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 ■2004/10/27  古林海月『米吐き娘』、21世紀の妖怪のくらし。

 今日はイブニングとサンデー、マガジン、スーパージャンプ。イブニングの、古林海月『米吐き娘』、イイなあ。21世紀にお化けが生きながらえていて、妖怪「米吐き娘」ってのが県庁のアルバイト娘、同僚に二口女がいる。そいつらマジメに地味に、ごはん食の推進活動・農政懇談会の手伝いとかの仕事やって暮らしてるの。それが生活、仕事の必要、行きがかりで妖力をつかう。
 今回は造成工事で埋め立てられる寸前の田んぼの倒稲をどう救うか、米吐き娘は覚悟を決めて田んぼの土に埋まる。身動き取れない米吐き娘に対するウシガエルの顔面攻撃にもめげず、不思議な力で稲はよみがえり立ち上がり、めでたく稲刈り、収穫をむかえられた。

 ヒロインの妖怪、米吐き娘はその名にたがわず米を吐く。ようやく役所に職は得ているものの臨時雇いの身、貧乏な母子世帯の境遇で、家庭の主食は娘が吐く米、前代の神々は零落するいっぽうである。妖怪娘が米を口から出す描写がよい。「かはっ」と苦しそうに口を開く娘、さすれば手にした袋に、ざらざらざらと精米が流れ落ちる。この女の胃を通って唾液にまみれてと想像すれば、妖怪の不可思議、存在の理不尽さは、読むものの生理にも訴えかける。

 米吐き娘の三つ編み、ジャージ姿、職業生活上のエピソードもあいまって地方の女子労働者の生活感をあらわすのに役に立ってる。人物、事物の輪郭描線の頼りなさは、目になじむ記号にならないゆえにむしろ、湿った重い土、まがまがしき鎌のなどの表現に質感をもたらした。この先、古林海月の才能がどう伸びていくのか想像がつかないが、この連載はながく続けてほしい。

 今号で二口女が、幽霊や人魂なんて非常識なものはいないと述べてる。お化け/幽霊/(怨霊)の区分を踏まえた言なんだろう。二口女や米吐き娘はお化けの類であり、それはムラの成る前の代から生きてきたものである。幽霊のごとき人間の人格由来の近代、近世のつくりごとに21世紀の妖怪はまどわされないのだ。日々のくらしのなりたちは、ひとり個人、現在のワタクシによってのみなるものではない。現代の地方都市の生活でも、稲作はもちろん民俗以前の神をも記憶の底にもって、いとなまれてるのだ。

 この作品、主人公の妖怪の名は「みのり」、ここで罵った尾瀬あきら作品タイトルにもある名前。尾瀬もまた米づくりにかかわった作品をもつ。尾瀬のある種のこころざし、描写は有意義なものだとは思うが、いかんせんこしらえごとのセンチメンタルに傾いていて、古林海月の妖怪の跋扈するこの作品よりも現実からとおく見える。くらぶれば、わたくしの信頼は古林海月にある。
 といいつつ疑問、妖怪「米吐き娘」は古林海月の創作かどうか知らないのだが、吐出するのが小豆やヒエではなく「米」だけなのはどう考えればいいんだろう。豊受大神、大気津比売神との関連をどう整理すればいいのか。

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 先週くらいから江戸時代の儒学の勉強をしてる。受験勉強みたいなレベルだけどさ。丸山、松本三之助、子安宣邦とかながめてる。ナショナリズム、草莽のエートス・イデオロギー、統治主体の意識、おもしろいねえ。夜更かししてカゼひいたよ。あしたも九州行き日帰り。

 

 ■2004/10/25  街の記憶。

 このサイトは以前はPDAでつくっていたが、いまはノートパソコンをつかってる。画面が広くなって作業しやすくなると気になるところも出てくる。このページ、BLOCKQUOTEで囲っていたのがあれだったんで、いいかげんなスタイルシートを導入。ついでに若干もようがえ、見やすくなったでしょうか。その作業を羽田の喫茶店で。羽田ではうまいものが見つけられていない。うどん、そばは高くてまずいし、サンドイッチ弁当のたぐいもコンビニ並。新ターミナルでなんか変わるかな。

 そして飛行機、電車を乗り継いで長崎についたのは21時。バスを降りると、機械油の匂いが鼻をかすめる。梁川の三菱長崎製鋼所の工場がなくなって、もう二十年はたっただろう。昼夜をとわず船の構造材を鍛えた工場、港にせまる丘、長崎の盆地に夜も槌音がひびいていた工場、その光、音の記憶。仕事などでまわったなかで、日本のあちこちに心にとどまる風景ができたが、やはり生まれそだったこの街は、視野にはいるもののそれぞれに濃い感情がうごく。

 機械油の匂いは気のせいかもしんないなあ。そしておれは浦上川にかかる橋を渡って竹ノ久保のほうへむかった。

 

 ■2004/10/20  自転車マンガ各種とちょっと。

 きょうも電車で職場、この秋は自転車にのれない毎日がつづいている。電車でマンガ読めるのはいいのだが、地下鉄はやはり気分が晴れない。

 自転車のマンガでまず思いつくのは曽田正人『シャカリキ』、荘司としお 『サイクル野郎』、そして田中誠 『ギャンブルレーサー』、みっつの作品はおなじ自転車マンガではあるが、描いているカテゴリーがことなる。ツーリングの孤独・出会い・トラブル、ロードレースの疾走感・選手の熱、競輪の人間関係・作戦・運。いずれも、自転車スポーツ自体の魅力を描いた作品である。どれくらい魅力が描けているかというと、たとえば少年キングの『サイクル野郎』の連載にふれたせいで今も自転車に乗っている例が身におぼえがある。小学生の私がモーニングを読んでいればトラックを走る経験を持ったかもしれない。

