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(注:12-13巻くらいのお話です)
全ては国王の執務机が空を飛んだことから始まった。 ティレドン騎士団長こと、ノラ・バルロが血相を変え、国王の寝室に駆け込んで来た時には、既に主要な顔ぶれが揃っていた。 つまりリィ、イヴン、宰相ブルクス、女官長カリンといった面々である。カリンは、駆け込んで来たバルロをじろっと睨むと、小声で告げた。 「お静かに。まだお目覚めになっていらっしゃいません」 しかし、バルロが駆け込んで来たのも無理はなかった。いきなり使いの者が来るなり、国王が意識不明の重体だと、知らされたのである。落ち着けというのが、無理な相談だろう。 「それで、従兄上の容態はどうなのだ?」 侍医の姿を見つけたバルロは、早速問いただした。 「命に関わる重大な損傷は見受けられません。ただ、場所が頭だけに、目が覚めてみないことには何とも……」 侍医は、幾度も繰り返したであろう診断を再びバルロに告げた。国王の怪我ということで、話が大げさに伝わったらしい。バルロは一息つくと、普段の皮肉混じりの表情を取り戻した。 命に別状ない聞いても、無事な姿を見てから、というのが人情である。一同は、国王のすぐ枕元に陣取って、目を覚ますのを待っているらしい。勿論バルロも便乗した。 「妃殿下、独騎長。そろそろ事情を説明して下さい」 カリンが言えば、ブルクスも頷いた。 「いかにも。そもそも、あの陛下が、このような不覚をとるなど、どのような事態が起ったというのですか」 人の出入りが激しかったため、現場に居た者以外、まだ詳しい事情を聞いていなかった。皆が揃うまでと当自者達が、話を先送りにしていたせいもある。 話にくそうに、リィとイヴンは目を見交わした。 「現場に居らっしゃったのは、妃殿下と独騎長、そしてそこの女官だと聞きましたが」 ブルクスの視線の先には、カリンを手伝い、国王を看病するシェラも控えていた。 「黙って居ても仕方がない。観念しようぜ」 諦めた様にイヴンが促すと、軽く頷いてリィは話始めた。 「妃殿下の正装の事でしょうか? その件でしたら、私が陛下にお願い致しました」 カリンが不安そうに言うと、リィは手を打った。 「あの馬鹿が女装を頼むなんて変だと思ったらカリンが後ろにいたのか」 正確に言うならば、結婚式で途中になってしまった王妃の艶姿が、かなり以前から噂に昇っていた。もう一度と、望む声が大きくなってしまったので、カリン達が、万に一つの可能性として国王に泣き付いたというのが実情だった。 「確かに。陛下以外の人間が、頼んだ所で無駄な労力ですからね」 イヴンが、腕を組んで頷いていると、リィは怒鳴った。 「ウォルの頼みだって、お断りだ! 結婚の時は、一生に一度の猿芝居だと思って我慢したんだぞ」 「いいじゃないか。たまには目の保養もしてみたいぜ」 嫌がっているリィを完全に面白がり、イヴンはまぜっかえした。 「冗談じゃない。あんな裾の長い服じゃ息も出来ない」 それこそ身震いして、リィは言い返す。完全に話が脇に逸れていた。 「それほど大げさな仕立てではなかったと思いますが」 シェラも控えめに話に参加する。 「あれで、更に腰を締めたりとかするんだろ。本当に女の人は凄いよ」 「ゴッホン!」 どんどん話が脱線してゆくので、たまりかねたブルクスが、軽く咳払いをすると、リィは話を戻した。 「で、どうしてもって言うなら、腕づくできてみろって話になってさ。 ほら、前の喧嘩の時には、ウォルの勝ちみたいな終わり方だったからな。最近派手な戦闘もなかったし、ウォルも運動不足気味だって言ってさ、成り行きで取っ組み合いになったんだ」 話の展開が、ほぼ読めた一同は、先を聞きたくない気分だったが、まだ肝心の怪我の理由を聞いてない。 