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1998.02 これはやっぱり仕方なかったんでしょう、「考える機械」の台頭が、考える動物である人間を「疎外」するというのは思い付きやすい図式です。また、80年代以降にパソコンが普及するまでコンピュータは身近ではないですから、たんに想像を超えたものへの技術恐怖症って側面もあるはずです。 教育的機能も持っていたのかも知れません。子供はおとなになればなんでもできると思ってます。コンピュータが絶望をもたらすのだと教えれば、子供たちが未来社会に投影したい全能感を否定して現実原則を叩き込む効果があります。やっぱり人は自分で考えて努力しなきゃだめなんだ、というわけです。 気になるのは『地球へ…』でも『火の鳥』でもコンピュータが母親であるという点です。『銀河鉄道999』もそうでした。これらの作品では、コンピュータの管理社会が母性的支配として現れている。管理社会モノの古典であるオーウェルの『1984』では、理性による男性的支配が描かれてたのと対象的です。テクノ・フォビアの日本的形態なんて名付けてもいい。 少なくともこれらのマンガ作品が描かれた、もしくは作家の基本的な問題意識が形成された高度経済成長期までの日本では、男性的・理性的な管理社会の恐怖ってのはリアリティがなかったんでしょう。 とすると、これらの作品群に描かれたコンピュータによる管理社会のイメージは、未来社会でもなんでもなく日本的なイエの母性的な束縛のメタファーにしかすぎなかったともいえますし、じつは「ポストモダン」的なソフトな支配の形態を描いてたのである、とヒイキの引き倒し的に強弁することもできます。 もっとも、映画『2001年宇宙への旅』でもコンピュータは女で母親だとか、「マザーコンピュータ」なんて言い方もあると言われれば、日本的支配とマンガ作品のコンピュータの母性的支配を結び付ける理屈は、すぐさまに崩壊します。失敗。 ***** 管理社会マンガというのも変ですが、その類のマンガで印象深いのは、諸星大二郎『生物都市』です。これは諸星のメジャーデビュー作で、手塚賞とった作品です。諸星は類似するテーマで後に『失楽園』という作品も書いてます。 『生物都市』では、未知の惑星にやってきた乗組員と宇宙船が、機械と生物を融合させるウィルスに感染してしまいます。宇宙船は乗組員たちと機械が融合したまま、みずからの意志で地球に帰還します。地球でもウィルスは蔓延し、人々はそこから逃れようとしますが、腕時計や家具などを通じて感染し、それらと融合した人間たちには個々の意識を超えた至福感がもたらされることになります。主人公の少年はそこからうまく逃げ出して山の中に隠れます。 ここで語られているのは機械の支配による人間の「疎外」ではなく、無機物と人間、人間と人間の融合による個の超越といったモチーフです。このような作品にとっては背景と人物のタッチを描き分けず、スピード感のない、諸星の不器用な描線は必然的です。そこに描かれているロケットも木々も馬も家具も顕微鏡も、ウィルスに感染して溶けだす以前から、もはやなんだか溶け合っています。 人々を支配して管理する者だか物だかが登場するわけではない『生物都市』を管理社会モノに分類するのはやや無理がありますが、先にあげたコンピュータかあさんの人間支配が描いてある作品と『生物都市』は、同類です。 管理ってのはそもそも管理する側の主体があるはずなんですが、すべてを包みこんでしまう母性的な支配は、管理の主体が無くってもかまわないわけです。状態としては男性的な支配とはぜんぜん違いますが、そこで支配されている人らにとっては自立的な行動を束縛されてるという点で同じです。 だから『生物都市』は、『地球へ…』『火の鳥』などの、支配の主体が母なるコンピュータとして登場する作品群とおなじ位相にある作品と考えていいわけです。管理する側の主体さえ消してしまったという意味ではむしろそれを純粋にしたといってもよい。仮に手塚治虫や竹宮恵子がおかあさんの支配に浸って幸せになりたいと本当は思っていても、マンガは普通はストーリーがあるものですから、展開の都合上は支配する主体をつくってそいつを悪役に設定せざるを得ません。近代主義のイデオロギーとのしがらみもありますし。
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