後日談その1 天に煌く星に負けず   たちばな奈槻


 
夕闇の迫った森を、ひとりの男が黙々と登っていた。険しい山道を好んで行く者は少ない。コーラル城の裏手にあたるこの付近は昼間でも殆ど人の出入りがない場所だった。聞こえるのは、ほうほうという鳥の鳴き声と、薮が揺れる音、そしてずっと遠く街の中からかすかに響くラッパの音だけだった。体格の良い男は、艶やかな漆黒の髪をゆらしながら、大きな歩幅で踏みしめるように細い道を進んで行く。 
  下級貴族の服をまとった男の後を、子供が尾けている。ほんの子供だ。まだ十になっていないだろう。男に見つからないように努力してはいるのだろうが、まったく成功していない。堂々とした体躯にかかわらず、男はその気になれば猫のように静かに歩くことができたし、煙のように消え失せることができた。それを知っている子供は、切れた息をものとのせず必死に広い背中を追いかけていた。 
  男はちらりと後ろを盗み見た。子供は木陰に身を隠しながら懸命に追ってきている。コーラル城の中とはいえ、子供の足にはつらい道のりだ。肩が弾んでいるのが遠目にも分かる。 
  子供は、男の息子だった。 

  男は少しだけペースを落とした。視界が開け、懐かしい小さな離宮が現われたのはそれからまもなくのことだった。 
  パキラ山の中にある、西離宮。王妃が気に入っていた住処だ。こんなところに誰が住んでいるのだろうかと思うような閑散としたこじんまりとした建物だが、よく手入れされていた。花こそ飾られていないが、放置された年月を思えば奇跡的なほど壁や床が奇麗だし、部屋の中も整っている。きっといまでも女官たちが配慮してくれているのだろう。けれでも、がらんとしたその建物には人の気配はまったく感じられない。 
  不思議なものだ、と男は思う。王妃がここに住んでいた時分にもよく外出していて無人だったことはいくらでもあったのに。人が住んでいるのといないのとではこんなにも建物の表情が違う。 
  すたすたとあがりこんだ男は、今度は身体ごと後ろを振り返った。 
  予期していなかったのだろう。疲労に足元がふらついていた子供は、素早く身を伏せたが、その拍子に何かに躓き盛大な物音を立てた。僅かな沈黙の後、男の口から深い溜息が漏れる。 
「出てこい」 
  テラスからひゅうと涼しい風が吹き込んだ。 

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「出てくるんだ、怒らないから」 
  二度促されて、少年は身を隠していた花瓶の陰からひょっこりと頭を出した。 
  堂々とした体躯の父親が手招きしている。その顔に浮かぶ表情は、苦笑だ。それを確認した少年は小走りにすすんで男に抱きついた。涼しい風に乗って、街の祭りの華やぎがかすかに聞こえていた。 

  彼の父親は国王だった。『アドルベルン大陸一素晴らしい国』デルフィニアを治める、国王だった。 
  彼の母親はそのただひとりの妻だったが、他の国のように王妃とは呼ばれていなかった。十年以上前にデルフィニアの危機を救い『戦女神』と呼ばれた王妃が別にいるのである。少年はまだ会ったことがなかったけれども。 
  国王は、毎年天に帰った戦女神を祝う女神帰還祭の夜、行き先を告げずに出掛けてしまう。父親に尋ねても「ちょっと」と笑って言葉を濁すだけ。母親に尋ねても「さあ」と首を傾げるだけ。 
 「戦女神様にどこかで会ってるんじゃないか?」というのが幼なじみの双子の意見だった。父親の外出の話をしたら、彼らは興味深そうに瞳を見開き、即座にそう言ってのけたのである。少年の興味は膨れあがった。 
  戦女神様の話は有名だ。女神様は昔デルフィニアを攻めてきた国々をこてんぱんにやっつけた英雄だ。父王が王位を取り返した時に一緒にコーラルにやってきた女神様は父王の王妃様でもあったらしい。 
  沢山の話を聞いた。目が眩むほど美しく、強い意志と優しい心を持ち、天の使いのように強かったという麗人のことを。流れるような黄金の髪に森の緑よりも深い瞳を持ち、ロアの黒主を手懐け、険しいパキラ山を狼と駆け巡ったという。 
  会ってみたいけど、王宮には絵姿すらない状態を、少年は密かに不満に思っていた。そこで今年は父王を追って、少年は住処を抜け出してきたのだった。 