「以前の喧嘩は、妃殿下の体調が万全ではなかったので、今度は果たして勝てるかと、盛り上がりまして、よしちょっくら賭けようって展開に」 イヴンが、リィの言葉の後を続けた。ウォルとリィの他にその場に居たのは、イヴンとシェラである。ぎょっとカリンがシェラを見ると、イヴンは急いで否定した。 「そいつは最後まで、大人げないと止めていました。二人の夫婦喧嘩は一度で懲りたって。でも俺は見れなかったので……」 イヴンの言葉が途切れたのは、周囲の視線が段々痛くなってきたからである。 「で、陛下は頭を打たれたとの話ですが、その先はどうなさったのです」 カリンが先を促すと、珍しく王妃の声は、段々小さくなっていく。 「剣は使わないっていうのは、暗黙の了解だったからさ、つかみ合いになって、ウォルに執務机の所に投げ飛ばされたんだ。前にそう言えば、ウォルは長椅子を投げていたなと思い出してさ……」 「よもやと思うが、それを従兄上に投げつけたというのではないだろうな」 完璧に予想はついていたが一応バルロは確認を取った。 「これでも手加減した。勿論、ウォルだからよ避けるのは計算の上だったし。フェイントで隙を作ってって目算で投げたんだけど……」 肯定の返事に、一同は一斉に諦めのため息をついた。 「前の長椅子は、実際俺にぶつかったんだ。それに比べたら別に大したことじゃないと思ったんだけど」 「妃殿下、陛下は一応普通の人間です。長椅子を投げられた、陛下も悪いかも知れませんが、もう少し手加減されても…」 ブルクスが喘ぐように注意し、カリンは既に卒倒寸前である。当のリィも、苦い表情ではあったが、論点は完全に普通とはズレていた。 「予想通り、ちゃんとウォルはよけたんだ。でも、まさか俺もウォルも、執務机がバウンドして跳ね返ってくるとは思わなくて。ちょっと避け損ねて、ちょっと頭がぶつかったんだ」 「ちょっと? バウンドする程、思いっきり投げたんだろ。壁が陥没してたぞ」 イヴンが、怨みがましげに言うと、既にバルロは戦闘体制を整えていた。 「執務机を投げる王妃も王妃だか、よもや貴様は高みの見物と洒落こんでいたのか」 迫力ある声で怒鳴ったバルロに、普通の者なら肝を冷やして沈黙する所だが、イヴンにとっては、日常茶飯時の喧嘩相手である。即座に言い返した。 「あんな大きな物が空を飛んで、とっさに身体が動くかっ。執務机が、どれぐらいの重さだと思っているんだ」 「ほう、従兄上にそれが当たった時の事は考えずに、王妃との喧嘩を煽り立てたのか」 バルロの言葉には容赦がない。今の状況を考えれば、当然であろう。 「だいたい、執務机が直撃したわけじゃない。体制が崩れて、ウォルの方からぶつかったんだ。現にひどい怪我はしてないだろう」 多少の責任は感じているのか、やはり親友の怪我の具合が気になるのか、イヴンの反論の声は、小さかった。 「ふん、おまえの忠誠心など、所詮その程度だろうな。前の夫婦喧嘩で、俺は弓を持ちだしてまで止めようとしたのだぞ」 妙な事で張り合ったバルロは、更にリィにも怒鳴った。 「王妃! 前に喧嘩は庭でなさいと言ったはずだぞ」 「庭も、庭師が悲しむって聞いたんだ。喧嘩なんて大げさなものじゃなかったんだ。ちょっと白熱しちゃってさ。それに、夫婦喧嘩って外でするもんじゃないって聞いたぞ」 「国王の執務室でするものでもない。全く、従兄上もご自身のお体を、もっと大事にしていただかなくては困るというものだ」 嘆く様にバルロは言った。 「うっ……」 不意に呻き声が聞こえ、どうやらそれが、国王の覚醒を告げるものだと察した一同は、ひとまず、国王の方に意識を向けた。ウォルが目を開けると、一同が揃って見守っている。代表してリィがまず尋ねた。 「頭を打ったんだ。大丈夫か?」 起き上がり、包帯を巻いた頭を軽く振ると、ウォルはいつもの穏やかな笑顔で頷いた。 