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■1999/09/30 焔炎々ともゆる三尺ばかり。
川井某という武士がいて、非番の日に家でくつろいでいた。わが居間にて上下衣服を着がえて座につき、庭前を眺めていたところ、縁側の手水鉢のそばの葉蘭の生い茂った中より、焔が炎々と燃えている。
家人に刀・脇差しを次の間に取りのけさせ、気分が悪いといって布団をとりよせて横たわって、気を鎮めていると、その焔のむこうの板塀の上から、ひらりと飛び降りるものがいる。髪をふりみだした男が白い襦袢を着て、峰のぎらつく槍を打ちふり、すっくと立ちてこちらを睨んだその面差しが尋常ではない。
なおも心を臍下にしずめ、目を閉じてのち再び見るに、今まで燃えたてる焔もあとかたもなく消え、かの男もいづこかへ行った。常にかわらない庭のようすだった。
茶でも飲んでほっとしてたら、しばらくすると川井さんの隣の家で騒ぎがある。その家の主が物ぐるひで、白刃を振り回してわけの分からない叫び声をあげてるという。さては先ほどの怪異のものが「通り悪魔」で、わたしはおちついてやり過ごしたから隣のうちにいったんだろう。川井さんはそう述懐します。
宮田登『「心なおし」はなぜ流行る』、都市民俗学エッセイ集。そこで取り上げられてたエピソード。いいねえ、昔の人の話は。映像がくっきりと見える。ここでの怪異は民俗的な感じというより、中国の説話っぽいですけど、川井さんの剛胆というか、理性的な対応がいいです。
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さてこういう話を知ってて例えば先の池袋での通り魔事件が起こると何か一言しゃべりたくなります。池袋の都市"近郊"としての特性とか、離村者の心意とかも併せて。都市民俗学の可能性のひとつはここにあるんでしょう。それは社会学的・心理学的分析と同様に事象を理解するうえで意味がある作業だと思う。ただ、下関も併せてやろうとすると、重出立証法っつーんですか、悪いところが出るような気がする。例えばこの本でも、通り魔が出るのは辻が多いって指摘の上で凶事と辻の関連を説明してる。そりゃ市街地の道だったら近くに辻がないわけないじゃん。
本書では、桜田勝徳や宮本常一らを援用しつつ都市の成り立ちについて心意の側面も含めた説明を試みています。このへん市民批判の文脈にもつなげられそうで面白い。網野史観が期待する非農業民の系譜を受け継ぐものではなく、柳田の農本主義的偏向が愛する農民でもない、もちろんシチズンでもブルジョワジーでもない、堕落した農民の子孫としての市民、って考えて喜んでじゃいかんか。
■1999/09/28 コラージュの家族写真
岡山で仕事、行きの新幹線ではアクションと宮田登『「心なおし」はなぜ流行る』小学館新書をゆめうつつで読む。小学館新書って民俗学が多いんだよな。宮田は大塚英史の師匠ですね。えーとこの本は都市民俗学。ハレ・ケなどの民俗学の道具を使って病理現象など社会的な事象を説明する。移民の故郷感などおもしろい。###
『ワッハマン』で感心したあさりよしとお、『宇宙家族カールビンソン』の一巻を買ってきました。アフタヌーンで同作品の復活連載がはじまったようです。同作品はテイスト的にはナンセンスの無い吾妻ひでお風。SFが苦手なわたしは二巻以降も買おうとは思わなかった。でも、良かったです。
地球から飛び立った宇宙船が事故に遭い、両親が死んで赤ん坊のコロナちゃんだけが生き残る。それを発見した宇宙生物らが親代わりになって、その子を育てていく。
チチハハの役割分担はおろか性差もない(父親に至っては生き物でさえない)存在が、そこでは家族のふりをしています。親となった生物と無生物がコロナちゃんを楽しませるために、遭難した宇宙船のコンピュータの「メモリーバンク」からコピーされたデータを元に「端午の節句」や「梅干し」や「運動会」や「クリスマス」を不器用に再現してエピソードが構成されます。つまりコロナちゃんの家族も、それを巡るできごともすべて捏造されたものなんですね。
かろうじて生き残った赤ん坊が生を終えるまでのわずかな間に、家族とすごす生活の夢を見ました。そして他に生物の痕跡のない星に置き去りにされた、架空の記憶の残骸。
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そのような『宇宙家族カールビンソン』から『ワッハマン』への移行は、近代家族をモデルにした架空の家族から、血縁モデルを要しない共同性の志向への変転として理解されます。宇宙家族においてもその家族の架空性は強調されてるんですが、ワッハマンでは親子・兄弟のモデルも捨てちゃいました。そこで濃い共同性をかもす仕組みは、ワッハマンの存在。寅さんどうしてんだろうねっておばちゃんが言う、あれですね。もう一つ決定的なのは"敵"の存在だけど、コレ抜きでやれないもんですかねえ。
諸星大二郎『失楽園』の主人公がひとり、決意をもって飛び出していった自然・包み込んでくれない自然のなかで、あさりよしとおの登場人物たちは小さなコロニーを形成しようとしてる。がんばれ。