 水島新司『輪球王トラ』はサイクルサッカーマンガ、野球一本でやる前の水島先生の作品。たしか少年キングで連載されていた。サイクルサッカーというスポーツの競技人口はおそらく日本全国あわせて1000人いないだろう。(日本室内自転車競技連盟)『輪球王トラ』は、そのころも少なかったであろう競技者・競技ファンをターゲットにしたものではないはず。モチーフの目新しさ、先行者としての市場独占などをねらって、未開拓のマイナージャンルに目がつけられたんだろう。いまも昔も連載作品の企画は苦労してるんだなあ。車輪が湾曲しながらボールを弾き飛ばす迫力ある扉絵の描写をおぼえている。そんな事態は他のマンガではおこらないから企画は成功。

 宮尾岳『並木橋通りアオバ自転車店』はフェティッシュなマンガ。こちらは企画ではなく、あきらかに作者の趣味、ただしきちんと自転車マニア以外のマンガの読者に飲ませる工夫はそなえており、小エピソードからつなげて自転車のフォルムの美しさの表現にいたっている。

 競輪マンガは『ギャンブルレーサー』以外では、山本康人『打鐘・ジャン』、くさか里樹『ケイリン野郎』など。木村えいじ、鎌田洋次にもあった気がする。『ケイリン野郎』は家族もの。競輪選手の夫は不器用な男、妻を愛しながらも妻を殴ることもある。夫の家庭内暴力を解消するのではなく、肯定はしないながら引き受けて生きる妻の毎日。そこでいとなまれる家庭はかならずしも不幸とは描かれない。告発ならば捨象する人生のバリエーション、それを照射するものであるからむしろ作品の存在意義がある。

 その他自転車マンガは、池上遼一『ひとりぼっちのリン』、黒田硫黄『茄子』など。あ、現行連載作品であるチャンピオンの井ノ内貴之/乗峯栄一『輪道』を忘れてたな。『輪道』はロードレースで熊野の実業団走ってから競輪学校へ。ライバル、恋人、仲間、家族、走る主人公の視野から次々と消えていくめくるめく展開。この作品で特筆されるのは自転車「りんどう号」の走行風切音。ぴゅーぱ、ぴゅーぱ、って由来は宮沢賢治かなんかかねえ。

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 サンデーと、月曜に取りこぼしてたスピリッツ。中崎タツヤ『じみへん』はネタのいくつかを出し惜しみせず披露、中崎は結語に「人間バンザイ」と描く。その語に別に皮肉はない、ここで記録された忘れがたき人々、忘れられた日本人、たまにこういうふうに親切に描いて読者に読み方をわからせて、ずっと続けてくれ。『道士郎でござる』は今週号でも泣く。

 

 ■2004/10/18  天龍と血まみれのパン。

 家に帰りて、金目鯛のアラがはいったきのうの鍋に、豆腐を追加して今日のばんめし。くたっとした春菊をつまんで、日本酒をコップで飲む。

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 記憶はさだかではないがプロレス団体のWARがスポンサーがいなくなって興行も不振だったころ、トップレスラーの天龍の試合で客席から食パンが投げ込まれた。天龍はそのパンをひろいて、じっと眺める。その小事件を専門紙は、「心ないファンの行為」と報道した。
 しばらく後の試合、ようよう勝利をおさめた天龍が、セコンドからパンを受け取って、試合で傷ついた血まみれのまま、観客にパンを投げ入れた。専門誌は天龍の行為を、「このあいだの事件の報復だろうが、いただけない」と報じた。--ヨハネによる福音書より、

 最後の晩餐、イエスはパンを取り、祝福してからそれを裂き、弟子たちにあたえてこう言う。「取って食べなさい。これはわたしのからだである。」さらにブドウ酒を彼らにあたえて述べる。「これは新しい契約のための、わたしの血だ。」

 「わたしは天から下って来た生きたパンだ。だれでもこのパンから食べる者は永遠に生きる。そう,世の命のためにわたしがあたえるパンは,わたしの肉だ。」

 16日の文、鑑賞に知識は必ずしも要しないという点に力点をおきすぎた気がして、考えていて思い出したこと。天龍の表現はうまくなかったのかもしれないが、知識が鑑賞を有意義にする例。

 あと、少年サンデーの地図、画像取りちがえてて作品プロットの位置が間違っていたので訂正しました。

 

 ■2004/10/17  ジョージ秋山『WHO are YOU』、副題はそのままジョージ秋山物語

 生まれてこなければよかったギャア。ってのはジョージ秋山の『アシュラ』、子殺し、人肉食、一家惨殺と残酷なシチュエーション、ジョージ先生の露悪趣味がリミッターを切って垂れ流される。そのなかでたとえば、アシュラのしぐさ、背をかがめたままの妙にすばやい動きがこっけいで、いや血まみれのナタもってたりするんだけど、そのような描写には、この作家の才能が露悪にとどまらないことをしめしていた。ジョージ秋山は『パットマンX』いらい、蛇行しながらもあゆみをとめずに前に進んできた。