「ああ、もう大丈夫だ。もしや、心配をかけてしまったのだろうか」 起きてみればこの人だかりである。一同が自分を心配しているのを気づかって、リィに尋ねた。 「まあね。でもおまえが無事ならいい。本当によかった」 ウォルの声を聞いて、漸く一同はホッと安堵の息を吐いた。だが、それはまだ早かったのである。 「ところで、ちょっと伺いたいのだが。ここはどこで、俺は誰なのだろうか」 記憶喪失──つまり記憶の全てを忘れた白紙……という状態で、ウォルは目覚めた。頭をぶつけたショックが原因で、一時的なものだと一応侍医は診断したが、いつ思い出すかは全能神ヤーニスのみぞ知るという状態である。命に別状ないと考えていたリィとイヴンは、この展開に当然頭を抱えた。更に混乱したのは、重臣達であろう。記憶を失おうと、国王は国王だが、何しろ常識や観念といった基本的な事まで欠落していたのである。 「とりあえず、俺の名前を教えて欲しいのだが」 混乱している一同をよそに、本人はいたって気楽に尋ねた。仕方なく、リィが相手をする。 「ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンだ」 「随分長い名前だな、皆はどこを呼ぶのだ?」 「ウォルって俺は呼んでいる。皆は……名前は使わないけど」 ウォルは首を傾げ、更に尋ねた。 「ほう、名前とは呼ぶためのものだと認識していたが、それならばどう呼ぶのだ」 「お前は、一応国王なんて職業をしているんだ。だから陛下と呼ばれるのが普通だな」 ウォルは、じっくり己の身体を見回して首を傾げた。 「そんなご大層な者とも思えんのだが。ならばなぜ、君は俺の名前を呼んでくれるのだ」 「友達だからな。あと、形式上の妻ってことになっている」 ついでの様に、軽く言ったリィにウォルは驚いたようだった。 「申し訳ないが、俺は自分の妻の事さえ覚えておらんのだ。よければ名を教えてくれるか」 丁寧に尋ねられ、リィは答える。 「リィ、長い名前はグリンディエダ・ラーデンっていうんだけど」 「グリンディエダ・ラーデンか、よい名だ。しかし、俺が国王などとは、冗談という気もするがな。 ……ところで他の方々の名も、教えて頂けると有難いのだが」 ウォルは、あっけにとられ、リィとの会話を聞いていた一同に話を向けた。慌てて一同は自己紹介をする。そして再度リィが、記憶を失うきっかけとなった騒動を話すと、ウォルはリィを諭した。 「リィ、俺はこの通り無事だったからいいが、他の人にそんな真似をするのはまずいと思うぞ」 大真面目に言うウォルに、どこが無事なんだと、一同は内心でつっこみを入れたが、リィは大真面目に頷く。 「今回だけでも流石にこりたよ。もうやらない」 自己紹介の後、やっと我に返ったバルロは、侍医を締め上げた。 「おい、従兄上はどうすれば元に戻るのだ」 「分かりません。めったにあるケースではないのです。一時的な記憶障害だと思いますのでしばらく経てば元に戻るとは思いますが」 「どのくらいで元に戻るのかと聞いている」 「それは…人によってまるっきり違いますので、何とも…」 気の毒な侍医は、バルロに掴み掛かられ怯えて叫び、見兼ねたウォルが、間に入った。 「バルロ殿、そう無茶をいっては可愛相だ。忘れた俺が悪いのだし、その方には何の咎もない。責めるのなら、俺に言って戴きたい」 まさかウォルに掴み掛かることなど、バルロに出来る筈もなく侍医から手を外すと、リィとイヴンを睨みつけた。 「ひどい怪我はしていない、か。どうするつもりかな」 ブルクスも、厳しい表情をしている。現在、タンガ・パラストとの関係は、一応膠着状態である。しかし、タウの一件以来、戦争の危険は以前より更に増した。もしこの件が、外部に知られたらどうなるか。