部屋の片付け、かずのこの塩抜きの確認などしながらテレビをちらちら眺める。こうゆうときしかテレビは見ない。で紅白、あ、大塚愛見れなかった。オレンジレンジの『ロコローション』、コーラスのおねえちゃんいればもっとよかった。前川清の『そして神戸』、ああ衰えてなくって良かったって聞いたらもうテレビ視聴ヤメて読書。
読みさしの宮台真司・中正昌樹『日常・共同体・アイロニー』、案の定、宮台が「戦略」なんですなどとと言い出して読む気をなくす。先日の読書の『当事者主権』、著者の一人の上野千鶴子、上野も「戦略」ってよく言うんだよな。ふん、政治家ならば基本的に、戦略で言説をあやつりながら、それが戦略であると自己言及したりはしないだろ。
気持ちよく年越すため別の本、杉浦茂『杉浦茂マンガ館』をひらいて、おめでたい気分。ごらんいただいてる皆様、よいお年をお迎えください。
高松でもうどん、博多でもうどん、東京じゃそんなに喰わねえんだけどな。九州からの帰りも新幹線にして、ビール、ワンカップ、朝倉世界一『地獄のサラミちゃん』の再読、うさちゃんの泣き顔につられて涙ぐむ。列車での移動は嫌いじゃないのだが、名古屋をすぎるころにはさすがに座席にいるのにも飽いて眠る。画像は高松のかまぼこ屋。
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小田扉がやっていると騙ってみたカード式情報術、思い起こせば倉地久美夫がそれをやってた。
倉地久美夫はミュージシャン、菊地成孔・外山明などと音楽活動をしているらしい。倉地とはずいぶん前、しばらく遊んでた時期がある。ながらく会う機会もなかったが、去年NHKを見てたら「詩のボクシング」というイベント、倉地久美夫が画面に映ってる。自作詩の朗読で優劣を競い合う番組、ブラウン管の倉地くん、ずいぶんハゲてはいるが、奥まったところからひびく声、一反木綿、しまうまタクシーなどの詩想はかわってない。いや舞台のうえの倉地、素にみえる状態から転調してトランスに入る、大きく口をひらいて怪奇の世界をうたい描写する姿、声にふるえた。倉地久美夫はその年のチャンピオンになった。
倉地くんとは、宅島くん、倉光くん、松浦くんらと一緒に自主制作映画を作ってた。宅島くんがおもに監督、その指示で奥多摩山中、われわれは裸体に白衣をまとい、ケチャップまみれになりながらとび跳ねて走り、八ミリフィルムをまわした。われわれの代表作品は「帝都に向かって走れ」というヤツ、ぴあの自主映画コンテストに出品、松田政男にはほめていただいたが落選した。タイトルはもちろん、川崎ゆきお『猟奇王』から借りたもの。
倉地くんは個人の作品として、感光したフィルムをニードルで引っかいたアニメーション映画なんかを作ってた。たしか渋谷のアピアでやった上映会で、ギターのインプロゼーション&彼の作品の上映って出し物をやった気がする。彼はマンガも描いている。書き込んだ背景、ゆるい人物たちのいる暗いファンタジーの世界。
ロリコン雑誌での掲載からマンガ家になったのは倉光くんだった。世の中には才能のある連中がいるんだと思ってた。おれには作品はつくれない。作品の周りをぐるぐるなぞるように回りながら無駄にしゃべり続けるんだろう、そう思ってたころ。その倉地君がネタ帳につかっていたのが情報カードだった。いや、倉地くんに感じた天才の資質は小田扉とはちがうんだけど。
『団地ともお』のナゾを解く、先日のつづき、
小田扉、『団地ともお』の材料選択法、複数のカードの選択で非日常をかもして意表をつこうってんではない。必ずしも連関しない複数のできごとの描写によって、むしろ日常をこそ描こうとしてる。子どものクリスマスプレゼントにワニ柄のジャンパーって組みあわせはことさらにナンセンスなんじゃあない、日常はそういうもの、観念によって整合的に記述される以前の生活は、事物のモンタージュでもある。
