンのお仕事』のあけみちゃんに魅力を感じてしまうのは逃避か。あけみちゃんをささえる、比較的に有能なユキポンの立ち位置はなんか救いにならんか。
ちょっと、つかぜんぜん関係ないんだけどさ、ユキポン、先日来のわきスジで出てきてたヤマネの絵、ぐるぐるぐるって描いた瞳、カワイイを表現する範囲にあやうくとどまってる図象。うわー、すごいなーって思ったよ。
男社会のなかで女は賃金が低い。この賃金差は市場にとっては不当な値付けではない。まず、賃金を個人のもつ能力で評価しなければならない理由は市場にはない。原因がなんであれ売れないものは安くなる。安く買えるものを高く買う企業は市場の競争に負ける。これ女の低賃金を市場が容認する理由、ひとつめ。
また、そもそもが男社会の中で女は、能力を十分に発揮できない。女の上司なんていやだ、営業に女をよこすな、そういうんは不当な差別であるが、社会のなかで事業を行い賃金を決定する企業にとっては、差別も要件となる。女が能力を発揮できなくて「劣った」労働力なのだから、男よりも一般に賃金が低くなる理由となる。
こう考えると、とりわけ後者が決定的になって、透明で公正な市場の仕組みだけでは必ずしも女の労働環境はよくならない。市場はコントロールされなければならない。市場を操作できるのは国家、アファーマティブアクションのように政府が規制によって市場を操作することによって女性が働きやすい環境はつくられる。
まあ、女の解放のために市場の制限が必要ってのは、趣味にかたよった主張ではある。女の問題は階層を超えるから、貧困による再生産がされにくい。資本、市場の文明化作用は、長期的には、女の労働市場での公平な取り扱い、社会進出を進めていくだろう。人種の場合に典型的な、差別>市場の敗者>貧困>スラム育ち>教育の貧困>子も市場の敗者に、って階層の再生産の輪廻をつうじた差別の定着が、女の場合にはおこんない。
企業社会の中での女の立場は、安野モヨコ『働きマン』たちが変えていく。『働きマン』、前回掲載分では女を使う女が登場。働き"マン"の敵にまわるかに見えて、じつはおなじはたらく仲間というしくみ。仕事なんだから自分の属性、使えるもんは女でも使え、釈然としないだろうがそれでイイとはおもう。話術がうまいやつは話で仕事とる、仕事ができるやつは仕事で仕事とる。そういうものだ。
働きマンたち、いずれ労働市場での透明で公正な取り扱いを獲得して勝利していくだろう。そして市場の敗者がいる。
こういう私のいいかたには、トーマス・ネーゲルのアファーマティブアクションに関する意見が影響してる。えーと、これだな。
chidarinnさんとおっしゃる方が、こちらの日記で、拙文の感想を書いてくださった。ありがたい機会を得て、アファーマティブアクションについて思いついたコト書いてみたんだ。
サンデー、西森博之『道士郎でござる』、渾身の『天使な小生意気』を終えたのちの注目作。主人公の少年「殿」は巻き込まれ型で環境に依存してる、西森のキャラクター、「平凡なボク」(参照)なわけだ。そして今のところ作品は、そこがおもな読者の視点。『小生意気』のときのように藤木くんだけじゃあなく、暴力男、変態男、二人の少女などに分担した視点を持っていない。「平凡なボク」に固定した視点は道士郎のはた迷惑さにまどう小ねたのギャグを有効に提出できるいっぽうで、主人公を基点としたストーリーを作れない。ストーリーを構築する意思に欠けるから。
西森の描く「平凡なボク」、藤木くんののすばらしさについては前に書いた。「天才・エリート・ヒーローじゃなくとも、わかりやすいレッテルなりを引き受けなくとも、つまりいわば客観的には平凡な僕」が、世界に対してはたらきかける主体になりうるんだということを示すこと、これが西森作品のよいところ。しかしそれだけで、特権的なボクも世界への意思の初動もなしに連載少年マンガをつくっていくことはむずかしいことはたしかだ。少年サンデーでいましろたかしってわけにもいかねえもんなあ。