確かに記憶を失っても国王は国王であるが、タンガ・パラストの内政干渉を呼ぶ危険と、何より漸く落ち着きつつある、否国王派の者が内乱を起すには格好の口実となりえるのである。直ぐに戻ればいい、しかし今の状態ではもし戦争が始まったとして国王に兵権を委ねること自体危険と言える。 「しばらく、従兄上に休日を差し上げるのは可能ですか。ブルクス殿」 同じ思考に至ったらしいバルロの言葉に、ブルクスは頷いた。 「執務に関しては、さして問題ありませんが、生誕祭だけは、陛下ご自身がいらっしゃらなければ話になりません」 生誕祭といえば、国王が主役である。簡単に中止に出来る行事でもない。生誕祭が中止されれば、外部で様々な憶測が生まれる。今の情勢で、ゴタゴタが起るのは危険過ぎた。 「あと五日か。間に合わんかもしれんな」 生誕祭ともなれば、臣下一同が会する。現在の状態では、どれほど取り繕おうとカバーしきれる物ではないだろう。流石に尋常でない一同である。ブルクスとバルロが言わんとしていることを察し、考え込んでしまった。事態の深刻さを察していないのは、当の本人くらいであろう。 「デルフィニアというのが、この国の名前か。で、どれほどの大きさなのだろうか」 などと、大真面目に問われ、一同は頭を抱えた。 「シェラ、君はこんな病気のことは聞いたことはない?」 この中で、一番色々な場所に行ったことがあるでろう、シェラにリィは尋ねた。 「噂のたぐいでしたら、聞いたことはあります。記憶が戻ると忘れていた頃の記憶がなくなるとか、もう一度頭にショックを与えれば、戻ることもあるとか」 リィの問いに、記憶を探りながらシェラは曖昧に言ったが、リィは、早速国王の方に視線を向けている。 「ちょ、ちょっと待て。馬鹿野郎」 「王妃、何を考えているんだ」 リィの右腕をイヴンが素早く掴み、バルロは国王の壁となって、リィとの間に入った。日頃の仲の悪さが、信じられないコンビネーションである。 「何で止めるんだ。時間がないんだろう」 リィが言うと、イヴンは頭痛がするのか、頭を抑え言った。 「あのなぁ、戻る可能性もあるってことだ。もし、これ以上馬鹿になっちまったら、どうする気だ」 「貴様、この状況でも従兄上を馬鹿呼ばわりするか」 機嫌が良かろう筈のない、バルロは剣呑な表情で、イヴンを睨んだ。普段なら、二人の喧嘩の仲裁に入る筈の国王本人は、殴ろうとしたリィから逃げるでもなく、怒るでもなく、困ったように訊ねた。 「状況がよく飲み込めんのだが、俺が記憶を取り戻さなければ、皆が困るのか」 ウォルにしてみれば、仕方のないことであろう。記憶を失って、一番困るのは己の筈なのに、当の本人より周りの方が、余程混乱しているのだから。 「まぁ、頭を殴って元に戻るのなら試してみてもかまわんが」 記憶を失っても、化け物のような鷹揚な所は、ちっとも変わっていない、頭を差し出したウォルに、リィの方が殴る気を削がれてしまう。 「お前なぁ、俺との喧嘩のせいで、記憶がなくなったんだぞ。怒るとかしなくていいのか」 「喧嘩は両成敗というからな。どちらが悪いということもないだろう。それに、形式上とはいえ、記憶を失う前の俺は、リィの事を理解して、妻に迎えたのだろう。俺自身は、リィに対して怒りは全然浮かばん。まぁ、記憶を取り戻して必要なら本人が怒るだろう」 他人事のように言って、またいつものような優しい笑顔を向けた。人を惹き付けずにはおかないこの笑顔だけは、決して変わらない。 バルロは、ブルクスと脇で相談が終わると、一同に告げた。 「取り敢えず、執務については、宰相と俺でどうにかする。女官長には、従兄上と他の者が接触しないよう、手はずを整えてもらう。王宮にいるのはまずいから、ひとまず離宮に身を隠して貰うのがいいだろう。王妃、麦わら頭には、責任を取って貰う。