人がすごしている日々のくらしでは、つねに複数のできごとがかさなっておこってる。恋愛、青春の挫折、死への煩悶、観念が整容するのでなければ特定の人生の期間が、そのようなものだけにすべて占められてしまうことはない。花壇の葉虫の悩みと親戚の慶弔ごとが重なったからといって、偶然の邂逅、象徴、暗示、シュールなどと驚くことはない。公団スタイルの団地の押入れをひらけばミシンとこうもり傘は、何の不思議もなくあらかじめ出会ってる。そういうくらしの正直な描写のためには、観念で整除しきってはならない、また、さかしらなナンセンスのことあげはなしてはならない、そういうスタンスをもって小田扉は『団地ともお』を制作してる。
いっぽうで作品の制作は、世界を整合的に作り上げようという意思をともなうものである。わたしたちの世界認識もまたおなじ傾向をもつ。そういう志向性は、本来的なナンセンスである日常生活を描写しようとするさいにジャマになる。そこで小田扉は、「団地」「ともお」を選択した。まず「団地」は、教室のような一貫した観念で記述しやすい同世代集団ではない。ファンタジーやスポーツ、警察、犯罪集団のような場面、目的の共有性をも持ってない。連なる巨大な立方体は、さまざまな家族、単身世帯が物理的に上下左右に積み重なって暮らす、観念にとってはエントロピーの高い環境である。「団地ともお」が「小学生ともお」ではないのは、観念が日常を容易に割り切ってしまうことを避けるために採られた設定である。
そして「ともお」の意味はあきらかである。ともおは熱烈に父が好きで、うれしいとヒンズースクワットを始める人物。そういう少年に観念が要求しがちなイノセントじゃあない、もうたんなるバカなのである。われわれが愛するあの少年をバカというのがあんまりならば、無意味への耐性のたかい少年といいかえよう。小田扉が任意に選んだ複数のカードが「団地」のなかにおかれ、発生するナンセンス、ふつうの登場人物ならば整合的に物語化しようとするところを、「ともお」はほぼ無意味なままで受け止める。できごとに反応はするが、反応間の整合性がなくとも生きていける。その点は主題としては、ともおのりこうな友人が、ともおと友人である意味について悩むエピソード、ともおのこだわりのなさとして描かれてる。特筆されたエピソードによらずとも画面を仔細にながむれば、ともおの目、目は心の窓だから、ともおの目は短い線で描かれてる、覗きこむべき心がない。ともおに内面での反芻がないことの証左である。
小田扉は、カード選択法による任意の事物を許容性のある培地、「団地」と「ともお」に受け止めさせて、化学反応が起こるかどうか眺める。あるいは少しマトメてみて、マトメきれなくともほうりだす。題材の選択も初期設定も、日々の暮らしの本来的なナンセンスを描くことに奉仕した。語られながら、繰り返される物語であることを拒否してる、『団地ともお』はそういうマンガである。知ってるようで知らない話が描いてある、だからわたしたちは『団地ともお』の載った雑誌を毎週、コンビニで購わざるをえないのである。
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ここまで書いたおもいつき、小田扉について前にすこしメモしといた、「描きたいことをストーリーにまとめないで、まとめきれずに、ナンセンスのかたちで放り出す。小田扉の怠慢さは読者に緊張を強いて、独自の味になってる。」ってことを敷衍しようとしたもの。うまく言えたかねえ。また骨組みだけみたいだねえ。なんか言いたいんだけど、お姉さんのココアの温かさについても伝えたいんだけど。
小田扉先生のカード式の創作法ってのはもちろん、できの悪いフィクションである。
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新幹線で四国から博多の車中、ワンカップは金陵、お供はビジネスジャンプ。尾玉なみえ『スパル・たかし』連載終了、スマンがあんまり惜しくなくなってきた。以前『純情パイン』の単行本、著者の落書きで文句言ったが、尾玉なみえが惜しい作家でなくなったのは、そこに現れてたスタンスと無縁じゃないような気がする。わたくしが『頭取野崎修平』を気に入ってる理由はわからない。おそらく能田茂の何かがが気に入ってるんだろう。昌原光一『人情幕の内』は、なんか賞とって三本目だっけ。巨大妻とミニ夫のマンガ的表現は、妻が屋根を見越す描写にいたってこの人のオリジナルの味になった。小道具も話も悪くない、絵はすごくうまい。オチの軽く抜いたカンジもいい。新人だしビージャンって場だから大サービスしてんのかもしんないけど、登場人物しゃべりすぎってのはある。喰えるかどうかわかんないのに無責任だけど、人物たちがしゃべらなくともイイようにゆっくり練って、じっくり描いてほしいね。