ビルディングスロマンだったら、同じサンデーで松江名俊『史上最強の弟子ケンイチ』はよい例。ビルディングスロマン、当初は等身大であった主人公が成長につれて感情移入ができなくなって理想自我の「ヒーロー」に飛翔しちまうところを、強さのエスカレーション、累乗的成長をおさえて、いくつかの仕掛けでステロタイプへの転落をふみとどまって、ケンイチくんはがんばってる。むかしの話でかつ、わきスジでアレなんだが、『今日から俺は!』って正直、「今日から」の設定があんま意味なかったよな。三橋くんは、ほぼ登場時からすでに最強の不良だもん。
『道士郎でござる』の平凡なボク、これまでの連載のなかですでに、みずからの利害をこえて善くあるために思い切った行いを選んでる。あこがれの娘を守ろうとしたし暴力にも直面した。それにより学校を退学にもなったが、ずいぶんに読者はうさを晴らして泣いたものである。ただ、その手を乱発するわけにもいかないんだろうな。そういう前提の中で「殿」の健介くんはどう成長してくか。道士郎は設定上からブラックボックス、あこがれの娘は天上界の人ではないから健介くんを抱きしめてくんない。その仕掛けをどう生かしていくか。
まだ連載は20回目、達者な小ねたのくすぐりはまだ尽きないし、西森には実績もある。この視点のままで、あるいは視点の分割によってどこまでいけるか、来週はどうなるのか、最終ページのヒキによらずとも期待をもって、西森先生の作品が読めるのは少年サンデーだけ、水曜日の発売を待つんだ。
高気圧が大きく張り出して、太平洋上の温かく湿った空気が入り込んでいます。天気予報の常套句、曇り空の高知、空港から市内方面へと海沿いの道を自転車でゆけば、等高線で説明される大気のうごきが目に見えて、ぬるい湿気が肌に触れる。たしかに入り込んでいることだ。
見上げれば中央構造線に沿いたる山々、稜線に集落がつらなるは、あれは発達した山村。民俗資料館で説明を聞いたおねえさん、本川村の産にて、ちいさいころはひえを食べ、こうぞを蒸して剥いてたそうな。私の高知はマンガ・焼畑・いざなぎ流、焼畑とかの話はおいといて今日はマンガの話。
高知出身マンガ家は梅本さちお、青柳裕介、くさか里樹、徳弘正也、山田章博、やなせたかし、西原理恵子など。アパッチ、人魚、一本釣り、あんパン、競輪、テーマ作風に共通点はみいだせず、高知がとりわけマンガ家の産地となりたる理由もわからず。しいて言えば横山隆一らの先達の存在が、郷土の少年少女にその道に向かう動機勇気をあたえた点か。西原の帰郷した際のエピソード、はらたいら先生のような偉いマンガ家になれよと親戚にはげまされたそうな。
市内はりまや橋ちかく、「横山隆一記念まんが館」に立ち寄る。『フクちゃん』のやわらかな腕のうごき、腰の線、表情、『百馬鹿』の造形力。たいしたものだ。マンガ家の造形力では、杉浦茂がことに優れているとおもっている。赤塚らも杉浦には多くを学んだだろう。横山隆一の造形は杉浦の破壊力はないが、意識のゆきとどいたまとまりのある線でキャラクターを構成し、余白を大きく取ったコマのなかにおちつかせた。キャラクターを印象に残しながら、コマをたどる視点を円滑にした。手塚が学んだフクちゃんの色気のあるタッチは、少年マンガのひとつの基盤になっている。
巨大なモビール、インスタレーションで横山の世界を表現した展示もよし。バケツの底にフクちゃんの四コマなどの工夫が楽しい。フクちゃんが陸軍報道班員として南方バタビヤですごしたる過去もきちんとある。受付の人に感想を述べると、運営の財団に専従の学芸員がいて企画しているのだと教えてくれた。有料入場者数はおそらく二万人程度、入場料での維持運営はまったく無理だが続いてほしいと願う。同じ高知にある、天才やなせたかしのミュージアムのほうは心配することもなかろう。