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講なんかで言われるの親・子(バクチの親とか、やくざの親子ね)ってのは、血縁モデルを当てはめたんじゃなく、そもそもこっちが先。血縁の親・子ってのはそれを適用したものだ。なんて話を宮本常一だったかで読んだ記憶があるけど出典はもう不明。
■1999/09/25 マッチポンプ
今週は地方巡業なし、久しぶりに東京一週間。近所の本屋新刊書のコーナーでちくま新書の『セーフティーネットの政治経済学』金子勝。知らない人だけど、ぱらりとめくってみて買った。あと『宇宙家族カールビンソン』あさりよしとおと、ビッグコミック。同書はバブル経済とその後の不況について新古典派の政策の失敗として記述しています。私もこのようなものだろうと理解してるのですが、私は"趣味"的にそのような理解をとらざるを得ないので三割引。規制緩和への批判も大いに同感も同じ事情。
主題であるセーフティネットの市場経済との一体不可分性について良く納得できました。これ、思想史的にいうと「見えざる手」以前のアダム・スミスの問題につながるんでしょう。内田義彦をまた読まなきゃな。えーと、実際の市場は変数の多さから予見可能性が低いなどの要因によって、新古典派が想定する合理的経済人が存在し得ない。だから市場経済が安定的に存続するためにはバクチに負けても安心で、市場参加者間に信頼の契機を提供するセーフティネットが必要であるって理屈の流れです。
新古典派に対して、情報が十全ではない・変数が多すぎて計算できないはずって批判は基本的(で根底的)な難癖だから連中も反批判を用意してる。それとセーフティーネットの設置が市場参加者のモラル崩壊・ひいては市場経済の崩壊をもたらすという批判も出てくる。
ただしセーフティーネットのモラル崩壊が仮に必然的に発生するものだとすると高度経済成長期、終身雇用・年功序列賃金下での労働者の高いモラールを説明できない。無能でも、あんまり働かなくてもクビになんないだけじゃなく、給料も変わらない。なのに、みんなたくさん働いてた。
日本的経営下での高モラールが特定の条件で成立したものであったということは事実です。しかし、その条件を崩したのはひとつには個人主義的・市民主義的イデオロギーの蔓延ではなかったか。何のことはない、共同性の基盤を崩したあげく、そもそも市場しかないんだって説いてる。
個人主義イデオロギーが推進する市場化が、必然的に他者志向的な人間を生み出してしまうという指摘も重要。
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先日の日記の補遺、「日本の橋」の保田輿重郎に共同性について聞くのはスジ違いって意見もあるでしょう。聞いても天皇による文化的一体性みたいな話だし。保田読むなら、産業や近代科学を相対化するような自然と人間の関係について、保田の日本に可能性をみるという手で再読するしかないって視点。
でも日本人の自然への態度についての話はもう私はいらないんだよな。その論点では本居宣長の老荘批判以上のレベルをぼくは知らない。
■1999/09/18 週刊誌のマンガ 1.週刊文春
広島から新幹線、灰色の有機体風新幹線の車内にて週刊文春を読む。巻頭グラビアに広末涼子主演の映画『秘密』の紹介。いわく、広末が演じるのは娘の体に心が宿った40歳の母親の役柄。この設定はマンガの読者ならば大島弓子を想起せざるを得まい。原案なのか、それとも昔っからあるストーリーなのか。###
週刊文春990923の連載漫画は、
いずれもタイトルはどうでもいい作家、作品が並ぶ。文春連載マンガといえば赤塚不二夫『ギャグゲリラ』がここではなかったか。週刊誌連載は刺身のツマだから実験も可能で失敗も可能、ホームランもあるという例。東海林さだおは私が愛する作家だが週刊誌見開き連載で面白かったためしがない。東海林さだおは見開きのスペースじゃあ実験できないよね。それとももう、作品は描けないのですか。
『タンマ君』 東海林さだお 『いわゆるひとつのチョーさん主義』 高橋春男 『のんき天国』 いしいひさいち
高橋春男は、えーとつまんない。このひとは単に面白かったためしがない。エッセイなどで見るにセンスは好感もてるんだけどねえ。スパの連載で四方田犬彦が「金髪・野球帽のマンガ家」に間違えられたむねを報告してたが、高橋春男は噂の真相の連載でそれは大層に無念で悲しいことだと気の毒がっていた。同感。さて、いしいひさいちはというと面白いなあ。今週は西武の堤、読売のナベツネらが登場する。作者は、そもそも出世作『がんばれタブチ君』で田淵選手とはまったく関係のないキャラクターを創造して成功したように、ここで登場する堤もナベツネもキャラ自体は本人と重ならないのではないか。彼はマンガ作家としては何もないところからキャラクターを作る能力は弱い。山田君のつまんなさ、ののちゃんの弱さを想起せよ。だけど、設定を借りて性格を捏造する能力に長けている。これは絵のヘタさ・造形力のなさという弱点と機動力のある妄想力という能力のバランスに由来するんじゃないでしょうか。