『団地ともお』の作者、小田扉は情報カードをつねに持ち歩いている。京大カード、KJ法、知的生活、パーソナルコンピュータの普及以降ははやんなくなったカード式情報整理法であるが、小田扉の作品制作過程ではいまだ現役である。散歩中に食事中に小田扉が、ぱたんと閃いたこと、目に留めた事実、思いついた記憶、公園で拾った話、深夜の寝床でがばと起きて妄想を、一枚づつの紙片にていねい書きとめて、それをフォルダに一枚づつぱちんと綴じて、かばんにしまう。角のすり切れた二つ穴のぶあついカードフォルダは、数百の話の種がかいてあるネタ帳である。
ネタといってもこの場合は、きちんとオチがあるようなものじゃあない。「ココアを入れてくれるお姉さんはおかあさんみたいである」「ロボットの反乱だ!」「高台の白い家に住む歩けない少女」「爬虫類柄のジャンパー」「形見のジッポライター」「うれしいとヒンズースクワットをする」「転向していった友達を忘れてしまう」「野いちごはとりあえず甘いから食べる」など。それを膨らませれば一本かけそうなネタから、ステロタイプな思いつき、気の利いた細部の描写、それらの記されたカードは分類されず、一冊のフォルダは雑多なまま、とりまぜて綴じられてある。
デスクの前に座った小田扉が連載作品のネームをつくろうとしている。かばんのネタ帳をとりいだし、留め金をはずしてカードのたばを手に取る。それを、ぱしぱしとシャッフルして、やおらに任意の二枚をぬく。えらばれたカードは、「定年後のがんこじじいが日々をもてあます」と「白線を踏みながら下校する」。
「がんこじじい」の札は何回目かの選択だが、さわりなし。この二枚をネタに一本の作品をつくるのだ。さて考えてみよう、えーと。「白線を踏む」のはみずから定めたルール、「がんこ」も規範を守るということである。共通点はルールだ。では今回の主人公は規範の裁定人、裁判官ということにしてみる。じじいが時間をもてあますってのは前にやったから、こんだせっかく裁判官なんだし規範遵守の職業意識をもてあますことにしよう、そして・・・ってこれが材料の収集と選択、小田扉制作メソッドの一番目。あといくつかあるが後で。
本日が誕生日、うれしくもないがイヤでもない。誕生日だねといってくれる人がいることはうれしい。漫画サンデーとイブニング、早売りのサンデーを読む平日、風俗ではたらくあの娘がかわいそうで『極悪がんぼ』は読めなかった。わたしはこれからも気が弱いままでいきていくのだ。
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わたくしはマンガの作品供給本数が減ることをヨクナイと思っている。そのためにはマンガ作品生産の原資を削るマンガレンタル店は、なくしてしまっていいと言ってる。その際にわたくしが留意すべきな点、思いついたのは下記だなあ。わたくしの趣味の帰結は、
・レンタルで増えるはずのマンガ閲読の機会をうばう。
・レンタル店の営業権を抑圧する。
・知的所有権を振り回してレンタル店をなくそうとまでするものである。
三番目はちょと説明、著作物は先行する著作物に依存してできあがるものなんだし、使っても減るもんじゃないから、知的所有権はあまりつよく主張されるべきではないとわたくしは思ってる。にもかかわらず、ここではレンタル店の営業の停止にいたるまで知的所有権・貸与権をふりまわせと言ってる点、ここは難点だ。知的所有権のこの程度の濫用よりも、わたくしはマンガ作品の供給維持のほうが大切だと思う、それでかたづける。あとのふたつ、レンタル店の営業権、マンガの閲読機会の増大についても、すなわち悪いことじゃない、よろしいことだとは思っているが、ここではマンガ作品の供給のために抑圧すべきだといっている。マンガを安価に読めなくっても甘受せよ、マンガの延べ読者が減少しても仕方ない、マンガレンタルの商売ができなくともガマンせよ、より重用な、価値のある目標のためには。