ひろめ市場で昼、屋台から少量づつのメニューを選んでビールを飲む。高知はいいところだ。
そういえば、お遍路さんやってるゴラクの黒咲一人『55歳の地図』、高知ではマンガについて考えるのだろうか。
休日のため月曜分が早売り、スピリッツ、山本英夫『ホムンクルス』。ホムンクルスといえば諸星大二郎だな。社会に位置のない意思が生んだ、筆致がすでに風景に溶融してる不安定な人工生命のマチエール。山本のは人工なんておこがましい、せいぜい精神分析だろ。
拳銃不法所持のマンガ家にはいい経験したといおう、児童買春逮捕者のマンガも読めるが、麻薬所持のこいつは牢屋にいつまででも入っててかまわない。読むとすごくイヤな気になるのだが、それは作者が狙ったことだから、さらに不快になる仕組み。山本に力がないとはいわない、浅ましくって大仰でキライなんだ。浅ましいってのは、イヤなもんをイヤな風にもっともらしく描ければ勝ちだとおもってそうなところ。同語反復のよーだがそれでもいいんだ、キライなんだよ。
オリジナルは井浦秀夫、『弁護士のくず』同じヒデオでこうもちがう。今週は、AV列伝やって手に入れた「怖い女」をつかってみる。井浦の魅力、たとえば今週はプレイボーイの登場人物、ずるい男に描いてしまいそうなところを悪くかかない、かけない。女を好きになり、のちに愛想つかして別れるのは悪いことじゃあない。井浦はそう省みて登場人物を作る。だから男の弱さ、だらしなさが切実になる。だらしない男を愛して抱き合う女の悲しさが表現される。まるっきり企画ものの設定にまぎれず残る井浦のイノセンス、副主人公女弁護士の造形のあささも気にならない。企画でもなんでも井浦が安定して読める場で、このように扱っていただくのはありがたいとさえおもう。
井浦のことをなぜか東海林さだおの弟子だと私は思い込んでいるのだが、事実としては知らないし、継承関係も整理できていない。なぜ弟子だとおもうんだろう。
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んで伊豆大島の話ね、大島には田んぼがないんだ。火山の土壌地形が稲作に向かないんだろう。島の地方史家も大島に稲作がない点を強調しておられた。島の農業は切替畑、だから稲作文化のような階級分化はないとも。ずいぶんなお歳のはずだが、あたらしい知見への好奇心をなくしてなかった。えーと、ココからいくつかのテーマが出てくるんだけど、まず焼畑の話をしておこう。
切替畑ってのは、つまり焼畑だ。ここんとこ環境破壊の元凶として焼畑は評判がわるい。生産のために森林を焼き尽くす収奪であるって。
伝統社会の焼畑では、自然は再生産されてた。焼き払ったとこに陸稲、ソバ、大豆、芋などの作物をローテーションで栽培し、地味がやせ、雑草が手におえなくなったころに放棄する。森林が回復した数年、数十年後にまたそこが耕地になる。伊豆諸島、椎葉、ニューギニア、南米でもそういう切替がうまくいっていた。伝統的焼畑のほうは回復不可能な自然破壊について無実である。大島の焼畑もコレ、さきに報告したとおりいまも緑の濃い島。
焼畑が評判わるいものになってしまったのは人口爆発と商品経済の流入だ。生まれた子供は喰わせなければならない、金は必要だ。ゴム、コショウ、コーヒーを植えよう。耕地を森林にかえし休ませることなく、連年耕作で地力は消耗して裸地、荒地が極相に、再生不可能な土地になる。森林は焼き払われて焼畑の前線が際限なくひろがっていく。しかし、それを単にヨクナイといえるか、貨幣経済、多国籍企業を告発してすむか。