  少年はちょこんと父親の脇に座り込んだ。冷たい床に座って父親を見上げた時、少年は白いがらんとした部屋の一面に大きく掲げられたタペストリーに気がついた。それは幻想的な絵だった。騎乗した体格の良い騎士と、空に浮かんでいる美しい娘が織られている。騎士の頬を包み込むようにたおやかな腕が伸び、癖のある金髪が宙を舞っていた。 
  王宮にこの人物の絵は一つもない。父親がこの人物について話してくれたことは一度もない。 
  だけど、少年にはわかった。自然に頬のあたりが緩んでくる。 
「ああ、これか」 
  タペストリーに注がれた少年の視線を追った父親が、説明しようと口を開いた。しかしとつとつとしか言葉が出てこない。少年は明るい声音で遮った。 
「父上の奥さんで戦女神様なんでしょう?」 
「いや」 
  ちょっとの間をおいて否定した父親を、少年は黒曜石の瞳でじっと見上げた。 
  彼の父親はゆっくりと言葉を継いだ。 
「妻、ではないな。 
  あれは俺と命を預けあった同盟者。 
  助け、助けられ、つらい時には励まし支えあい、共に戦うと誓ったのだ。たとえ、もう二度と会えないとしても」 
  じっと黙って聞いていた少年は小さな頭をかしげた。 
「ドウメイシャって、イヴン殿やサヴォア公爵とは違うんですか?」 
「難しい質問だな、それは」 
  苦笑して、男は大きな手で少年の頭をなでた。ごまかされたような気がした少年は、大きな父親を見上げて、早口に質問を重ねる。 
「どうして女神様はいなくなったの? もう二度と会えないって、亡くなったんですか?」 
  少年も、生まれる前に起こったタンガ・パラストとの大戦のことはよく聞いていた。当時から豊かなデルフィニアではあったが、西と東を敵に回しての壮絶な戦いであったと聞く。城の人たちは、その時王妃様は天におかえりになったのだと口を揃える。それは亡くなったという意味なのだろうが、なぜか聞く人が皆そう表現するので首をひねりたくもなる。もしかして、彼が未だ知らない修辞的な言い回しなのだろうかと。しかし、およそ現実的なはずの彼の父親も同じ答えを返した。 
「天に還ったのだ」けれでも次の一言が違っていた。「故郷にな」 
「故郷?」 
「そうだ」 
「……喧嘩したの?」 
  父親はぷっと吹き出した。そして、その後静かに首を振った。 
「いいや」 
  どうして故郷に帰ってしまったのか聞きたかったけれども、父親の返事に含まれた重い響きを感じ取って、少年は思いとどまった。口が出せない大人の事情を感じたからだ。そのかわり、心持ち明るい表情で尋ねた。 
「じゃあ、いつか会えるでしょうか?」 
  男は黒い瞳を嬉しそうに見開いた。 
「勿論」 
「でももう十年近く戻ってきていないんでしょう?」 
  心配な声音になった少年に父親は肯いた。 
「あいつにもいい仲間たちがいる。幸せに過ごしているに違いない。会えなくてもわかる。だからいいんだ」 
  春の日差しのように穏やかに、男は微笑んだ。少年の大好きな表情だった。そして黒曜石の瞳をタペストリーに戻した。 
  言葉に反して、それはどことなく寂しげな表情だった。見てはいけないものを目にしてしまった気分で、少年は再びタペストリーに見入った。 

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「すっごく奇麗な人だね」 
  彼の息子はそう言って、うっとりとタペストリーを見上げた。 
  男は幼さの残る横顔を見遣った。 
  大きくなったものだ。時が経つのは早い。この子がこれだけ育ったということは、彼の同盟者がここにいた時間よりもいなくなってからの時間の方が長いということだ。 
  ふたり揃って白い壁に大きく掲げられたタペストリーを見上げながら、国王の胸は繰り返し沸き上がる疑問に占められていた。 
  いつも考えることがある。 
  王妃などにしなければ、おまえはここにいてくれただろうか。 
  俺たちがお前を頼りすぎなければ、おまえはここにいてくれただろうか。 
  俺が王でなければ、この国を捨てることができれば、俺はまだおまえと…… 
「父上!」 
  自分の思考に沈んでいた国王が出会ったのは、息子のまっすぐな瞳であった。 
「すまない。ぼんやりしてしまったな」心配そうな視線から目を逸らして、小さな肩に手を回した。「…帰るとするか」 
「もういいんですか?」 
「ああ」 
  外はすっかり日が落ちていた。吸い込まれそうな闇空にちかちかと小さな光が瞬いていた。 
「足元気を付けるんだぞ」 
  手をかしてやると、少年は居心地悪そうに肩を竦めた。 
「父上、私はもう子供ではありません」 
  憤然と言い切った少年は、それでもあらぬ方を向いたまま男の左手を握り、歩を進めた。僅かに見えるふっくらとした頬がほんのりと赤い。 
  男の顔には柔らかな微笑が広がっていた。 

『なんてきらきらした人たちだろう』 
  異世界から来た黒髪の麗人は、何度もこう繰り返した。大切な相棒の仲間たちに出会うたびに幸せそうに洩らした。 
『ここはまるで宝石箱か、宝の山だ』 
  そう言って彼が微笑んだ時、大袈裟な表現に内心苦笑したものだった。 
  だけどいま、彼は同じことを考えている。奇跡のようにきれいな仲間たちに囲まれて、自分はなんて恵まれた男だったのかと。 
『王冠を捨てて、仲間達を捨てて、この世界を捨てて、おれと一緒に来てくれってな』 
  冗談めかせてリィがそう洩らしたとき、追っていきたかった。別れたくなどなかった。しかし、あのとき彼は決めたのだ。 
  天に煌く星に負けずきらきらしている仲間たちと、そしてこの子とこの地上で生きて行くことを。 

  満天の星に見守られて、今日はゆっくりと森の道ならぬ道を下る。地上の宝を携えて。 
 
 
                            〜おしまい〜 

後日談その2


(c) たちばな奈槻, 1999 禁転載  初出:「陽の名残り」(March, 1999)
原作:茅田砂胡『デルフィニア戦記』(中央公論新社/Cノベルズ★ファンタジア)
運営:デルフィニア戦記を語ろう

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