別の視点で考えられる批判は、レンタルによってマンガ市場の需要が喚起されるというリクツ。レンタル繁栄すればマンガ売れる、ざくっといえばマンガ作品の供給数が増大する。これはみんなが幸せになるパターン。レンタル店も著作者も出版社も読者もハピー。そんなうまい話が世の中に、なくはないけど、この場合はどうか、そのリクツがホントかどうか、主張するためにはマンガレンタル店で借りるようになった顧客が、以前よりも多く雑誌・コミックスを購入するようになったことを調査でしめせばいい。リストのある自社顧客に聞けばいいのだから、それほど費用はかからない、レンタル店の団体はそれくらいのことはやってもイイ。
調査の結果、かりにレンタル利用者がおおむね、利用以前よりもマンガ雑誌・コミックを買うようになったというんだったら、わたくしは非礼をわびて貸与権の擁護者から、マンガレンタル礼賛に回る。貸与権のある著作者に使用料など払わなくっていい、どんどんレンタルせよっていう。
っていうか、を文例とするような、文のアタマの促音の、っという用法は、すくなくともわたくしがはじめて見たのは江口寿史『すすめ!!パイレーツ』だった。促音の文頭への利用、「っ」の発明者が江口かどうかは知らないが、その普及に江口寿史が大きな役割をはたしたんだと思う。江口寿史は、鴨川つばめとともにマンガのスピードをあげた。
コマを移動する動きのコントロール、しだいに速度を上げていって収拾がつかなくなって、ページをめくるとブレイク、「八丈島のきょん」で決める。コレは山上たつひこのギミック。この流れは落語に由来する気がしてるんだけど、山上たつひこは徳島、関西圏出身だもんなあ、漫才なのかなあ。えーと、山上たつひこが『がきデカ』でつかったネタは、鶴居村、くさやの干物、温泉こけし、輪島の朝市、ひょっとこ、博多人形など、土着に分類されるものがおおかった。あともちろん陰嚢のシワとかの執拗な描写などからだ、肉体のネタね。それを、ブレイクのタイミングで使ってた。
江口寿史は、77年デビュー。74年スタートの『がきデカ』にはずいぶん影響を受けただろう。ただ土着、肉体ネタを時間操作につかった印象はない。千葉県流山市みたくシチュエーションに地方色を使ってたけど、山上のような湿度のある土着をスピードコントロールに使わない。パイレーツのころも、のちのロトリング・カラートーンの活用につながる、肉体の見えないキレイな画面。
コマの流れでいうと江口、スパッと大ゴマで止めず、スピードが上がっていってページをめくってもまだ動いてて、テクノバンドのDEVOになってサティスファクションやって、さらに加速してく。とにかく速くする方向にコマをつかいたいという意思があった。
ったく、と文頭の促音を発言する江口寿史の登場人物、もっと速くなりたい意思をもつなかで、前のコマと今わたしがいるこのコマが、物理的にはデジタルに切れているのがガマンできなくって、過去と今の瞬間、今と未来の距離を詰めたくって、フキダシの中のセリフで前のコマとの時間を「っ」が発せられる間ほどのミニマムに引き寄せた、それが文頭の促音である。
江口より速かったのは、77年に『マカロニほうれん荘』の連載をはじめた鴨川。変身変形分裂、アイデンティティにこだわりなくつぎつぎと登場人物が登場してコマを移行していく世界を創造し、コマ間の時間をないものにしてスピード勝負で江口に勝った。田村信は、江口・鴨川のように、前に進んでいくんじゃなくって、ちょんぴろすぽーんとナナメに横滑りしてった。それぞれの手法で、70年代半ばにマンガはスピードを上げていって、山上が逃れらなかった黒い世界、土着・身体からついに離陸してった。