自然と共存できてた伝統社会、伝統的な焼畑の生産力は低く、ひとは時に飢え、子供は死んでいた。商品経済と医療技術、社会インフラの流入は、伝統社会をこわして森を焼き払いながら資本の文明化作用、乳幼児死亡率が低下、死んでいた子供を生かすことになった。自然破壊か子供の死か、人が死んでイイってんでなきゃあ伝統ではない略奪的な近代の焼畑をも否定しきることはできない。
伊豆大島の焼畑は日本の急速な近代化のおかげで、島全体を焼き尽くすプランテーションを経験することなく、島民は伝統的焼畑農業から、肥大する都市東京へ蛋白源を供給する漁業、さらに観光に生業を移行できた。現金収入源である薪炭の生産のために木材が必要とされた点も森林保存に好都合だったろう。
伝統的焼畑は無実、近代の焼畑もヒューマニズムからは否定できない。いずれにせよ都市住民はまったく回復不可能に収奪しつくされた環境のなかで文明を享受してくらしている。その場から自然との際に住んでる連中に対して、自然をまもれ、不自由な生活を甘受せよとは要求できまい。伊豆大島にしても略奪的な焼畑は経なかったとはいえ、近代の恩恵を受けてる以上、そこから近代焼畑をすなわち告発はできない。
伊豆大島ではそんなことをかんがえた。稲作と畑作のもんだいとかが残ってるけど、またあとで。
それにしても私はなぜか焼畑に興味がある。来週は高知にいきます。
居酒屋、カウンターで煮凝りをつまみながら焼酎、ばあさんにサンマを注文する。ひらいてるのはモーニング、太田基之『はらから』、ハトのお嫁さんの新境地かとおもったよ。イイところは登場人物の三白眼かなあ。地味な新連載を地味にはじめるのはモーニングのとりえだな。太田かんじイイし、がんばれ。
あと三田紀房『ドラゴン桜』、『クロカン』読んでてもそうかんじたけど、この人学校の先生やってたことあるんかな。教員と生徒、船頭水夫とおなじく入れ替えできない権力関係。主人公の先生役してる男、こいつは今んところは、生徒におびやかされてない。自分が権力をもってることへのおそれがない。目的にむかう道筋をうたがうことなくさし示してる。いや、目的も道案内もイイんだが。『クロカン』の教員は、生徒への信頼、依存、葛藤で性格の造形がふかくなってた。それは必ずしも漫画ゴラクの要請で、型破り教師とかを描いてただけってわけじゃあないとおもう。三田を私は信用してる。続きを待とうって気にはなってる。
それとヤンジャン、これサイト再開したら言おうとおもってたんだけど。よくなったなあ、石川優吾、『カッパの飼い方』。こんな作品が描ける人だとはぜんぜんおもわなかったよ。巨乳小学生、サッカーもの、警察もの、コマの流れがかたくてへったくそで、ダメな人だとまとめてた。
みなおしたんは、あれ、スペリオールだっけ、子供らが黒い玉に押しつぶされる話の『スプライト』、ピーターパンのストーリーは追えなかったが、あの黒玉のビジュアルが怖かった。年をかさねて失われていくものへの愛惜郷愁じゃあなく、たんなる喪失が表現されてた。黒玉にまみれて顔をなくす子供の描写で、この男はダメな作家ではなかったと確信した。『カッパの飼い方』でも人間には顔がない。顔がないほうを視点にして、郷愁を描く。カッパと大人はちがう生き物、カッパが育って人になるわけじゃあない。もどることのできない過去への郷愁。カッパつれて田舎に帰るはなしなんかはよかった。
ハダカのギミックをいったん捨ててみて石川は、大塩平八郎描いてる八潮路つとむとともに、ヤンジャンの成功例になった。ごめん、おれが間違ってたよ、石川。