五日の間に、従兄上の記憶が戻るよう、面倒をみてくれ」 「戻るようにって、医者も匙を投げたのにどうするんだ」 イヴンが、ウォルを指差して叫んだが、バルロは取り合わなかった。 「話をしているうちに思い出すかもしれんし、方法は任せる。勿論、万一を備えて、生誕祭中止の手筈も整えておく。最悪、従兄上に急病になって戴くしかないな」 かなり強引に、話を纏めたバルロであるが、他に方策があるはずもない。リィとイヴンが了解すると、侍医らには厳重に口止めをし、バルロとブルクスとカリンは、様々な手を打つため退出した。 残ったのはウォル、リィ、イヴン、シェラである。 「離宮に行く前に、現場に行ってみてはどうでしょうか。もしかしたら、何か思い浮かぶかもしれませんし」 シェラの提案に、三人は同意すると、現場である執務室に向かった。 執務室は、未だ片付けられず、乱闘の跡がそのままの残っていた。恐らくもう少しすれば、修理の者たちが跡形もなくすであろう。 「また、職人さんたちに謝らないといけないか」 残骸を前に、以前の夫婦喧嘩を思い出し、リィがぼやいた。 「これを、君が投げたのか」 横倒しになった執務机は、リィの様な少女どころか、ウォル自身でさえ、やっと投げられるぐらいの代物である。陥没した壁にも驚かされたようである。 「ふむ。我ながら、よく無事だったな」 ウォルは、わずかに痛む頭を撫でながら、しみじみ言い、流石のリィも返す言葉がない。やはり記憶喪失といった事態に、一番責任を感じているのは、当事者のリィである。 「やっぱり、全然思い浮かばないか」 「ああ、全然だな」 リィの望みを賭けた問いかけにも、至って呆気にウォルは答えた。 「全然思い出したいって、態度に見えないぜ。記憶がなくて困らないのか」 イヴンは、流石に呆れたのか、のんびりな幼馴染みをしみじみ眺めた。 「まぁ、幾ら俺が焦った所で思い出すものでもないだろう。しかし、思ったより不安はないな。リィやイヴンがいるお陰だろう。もし目が覚めて、全員に跪きでもされたら、逃げ出したい所だった。 デルフィニアの国王というが、俺はデルフィニアという国を知らん。もし、本当に俺が国王というのならば、責任がある。義務は果たさねばならんだろうが、状況を多少なりとも聞いて判断するしかあるまい」 この緊急事態を把握はしているようだったが、やはりマイペースの国王陛下だった。 「いやに機嫌が悪そうだな」 西離宮を、そっと抜け出したはずなのに、何故かイヴンがついてきていた。既に夜も更け、眠りについてもおかしくない時間になっていた。 ウォルが、記憶を失ってから、既に三日が経ってしまった。その間、欠片も思い出す気配はない。リィやイヴンは、現在の状況や故郷での思い出話などをしてみたのだが、記憶を思い出す兆しすらなかった。元々、直状型のリィである。やはり、頭にショックを与えるのを試してみよう、と言ったのはつい先程のこと。そして、芳ばしくない反応が返ってきたのである。 「あの馬鹿、本当に元にもどるんだろうか」 リィらしからぬ気弱な声だった。 「あいつはウォルじゃない。全く違うわけじゃないけど、妙に違う部分が際立つな」 笑顔もちょっとした仕草も全く変わらないのに何かが微妙に違う。 「お前の主張は分かる。でも、あいつは病気なんだから」 イヴンも、一応フォローしたが、リィの心情は分かるつもりだった。 中央の若獅子には、牙が抜け落ちていた。勿論、一流の剣士である。腕が衰えたということはないのだが、人を殺すという概念が、全くないのである。それにどうもリィを一風変わっているが、自分の妻であり、守るべき存在とすら思っているフシがある。さすがに寝床に誘うなどといった恐ろしい反応はしないが、リィが殺気を出して対時しても、全然無防備なのである。どんなに信頼していたとしても、殺気とじゃれあいの区別が、あの男につかぬはずもないのに、現在のウォルにはそういった感覚がないようだった。 