まあ、上記の話はちょろっと書くもんじゃないけどなあ。きちんと読み返して調べて書こうと思うといつまでもサボっちゃうから覚えてることでメモした。いや、相原コージがね、今週のスペリオール『漫歌エロチカ派』のマンガ家生活20周年記念四コマってねたで、「柳沢やとりいやコンや江口」がストーリーマンガに転換したことを罵倒した過去を恥じいるマンガを描いてた。それで思い出したの。相原コージがあげた四人の作家、加えて75年の新田たつお、79年のむつ利之のこともあわせて考えたいなあ。
12月8日付け朝日新聞朝刊、レンタル店・貸与権の話が載ってる。都市在住だとあんまり見えないんだけどレンタル店って結構あるのね、記事によれば貸与権の使用料徴収対象になるマンガレンタル店の数は全国で220-230店くらいなんだって。著作権者側は、1万冊以下かつ昔っからやってる貸し本屋には使用料を課さない方針らしいが、まあマンガの世界は古い貸本店には大恩があるから当然の措置だな。
朝日記事、レンタル店に課する著作権料いくらにするか、レンタル店側と著作権管理団体のあいだでモメてて一月の施行に間に合いそうもないという話が主題だが、マンガ世界の豊穣をのぞむ読者は、貸与の著作権使用料に関してどういう態度をとるべきか。
そのまえにマンガの最近のレンタル店の経営ね、著作権者側のいう20回転の想定、60円で貸し出してるとして20×60で一冊あたり1200円の売上げ。コミックスの単価が400円くらいの正味7.6掛けで仕入れが300円として、25%の原価率、75%の粗利。類似業態の新古書店とくらべたら、どっちがうまい商売かって考えると、商売の規模が新古書店のほうが大きい現状ふまえれば、おそらく新古書店のほうが基本的にはイイ商売なんだろうなあ。新古書店は、顧客管理のインフラがいらないから参入・出店障壁が低いってのもありそうだ。
レンタルの総市場がどんくらいあるか電卓たたいてみると、平均2万冊くらいの在庫があったとして、20回転×2万冊×230店、累計の読者数、閲読機会が9200万回。60円のレンタル料で約55億円の市場。5000億円マンガ一次市場で、小さいと見過ごせる規模じゃあないね。いや、それ以上に、レンタルした人はすべて本来ならコミックスの購入者であったはずだと仮定すれば、9200万回×400円=368億円、マンガ市場はレンタル店によって、約350億円のコミックス売上げの機会損をこうむったと主張することができる。これはずいぶん大きい数字になるな。もちろん実際は、レンタル機会がまるまる販機損になってるわけじゃなないだろうけど。
ちなみに著作権者側の要求してる使用料は、一冊あたり定価相当の使用料、レンタル店側は一回あたりレンタル料相当分の60円。年間仕入れ冊数が在庫の半分の10000冊として上記の前提で計算すると、著作権者の要求する総額が年間9億2千万円、レンタル店側の主張では総額1億3千8百万円になる。
先日書いたように、作品の供給数の維持すなわちマンガ雑誌の維持を志向する読者の立場からいうと、著作権者への使用料の還流よりも、雑誌を出版する企業の経営基盤の維持のほうが重用である。60円と400円のあいだの妥協額の掛け算よりは、貸与権のカバーできる範囲ではまったくないが、コミックス売上げの機会損の払拭のほうが大事。その意味ではマンガの読者と著作権者とは、この件で利害が一致しない側面がある。もちろんマンガの豊穣をねがう読者と、マンガの消費者の利害もおなじではない。
いずれにせよ、レンタル店がマンガ作品数の維持・拡大に寄与しているという理屈は考えにくい。レンタル店と折り合いつけて生かさず殺さず最大限の著作権料を正当に回収するよりも、大金をふっかけてマンガレンタル業の経営が成り立たないようにするほうがイイと考える。
散歩してスーパー、今晩はポトフにしようかね、キャベツとソーセージとか買って、ファミレスでコーヒー。うすた京介『ピューと吹くジャガー』の8巻、あいかわらず絵がうまいなあ。いやおもしろいんだけど、なんでこの作家は才能をムダづかいしてる、さぼってるってカンジがするんだろ。