毎日かあさん西原理恵子が報告する、インドおかまのヒジュラによる孤児の救済は、社会の外がわのアウトカーストがもつ機能。日本的タテ社会の逆、ヨコ構造たるインド社会、しかも都市である。他人には干渉されない、下は人間ではない。カースト社会のうちがわの慈善事業、チャリティは、ヒンズー坊主が気まぐれに、無表情に路傍に撒くパン。西原が描くその光景、慈善サービスにありつかんと群がる孤児どもは、すでに人ではないものである。
伊豆大島の船頭が見所のありそうな浮浪児を、港で見定めしていた江戸時代。寄せ場なんてのは救済施設でもあろうが、浮浪無宿は基本的にもうそれであるだけで悪人、都市の風紀・治安をみだす迷惑な取り締まりすべき対象だった。見所などないおおかたの江戸の孤児らがどう人生を終えたか、太平洋の一周五十キロの小島、伊豆大島の船頭に拾われた「日本橋っ子」は運がよかった。船をあやつりたつきとする、もと江戸の浮浪児は江戸の外、伊豆大島で救われた。
すばらしい都市の自由を謳歌し自立して、野垂れ死にする浮浪者たち。それはだれの責任でもない、少なくとも私の責任ではない。気になるやつ、そうしたいやつが自由にパンを撒けばいい。そういう主張もあるが、われわれの生きる国民国家は国民を拘束する権力をもってる。特定の意思を貫徹する権力がもれなく満ちて外はなく、強制して恤救の原資をあつめて再分配できる。われわれの社会は、井戸の底を通って異界に渡らなくとも、ヒジュラ抜きでも人生をすくいうる。そこで野垂れ死にの自由を、野垂れ死にせぬものが主張するのは、どういうことなのか。省みるべし。
セーフティネット、たいていの場合はリクツでは、その程度までは容易にいけるはずだが、東京の地下道の追い立てられてるブルーシート。
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ビージャンの読みきり小品、とみさわ千夏『いかせの四五郎』、平和な家庭に乱入する暴漢、じつは夫の依頼、じつの実はって仕組みは置いといて。ダンナの四五郎との会話よし。下に見るでなく異常者とかこいこむのではなく、異常な行為をめぐりて平温の会話がなされる。おかみさんがかわいい。
どうも趣味の傾向として、肉感的ではない絵を私は好むようだ。とみさわ千夏が好きな作家とリストアップされるのはそれが原因のひとつか。とみさわが身体を肉として描かないことは長短両方に作用するんだろう。この作品でのその長所、たとえば性交の描写、劇を劇的に盛りあげる愚をさけて、滑稽味ある挿入出の擬音、リズムで行為のリアリティをかもした。肉欲の呪縛とかを、俯瞰ではなく日々のおこないから客観視、相対化してる。
芳町カゲコから、画像つきメールがとどいた。サイト更新再開を祝してとのこと。芳町は『性と文化の大革命』などの作品のあるマンガ家。著作名はW・ライヒゆえんなるも、芳町の作品は欲動の解放をのぞまない。性規範のきわに身を置いていた。彼の伸びやかではない描線は、各コマへの集中を要請する。とっつきやすさを阻害しながら作品の固有性の根拠となる。コマが描きこまれていればその意義はたかまる。
性規範の虚構性の告発、あるいは開放された欲動の軌跡は、すでにマンガに描かれた。身体がリアルとやらに触れるふりした自己愛は鼻につく。芳町はフィクションの性規範と身体を、閉じたコマに美しく描きこめばよいとおもう。そこに位置はあるとおもう。
ライヒねたのような教養をマンガがギミックにするのは王道、そのギミックが意味をもつ場、そして少女を描ける場が、芳町にはあらまほしきかな。芳町がそこにとどまらないのならば作者の成長、いずれ読者にはうかがい知れない。
きょうは博多。川端でぱふぱふ鳴ってたサックスはもう聞こえない。寒くなってきたベンチで、缶ビール飲みほしてホテルへ。
週末、伊豆大島は昨年末いらいの訪問。浜松町あたりの繁華街をぬけ、船にのって寝ておきると、太平洋の島。早朝の港を出発してペダルふみゆけば道ばたに狭い畑地、土のにおい、サトイモの大きな葉のうえで朝露がゆれてる。
