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1998.04.04
九八年の春、世界はピアノの天才少女「うた」の力を認めました。初夏なみの陽気にひちぶ咲きのさくらが、幸せな少女を祝福してるようです。さそうあきら『神童』。生意気で無垢な少女が芸術をよくするというシチュエーションですが、さそうあきらのつくる清潔な画面とキャラクター設定によって佳品となっています。この様子だと有頂天になって音楽の心を忘れるって展開はなさそうだから、次の一手はどうするのか。うたは恋愛も失恋も一通り経験しておりますから、転機は破瓜か。 * 無垢な少女がもっとも美しいのは、それが「汚される」ときなのでしょう。それがもたらすドキドキは、一般的な危機との直面のばめん以上の意味があります。ある種のマンガ作品でそのようなシチュエーションはくり返し描かれてきました。そして、そのうち作品中の少女を汚す行為はエスカレーションして無垢の未開拓地は縮小します。そうして性的イマジネーションの源泉は涸れていきます。 * 『神童』は性的描写をうりものとする作品ではなく、ただ無垢な少女が登場するというマンガであるのに、読むものに少女が「汚される」妄想をなぜかもたらしてしまいます。これはあながちわたくしの性的妄想のありかたのみに責任があるわけではないでしょう。眼球の処理にベタを避けた白っぽい画面のさそうあきらのこの作品から性的な妄想を紡ぎだすのは、多くの人にとって意外に難しくはないはずです。 このような妄想が容易に発生してしまうのは、主人公が天才であるからです。主人公のうたさんには、ピアノの天才という属性が与えられています。音大の受験生の指導をするだけでなく教授たちの腕をも陵駕し、世界的なピアニストに認められています。絵にかいたような天才です。 * そのような天才少女には何が求めれれるでしょうか。天才が少年であれば早死にが期待されるところですが、少女の場合は天賦の才能の喪失です。『神童』を読むものは、うたが天才を失うことを期待せずにはいられません。 無垢というのは直接的には白紙の状態の比喩ですが、そこには何もないわけではありません。むしろ「疎外」されていない、純粋な能力がそこにはあるということになっています。たとえば素朴派の画家のように、何も知らない既成画壇の手垢がついていないゆえの天才が存在してしまいます。無垢な少女は、無垢ゆえに本来的な天賦の能力を持っている。そして、それが失われる美しい瞬間を目撃したいとわたしたちは願ってしまう。 * 無垢な天才少女というイメージが存在しうる基盤は、ひとつには本来的には人間は何だかすばらしい能力を持っているという疎外論的世界観と、もうひとつ性的経験が人間の本来的な能力を阻害するという思考法であります。女が生まれつきに持っているはずの特殊な能力が、セックスを経験することにより、失われてしまうはずだという確信。これは性を抑圧するキリスト教的な発想にわたくしたちが毒されているというだけではなく、忌みや穢れの観念など日本人がむかしっから持ってる考え方にも適合して、わたくしたちが強くとらわれているのでありましょう。 『神童』のうたさんの場合は「汚」されて、失うことを期待されてるのは、あからさまに表現されてる天才でありますが、別に天才じゃない少女でも「汚」されることによって、それこそ「何かを失ってしまった」感があるわけですから、基本的な事情は同じです。その表現はたとえば榎本ナリコ『センチメントの季節』の連作にもいくつかあった。さがせば超能力ものにもあるんじゃないかな。 * このように考えると、さそうあきらの『神童』での上品な画面作りはどういう意味を持つのでしょうか。うたに天才の属性を付与してその喪失を示唆しつつ彼女を端的に言えば色気の無いかわいらしい娘として描くことは、じつはセックスの際に男性ができるだけピークを先送りしたいと考えることと同様に、読者が見たいと願っている、うたが「汚」されて天才を失う瞬間を、抑制的な画面作りで遅延させて、喪失の美しさを高めるというねらいなのでしょうか。 * わたくしはそれほど、さそうあきらを信頼してないので上記のようなストーリー展開になることも覚悟(もしくは希望か)をしておりますが、小犬のようなうたの目の玉のつくりは、セックスの経験の後も天才でありつづける、「汚」されることによって何もうしなわない少女の類型を期待させるものでもあります。
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