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いつものようにぜんぜんまとまってないけど、思いついたことのおおスジね。どーすればマンガ供給数を減らさないようにできるのか、マンガ供給形態と配分の視点で考えてみる。いやそういう視点で考えてみるのはね、カンなんだけどね、マンガ作品の供給数の低下が、マンガ作家の側からもたらされそうな気がしてるんだ。
マンガの供給形態は、雑誌・コミックス・廉価版コミックス・総集編別冊・マンガ文庫かね。あとネットとかの電子メディアが少しか。いまんとこ基本的に新作が投入されるのは雑誌だけど、雑誌以外のほかの供給形態でもっと新作をだすようにすれば、マンガ作品の供給数を増やすことにならないだろうか。
この話のスジでは、マンガ雑誌連載=作品供給源ってとらえ方してるけど、マンガにも単行本書下ろし作品だってなくもない。たしかに書き下ろしなら、雑誌の連載ワクによらず増やすことができそう。しかし雑誌のような複数作家、作品が載ってる形態ならば多数の作品を読者に読ませられるけれど、単行本は一作品しかない。かりにマンガ雑誌がなくなって新作が単行本で供給されるようになると、消費者側が指名して特定コンテンツを購入することになり、人気タイトル・人気作家への集中がおこるはずだ。単行本は、新規作品作家への需要を喚起する、提案するはたらきを自身でもたないんだ。けっきょく作品供給数は増えず縮小再生産になる。
作品数を維持拡大するって観点からは、書き下ろしへのシフトは喜ばしくはない。供給側の主導で、指名されない作品を提案、読者に読ませる場、つまり"雑"誌を大切にしなくちゃなんない。ついでに言えば、マンガ文庫や廉価版コミックスによる単純な二次使用よりも、雑誌版形の総集編で旧作をリサイクルしながら、オマケの新作をプッシュして、供給数を増やしたほうがよいなあって、そんな話がひとつ。
あとタテヨコの配分の問題。まず、マンガ市場のなかでの作家全体への配分。マンガの直接のマーケットサイズが雑誌+単行本あわせて5000億円くらいはあるらしいから、印税相場の売価の10%程度ってのを参照して、一割を作家の取り分とすると500億円。作家が喰えるために、一人あたり平均1000万円わたすとして、500億円を1000万で割って5000人。アシスタントの取り分、わずかな取材費、材料費あわせても、トータルでは2,3千人の作家は喰わせる規模があるだろう。もっと作家の取り分を増やしてほしい気もするが、雑誌数、連載ワクのほうが先行して作品数を規定する要件になっており、また出版社取り分の多くは雑誌維持や新人育成の再生産分に回るのだろうから、そういう使途であれば、それほど文句は言えない。
そして作家間、ヨコの配分、たとえば、おそらく同じ雑誌で作家間の原稿料の格差は100倍にはならないだろう。せいぜい10倍程度じゃないかなあ。それをまとめたコミックスの個々のタイトルの売れ行きでみると、100倍程度のひらきはありそう。雑誌が自身のブランド力で売れている側面はあるが、マンガはコンテンツ商品だし基本的に人気作品の魅力で雑誌は売れる側面が強い。そう考えると、現状、人気作家への配分は市場評価よりも低くおさえられていることになる。市場評価によるなら単行本だって、出版契約料や、パーセント固定じゃない部数累進性の印税を導入したってイイはずだ。
かりに正当な市場評価の反映を要求する声が大きくなって人気作家への配分があつくなっていくと、ほら、われわれは今年の騒ぎでよく知ることになった、プロ野球とおんなじ道をたどることになる。人気マンガのぶんを正当に支払うようにすれば、新作・新作家の取り分をうばい、雑誌を維持する出版社の取り分にも食い込んでいく。新作品・新作家への再配分機能をもつ雑誌の維持があやうくなる。