いつものリィなら、相手にそんな反応をされれば、即座に激怒するはずであるが、相手はウォルであり、自分が原因で、記憶がないのである。一応、我慢はしているのだが、普段は絶対にしない筈の相手に、そう反応されれば機嫌も悪くなるであろう。 「おれの同盟者は、国王じゃない。戦士の魂を持つ者だ」 リィにとって、一番肝心な部分が抜け落ちていた。 いくら記憶がないままで、不自由がないとしても、国王に用はない。戦士の魂を持った普段のウォルでなければ意味がない。 「いっそ、本気で殴り飛ばして、お前の本来の姿を見せちゃあどうだ」 国王相手にそんなことをけしかけるのだから、イヴンもただ者ではない。 (それで、あいつに化け物と罵られるのか) リィは、自分が言おうとした言葉に驚いた。己がここまで、憂う事があるのかと。 普段のウォルならば、どんな姿をみせようが、決して怯えないし、遠慮なくふれてくる。しかし、今回ばかりはあの暖かい手を失ってしまうかもしれない。 「あの馬鹿が、そうそう変わるはずがないさ。国王になってもあいつは変わらなかった。今度だって、ちょっと調子が狂っているだけだ」 イヴンは、自らに言い聞かせるように言った。 リィは、沈黙したままだった。イヴンは知らない現実がある。自分の牙を、もし今のウォルが見たとしたら。そして、あの男に化け物と罵られれば、例え記憶がないと理解していても、赦せないだろう。もう決して元には戻れない。想像するだけで、憂鬱になった。 不意に、リィは唇に指を当て黙る様にイヴンに合図した。人一倍気配に敏感なリィである、不自然な足音に眉を潜めた。どう見積もっても、十人以上はいる。ただの兵ではない、暗殺者の様だった。 イヴンも、既に腰の剣に手を掛けている。二人は、丁度下手の方に下りて来ており、彼等の死角にいた。奇襲にはもってこいである。 「最近ごぶさたしていたのにな」 憂鬱だった意識を、暗殺者に向けることが出来、リィは感謝すらしたい気分だった。暗殺者達は、最も危険な時に仕掛けてきたものである。リィは知らないことだったが、王妃に恐怖したオーロンが、多額の懸賞を掛け、首を狙っていたのである。 あっという間に、五人程を手分けして切り捨てたが、数が足りない。既に西離宮に入り込んでいる者がいるらしかった。二人が考えたことは同じである。 ウォルは、既に床に付いているはずだった。シェラが見張っているが、人数が多く対処しきれるものか。二人は舌打ちし、西離宮の方角に引き返した。普段のウォルなら、放っておいて全然心配ないが、今の状態では、どのような反応をするか見当がつかない。無言のうちに分担を決め、イヴンは正面から派手に突入し、リィは裏から気配を完全に断って忍び込んだ。すぐに、正面で剣劇が聞こえた。イヴンが、囮として派手に動いているのだ。リィも獣の様な動きで、ウォルが寝ているはずの部屋に向かうと、既にここでも剣劇は始まっていたようである。 「ウォル!」 側に控えているはずの、シェラの姿はなく、既に暗殺者と切り合いをしていたウォルを見て、リィは叫んだ。が、ウォルは怒鳴り返した。 「危ないから、近ずくな」 余程、ウォルの方が危なかしかった。剣先は、殺すことをためらっているせいで鈍りがちで、見ているリィの方が、不安になる。殺そうとしている相手なのだから、遠慮することなどないといういつもの論理に達しない。何とか殺さないよう、手加減しているのが感じられた。 「危ないのはどっちだ」 そこで黙って見ているリィではない。そう言い返すと、一人を一太刀で切り捨てた。もう一人は、力任せにブン投げた。それで十分だった。人間離れした身のこなしであり、十七の娘が持ちうる技量でもなかった。何より、大の男を普通の少女に片手で投げられる筈もなかった。リィがただの少女でないことが、流石のウォルにも理解できた。 