島の風景。火山、焼畑、土壌、海風、不利な条件のなかで海流と太陽、ねんじゅうあたたかな気候風土にはぐくまれた密度の高い植生、椿に桜、シイ、照葉樹、落葉樹とりまぜてみっしりと生えてる。植物だけでなく一周道路をめぐる間には台湾猿の群れ、リス、キジなどにであう。
去年ここに来たときに、地元の地方史家にすこしだけ話を聞く機会があった。おもしろかったので書いておく。
江戸時代、海上交通の要衝である大島の、外海できたえた島の船乗りたちはみな技量がたかく、日本全国の航路の船頭水夫として雇われてた。船頭をやっていくには手下が必要だが、島の人手では間に合わない。そこでよそからもってくることにした。
大島の船頭が江戸にいけば船をつけるのは日本橋。大都市江戸にはスラムもあって浮浪者、孤児がいる。日本橋あたりで賃仕事にありつきながら、ふらふらしてる孤児らのなかで体格のよさそうなやつ、幼いやつを拾って大島につれて帰る。「子」として育てて船乗りにする。そうやって船乗りになったものを島では、「日本橋っ子」と呼ぶのであるよ。
地方史家が教えてくださったのは、こういう話だった。そんときはあまり感想はいえなかった。かんがえるに、「日本橋っ子」の労働はきびしく、つらいものだったろうが奴隷としてあつかわれたわけではないだろう。船頭と水夫の職務遂行上の服従関係は絶対だが、船主地主のような生来的な相続・所有にかかわるものではない。水夫が年経て技量があれば船頭になれるはずだ。そうなれば「日本橋っ子」も、拾った船頭とおなじ立場になる。拾われた人生は不幸ではない。ひとつはそんな感想。
それと、いっぽうで江戸のほうでは、あいつは神隠しにあった、天狗にさらわれたーなどと思われてるんだろう。浮浪児じゃあない、身寄りのある子をさらっちまった例もあるかもしんないなあ、なんて想像した。これは「日本橋っ子」を教えてくださった大島のかたには言えない。
天狗隠しにさらわれたものの述懐、残されたものの言い伝えはあるが、さらった側の事情を知れたのがおもしろかった。
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朝からスピリッツ。浮浪者をあつめて会社を作ってる投資家のマンガ、ナカタニD.+倉科遼『DAWN』。主人公は浮浪者を装うが、実は世界的に成功した大金持ちの投資家、だそうだ。世界標準への依存とナショナリズムが同居、それが投影された主人公の性格づけ。ゆがんだ理想自我があらわれてて気持ちわるい。今週は農薬まみれの中国野菜を告発するエピソードあり。ふーん。
倉科遼のほうは、漫画サンデーの連載では時代錯誤な作風で存在意義がなくはないと思ってる。スピリッツではさくらももこ連載、ひどくありがたがりさえしなきゃ悪いもんじゃない。いや、正直ほめてもいい。
朝から岡山、美作のほうへ日帰りで。岡山広島の内陸部は、なだらかに広がる山、なんとなく流れる川。風景が、見るものに緊張をもたらさない。またゆっくり来たいなあ。
帰りの飛行機の席でとなりに座った銀縁めがねの男、三十代なかばくらいで仕立てのよさそうなスーツ着てる。有能なビジネスマンってタイプだ。それが機内サービスのコーヒーのみながら、岡崎二郎『アフターゼロ』をひろげてる。ちゃんと練られたアイディアを展開し、いやみにならない教養とやさしいユーモアで味つける。よいマンガだとおもう。おそらく銀縁メガネ、藤子不二雄も読むだろうな。
私はアッパーズをひろげて、ストリッパーがゾンビになって互いに殺しあうって作品、三家本礼『巨乳ドラゴン』を読む。登場するストリッパーたちの肢体はちゃんと描きわけられているが、いずれも巨乳。女の肉体のボリューム・動きの描写は、ストーリーに暴力を招くまでにいたってる。肉弾あい撃つってやつだ。血まみれのからだがなぜ清潔なんだろう。フェティッシュはエロを振り切るのか。