現状の雑誌の再配分システムを温存しているマンガ出版界の旧体制は、人気のない作家が喰えるように、雑誌が維持できるようにしていて、作品供給数の確保に貢献してる。透明でも公正でもないマンガ産業の古い構造が、作品数を維持増加させたいニーズには適合しているんだ。そういう意味では読者が供給作品数を維持したいのであれば、消費者の正当な評価、市場評価に応じた作家への配分をしないマンガ産業の現状、取次、再販、寡占などに守られた出版社優位の旧体制を、むしろ支持したいところである。
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話しを戻して、貸与権ってのがレンタルショップ、あるいはマンガ喫茶の牽制に成功して貸与制限期間などを設定できればコミックス市場の維持にはやや役に立つ。そして、それに支えられる作品供給源である雑誌の経営維持にも役に立つだろう。豊富な作品供給数を重視するものの利害にもプラスに貢献する。ただし今回の貸与権を実現した作家・著作権者の声がおおきくなって正当な配分を求める要求になり、新作品・新作家を供給している雑誌の存続を危うくするようになるとマズイことになってくる。マンガの世界が豊穣であるためには、純な単行本よりも、"雑"の世界を維持することが必要であると考えるのだ。その雑誌の危機は、もしかすると市場の縮小以上に、市場システムの貫徹をもとめる作家の声で起こるかもしれない。
今週発売のマンガ誌、マンガ(それを含む雑誌・書籍だけど)に貸与権が認められるようになったよ、ありがとうって告知が各誌に出てた。ひごろお世話になってるマンガ作家のみなさんのヨロコビなんだから文句はない。知的財産権にかんしては一般的にはその範囲を制限したほうがよいという意見をもっているが、貸与権のもんだいは、大勢にカンケーないと思えるからかまわない。
ところでマンガの市場規模、マーケットサイズってのは、先日読んだ『マンガ産業論』にもあったけど、供給作品数って見たことないな。マンガ市場規模が私の人生にかかわらないことはないけど、それよりも直接的には、作品数のほうがたいせつな指標である。わたくしが日々消費するマンガの作品数が減ったらたまんない、その点はわたしの重大な利害関心にあり、作品をたくさん供給しつづけてほしいと願っている。もっと直裁には、わたくしが読みたいマンガがたくさん供給されることを希望するが、まあそこまではかまってくんなくてイイ。
供給されるマンガ作品数が多いほど、マンガ作品に満足する人は多くなる。おもしろい作品が供給されるための要因は他にもあるけど、アイテム数・作品供給数の多寡がそれにかかわることは確かだろう。そこでまず、いま供給されてる作品数をかぞえてみよう。出版点数ってのは一巻二巻を一点づつ勘定するからあてになんない。マンガの場合、小説とかとちがって書下ろしってのはあんまないから、雑誌連載作品を作品タイトルの供給源として考えてみる。
マンガ雑誌の定期刊行物の数は週刊13誌ほか、隔週月刊あわせて勘定したら120誌くらい。麻雀誌・パチスロ誌、マタニティ誌とか、レディスコミックなどで何だかの別冊名義で出てるものは別だけど。かりに、ざくっと一誌20作平均としたら、マンガ専門誌だけで2400くらいは連載ワクがあることになる。これに平均連載期間の数字をどっかからひねり出せたら、供給作品数だせるね。まあ、年間に数千単位で連載作品があるって考えとけばいい。これ、多いのか少ないのか。
映画だったら、日本映画製作者連盟の統計では、03年で洋邦あわせて配給本数は620本らしい。音楽CDであれば、えーと日本レコード協会の統計、邦盤の新譜タイトル数が7550本、うちアルバムが5120本。ちなみに、デビュー歌手数は281人なんだって。
マンガの年間供給作品タイトル数は、音楽よりも少なそうで映画よりも多いってところか。わたくし自身はそのうちの20誌ほど、×20で400連載ワクくらいで量的にはおおむね満足している。他コンテンツ市場と比べて作品供給数は少ない様子もないし、現状のマンガ作品の供給、読みたいマンガがないってことはおいといて、数がすくないって問題はそれほど起こらないような気がする。そんで、マンガ作品の供給数を減らさないようにするためにはどうすればよいって考えてみよう。
ながくなったからいったん切りますね。