 アシュラの「ギャア」もそうだが、ジョージ秋山は気にいったせりふを連発するギミックをつかう。そのきめぜりふの内容はもちろんだが、フキダシの形状・つかい方がうまくって、吐かれたセリフが切実であること感じさせるものである。一話分の最終ページのコマのなかにそのきめぜりふのフキダシだけ、たとえば『デロリンマン』であれば「たましいのふるさとへ帰れ!」とだけあるとか、あれは意味もなくこころに残った。『アシュラ』であれば、ああほんとうに生まれてこなければよかったんだなあとイヤな余韻を残す。

 きめぜりふで締めるジョージ秋山の手法、坂田信弘とかオリジナルの羽田空港マンガとかの、最終ページに詩のような写植文字列がはってあるのと比べれば、もうレベルがちがう。ジョージ先生は欲にまみれていて作品でも自分をおおきくみせたい"俗物"であり、その点では文字で講釈を垂れる坂田信弘と同じだが、いかんせん才能がちがう。表現された俗物の格がちがう

 近年のジョージ秋山、オリジナル増刊の『WHO are YOU』で虚実いりまじりた私生活マンガを続けている。今回は森田拳次先生の思い出。若いジョージ秋山、師匠への恩義を感じる気持ちと、買春をおごってくれない先生への反感とを同時に示すことで、貧しく名もない境遇の鬱屈をうまく描いていた。ジョージ秋山が老いていくなかで、よたろうや『ばらの坂道』の土門くん、自分の登場人物に散らしていた自分を、自分に引き受けても大丈夫になってきたんだろうな。年がいもなく若い女に懸想したり裏切られたりと、枯淡とはほどとおい老境であるが、これは成熟なんだろう。

 『WHO are YOU』の前身は、80年代後半ころから登場する毒薬仁のキャラクターだろう。「オリの名前を言ってみろ!」で始まる彼の独特の独白は、たいへんに好ましかった。倫理的とはいえない欲動、社会からのなんぞやらの疎外感、未来への不安、敗者の怨念、嫉妬、死への恐怖。それらを描くためにもジョージ秋山は作品に、好んで残酷なシチュエーション設定を導入してきた。アシュラ、銭ゲバ、キキ、デロリンマン。毒薬仁もまた嫉妬・怨念にまみれた男ではあるが、登場する作品は口説き屋ジョーや、かわいい恋子が活躍する幸せなお話し。残酷な設定は毒薬仁の独白のなかにおさまっている。

 夜の新宿、コマ劇場裏、奥に入ったあたりのネオン街の路上で、みにくい男が事実かどうか知れない講釈を長口舌でかたりだす。貧しい生い立ち、暗い青春、犯罪の記憶、オリの名前を言ってみろ!その怨念、嫉妬の由来は作中の"現実"にはなく、毒薬仁のかたる入れ子の物語のなかにある。

 極端なシチュエーションを置かなくとも怨念・嫉妬は描ける。『WHO are YOU』の登場人物の「ジョージ秋山」は、毒薬仁のあとを継いで自分の半生を、いまの暮らしの感情を語りはじめた。それに触れた読者は描かれた感情の恥ずかしさに辟易としながらもいくらかは共感をもってしまう。われわれは毒薬や「ジョージ秋山」とおなじく暗い欲動をもち、怨念・嫉妬にかられて生きているからだ。そういう人生であるためには、アシュラや銭ゲバの境遇は必要としない。殺人、人喰い、近親相姦の経験を経ないまま、われわれは毒薬仁である。ジョージ秋山作品のひとつの特徴である極端なシチュエーションをここでは捨てて、「ジョージ秋山」は読者のすむ現実世界に近づき、暗い欲動・感情の描写を浴びせかける。

 毒薬がそうであったように作中の「ジョージ秋山」は俗物、読者もまたそうである。『WHO are YOU』の作者である秋山勇二はそれを眺めており、こっけいな俗物どもの姿を描きながら、お前はいったい誰なんだと問うている。

 

 ■2004/10/16  南伸坊『モンガイカンの美術館』、たしかガロよか先にこっち読んだんだよな。

 曇り空、都内を自転車で散歩。東芝ビルの旭屋などをめぐりて、日比谷公園で缶ビールを一本、微妙におとついの続き。

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 銀座晴海どおりをあるいてると南伸坊とすれ違うことがある。数寄屋橋あたり、和光の交差点、何回かお見かけした。もちろん面識はないんだけど、ついかるく会釈してしまう。氏はそれには気づかず、人ごみをわけてすたすたと歩いてく。南伸坊には恩がある。

 私は作品鑑賞の基本を『モンガイカンの美術館』からおそわった。このころの南伸坊は、ゲージュツ・モンガイカンと、韜晦のようにカタカナをつかっていた。その話法のねらいはあきらかだが、学校の美術室にそなえてあった雑誌「みずゑ」の連載をよんだ子供には、親しみやすさ以上の意味をもたなかった。もとより権威も相対化もしらない、東野芳明も針生一郎も読んでない。作品の把握のしかたを最初におしえてくれたのが南伸坊だった。

 鑑賞する作品にかんする知識・教養は必ずしもいらないのだよ、"感服""詠嘆"のような重厚なこころの動きがなくとも大丈夫であるよ。それが南伸坊の「面白くっても大丈夫」というアドバイス。それは字づらの印象に反して、作品鑑賞の場面での思考停止、無批判な態度をうながすものじゃあない。むしろ鑑賞者に、作品を批評しようと提案するものでありました。