おなじくアッパーズ、いましろたかし『盆掘くん』も好調。描いただけの線、ドラマのないエピソード。先月くらいの一話、イラついた先輩に盆掘くんがちょっとしたイジメをくらう一話はよかった。ナンセンス・悪夢をふくむ日常が、さらっと見開きに描きなぐられる。盆掘くんの命名はぼんくら、ノンポリからの連想、思いつきか。奥多摩に盆掘林道ってのがあって、その道を行くと入山峠。その名の由来は入会の山だろう。
飛行機は空港に、銀縁もアタッシュケースをおろす。おれは羽田のコンビニでヤンジャンを追加し、バスでワンカップのみながら夜の首都高速、小雨に濡れるネオンサイン。
はげ山に心ひかれる。はげ山ってなにかの比喩じゃあなく、木が生えてない山のことね。たとえば、山陽本線ことことと各駅に乗ってて車窓からみえる線路沿いの低山で、山梨東京県境の奥多摩あたりにその名残が、今も見られるはげ山は、もちろん自然のなりゆきでそーなったわけではなく人がそうなした、人為がかかわってるものである。その成立の由来はなにか、まず工場の煤煙とかの公害じゃあない。かならずしも産業的な伐採のせいでもない。
近世から近代にかけて、はげ山になりやすかったのは入会の山、私有林のほうは大丈夫だった。入会とはムラの共同利用、みなが芝刈りして薪炭につかっていい山である。はやりの「里山」ってーのが、みんなでつかうムラのそばの山って意味があるなら、入会の山は里山だ。持続的な資源利用、自然の人との共生とかがあるはずの入会の山で略奪的伐採は行われた。みんなの山は、はげ山になった。
なぜ自然の再生産力をこえた伐採がそこであったのかとゆーと、みんなのものだったから。寺社領主などの所有する私有林は再生不可能に伐っちゃうと価値がなくなる、損するから、はげ山になんない。逆に共同占有林なら、ムラのひとりひとりにとっちゃあ伐んないと損だから、競ってばんばん伐っちゃう。だからみんなでつかう入会の山でとりわけ、はげ山ができた。
こうゆうタイプの共同所有におきる問題は、コモンズの悲劇とかいうらしい。こんなこと、読んでるみなさま興味あるかなあ。まだ話は続きあるんだけど。えと、私はここで私的所有を擁護しようってーんじゃあない。なれあい趣味、共同体趣味を私はもつものだから、共同体が共同体であることから、みんなが損することがあるってこと、ひどいこともやっちゃうこと。それはいつも確認しておこうと思ってるんだ。
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西原理恵子『ヒジュラできるかな』をスパ!、コンビニの立ち読みで。愛する人によびかけるあまいラスト、ああ本当に叙情のひとなんだなあ。それも西原だと思う。
インドのオカマのヒデュラ、元男の薄汚いババアども、そいつらの人生の喜びは、みちばたで拾ってきた浮浪児を立派に育てあげること。ヒデュラは、ヒンズーが捨てて近代化が救わない子供らを、死なないように自分で暮らしていけるように、喜捨をえながら大事に抱きしめながら育ててる。それに触れた西原はもう直裁に、「なんだ、やっぱり神さまなんだ。」と、そのままに書き文字で描いてしまう。うつくしい魂に立ちあえる西原の才能、泣かせる工夫もしていてそれが作家の矜持、やはり西原は大切なマンガ家だ。
いつもの定食屋、ナス炒めとビールを注文。カウンターの隣の人は本格的な発音でチンジャオロースー定食かなんかを注文してる。ここは中国人客がおおい。店員も中国人。デコラのテーブルの下をさぐると今週の少年チャンピオン、あ、買わずにすんだな。店員の娘、「おまたせましたー」って届けられた皿、肉みそと油にまみれた熱いナスを口中でもてあましておれは、コップのビールを飲みほした。
