不自由なマンガとコンピュータ.3   「コンビビアル」のスペクトル

1998.02


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 栗原彬は論文「管理社会下の大衆文化」で、大衆文化なかでのマンガをつぎのように評価してます。

 「マンガを見る(読む)」ということは、五官を総動員して参加す
る経験である。画面中に「シーン」と書かれていれば、読者は次の場
面の緊張の炸裂を予感しながら、その聞こえない音を聞くし、腐敗物
の絵に「プ〜ン」とあれば、現実には匂っていない臭いにおいをかぐ
のである。コマを行きつ戻りつ、読者は自分の欲求と情念と願望を投
射し、創造力の振幅を経験する。この経験の自立性は、同じマンガが
アニメーション化された映画やテレビを見るときの経験に照らせば一
目瞭然だろう。アニメ化された映画やテレビにおいて、人は「見る」
行為を一方向的に制御される。

 そのうえで、産業の技術合理性や社会権力が押し付けてくる一方向的な管理に対抗的に働きうるマンガはスバラシイと賛美します。つまり、マンガはインタラクティブで受け手側が主体的になれるから肯定する、テレビなんかは視聴者が一方向的に受け身になって、カンリされてるから良くないんだと述べてるわけです。

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 栗原は、マンガが押し並べてコンビビアルですばらしいと主張してるのではなく、マンガのなかにも色々あると言っています。

 白士三平・つげ義春・真崎守はコンビビアル側(つまり善玉のほう)で、松本零士は中間、手塚治虫・石森章太郎などは管理の側(悪玉のほう)にちかいと分類してます。

 たぶん栗原はマンガを読んでるんだろうけど、この分類はヘンです。ヘンというのは、栗原の視点からはこのような評価がでてくるはずないんです。

 受けて側の自立性・自発性を重視する栗原の理屈の筋から見るのならば、たとえば、アニメーションの経験がありコマ割による時制のコントロールが手慣れている真崎守・手塚治虫が管理側で、マンガ独自の時間操作にも優れた石森が中間、アニメに縁が深いけど不器用な松本零士と、白士三平・つげ義春の作品は受け手の時間コントロールの裁量権が大きいからコンビビアル側に分類することができます。

 栗原の白士・つげ・真崎が善玉で手塚・石森が悪玉という評価を栗原の理論を離れて意味あるものとして解釈しようとすると、たとえば白士・つげ・真崎のほうがなんとなくカウンターカルチャーっぽい感じがしますが、それじゃあんまり浅薄だし、松本の評価が落ち着かない。白士・つげ・真崎をガロ&COM系と解釈してもダメ、石森もCOMにかいてるし、もともとCOMつくったのは手塚だし。

 ぼくが思い付いた解釈でもっとも妥当なのは、中間の松本がヒントになるんですが、びんぼうで若い奴が苦労したりがんばったりする切実なマンガを描くかどうかという軸であるとの解釈です。結局たぶん栗原は、びんぼうで若い奴が苦労したりがんばったりするマンガが好きなのでしょう。

 すくなくとも、受け手側のメディア接触の様態の自立性・自発性を重視する栗原の視点からは栗原自身の作家分類は解釈できない。栗原が示した分類は展開した理屈を無視した恣意的なものであったと言えます。


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