 作品をながめていると、いわくいいがたく気持ちがうごくことがある。なぜか面白く感じる。対象にふれたさいにおこる何かしらの心のうごき、それを起こさせる作品のナゾ。なぜそのようなデキゴトがおこるのか作品とキモチの双方についてその作用のありようを、いわくいいがたいものをよくよく考えて、説明できるようにしてみよう。もっと面白くなるよね、それが作品の鑑賞であるのだ。作品の鑑賞は、すなわち作者の個人史や時代背景を学習することではない、面白さについて考えることなんだ。南伸坊の立場をおおむね、そのように理解している。

 鑑賞がそういうものであれば、現代美術にむかう際もマンガを読む際も、おなじ作業をすることになる。高級文化へのいなおりも、大衆文化・サブカルチャーへのみみっちいアイデンティファイもいらない。キーファの鉛板、『ヒカルの碁』、「プロジェクトXマガジン」の六田登作品、いずれも作品に触れて面白さについて考えるのだ。このように学んだ姿勢は、ずいぶん人生に役にたったものである。南伸坊に恩があるとするゆえんだ。

 『モンガイカンの美術館』を読んでからいくとせ、南伸坊のといた態度をいくぶんか身につけることができたろうか。そう思いながら晴海通り、南伸坊の背すじを伸ばしてあゆむ後すがたを想起する。

 

 ■2004/10/14  少年サンデー、どうにか作った・マンガ作品の評価軸について。

 少年サンデーの連載作品をレビューしたとその見取り図、時間がかかってしまうが一行づつの評でも楽しい。高橋留美子『犬夜叉』はめくって眺めてはいるんだが、面と向かって何か言おうとするとレビューできるほど読んでなかった。

 このベンチマークってネタでは、作品に点数をつけてる。評価が定量化できないからこそマンガ作品をめぐってしゃべっているんだけど、作品群はなにかの視点で比較できそうな気がする。その軸にかんしての作品間の順位、距離はイメージできそうだ。ただ私が作品群をながめる際には複数の視点から見ている。なんだか好ましいポジティブな評価についてもいくつかある。ある視点では『こわしや我聞』が『モンキーターン』の上でトップ、別の軸では両作品を抑えて『MAJOR』がダントツとかね。

 諸作品の位置する多次元空間を一本の変数に縮減するのはできそうもない。少年サンデーを読んで、頭のなかにできる諸作品の位置づけ、『いでじゅう』と『ガッシュ』と『道士郎』がちらばってるn次元空間をせめて二次元の座標に投影したもの、それがこの地図であります。

 今回の測定軸は耳日曜鼻日曜、ふたつの変数の相関は0.77だからけっこう相関が高いね。だからといって一本にするとなんかもったいない気がする。サンデーの連載作品のなかで特定の視点では『道士郎でござる』がもっとも高い得点であるのは自明である。同時に『史上最強の弟子 ケンイチ』がある意味でそれを凌駕する位置にあることもあきらかなのだ。

 測っている物指しが何なのかは測定者にとってもかならずしも明らかではない。読者が作品を測っているのか、作品で読者を測っているのかもわからない。

 

 ■2004/10/11  土俗と近代って古い話題、鶴見太郎『民俗学の熱き日々』。

 連休の終日に洗濯をすませて、自転車のって散歩にでかけて午後だからもうビール飲んでいい時間、公園のベンチで読書。新書の鶴見太郎『民俗学の熱き日々』をすました。ふと調べ物を思いついてノートパソコンでグーグル、「食物と心臓」を引いてみる。さすれば書志・本屋の目録・紀要のたぐいに混じりて一ページ目に私のサイトがあらわれて、背筋がひやりとする。後藤総一郎の講演記録と「漫画読者」が並んでるのだ。私なりにまじめに書かねばならんと思う。

 『民俗学の熱き日々』、柳田の読者の列伝のなか、花田清輝の項に啓発された。この項、鶴見の引く見取り図の豪華な登場人物、深沢七郎&花田清輝vs桑原武夫&中野重治という図式。以下、同書によりつつわたくしの理解で整理。深沢七郎の描くムラ社会の「ドロドロとした世界」「残酷さ」の評価をめぐって、これを肯定的にとらまえるのが花田、それを猥雑だ、あるいは思弁的だと批判するのが桑原武夫&中野重治。登場人物はいずれも日本社会・文化がもつ伝統的なムラ的な要素を、たんに封建遺制、近代の阻害要因としりぞけず、あるべき日本の社会にくりこもうとする知的営為をなしたものたちである。

 中野は日本の革命を生涯の仕事としたものであるが、「スッテンコロコロ」で嘲う無法者の一味ではない。そして「村の家」の父を拒否する倫理でいきる人間だ。合理的、明晰にムラをとらえる桑原とともに、深沢が描くようなムラの下品さ、猥雑さは受け入れがたい。日本のムラを秩序ある安定した世界とみる立場である。

 これに対して深沢の世界を擁護する花田、楢山さまへ親を背負うて捨てにいく無残な風習のなかにも伝承された親孝行があるのだ。都会にでた青年を刻苦勉励へといざなう、故郷の母の回る糸車のイメージ。そのような、美しく堅実な世界だけに思いやりの倫理があるのではない。深沢の視点が到達したムラ社会の「ドロドロとした」残酷さや「悪」をふくむ葛藤もまたムラの人生の真実であり、そのなかに伝統の論理、倫理がある。われわれはそれを引き受けて近代を超える契機とせねばならない。このような主張をもってムラの秩序派と対峙した。