「その力なら、執務机を投げることも簡単だな。しかし、俺の常識の範囲が狭いのか、それとも、お前が尋常な娘ではないか、どちらだろうか」 怯えた反応は、返ってこなかったが、それでもかなりの畏怖が含まれていた。 「やっぱり、お前は化け物とは呼ばないんだな」 「命の恩人にそんなこというはずが………」 言いかけたウォルは、左手で頭を押さえた。何かが頭をよぎったのである。そして、リィに倒れ込む様に意識を失ってしまった。 「ウォル、しっかりしろ」 リィが揺すっても、目を覚ます気配すらない。仕方なしに肩に背負い直し、ウォルが使っていたベットに寝かせた頃になって、他の侵入者達を片付けたイヴンとシェラも戻ってきた。 ウォルが目を覚ましたのは、陽も高く昇ってからである。その周りには、昨日の襲撃を聞いたバルロ、カリン、ブルクスといった面々が、駆けつけていた。 「リィ、イヴン、従弟殿。皆様もお揃いでいかがされたのです」 目を覚ましてのウォルの一声はそれだった。 「記憶……戻ったのか」 リィが尋ねたのは、バルロの呼び方である。普段とは違い記憶を失ったウォルは、バルロ殿と呼んでいたので。 「すっかり迷惑をかけてしまったようだな。すまない」 リィの確認を肯定し、ウォルが頭を下げると、漸く一同の表情も安堵に変わる。こうして、国王の記憶喪失騒ぎも一件落着した。 「何で急に記憶が戻ったんだ」 一同は、それぞれの持ち場に戻ったものの、ウォルは、一応安静にしているように、と西離宮に留まっていた。明日は生誕祭であり、忙しい政務も山積みなのである。今日ぐらいはのんびりして下さいという、一同の気づかいであった。ベットから動けない体調ではないので、自然と一番暇な王妃が話相手となる。 「さあな、お前と話しているうちに何か、頭に響く言葉があったのを覚えているのだが」 戻った直後の記憶は曖昧なんだと続けた。 リィの脳裏によぎったのはあの誓の言葉だった。 ───「お前を化け物とは決して呼ばない」 あれは何時の誓いだったろうか。この男は、余程の頑固者らしい。認識はしていなかったというのに、あのやり取りで思い出してしまうのだから。戦士の魂が無かったとしても、あれも、この男自身だったのかもしれない。 リィは余計な事は言わず、話を切り替えた。 「でも、もうこんな事態は遠慮したいよ。お前が俺にせまってきたら、本当にどうしようかと思ったんだぞ」 多少の怨みを込めて、リィが言うと、ウォルは、朗らかに笑った。 「前に言った筈だぞ。俺が不埒なことをしようとしても、お前が抵抗すれば済むことだ。お前にはそれができるのだからな」 「できるけど、お前が俺に迫る状況を想像するだけで鳥肌がたつんだ」 普通の妻扱いされた、三日間を思い出して、リィは身震いした。 「それは俺の台詞だ。もし、本気でせまっていた時の事を考えるとぞっとするぞ。忘れているうちに、実力行使されているなど洒落にもならん。しかし、別に記憶が無かった時も、お前に不埒な事は考えなかったぞ」 胸を張って、断言する男にリィは頷いた。 「そうだな、記憶が無くても、頑固な所はそのままだった。でも、今度喧嘩をする時は、絶対頭を避けて殴ることにする」 余程、今回の事は懲りたらしい。リィの言葉に、ウォルは笑った。 「また次があるのか? さしものイヴンですら、もう勘弁してくれと嘆いていたというのに。 まぁいい、それより明日の生誕祭だ。どうする? 女装はしてくれるのか」 記憶が回復して、その件もすっかり思い出したらしい。懲りもせずに、ウォルは話を蒸し返した。 「今更、それを持ち出すか」 「記憶を失ってまで頼もうとした事だぞ。このまま放っておいたら損だからな」 すっかり毒気を抜かれたリィが、今回は特別と承知したのは、王妃専用の猛獣使いのお手並といえた。 ─ FIN ─ |