最近では造形・性格付けともに成功した女先生(先生・推理作家役)が別格。これ、身近な人物がモデルなのかなあ。
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おたより、たくさん(といっても十指に満たない)戴いてます。ありがとうございます。すこしづつお返事します。
■1999/09/16 もうすぐ一万ヒット。
このページ、だいたい一日三十件くらいのアクセス数があります。エヴァンゲリオンとかロドリゲス井之介とかのワードで検索エンジンから来ていただいて、二度とこない方が一日20人くらい。定期的に来て下さっている方が一日10人くらいで、平均 5日おきに見ていただいたとして、50人の定期購読者か。ホントありがたいものです。皮算用だけどね。実際どういう方々が、のべ一万回弱も読んで下さっているのかわからない。そこで読んでいただいた方への感謝の気持ちの表明と併せて、読者像把握のために企画しました。当頁への感想、めんどうであれば好きな作品・作家・気になる雑誌などひとことを書いて、トップページのフォームでお送り下さい。あ、サイトお持ちの方はURLも。抽選で感謝のしるしを差し上げたいと思ってます。検索ロボットが10,000回来てただけって結末はやだなあ。
・名 称 :漫画読者読者感謝キャンペーン
・形 式 :オープンキャンペーン
・賞 品 :『神聖モテモテ王国』既刊揃い 五名ほか
・当選発表 :当選者にはメールで通知、送り先をうかがって賞品送付します。
・期 間 :10月あたまくらいまで。
■1999/09/11 幼態成熟にもいろいろある。
高松で朝まで仕事、帰りは新幹線。となりの子供がうるさくてつらいが仕方ない。公共交通機関だしな。寝たかったが読書、ちくま文芸文庫『保田輿重郎文芸論集』。「日本の橋」を昔なんかのアンソロジーで読んだがすべて忘れてて、再読となる。日本社会の共同性にかかわる内容を期待して読み進めるも、いわゆる哲学的・文学的文章が鼻についてとても読めない。なんだ記憶にないのは読んでなかったからだ。青年期で、かつドイツ的教養がなければ面白くないんだろうか。橋川文三『日本浪漫派批判序説』にはたいそう心動かしたものだが、保田にハマる気持ちはたぶん一生わかんねえなあ。いちおう福田の保田論を買ってみるか。
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まんがくらぶ『夫婦でポン!』村上たかし、これまで同作品について須賀原洋行ふうの恥ずかしい作品ととらえて、村上の衰退を悲しく思っていました。今月号の大阪旭屋における単行本発売記念サイン会の写真付きレポートでは、歌・漫才・じゃんけん大会など、いい大人が学芸会を恥じらいなく楽しくやっている。永遠の小学生・村上たかしの本領発揮です。もちろん村上は学校を出て仕事に就いて、結婚している立派な社会人。小学生よばわりは失礼です。小学生には不可能なホントの夫婦漫才やSM実演をやってのけます。
大人になっても心の中のどこかに少年のような部分をもっている人が好きという女の人にはぜひ、村上たかしを紹介したい。
ヤンジャンの『ぱじ』はじいさんと幼女の二人暮らしの四コマ。今のところ泣かせの部分こなれてないが、期待できる。
■1999/09/05 すりすり。
砧公園内の美術館、ぼんやり座っていると幼児が寄ってくる。二歳くらいの男児。私の短パンのひざに顔をくっつけて、にこにこしている。さらに、手のひらで私の膝、太股をすりすり、すりすりしながらにこにこ笑っている。リビドー全開の様子。
■1999/09/01 記憶を捏造する男。
きょう、高松から帰ってくる。先週の広島は新幹線だが高松は飛行機。うどんうまかった。羽田空港、電飾看板目立つところにセシール。同社の看板三人娘、あらたに深田恭子がはいってる。ひとりは引き続きお湯をかける少女、もうひとりは知らない女の人。ああこいつ社長の女だなどと邪推、ごめんなさい。機中では高松でも水曜日発売だった少年サンデー。###
『かってに改蔵』、今週は巻中カラー。表紙は雨に打たれる粗大ゴミを見つめる少女で、ストーリーとは特に関係なし。粗大ゴミの一つはシャープ製パソコンX68000、側に5インチフロッピーが散らばってる。この機械、タワー型でマンハッタン・シェイプとか言われてたっけ。国産メーカー各社の独自規格PCのなかで、最後期まで残ったマシン。それが空き地に打ち捨てられて濡れてる。この人の作品はこのような思い出が重要な役割を果たしています。
たとえばX68000についてはたまたま私は共有できたのですが、それ以外のネタは必ずしすべてを共有できない。でも記憶がなくとも、ああそんなことがあったかなあって思ってしまいます。それを実現するのが、事物を切り取る批評力など作者の力。すっかりだまされちゃって、私も思春期のころは水滴パンチやったり好きな子の家の郵便物をチェックしたりしたものだなあ。久米田康治の手によって捏造され、共有されていく過去。