 くりかえすけどこれは鶴見太郎に教えてもらったことの私の整理であるから、このての話題に興味があるひとは『熱き日々』、そこから一次文献にあたるべし。えーと、ここでは花田のほうの立場、むかしのコトバで言えば"土着"派ってことになるな。近代が容易にくりこめない"土着の情念"をもって近代を超えんとする。そういう理屈はたどれるのだが、深沢の世界にある"土着"なりを、どのようにとらえればいいのか、どう生かせばいいのか、私にはいまひとつはっきりしない。鶴見太郎のこの著作にそれを求めるのはすじちがいではあろうが、さきざきでは鶴見がその話題にいたることをねがう。

 あと鶴見太郎は柳田をここでいう秩序派のほうに分類している。花田は柳田と深沢をかさねてみているが、その際に念頭にあったのはたとえば『山の人生』だろう。その序文、柳田が犯罪調書からえた題材、生活に困窮した家の幼い兄いもうと、みずから斧を研いで「おとう、これでわしたちをころしてくれ」という姿、そのさい柳田が描写したのは合理的、明晰で安定したムラのようすであったか。

 いずれにせよ柳田が悪者になりがちな昨今(佐野眞一による宮本常一の評伝は許しがたかった。)に、楽しい読書ができた。また、このサイトを再開するにあたって09月01日の日記にひいた、あけがたにくる人よ、日常を神話的なイメージで描く永瀬清子の、柳田とのつながりがしれて、それも楽しかった。そんで関わり、ありやなしや、センの『不平等の再検討』にとりかかる。

 

 ■2004/10/10  諸星大二郎『魚がきた!』の自然

 モーニング別冊、諸星大二郎『魚がきた!』、さて昨日の続き。諸星は『生物都市』以降、自然と人間の関係について考えてる。そのあいだは技術が媒介したりもするんだけど、それはそれでマンガは描けるんだけど、諸星はファンタジックな未来社会か、民俗社会に題材をとることにしてる。そうすれば技術の描きこみぬきで自然理解と観念の世界が地続きにできるから。

 なんかわかりにくいですかね、わかんないまましゃべってるところあるんで勘弁してください。えーと人間を主体として、技術の媒介も民俗社会のような仕掛けもなしに自然を取り上げると、観賞的な自然になってしまいがちなわけだ。自然はいいねえ、おのずからしくあるもの、おのずからしくあるべしとかいっているかぎり、自然におびやかされることはない。自然はいうまでもなく、人間の行為を拘束する外的環境である。諸星の自然は人間にとって脅威であるだけでなく、人間の都合によってはたらきかける対象である。海神記、西遊妖猿伝、マッドメン、失楽園、妖怪ハンター、人はその作中で怪異のものや奇怪なシステムのかたちで現れた自然に右往左往しつつ、主体であることを探り自然にはたらきかけている。諸星は、自然と人間の交流を描いている。

 それで『魚がきた!』、ここでは「何が何してどうなったのかも分からない未来」の地底の環境が自然である。こういう言い方は変かもしれないが、国木田独歩の武蔵野の雑木林が自然なのであれば、諸星の地底世界はそれ以上に自然である。多摩の雑木林は意思的につくられたものであるが、地底世界はおのずからなりたるものだ。そこで集団の記憶の深い層にとじこめられた自然物の形象を、だれかが素朴な技術をもって再現したもの、それが機械仕掛けの"生きた魚"。それに触れた少年たちは、インテリにいちゃんと釣り士のじいさんを導きの糸にして冒険にでかけて、"生きた魚"のむれ泳ぐ地底の海にたどり着く。

 インテリにいちゃんは、機械仕掛けの"生きた魚"は、魚が泳ぐ姿を再現するためにデザインされたものと説明してくれる。それは企図があって造られたものなのである。ふつうに言う自然が見えなくなったなかで、環境に対する意思を欠いてしまった地底社会のなかで、だれかが自然を模倣する機械の魚を作ることで、自然へのはたらきかけを行っている。"生きた魚"の製作者は作中に登場しないが、「何が何してどうなったのかも分からない」のではない。誰だかわからないが、たしかに誰かが作ったものである。機械仕掛けの"生きた魚"は人間の自然への意思を示している。

 釣り士のじいちゃんがイイ話をしてる。"生きた魚"の由来にかんする少年たちの疑問に答えて、釣り好きのために魚を放流してるのかもしれんと推測を述べる。そこで自問自答、「いや、それじゃ、釣りが先にあってそれから魚が発明されたことになるから変じゃの…」
 釣りは地底社会では廃れたレジャーである。地底社会の釣りは遊戯、自然への意思をもった行動の零落した形態であったのだろう。人間と自然とのかかわり、はたらきかけの残滓として細々とのこっていたもの。それが遊戯として地底社会のなかで安定したものとなったときに、"生きた魚"の製作者は、釣り好きのためにそれを放流する動機を失ったんだろう。だから"生きた魚"は近年では見られなくなっていた。

 少年たちは、機械仕掛けの"生きた魚"にみちびかれて、"海"にたどり着いた。その時点ではもう釣りなんかどうでもよくなってる。人間と自然のかかわり、自然をも形成せんとする人間の自然への意思に触れて、地底世界のスタティックな環境に安住することをやめたのだ。コトコトと地下の水脈、パイプラインを伝うて集いて、しまいに膨れ上がる人間の意志の偉大さに触れて少年たちは、いずれ『海神記』のように約束の海を求めて旅に出る。『失楽園』の主人公のように意思を持ち、安住の地をすてて危険な外部へと出ていく。