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そして佐渡川準『無敵看板娘』、チャンピオンで楽しみなのは、まずこの作品。主人公の少女は中華料理屋の娘、中卒で実家の手伝い、父親は不在、せまい世界にすんでる。そうであることが、なんでもない。百年たっても変わらないだろう、まるで学校のような日常生活。
そこでは、善いおこないがふつうになされている。友人の心配をすること、困っている人を助けること、それがあたりまえのように描かれていて、特別な位置にない。主人公らの(私たちの日常にはありえない)すさまじい直接暴力のコミュニケーションにまぎれて、善いおこないの特別さは、むしろ隠されている。ただ主人公らが好むヒーロー戦隊ものテレビ番組のなかには正義があるらしい。
娘のくらし・労働のなかで、地域の共同性の安定をこわさない程度の小事件がおこる。事件はおこっても正義が主張されない、善は特権的ではなくただ静かに、なされてる。連載マンガって形式は、この作品にすごくあっているとおもうが、その話は長くなりそーだからいつか。
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『無敵看板娘』、このスタンスで連載を続けられるんだから、佐渡川準はたいしたものだなあ。ビールあけちゃってレジでお代をわたして、ありやとましたーって娘が言う。笑うと目が細くなる店員の娘、一年くらいのつきあい。まあこの娘に果たし状わたして殴りあったりはしないけどな。
無垢な純潔をけがす無軌道な肉欲、世界を構築しようとする邪悪な意思。それらの「あちら側」と対立するぼくは、少女と手をつないで、恋人みたいに見えて、あ、ちょっとうれしい。ふん、その世界にはおれは住んでない。村上春樹『うずまき鳥クロニクル』。
主人公がバットをふりまわす暴力、おちつきわるいように思える。よくわかんないが、主人公が主体であることをしめすために作家的には切実な描写なのかもしんない。巻き込まれた状況のなかで主体になるために暴力をふるう。いっぽうで、どうしようもなくコントロールされてる、主体ではない妻。ほんとうのきみはそうじゃあない。そういって男は、バットの一振りで妻をとりもどす。すばらしい。
村上の言う、あちら側とこちら側の区分は有効だろうか。満州国・ソビエトをつくる「あちら側」、しずかに自然に安定してる「こちら側」。私たちはそれぞれ、世界に働きかけて、また欲望にふりまわされて、日常を生きてる。そして私たちの欲望の主張、世界への働きかけは安定していない。まず現実に拒否され、みずから反省さえすればその妥当性、整合性はつねに検討しうる。井戸のファンタジーを通じずとも、「あちら側」と日常は無段階に地続きだ。「こちら側」のスタティックな生活こそがファンタジーだろう。
そしてきょうも眠れずに文庫の三巻本をあげた。ふう、やれやれ。
ヤクザの主人公を日常風においてみるアイディアは、ふつうに前例あるんだろうけど、『係長ブルース』で作者が書いてた世界、仕事にたいして、まじめに意思的に取り組むことと、それが日常化されててルーチンに、あたりまえになって暮らしに定着していくこと。はためでみるとそれが、奇妙でまぬけな人生に見えること。そのようすが『ぴんちら』でも表現されてる。このひとの本領はここにあるんだとおもう。よかった、いいものがみれたとおもう。
はためで見れば、奇妙にこっけいに踊りながらひとは生きてる。俯瞰で見ようにも見れない。もとより、おれ自身は人生に沈んでる。マンガがひとつの窓になる。だれが覚えててくれてるか分かんないけど、すこしづつ書いていきます。