 『魚がきた!』は諸星全集のなかでは地の作品、作品史の小エピソードにとどまるものである。見開きの巨大な魚の巨大さの描写に限界がある。たとえばあの魚が空中を舞うのではなく、ぬめりとした暗い水面がおおきく持ち上がりて、背びれだけ、あるいは目だけが覗いて消えるという手法も取れただろう。ラストの魚の巨きさが描ければ、人間の意志の偉大さが、少年たちだけではなく、読者にも届くものになった。

 あと作者の責任にかかわらない編集担当の最終ページの柱の文、同じ講談社『魁!クロマティ』の二人三脚まではいかないだろうが、いくらなんでもこれはない。もちろん、諸星の佳作を読ませてくれた恩はわすれない。

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 ヤンサン、佐藤秀峰/野村エージ『弟』、読んじまって後に気づいたんだが、ブラックジャックの人なんだな。あの作品は読まないつもりでいるが、『弟』はイイじゃん。肩がおちた前向きと横向きの体の描写、主人公の鬱屈をうまく表現してる。この人、顔の書き込みは自身あるんだろうな。ハデでない設定、動きのすくないストーリーで、作者的にはおさえたタッチ、こういうことができるのも売れたからなんだろう。余裕ができるってのはイイほうにも作用するな。ただ弟に侮蔑されるシーンなど、断ち切り・アップ、コマ割のギミックも減らすといい気がする。暑くするのはできるんだろうから、そこはさらっと流す。そのネタしかないわけじゃないし、「大家」なんだから、そんなに読者に寄らなくていいとおもう。

 山田玲司『絶望に効くクスリ』、このスタイルはツライねえ。山田、会ってみた全員に洗脳されなきゃなんないからさ。山田のイデオロギーはまったく信用できないにしろ、そのナイーブさは作家の特質として貴重である。その山田が取材で会った各人すべてに心服するわけじゃああるまい。直感的な疑念が相手に対してあっても不思議ではない。だからといって、ジャンケン隊の現代洋子のように、ゲストを立てながら批評するってワザはないだろう。ボツネタもあるんだろうが、どこかで山田は、心服したフリ、立てたフリをしてるんだろうなあと読者は感じてしまう。『ゼブラーマン』、楽しみにしている。

 

 ■2004/10/09  マツタケとアカマツ、『美味しんぼ』と自然

 せんじつ電車の座席においてあった花咲アキラ・雁谷哲『美味しんぼ』の300円コミック、秋の味覚特集だそうな。読むとマツタケの人工栽培のエピソードあり。宋代青磁の再現に挫折した陶芸家が、マツタケを人工栽培しようとする技術者の努力に触れて、決意をあらたにする。「あのお話をうかがって感動しました。人間にはとても不可能と思われる、自然の営みに挑戦しつづけるなんて」

 陶芸家は林業試験場で取材・学習したはずだが、人工と自然の区分に関して、やや考えがたらないような気がする。マツタケについて人工/自然の関係を整理する。

 作中触れられているように、マツタケはアカマツ林にだけ生成する。アカマツ林地はほっておけば消滅する。つねに下草刈りをしてないとアカマツ林は維持できず、その地の極相、広島だったら照葉樹林とかに移行してしまう。京都でも広島でも岩手でも、マツタケの採れるアカマツ林は田畑と同様に人の手によって維持されている。人の手のはいらない状態が自然とすれば、アカマツ林は人工のものである。

 山村などで最近は山でマツタケが採れなくなってという述懐を聞くことがある。全国的にも近年はマツタケの国内収穫量は減少しており、(きのこ新聞など)これが人工栽培の動機付けになっている。その減少は人間による環境破壊によるものではなく、むしろ自然の回復がおもな原因になっている。人の手が入らなくなった山林が自然の林へと回復して、マツタケ生育に適さない環境になっているのだ。つまり「自然の営み」がマツタケ収穫量を減らしている。

 このようにマツタケの産地たるアカマツ林は成立基盤の脆弱なものなんである。それがなぜ以前はひろく存在したか。それは現在よりも、林地が荒廃していたから。明治後期には、荒廃林地とアカマツ林がみるみる拡大して、アカマツは国土を崩壊させるという「赤松亡国論」が主張されたほどである。アカマツ林は、はげ山・荒廃林地からの回復過程の一時期で成立するものであるから、アカマツ自体が荒廃の原因というのは濡れぎぬではある。ただ、マツタケがたくさん採れる豊かなアカマツ林が、森林の過剰利用、人工的な自然破壊に由来するものであったことは留意されたい。(興味あるひとはこちらや、先月の日記の禿山、焼畑の項を参照。)

 たしかにマツタケ、菌糸の生育などに人の手はかかわらないものである。『美味しんぼ』の一行が聞いてきたように栽培は難しいものなのであろう。しかし、自然破壊によって拡大し、人工的に維持されたが、自然の力によって淘汰されつつあるもの、それがアカマツ林、マツタケである。そうであるから、マツタケの生成を「自然の営み」とまとめるのは、あまり適切ではないように思ったんだ。

 自然と人の関係の話については、ひとこと言いたくなるたちなんで、ここではやや言いがかりのよーだが若干の指摘をおこなったしだいである。また、これはモーニング別冊の諸星大二郎の新作のマクラとして書き始めたんだけど、ちょっと長くなったんで、それはあらためて。

 

 ■2004/10/07  携帯電話マナーを島耕作に教わる・『国境を駆ける医師イコマ』

 仕事が終わって空港、バスなどで各誌。ほんとマンガはおもしろいなあ。気づいたことをメモ、少しふくらませて今日。

 のぞむよしお『性的人間』、ヤンジャンで連載化四回目。あの写真ベースにした顔のアップ、全能感と無力感のあいだにゆれて、意味なく高いテンションをたもち、同輩集団のなかで競争しながら、おさない同性愛的な友情をはぐくんでる、そんな童貞顔。その顔だけを執拗に描き込んで、人の青春なのに恥ずかしくする仕組み、うまいこと考えたなあ。連載にはいってより顔の描写、しつこさを押さえてる気がする。まあ読まれるために必要ならいい。オリジナルの弘兼 憲史『黄昏流星群』、こちらは登場人物が、困ったぞといって困っている、驚いてびっくりした顔をしている。

 それだけでは弘兼に悪いんで付け加えると、モーニングの『島耕作』今週号では、携帯電話マナーの各国比較報告あり。これはためになった。日本は中国・欧米とくらべてレストラン、電車での禁止などたいへんに厳しいらしい。作中では考察はないが、これは、日本的人間関係がかかわっているとおもう。それが他人であっても物理的に場を同じくするものが、目前の私を無視してよそと楽しい会話をするのは、日本人にとってカンジがわるいのだ。

 東条仁『カフス-傷だらけの地図』、主人公の不良は、暗い情念とか因縁とか持ってて、敵たちは奇怪な誇大妄想を持ってて、付き合いきれないってなりそうなところを、アクションシーンのギャグで浮かしてる。これ好きなんだよな。なんでだろ。

 おなじくヤンジャンの高野洋『国境を駆ける医師イコマ』、地雷に足を吹き飛ばされたメガネ少年、サッカーができななくなった失意から立ちなおるエピソード。シチュエーションを借りてきただけってスタンスではなく高野は、その戦場をキチンと理解しようとしている。こういう態度は貴重だ。その利点はマンガとしては、孤児を育てるじいちゃんの性格の作りこみによく反映してる。じいちゃんの仕事は地雷処理、しかるに元兵士、地雷を仕掛ける仕事をしていた。

 メガネ少年は、じいちゃんの地雷処理への取り組むすがたを眺め、「あれは…職人の顔だよ」と表現する。自分の一生を捧げる価値のある仕事にめぐりあって地雷除去の作業そのものに生きがいを感じる職人。この認識は事態を理解するのによいものだとおもう。メガネ少年は地雷を憎むゆえに、じいちゃんとの決別を告げる。このようなエピソードは戦争はヨクナイと思うだけでは出てこない、高野が事態を認識、消化した結果なんであろう。

 ただ、じいちゃんが地雷除去の職人であるようすをもっと描いてほしかった。マンガはそれを描けるんだ。自然にはたらきかけ、社会のなかに個人を位置づけるいとなみ。工夫・努力を投入した労働が、ひとの人生を意味あるものにする。
 技術を駆使して地雷を埋めたじいちゃんが、地雷除去を除去する作業をまたたのしんでる。その仕事のよろこびを描写すれば、地雷で人生を台無しにするメガネ少年との対比の構図が生きてくる。ともあれ『医師イコマ』、志のたかい作品だな。高野くん、『公認会計士』のほうもカンジいいぞ。

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 『味いちもんめ』については以前けなしたことがある。言い訳を今度かく。

 

 ■2004/10/06 中州の夜

 福岡、仕事を終えて中洲ぞいの公園で500mlのビール。リュックに入れといたサンデーをベンチで読んで今日は終わり。そば焼酎の広告灯が、くらい川面に映りてゆれている。潮が満ちて汽水域の、波が親水護岸のコンクリ階段をたぷたぷとたたく。このように晴れるんだったら自転車もってくりゃあよかったなあ。背振山脈から佐賀のほうに、汗をかいて坂本峠を越えてゆくのだ。それでも夕方はこれまでにない高い空、しずむ陽に照らされた雲のパノラマを、今日は見れたんだから、それでいいよなあ、ねえ君よ。風が吹いて寒くなってきたから今夜の寝床、ビジネスホテルに帰る。

 

 ■2004/10/03 マンガの到達点『のたり松太郎』

 ちばてつや『のたり松太郎』を漫画文庫で読み直してる。私は先週もまた月曜日の少年ジャンプから金曜日の週刊漫画タイムスまで十数誌の少年青年漫画誌を読んだが、『のたり松太郎』の再読の時間がいまはもっとも大切である。

 この作品、相撲への取り組みがいいかげんな松太郎が改心する場面がひとつのみどころ。松太郎の改心の勢いは長くはつづかないんで、読者は何度でもそのシチュエーション、バリエーションを楽しめる。文庫十九巻の松太郎、骨折したのをいいことにリハビリ・稽古もせずに、酒にバクチに遊びまわる。周囲が飲ませないように気をまわし、立ち回り先の飲み屋は出入り禁止になる。西尾のじいさんと二人、上野のパチンコで無一文になって、しかたねえってんで小岩の部屋までの10数キロを歩いてかえることになる。

 夜の東京、ガードを抜け陸橋を越えてあゆみゆく二人。その様子を描くちばてつや、二ページをそれぞれ上下に二つに割って四つのコマで見開き、松太郎はずんずんと、じいさんは遅れて息が切れる。前後から交互に視点を変えて描く。松太郎、しょうがねえなあとじいさんを背負って、荒川の長い橋をわたっていく。通行量の多い国道の橋、街灯をたどりながらくわえタバコで歩道をいく松太郎、横長のコマでぼそりとつぶやく。「フン、そろそろおれも、ふんばんねえとな。」そのわきを通り過ぎていく、トラック、乗用車の轟音。

 作品中の人生にリアリティをかもすのに、ファンタジックなシチュエーション、たとえば売春少女や街金追い込みのような状況を呼び込むのはマンガの常套だ。日常的ではない切迫した環境は、登場人物の行為・心理の動きに切実さをもたらすからだ。殺されるかもしれない環境で描かれる殺されたくないという登場人物の意思には、読者は容易に共感をもてるだろう。ただ、おおくの人生は日常に埋もれており、そこで意思や決断はなされている。

 『のたり松太郎』の作者は、ファンタジーではない改心を日常のなかで切実に描くために、コマによる話法を開発して、描写に手間をかけた。独白のフキダシも連れずに、夜の幹線道路をあるく主人公。ちばてつやは作風からやさしい人柄にみえるが、主人公をここまで追い込んで、こんなふうに無残に描ける作家だ。

 もうひとつあげとこう、松太郎に担がれてる西尾のじいさん、天涯孤独の身軽さをいかして相撲部屋にうまく潜りこんで働いている。もとは炭鉱夫、老いてからは廃坑の炭住からもはずれた掘っ立て小屋にひとり住まい、ボタ山でクズ炭あつめて、生活保護でくらしてた。そのころの暮らしぶりは連載中にいくどが回想、回述される機会がある。あわれみを請うために、じいさんがみずからあけすけに語ったりする。そのおしゃべりなじいさんも自分について言わないことがある。

 言わないとはいえ、まったく語られないものは読者には聞こえないから一回だけ、さらっとついでのように述べられてる。幕下のころ松太郎が炭鉱町に帰省、じいさんの小屋をおとずれて飲みに誘う。じいさん喜んでとっておきの着物を出してくる。ぼろ小屋に不似合いに立派な着物、聞くと結婚式のときに着たという。「じいさまは、かあちゃんがいたのかよ」「おーいたとも、長崎に原爆がおちるまでな、さあぐずぐずしないで、はやくいくべ」、このような松太郎との会話の流れ、ちいさなコマのすみに一言。そのあとはもう原爆で殺された西尾の妻の話はでてこない。その一言を聞いた読者が気になる西尾のじいさんの子供の有無、その生き死には、まったく描かれない。

 登場するおおぜいのキャラクター、それが置かれるシチュエーション、ちばてつやは既知の典型を利用しながら、それだけではないように描いていく。ステロタイプを外れる仕組みは、ちばてつやの透徹した描写。それぞれの人生を描くために、じっくり描き込まれ、または一言一コマに抑制して描かれる、意識的に選択・構築された描写が、ステロタイプからはずれた人格を形成していく。青ちゃん、親方、阿久津、松太郎の兄弟たち、玲子の母親にいたるまで、この作品に登場する連中に読者はどうしても親身になってしまうんだ。

 

 ■2004/10/01.  デニーズは暑い。中野晴行『マンガ産業論』

 中野 晴行『マンガ産業論』、いろいろ考えてる人がいるなあ。作品の需要側の分析がデモグラフィック、年齢層を中心としてる。私の関心からすると階層・学歴による分析がほしいとおもった。

 90年代、マンガが情報として消費される分が上乗せされ売れてたって中野の分析、情報として消費するって概念が不明。あがなわれたマンガ雑誌・単行本が読まれてるんならば、基本的にマンガが情報として消費されてるはずだ。フェティッシュなコレクション趣味がマンガの消費のされ方の基本って考えてるわけでもあるまい。読者間のコミュニケーションツールとしてコンテンツ商品が消費されるのも90年代ジャンプ固有の傾向ではない。

 中野の「情報として消費」を好意的に、ぼうんやりと解釈してみる。その便益は利用されず、ブームに乗ってただ購入されただけってのを「情報として消費」とすれば、そのタイプの消費は流行りもの一般にありそうな側面だ。ジャンプは流行りものだから買われたが、キチンと読まれてはいなかった。

 いや、マンガ週刊誌たるジャンプがそいういう要因で部数伸びるんだろうか。マンガには誇示性がほぼない、そして消費するのに費用だけじゃなく時間も費やすコンテンツ商品で、そんな現象があるんだろうか。そのころも週刊少年ジャンプはマンガとして買われて、読まれていたはずだと私は考える。

 そんで私の考えるマンガの「危機」について、中野の話で思いついてすこし昨日のつづき、マンガはポップカルチャー、大衆をパトロンとする文化商品だ。作家がマイナーポエットに安住できるってのは、そうであっても喰えること。作家の好きなように描いて喰える、それはマンガ世界の厚みにつながるんかも知れないんだけど、場合によっちゃあソンなんじゃないかと疑っている。私はたとえば黒田のことを言ってるのだ。

 黒田硫黄はヤングマガジンで熱血自転車マンガの連載を持て、しりあがり寿は朝日新聞のようなぬるい場じゃなくってビッグコミックスペリオールとかで爆笑ギャグを描け、まだ間に合う。私は勝手にそうおもう。

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 ファミレスで少し仕事、作業にあいてリュックに入ってる『のたり松太郎』を開く。野良犬をそばに置いてクチボソを釣る松太郎、となりに中学の恩師と付き人。土手のうえに小さく親方、おかみさんらが立ってる姿。家族や同年齢集団ではない人間関係、すごされる生活のていねいな描写。この作品、まだ終回を迎えていないはずだ。このようなレベルの作品がこれから生産されないというんならば、マンガは危機だろうなあ。

 

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